第346回:「常識」が通用しません……(鈴木耕)

「言葉の海へ」鈴木耕

折り合って生きる

 ぼくが子どものころは、学校の先生や周りの大人たちが「常識を持て」とか「そんなことは常識だろ!」「常識を破ってはいけない」などと、ことあるごとに口にしていた。やがて、若者たちはそんな大人たちに反発して様々な「常識破り」を試みた。その軋轢の中から新しい文学、音楽、演劇、表現などが生まれて来た……。
 しかし、一方でその「常識破り」が足を踏み外して、社会に衝撃を与えたことも多々あった。だがそこに折り合いをつけながら、社会は動き続けてきた。ぼくも馬齢を重ねるにしたがって、少しずつだがその「折り合い」というものを理解できるようになってきた。
 人を傷つけない、むやみにものを毀さない(毀さなければならないものは当然あるが)、他人を踏みつけない、お互いに譲れるものは譲る、なるべく穏やかに暮らす、できる範囲で協力する……。
 つまり「常識」というものを感覚的に理解してきたといえる。それが時としてつまらぬことに思えて、自分にイラつくこともあるけれど、社会生活を営むということは、この「折り合い」が大事なのだろうと納得できる程度には歳をとったのだ。
 ところが、最近はとんと、この「常識」が通用しなくなってきた。

冗談だろ、それ?

 「ほんとうに冗談だろ、それ?」
 少し前だったら、そう言われるようなことが、最近は次々とリアルに展開されていく。
 兵庫県の斎藤元彦知事を巡る問題は、当初のパワハラ内部告発から奇妙奇天烈な展開となり、まさに理解不能状況に。ことに、これに関わった維新県議たちの言動には、「常識」という言葉がビックリして裸足で逃げだしてしまう。
 まず百条委員会の副委員長だった維新の岸口実議員が、真偽の定かではない(というよりほとんどデマ文書)をあの立花孝志氏に手渡した。それを問い詰められると「そこのところは記憶が定かではない」と逃げを打っていたが、窮地に陥るとついに「結論から言うと、その場に同席していた以上、私が提供したということでけっこうだ」と、まるで意味不明の回答。要するに「オレは自分で渡したとは言わない。あんたらがそうだと受け取るならそれでかまわん。オレの知ったことではない」というわけだ。
 こういうのをフツーの日本語では「開き直り」や「不貞腐れ」などという。この人、とても議員の器ではない。
 続いて同じ維新の増山誠議員(これも百条委員会委員)が、薄ら笑いを浮かべながら「非公開の百条委員会の音声録音データを立花氏に渡したのは私だ」と告白。まるで悪びれる様子もない。なんじゃこれ、冗談じゃないんかい! 非公開ということを分かっていてやったのだから最悪だ。議員辞職が当然だろう!
 さらに、白井孝明維新議員は、選挙期間中に立花氏と接触していたことを認め、増山議員が立花に提供した文書の内容を確認したという。その理由として「斎藤知事だけが悪者のような報道はフェアじゃいないから」と言う。さらに「今でも立花さんの言うことはデマだとは思っていない」と、これも開き直り。
 しかし考えてみると、県議会は全員一致で斎藤知事不信任に賛成したはずだ。この3人の維新議員どもも賛成したのではなかったか?
 ホント、おまえらに「常識」ってものはないんかい! もうわけ分からん!
 デタラメもここまでくると、政治そのものの「常識」がガラガラと崩れていく。デマ文書をばら撒いといて、まるで正義の士のような顔をする。その文書の内容を、すでに立花自身が否定しているというのに、である。
 こんな連中が陣取る県議会など、さっさと解散してしまえ! と怒鳴りたくなる。するとまた訳知り顔の連中が「県民の大切な税金を、また選挙で使うのは許せない」とかなんとか喚くのだろう。
 では、そんな議員どもを選んだのは誰なんだ?

なぜ核禁会議に参加しないのか?

 「常識外れ」と言わざるを得ないのは、中央政界も同じこと。
 石破首相は、ノーベル平和賞を受賞した「日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)」に対し、「心からの敬意とお祝いを申し上げる」と述べていた。ならば、その活動にどう寄り添うかを行動で表すのが「常識」というものだろう。
 だが、被団協のたっての要望をあっさりと踏みにじり、核兵器禁止条約締約国会議へのオブザーバー参加さえ認めなかった。
 例によって「核保有国が参加しない条約では意味がない。むしろ、保有国と非保有国の分断を進めることになりかねない」との理解不能の文言で、被団協や核廃絶を願う国民を裏切った。さらに、当初は「オブザーバー参加はしないが、自民党議員の参加は考える」と言っていたこともあっさりと撤回してしまった。
 世界唯一の原爆被爆国である日本が核兵器禁止条約の先頭に立つというのは、普通に考えたら世界の「常識」ではないか。それがいまだに米国の核の傘に気兼ねして、なんの行動をとることもしない。これこそ「非常識」である。

SNS上での人格変貌

 「常識」がまったく通じないのは、いまやSNSかもしれない。
 維新議員たちが発信した偽情報に、あっさりと乗っかってしまう人たちが大量に増殖することの怖さは、まさに「常識外」の状況だ。
 最初に書いたように「他人を傷つけない」は、常識中の常識だろう。多くの人たちはそう思っているはずだ。しかし、SNS上では人格が変わってしまう人たちの、なんと多いことか。平気で悪罵を浴びせ、口汚く見知らぬ他人を傷つける。自殺者が出ても「それはソイツが悪いからだ」などと平気で言い募る。
 なぜそんなことができるのだろう?
 多分、そういう人たちだって、リアルの状況で対面すれば、あんな汚語満載の言葉を投げつけたりはしないだろう。意外と気弱な人間だったりするかもしれない。ところがSNS上では、それを平然と行う。そこがぼくの「常識」を超えている。
 ひどい場合には、殺人予告をするものまで現れる。リアルな現場で相手に対し「おまえ、殺してやるぞ」と言うならば、まさに脅迫罪、手錠ガチャリで一件落着だろう。ところが同じことをSNS上でやっても平気というのが、ぼくの「常識」では考えられない。
 これは、匿名性のせいなのか。
 ぼくはツイッター(“X”とは呼びたくない)を利用している。もしツイッターを正当な議論や情報伝達の場として機能させたいと願うなら「匿名性」を廃止すべきだと思う。ぼくは名前を公表してツイートしている。そのせいで、かなりひどい罵倒を受けることもある。しかしそれをするのはほとんどが匿名者だ。卑怯だと心から思う。言いたいことがあるなら、名前を明かして言えよ。
 しかしそれは無理だということも分かっている。イーロン・マスクが買収してから、それこそ“X”では、ウソとデマとフェイク情報の許容範囲が無限大に拡がってしまったのだ。それを押し進めているのが当のイーロン・マスク氏とトランプ大統領なのだからたまらない。このふたりが率先して、ウソとデマとフェイクをまき散らしている。ツイッターの未来は明るくない、いや、真っ暗だ。
 そう考えれば、匿名性のせいとばかりも言えない。権力とカネさえあれば情報システムそのものを掌握し、自分らに批判的な意見は「フェイクだ!」として、先頭に立って徹底的に痛めつける。そして、拍手喝采で迎合する人々。いずれその災厄が、小市民の自分の身に降りかかるとも知らずに……。
 それでも微かな希望はある。フランスやイギリス、ドイツなどでは、ツイッター(X)の利用をやめる政府機関や有力メディアなどが続出し始めた。

「世界の常識」は瀕死状態

 トランプ氏の矢継ぎ早の大統領令は、これまでの「世界の常識」「国際的約束事」を徹底的に破壊する。まるで馬の糞を踏んづけたように醜悪だ。就任たった1カ月余りで「常識破り」の大統領令を70本以上も乱発した。
 そして危険なのは、プーチン大統領との親密さを演出し、ゼレンスキー大統領抜きでウクライナ戦争の終結を図ろうとしていることだ。戦争当事国の一方を排除して決めてしまう。当然ながら、排除された側の意見を聞く耳は持たない。
 トランプ氏は「ゼレンスキーは選挙なき独裁者だ」と罵り、「ゼレンスキーはバイデンを騙して3500億ドルもの金を搾り取った」「その金を返却させなければならない」と脅し始めた。つまり、戦争を終わらせるにはプーチンの言うことを聞け、ロシアの占領地域はそのままロシアに渡せ、これまでの米国の援助分の金を、ウクライナに眠るレアアースなどの資源で返せ、ということだ。もう金は出さん、いままで与えた金はお前の国にある鉱物資源で返済しろ。まさに「ディール(取引)大好き」のトランプ手法である。

 グリーンランドをよこせ
 パナマ運河も欲しい
 メキシコ湾はアメリカ湾に変更しろ
 アメリカ湾と書かないAP通信は出禁だ
 WHO(世界保健機構)からは脱退だ
 ICC(国際刑事裁判所)は制裁する
 海外援助のUSAID(米国際開発局)は潰せ
 カナダは51番目の米州になれ
 ガザはオレが中東の保養地にしてやる
 ガザ住民は他の国へ移住しろ
 医療保険制度(オバマケア)は廃止だ
 地球温暖化はフェイク、パリ協定から離脱
 化石燃料を、掘って掘って掘りまくれ
 辞書の中でいちばん美しい言葉はタリフ(関税)

 もはや、書き出しているだけで強烈な頭痛に襲われる。これが世界一の軍事強国の大統領なのだ。しかし、トランプ支持率がかなり低迷し始めた。反トランプのデモが各地で散発的にだが起き始めている。まあ、それが常識的な動きだろう。
 世界でも日本でも、瀕死の「常識」を甦らせなければ……。

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鈴木耕
すずき こう: 1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)、『反原発日記 原子炉に、風よ吹くな雨よ降るな 2011年3月11日〜5月11日』(マガジン9 ブックレット)、『原発から見えたこの国のかたち』(リベルタ出版)、最新刊に『私説 集英社放浪記』(河出書房新社)など。マガジン9では「言葉の海へ」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。