第532回:「自助・共助・公助」〜「共倒れするまで助け合え」という呪い(雨宮処凛)

 「自助・共助・公助」

 自民党総裁選を控えた菅義偉官房長官がこのところ強調している言葉だ。

 「まず自分でできることはまず自分でやる。自分でできなくなったらまずは家族とか地域で支えてもらう。そしてそれでもダメであればそれは必ず国が責任を持って守ってくれる。そうした信頼のある国づくりというものを行なっていきたいと思います」

 9月2日に出演したニュース番組での発言だ。それ以外の場でも「自助・共助・公助」と書かれたフリップを持ち、この言葉をアピールしている。

 さて、貧困の現場で16年間活動している私なりにこの言葉を通訳すると、

 「自助」とは「自己責任で自分でなんとかしろ」
 「共助」とは、「一家心中するまで家族で助け合え」「共倒れするまで地域で助け合え」
 「公助」は、「何もかも失わないと公的福祉は機能しないからやっぱり自己責任でなんとかしろ」

 という意味である。

 この言葉について書きたいことは山ほどあって、どこから書いていいのかわからない。

 が、公助ということで言えば、第二次安倍政権以前から社会保障費は削減され、年金、医療、介護、生活保護などが引き下げられたり自己負担が増やされたりしてきた。そのような社会保障費削減は、長い時間をかけてまずは共助を支える「家族」を痛めつけてきた。一億総中流と言われた時代は多くの家族がセーフティネットの役割を果たせたが、「家族」「親」「実家」がセーフティネットになり得なくなったのだ。だからこそ、2007年頃から「ネットカフェ難民」という形で比較的若い世代のホームレス化が始まったのだろう。

 さて、それでは「共助」を支える「地域」はどうか。自民党は「地方創生」などとブチ上げているが、なぜそのような言葉を強調し、地方創生担当大臣のポストまで作らなければいけないかというと、それほどに地方が疲弊しているからだ。

 私の地元は北海道の小さな市だが、実家に帰るたびに駅前は空洞化し、すでに商店街だった頃の面影もなく、高齢化と人口減少がすごいスピードで進んでいることをまざまざと感じる。そのような地方の衰退の原因のひとつとしてよく挙げられるのが大店法(大規模小売店舗法)。1974年に中小小売店の保護などを目的として施行、一定程度の面積を超える出店を届け出制にすることで規制したものだが、90年代、規制は緩和され、郊外に巨大なショッピングモールが建設されていく。

 この流れは日本に住むある年齢以上の人であれば、変化をまさに目のあたりにしてきたことだろう。そんなふうに規制緩和によって地方の衰退を進めてきた当人たちが今、「地方創生」とか言っていること自体が大いなる茶番にしか思えないのは私だけではないはずだ。ちなみに政府は地方のシャッター通り対策として、空き店舗への課税強化という方針を打ち出してもいた。なんだか年貢に苦しむ農民にさらに重い年貢を課す悪い殿様みたいな話ではないか。

 このように、家族や地域の余力を奪ってきたのがこの「失われた30年」の政治だと思う。それを奪う政治を先頭で進めてきた政党の人間が今、堂々と「共助」を持ち出すことに対して「いや、それ脆弱化させたの誰?」と突っ込みたくなるのだ。

 ここまで読んで、「なんでそんなにキレてるのかわからない」という人もいるだろう。

 それでは「共助」という言葉の実害の例を上げよう。

 この連載で5年前、私は「利根川一家心中未遂事件」について書いている。

 15年11月、40代の娘が両親とともに車で利根川に突っ込み、両親が命を落とした事件だ。娘は一命をとりとめたものの、殺人と自殺幇助の疑いで逮捕された。

 母親は長年認知症を患い、その介護のため、娘は3年前に仕事をやめていた。一家の収入は父親の新聞配達に支えられていたが、事件が起きる10日ほど前、父親が身体を壊してしまう。一家は生活保護を申請するものの、父親は娘に「一緒に死のう」と声をかけ、心中が決行されてしまった。一家は年金収入も貯金もなく、介護サービスなども一切受けていなかった。

 この事件を受け、私は現地取材を何度かして、また、一家が暮らしていた深谷市の職員にも話を聞いている。そんな市の職員との面談で、印象に残っていることがある。こちら側が一家に対し、「もう少し踏み込んだ対応をすべきだったのでは」と言った時、市の職員は「それよりも、地域の見守りとか、地域の人に頑張ってもらわないと」ということを言ったのだ。

 心中事件に限らず、孤独死などが起きると「地域社会の空洞化」が問題になる。が、私はそれこそが「共助」を巡る危険な議論だと思う。

 たとえば10年前の夏、大阪で1歳と3歳の子どもがマンションに置き去りにされ餓死する事件が起きた。逮捕されたのは風俗で働くシングルマザー。子どもは部屋の中からインターホンで外に助けを求めていたが、単身者が多く住むマンションでは、助けの声に動くような「地域社会」はなかった(通報した人はいたらしいが)。

 「地域社会での見守り」。それを、地域の人たちが率先して言うのならまだいい。が、役所の職員が介護心中事件を受けてそんなことを言うのは大問題だと私は思う。

 なぜなら、それは「役所は何もしない」という宣言だからだ。税金から給料が支払われている役所の職員が何もせず、一円ももらっていない、ただそこに住むだけの、その道のプロでもなんでもない人が義務を負うなんて、絶対におかしいのだ。というか、これはただ「行政はちゃんと仕事をしろ」というだけの話なのだ。そして私たちは、そんな「公助」のために税金を払っているのだ。だからこそ「地域社会」なんて、あるかどうかもわからないものに丸投げするなと言っているのだ。

 丸投げされるのは「地域」だけではない。時に民間のボランティアにも責任が押し付けられる。自民党議員の中には子ども食堂の応援などと言う人もいるが、するべきは「子ども食堂が必要なくなるような貧困対策」に他ならない。

 ちなみにこの4月から、私の周りの人々はコロナ不況による困窮者支援に奔走しており、私も時々手伝いをするが、全員ボランティアだ。コロナ禍の中で活動を始める時、「とにかくコロナに感染しないよう気をつけよう」と何度も確認しあった。一人でも感染してしまうと、支援者全員が濃厚接触者になってしまう可能性がある。そうなると、全支援が止まるからだ。

 このことからもわかるように、民間のボランティアにはバックアップ体制などない。誰かがコロナで倒れれば支援ストップ、という危うさの中でやっているのだ。こういう状態が危険だから、民間のボランティアに任せるのではなく、国が一刻も早い公的な支援制度を、「公助」をちゃんと機能させてくれとずーっと要求し、政府交渉も重ねている。が、一向に進んでいないのはご存知の通りだ。

 というか、そもそもこの国の「公助」がマトモに機能していれば、コロナで失業し、ホームレス化に晒される人々からのSOSが民間の支援団体にひっきりなしに届くはずなどないのだ。「新型コロナ災害緊急アクション」は、これまでに1000人以上に約2000万円の現金給付をし、公的な制度につなぐなどしている。

 本来であれば公助がフル稼働すべき時に自助ばかりが強調され、共助に対してなんの支援もなく「勝手に頑張れ」と放置されている。そのような状況を知るからこそ、私にとっての共助は「一家心中するまで助け合え」「共倒れするまで助け合え」に思えてしまうのだ。

 さて、そんな中でもこの国の「公助」にひっかかることができた人はいる。そんな人がどういう状態にあるか、紹介しよう。

 ある20代の男性は、コロナの影響で寮を追い出され、生活保護を利用し始めた。「公助」に助けられたラッキーなケースに思えるが、そこからがひどかった。なんと役所から「生活保護を利用する条件は無料低額宿泊所に入ること」と言われ、施設に入れられてしまう(もちろんそんな条件はあり得ない)。ちなみに無料低額宿泊所とは、住む場所がない人が生活保護申請をした際に案内されてしまうことが多い施設(もちろん、断ることもできるが、知識がないとそのまま案内されてしまう)。まさに「3密」の条件が揃ったような場所で、大部屋や相部屋のところが多く、トイレや風呂、食堂も共有。「貧困ビジネス」と呼ばれる劣悪な施設も多く、南京虫がいるなど不衛生な話をよく聞く。

 その男性が入れられた無料低額宿泊所は、最寄りの駅から徒歩50分。風呂は午後5時までで門限は9時。門限を3度破れば強制退去。生活保護費としては10万5000円が出ていたが、施設費用として7万9000円が徴収されてしまう。食事は1日2度出るという話だったが、たいした理由のない制裁で1日1食に。携帯電話の料金を払えば月に使えるお金は一万円以下。これでは仕事探しもできないと、支援団体にSOSが入り、支援者が駆けつけ、「救出」した次第である。

 このように、困窮者支援の現場には、すでに「公助」につながっていても、それがあまりにも劣悪なので「助けてくれ」と連絡が来ることもままある。これがコロナ禍のこの国の「公助」の一例だ。

 もうひとつ、書いておきたいのは、「共助」には女性が利用されることだ。

 「良い嫁は福祉の敵」という言葉を知っているだろうか? 私は上野千鶴子氏の『みんな「おひとりさま」』を読んで知った。介護などについて書かれた文章で、上野氏は以下のように書いている。

 「高齢者福祉政策も、見直しが必要だ。現在の介護保険は、家族の介護資源があることが前提に設計されている。『日本型福祉』のもとで『家族は福祉の含み資産』と公言することはさすがになくなったが、それでも亀井静香さんのように『子が親を看る美風』を信じている人たちは多い。通訳しよう、『家族は福祉の含み資産』とは、『嫁さんがいるから公的福祉はやらなくていい』という意味だし、『子が親を看る美風』とは『女房に自分の親の介護をやらせるのが、男の甲斐性』となる。だからこそわたしは、『よい嫁は福祉の敵』と言ってきた。最近では自治体の『孝行嫁』表彰はなくなったが、こんなオヤジにつごうのいい制度をよく続けてきたものだと思う」

 そう、「共助」は、家庭の中にいる「女」が無償の労働力として搾取されてきた歴史とともにあるのだ。

 それにしても、「孝行嫁表彰」って、パワーワードすぎてもう何も突っ込めない。この言葉に、何か昭和のおっさん的価値観のすべてが詰まっているような気がする。他にも「介護嫁表彰」「模範嫁表彰」という言葉もあるようだ。おぞましいとしか言いようがないが、こういう構造が長らく「愛情」なんかに言い換えられてきた歴史があるからやっかいだ。そういえば自民党の憲法草案には、「家族は、互いに助け合わなければならない」と書いてあった。

 さて、ここまで「自助・共助・公助」について書いてきたが、そんな私自身も「国に頼る」ことにはどこかで強い抵抗があるし、自分でできることはなんとかしたいと思っている。だけど、コロナが予期できなかったように、人生、いつ何が起こるかなんて誰にもわからない。そんな時に「公助」が機能していてほしいと思うのは、不確定要素が多い時代であればあるほど当然のことだと思うのだ。

 何度も書くが、私たちは税金を払っている。だから行政にちゃんと仕事をしてほしい、というだけのことなのだ。そして政治家にも、その自覚を常に持っていてほしい。

雨宮処凛
あまみや・かりん:1975年北海道生まれ。作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。若者の「生きづらさ」などについての著作を発表する一方、イラクや北朝鮮への渡航を重ねる。現在は新自由主義のもと、不安定さを強いられる人々「プレカリアート」問題に取り組み、取材、執筆、運動中。『反撃カルチャープレカリアートの豊かな世界』(角川文芸出版)、『雨宮処凛の「生存革命」日記』(集英社)、『プレカリアートの憂鬱』(講談社)、『自己責任社会の歩き方 生きるに値する世界のために』(七つ森書館)など、著書多数。2007年に『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。「反貧困ネットワーク」副代表、「週刊金曜日」編集委員、、フリーター全般労働組合組合員、「こわれ者の祭典」名誉会長、09年末より厚生労働省ナショナルミニマム研究会委員。