3派閥領袖記者会見の不気味
菅義偉氏が、圧倒的な“自民党議員の支持”で、総裁の座(つまり首相の座)につくことになった。なぜか総裁選が始まる前から当選確実。実は陰でそれを取り仕切ったのが、ご高齢の二階俊博自民党幹事長(81歳)だった。
だが、そうはさせじと麻生太郎氏(79歳)、細田博之氏(76歳)、竹下亘氏(73歳)という派閥の領袖たちが9月2日、突如3人そろって記者会見。甘い汁を二階派だけに吸わせてなるものか、というわけだ。
あの3人の老人たちが打ち揃っての記者会見を、ぼくはたまたま見た。なんとも不気味というか痛々しいというか。菅氏支持がどんなに美味しいことなのかは知らないが、ああ、これが日本政治の実像なのか、と見ていて暗澹たる気持ちになった。ぼくも、実はあの老人たちとさほど年齢は変わらない。そのぼくが言うのだから、ほんとうに老臭が漂っているような気がしたんだ。ああ、イヤだイヤだ。
あの日以降、菅氏の圧倒的勝利は既定事実化された。どんなに石破茂氏が訴えたところで、甘い汁は菅氏から滴っているのだから勝ち目はない。安倍晋三首相の後ろ盾を得て「禅譲」を目論んでいた岸田文雄氏は、肝心の安倍首相にあっさりと梯子を外され、見るも無残な結末。なんとも畏れ入った田舎芝居。
しかも、この芝居はおまけ付きだった。14日の自民党総裁選では下馬評を裏切って、岸田氏が89票で石破氏の68票を上回った。
どういうことか?
安倍晋三氏と菅氏の「石破憎し」の裏工作だと言われている。菅氏支持の票を少し岸田氏に回し、石破氏を3位に叩き落す画策がなされていたらしい。来年の秋には総裁任期満了、そこでもう一度行われる自民党総裁選での石破の芽を、今から摘んでおこうということらしい。いやはや、そこまでするか。
菅氏「苦労人報道」とは?
それはともかく、マスメディアはある時期から、石破氏や岸田氏には完全に興味を失った。一応は3者平等の建前で、3人同じ扱いをしてはいたが、その熱の入れようは、ほぼ7:2:1という感じ。むろん、7が誰かは分かるよね。
その菅義偉氏についての「ゴマスリ報道」にはウンザリした。菅氏は秋田県の出身だそうだが、実はぼくも同じ秋田の出だ。だから、よけいに腹が立った。菅氏についての報道は、簡単に言えば、ざっと以下のようなものだった。
菅義偉氏は1948年生まれ、秋田県立湯沢高校を卒業後、「集団就職」で東京に出て来て町工場で働き、やがて一念発起、法政大学の夜間部に学んだ。法大を選んだ理由は「法大の授業料がいちばん安かったから」だという。その後、苦労を重ねて議員秘書となり、横浜市議を経てやっと衆院議に議席を得た……。
「週刊文春(9月17日号)」によれば、この「法大夜間部」というのは菅氏自身も否定しているということだが、それならそれでいい。苦労人というイメージも、そう思うのなら勝手だ。だが、ここでぼくが引っ掛かったのは「集団就職」という言葉だ。
ん? 高卒(それも普通高校)で「集団就職」だと?
ぼくは1945年生まれ。菅氏と同じ秋田県で、湯沢市とはわりと近い町で育った。だから、当時のぼくの周囲の状況は、菅氏と同じようなものだったはずだ。そのぼくが、どう当時の記憶をたどってみても、高卒で「集団就職」というのはピンとこない。「集団就職」とは、中卒(15歳ほど)の少年少女たちの東京など大都会の中小企業への就職を指す言葉だと理解していたからだ。
「週刊文春」には、次のような記述があった。
「出身地の秋田から集団就職で上京し、段ボール工場での勤務などを経て、小此木彦三郎元通産相の秘書や横浜市議を経た苦労人」(産経新聞九月三日付)
メディアを通じて広がっていく「集団就職」というエピソード。ただ、それだけではない。母校・湯沢高校のHPには、十三年七月八日に菅氏が講演した時の発言が紹介されている。「昭和23年に秋ノ宮で生まれ、湯沢高校卒業後に東京の町工場に集団就職した。働きながら(略)」
実際に菅氏自身も、後輩たちに向けて「集団集職した」と語っているのだ。
しかしーー。
小学校から高校まで菅氏の同級生で元湯沢市議会議長の由利昌司氏は、こう首を傾げる。「確かに義偉君は高校を卒業して東京の段ボール工場に就職しますが、これは集団就職ではない。集団就職というのは、学校の先生に引率されて上京し、就職先を回って働き口を見つける、というもの。ところが義偉君は一人で上京している。(略)」
「集団就職」とはどういうことだったか
前掲記事の由利氏の「集団就職」の理解については、ぼくにはやや疑問があるのだが、それはまあ、措いておこう。
ぼくは、自分の記憶を掘り起こしながら、「集団就職」について、数日前(文春の発売日前です)に以下のような文章をフェイスブックに投稿した。ずいぶん多くの人に読まれていた。多分、菅氏の「集団就職伝説」がヘンだなと思った人が大勢いたということだろう。分かりにくい部分は書き直し、少し付け加えたが、再掲するので読んでほしい。
どうも、菅官房長官(この文章を書いたときは、まだ官房長官だった)は秋田の農家の生まれで、「集団就職」で東京へ出てきた苦労人……というまことしやかな“新伝説”がつくられているようですが、本来「集団就職」とは、中卒の少年少女が勃興期の日本経済を下支えしていた中小企業へ吸い込まれるように、「就職列車」で東北などから東京へ出てきたことを言うのです。高卒の「集団就職」など、聞いたことがありません。
私の中学(秋田の片田舎)では、春のある日、校庭に貸し切りバスがやって来て、「集団就職」する生徒たちを乗せて、駅まで行く。駅には「就職列車」が待っていて、他の地域から来た子どもたちもあわせて乗り込み、満員になった列車が上野駅をめざしたのです。
バスに乗り込む前に、校庭では迎えのバスの前で「お別れ式」(送別式と言ったかな?)が行われました。学生服とセーラー服の、不安なような晴れがましいような悲しいような、複雑な表情のほっぺの赤い少年少女に、残るぼくらは手を振ったのです。
ぼくと仲の良かった子は、べそをかきながら「これ、オレの東京の住所」と言って、“なんとか有限会社の寮”の住所を書いた紙切れをくれました。その子とは数回、手紙のやり取りをしましたが、間もなく音信不通になりました。多分、工場を辞めてどこかへ移ったのでしょう。それっきりです。
ぼくら“見送る側”は、一応、高校進学組ですから、多少の余裕で手を振っていたと思います。
だから、ぼくの記憶では「集団就職」と「金の卵」(集団就職の少年少女たちはそう呼ばれていました)とは、あくまで中卒の子たちのことです。高校生たちも就職で東京へ出て行ったでしょうが、それは少なくとも「集団就職=就職列車組」ではなかったはずです。もう少しつけ足しましょう。
当時、日本は東京オリンピック(1964年)の開催に向けて、競技場建設、新幹線、高速道路整備などが始まり、空前の人手不足でした。でも高卒者はかなりの割合で大企業が吸収してしまい、町工場などは深刻な人手不足に悩んでいました。
そこで中小企業の経営者たちは東北など地方を回り、中学校の教師たちに就職あっせんの依頼をしていったのです。当時は、高校進学がまだ50%ほどで(東北地方はもっと低かった)、多くの生徒は中学を卒業すると、すぐに就職せざるを得なかったのです。それほど貧しかったのです。
就職する子たちの人数がまとまると、当時の国鉄(現在のJR)と交渉して、「就職列車」が仕立てられました。引率の教師たちや職業安定所の職員らが上野駅まで付き添い、そこで小旗を持った迎えの町工場の人たちへ生徒をあずけた。それが「集団就職」だったのです。あの「寅さん」の、さくらの夫の博が働く印刷工場などがその典型でしょう。
ぼくの記憶をどう掘り起こしても、さまざまな資料を漁っても、高卒者と「集団就職」は結びつきません。菅氏の講演での話は、どうにも腑に落ちない。高校卒の就職組も、何人かまとまって東京へ出てきたケースはあったでしょうが、それは「集団就職」ではありません。
つまり、菅氏は虚偽をそのままにして「たたき上げの苦労人」というイメージを拵え上げたということです。経歴さえも事実じゃない。
『あゝ上野駅』(井沢八郎)は、集団就職の少年少女たちの希望と怯えと切なさを歌ったものです。少女たちの光景を歌った『制服』(吉田拓郎)もあります。それらの歌に出てくるのは、やはり「中卒」のイメージです。
調査しないマスメディア
ではなぜ、「集団就職」した高校生……という菅氏の苦労話のエピソードがこんなに語られるようになったのか。そこにぼくは、やはりマスメディアの衰弱を見ずにはいられない。記者たちは、当時の文献に当たることをしたのか。新聞各社には旧い新聞もデータベース化されて残っているはず。それを検索すれば、「集団就職」の実態を把握するのに苦労はしなかっただろう。
菅氏の言い分を何の検証もせずに掲載してしまった責めは、誰が負うのか?
多分、記事を書いた記者たちは「Wikipedia」あたりに頼ったのではないかと思う。「Wiki」の「集団就職」の項目には、確かに「かつて日本で行われていた雇用の一形態であり、地方の新規中等教育機関卒者(中学・高校卒)が大都市の企業や店舗などへ集団で就職すること」と書かれている。そこで「菅さんもこの高卒集団就職者のひとりだったんだな」と思い込んでしまったのかもしれない。
「集団就職から地方議員を経てきた叩き上げの苦労人」という虚像を、そのまま検証もせずに広めてしまうのでは、とてもジャーナリズムともジャーナリストとも呼べない。マスメディアの劣化を表す一例である。「Wiki」頼みで記事を書くのであれば、あの百田某氏となんら変わらない。そりゃダメです。
自分の経歴さえ偽ってのし上がる人物が、これからのこの国の首相となる。
ぼくは、やはり暗澹たる気持ちのままである……。