菅義偉政権による日本学術会議会員の任命拒否問題は、言論の自由を脅かすものであり、掛け値無しに重要である。
だからこそリベラル系のマスメディアや市民から批判の声が一斉に上がっているし、僕も積極的に抗議声明などに加わってきたのだが、同時に「のれんに腕押し感」も否めないでいる。しかもその感覚にはなんだか既視感がある。
秘密保護法しかり。安保法制しかり。いずれも日本の行く末を左右しかねない重要な問題で、それなりに反対運動も盛り上がったのだが、盛り上がっているのはざっくりいって国民の2割か3割くらいで、あとの7割か8割は「ふーん」という感じだったように、苦い思いとともに記憶している。いや、「ふーん」ならまだいい方で、「野党や反対派は細かいことでごちゃごちゃうるさいな」という感じの人も残念ながら多かったように思う。今回もそういう感がある。
3つの問題に共通しているのは何か。
どれも一般の国民に対する影響が実は重大でありながら、理念的かつ間接的かつ将来的で、目に見えにくいし想像しにくいということであろう。
実際、秘密保護法や安保法制の影響を日々の生活で実感する人は現時点では稀だろう。学術会議の任命拒否に至っては、一見、学者以外には関係ないことのようにも見えてしまう(もちろんそれは誤りだが)。だからこそ政権側の人々によって、「エリート学者という特権階級に対する税金の使い方の問題」に簡単にすり替えられてしまう。
それに対して、たとえば「消費税が5%に下がる」は誰もが直接的な影響を想像しやすい。「携帯電話の料金が半分になる」「旅行代金が半額になる」も同様だろう。学術会議問題には関心のない7割から8割の人も、「ふーん」というより「へええ」という反応になりやすい気がする。
政権交代を本気で目指すなら、大勢の人々が関心を抱きやすく実感しやすい問題こそを、メインに扱う必要があることは自明だ。いや、本来ならば7割から8割の人にも「言論の自由」や「学問の自由」の問題に関心を持っていただきたいのだが、残念ながら現実にはそうはなっていないのである。
そういう意味で、リベラル派や野党が日本学術会議問題についてこれ以上深入りすることには、戦略的な意味が見出しにくい。もちろん黙認せずに声を上げたことは、必要だったしよかったと思う。しかしこの問題で世論が大きく動くことを期待することはできないし、したがって政権を追い詰めたり、政権交代につながる大きなうねりを作ることは、不可能であろう。
逆にこの問題にこだわり続けることで、大学の自治やアカデミズムの独立性を破壊されるきっかけにならないかと、心配している。実際、そういう方向に問題がスピンされつつある。