「仮設の映画館」で公開中の新作『精神0』の中に、精神科医の山本昌知医師が患者さんにこんな助言をする場面がある。
「“ゼロに身を置く日”を作ったらええんじゃねん?」
山本先生によると、ゼロに身を置く日とは、今を生きる日のことである。
私たちには「ああしたい、こうしたい」「こうあってほしい」という欲や願望があるが、現実には、そうした欲や願望はなかなか叶わないものだ。「空を飛びたい」と思っても飛ぶことはできないし、「明日は晴れてほしい」と思っても雨が降ったりする。起きてほしいことよりも、起きてほしくないことの方が頻繁に起きたりするのが、この世の常なのだ。
そこで先生が提案するのは、一週間に一度くらいはゼロに身を置き、そうした欲や願望そのものを捨ててみるということである。「ちくしょう、なんで思い通りにならないんだ!」と怒ったり落ち込んだりするのではなく、「思い通り」そのものをやめてみる。「ああしたい、こうしたい」を無しにして、「今日は生きてるだけ」と今に感謝してみる。ご飯を食べるときにも、「おいしゅうご飯が食べれる、ありがてえこっちゃ」と幸せを噛みしめ、誰かに叩かれて痛かったら「痛えのがわかったいうことは生きとるからで、死んどったらわからんわなあ、生きとってよかった、よかった」と感謝してみようというのである。
「結構“ありがたい”が増えたら、気分がええで」
山本先生のこの言葉には、医師としてのアドバイスというよりも、なんとなく個人的な実感がこもっているように感じられた。きっと先生ご自身も、ゼロに身を置くことを自分自身に言い聞かせることで、幾多のピンチを乗り越えてこられたのではないか。そんな気がしたのである。
僕自身、思い通りに物事が運ばなかったり、どうにもならない壁にぶち当たったりするたびに、この言葉を思い出しては助けられている。
たとえば今回のコロナ禍では、そんなことの連続だ。
映画作家にとって新作を公開することは、持てる力をすべてかけて1年がかりで準備する(映画を作ることも含めれば数年がかりで準備する)、伸るか反るかの大博打である。失敗すれば次の作品を撮ったり公開したりすることは難しくなるので、毎回がキャリアの行く末を賭けた正念場だと言っても過言ではない。
『精神0』の場合、配給会社や劇場のご厚意でゴールデンウィークという絶好のスポットに封切り日が決まり、公開を盛り上げるためにその直前に特集上映も組まれた。2月のベルリン国際映画祭では、幸運にもエキュメニカル審査員賞をいただいた。地元岡山では早くからチラシが飛ぶようにはけていて、大勢の人々が劇場公開を待ち望んでくれていた。ヒットする予兆は、十分にあったのだ。
ところがコロナウイルスのパンデミックで、すべてに狂いが生じた。どころか、公開予定日だった5月2日は緊急事態宣言の最中となり、日本全国の映画館が休館を余儀なくされた。すべてはパアである。
のみならず、ニューヨークからの帰国者なので日本社会からは2週間もの間“バイ菌”のごとく扱われるし、その期間が明けても高齢の親には会えない。それどころか外出も外食もままならない。映画館で映画を観ることも、劇場へ芝居を観に行くことも、友達と飲み会へ行くこともできない。ウイルスをうつしうつされる危険性に常に苛まれて、ビクビクしている。最悪だ。
しかし山本先生の言葉を思い出してゼロに身を置いてみると、そんな状況でも「よかった」と思えることが見つかるから不思議だ。
たとえば、いま僕はありがたいことに毎日ご飯が食べられる。東京への滞在が不測の事態で思い切り長引いたのに、狭いながらも長期滞在できるアパートが見つかり夜露もしのげる。着るものにも不自由をしていない。家族もいまのところ元気だ。
それに劇場公開の予定は大いに狂わされたけど、配給会社の東風とともに「仮設の映画館」を立ち上げることができ、配信とはいえ劇場にも収益が配分される形で『精神0』を公開することができた。コロナが落ち着いたら、本物の劇場でも公開されることになった。そういう意味では「よかった、よかった」であり、「気分がええ」なのである。
無論、だからといって現実に対して何もしないでよい、ということではない。コロナ禍をみんなで生きのびるためにやるべき仕事は山積みだし、無能極まりない日本政府には必要な政策を要求し続け、お尻を叩き続けなければならない。
だけど現実問題として、前途は多難だ。うまくいかないこと、絶望しそうになることばかりだろう。
しかしだからこそ、私たちはときどきゼロに身を置き、「よかった、よかった」「ありがたい」を拾っていく必要があるのだと思う。それは決して虚無的な姿勢ではなく、むしろ困難に立ち向かう元気を出していくための知恵であり、工夫なのだ。