●雨
雨が降らず大地が乾きっぱなしと思っていたら、ラジオの天気予報が明日は雨と報じていた。翌朝目覚めたら予報通りに外は小糠のような雨で、郵便受けにはビニール袋に包まれた朝刊が入っていた。販売店のこんな気配りを嬉しく思い、でも同時に、破った後のビニール袋の行方を案じた。これもマイクロプラスチックとして残ってしまうのだろうか。新聞の一面では、九州や能登など各地の豪雨被害の様を伝えていた。
●1945年8月
その豪雨のニュースを読みながら、かつて聞いた言葉を思い起こしていた。私は1980年代の終盤から90年代初めにかけて、旧満州各地へ取材行を重ねた。中国残留日本人や、残留日本人孤児を養父母として育てた中国の人たちを訪ねての旅だった。1945年8月、敗戦後の避難行の様子を語る誰もが口にしたのが「あの夏は雨が多かった」という言葉だった。
「昼間は雨に打たれながらコーリャン畑に隠れていて、日が暮れてから歩き出す。ぬかるんだ大地に足を取られて転び、這うようにしてやっと起き上がって、また歩く。その一歩に命を賭けるような思いだったけど、すぐにもう、何にも考えられなくなってただぬかるんだ道を歩くだけだった」「子どもがいる人なんか、子どもが歩けなくなって泥の中にしゃがみ込んでしまうと、親も食べてないから力が無くてしゃがんだ子どもを立たせられず、それで母子とも置いてきぼりになって。結局あの母子はどうなったか……」
その他にもたくさん雨の話が出てきたことが気になっていた私は、後に黒竜江省の地誌研究者に、1945年夏の気象について尋ねたことがある。私と同年輩くらいのその人からの返事は、その年が特別雨の多い年だったという記録はないというものだった。だが当時の中国は、日本との戦争が終結した後も毛沢東が率いる共産党軍と蒋介石の国民党軍とで内戦中だったから、気象についての記録などなかったかもしれない。だから実際にどうだったかはわからないが、「あの夏は雨が多かった」と語ってくれた着の身着のままの避難者たちは、食べ物もなく草や木肌を齧り、昼間は隠れ、夜になってから逃避行を続ける毎日だったのだから、降り続く雨がどれほど無情なものだったかと、心に刻むばかりだった。
●「父を辿る」
長野市に編集拠点がある【信州発】産直泥付きマガジン「たぁくらたぁ」の昨年秋号から「父を辿る」のタイトルで、私には思い出ひとつも残さずに、ただ「一枝(イチエ)」という名前だけを遺して逝ってしまった父のことを書いている。
父は、1914(大正3)年に、朝鮮の城津で税関吏をしていた父親の長男として生まれた。3歳の時に両親をスペイン風邪で亡くして日本に帰されて、静岡の沼津にいた祖父を後見人に成長、旧制中学に入学するが、卒業の前年に自ら退学してしまう。そして東京に出てセメント屋で働き始めた。その時期に、当時は非合法だった思想や本に触れることがあり、社会主義思想に惹かれていったらしい。20歳で徴兵検査を受けて甲種合格し、静岡連隊の2等兵として満州のハルビンへ配属されたが、2年後に満期除隊となって連隊と共に静岡に帰還した。だが父は、その直後に再度単身で渡満し、ハルビンで生きる道を選んだ。
22歳の父が除隊後になぜまた満州へ行ったのか。戦争へ向かっていく時代に生まれて育ち、31歳で戦死した父の生涯を辿りたくて書き始めたのだが、父が生まれ育ったのが朝鮮の港湾都市・城津だったと書いた時に、それまで歴史で学んだ「日韓併合」が、知識ではなく我が事として身の内に突き上がってきたのだった。同時に、朝鮮半島と日本の関係を年表に書いてある歴史ではなく、人々の生きてきた生活史として知りたいと強く願う私が居た。
●朝鮮戦争
1945年8月15日、日本の敗戦によって朝鮮は日本から独立したが、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と大韓民国(韓国)とに半島は分断し、1950年に武力による国家統一を目指した金日成の北朝鮮が、李承晩が掌握している韓国に攻め入った。韓国軍が応戦して、半島の主権をめぐっての「朝鮮戦争」となった。この戦争に対して国際連合は北朝鮮への制裁を決定してアメリカ軍を主力とした国連軍を派遣し、中国は義勇軍を送って北朝鮮を支援した。いわば、自由主義陣営と社会主義陣営の代理戦争であったとも言えるだろうか。
米軍は日本の基地から出撃していったが、敗戦後に焦土と化していた日本はこの朝鮮戦争特需で経済が復活し、その後の高度経済成長期を迎えていった。朝鮮戦争は1953年に休戦協定が結ばれるまで続き、今もなお休戦中であって戦争終結はしていない。
休戦したこの年に、「城津」は「金策」と地名変更された。金策は日本語の意味とは違い、人名だ。「キムチェッ」あるいは「キムチェク」と読むが、彼は城津近くの出身で、旧満州時代には抗日パルチザンとして中心的に活動し、朝鮮独立後は1951年に亡くなるまで北朝鮮の副首相兼産業相を務めた。彼の業績を讃えるべく、金日成によって城津は1953年に金策と地名変更されたのだった。
●引き裂かれた母と子
「父を辿る」を書きながら私は、旧満州各地への取材旅行を重ねていた時期に会った北朝鮮出身の安さんを思い出していた。彼女の夫は朝鮮戦争で戦死し、安さんは2歳の娘を抱えて寡婦になった。娘の父親は国のために戦って死んだのだからという北朝鮮政府の計らいで、政府の孤児院に娘は引き取られた。一人になった安さんは、吉林省に住んでいた姉夫婦を頼って中国に来て再婚したが、その夫も亡くした安さんに、私はハルビンの養老院で会ったのだった。
海を隔てた日本と朝鮮半島、38度線で分断された南と北の国、それぞれの国に流れた歴史はまた互いに絡み合いながら時を刻んでいるのだと思っている。2度目に安さんに会った時、娘の消息を尋ねたら、吉林省に来る前に孤児院に行ったが会えなかったと言った。
そして「国がちゃんと世話をしてくれているのでしょう」と言った。そうははっきり言わなかったけれど、会わせて貰えなかったらしい。
安さんは、もう娘の顔も忘れたとサバサバと言ったが、2歳で別れた子どもは、そのとき生きていればもう30歳を過ぎているはずだった。
●映像の力
この夏は、毎日のように「真夏日」とランク付けされるような日々だったから、避暑とかこつけて映画館に繁く通った。
『黒川の女たち』、『ウナイ 透明な闇 PFAS汚染に立ち向かう』、『豹変と沈黙 日記でたどる沖縄戦への道』、『炎をつなぐ』、台湾巨匠傑作選から『赤い柿』『無言の丘』の2篇、『もうひとつのヒロシマ─アリランのうた』、『よみがえる声』と、映画三昧のような8月だった。
台湾映画の2本以外はすべてドキュメンタリーで、その2本も史実に基づいての劇映画だったので、歴史として知っていた台湾のその時代を眼前にするような思いで、興味深く観た。本の場合も私は小説よりもノンフィクションを好むし、映画も劇映画よりもドキュメンタリーを観ることが多い。
文章・写真・絵画・演劇・話芸などなど何かを表現する手段はいろいろあるけれど、映像の持つ力はとても大きい。ただ私が『赤い柿』や『無言の丘』を観て「歴史として知っていたことを眼前にするような思い」などと言っても、当時を知り、体験している人には、その映像は歴史の真実を伝えていないのかもしれない、とは思う。
どの映画も、いずれも我が家から近い場所にあるK’sシネマやユーロスペース、ポレポレ東中野など、いつも馴染みの劇場で観た。だが朴壽南(パク・スナム)監督の『もうひとつのヒロシマーアリランのうた』だけは、我が家からは少し遠い田端まで観に行った。
「目の見えない人も、耳の聞こえない人も、どんな人も一緒に映画を楽しめるバリアフリーシアター」が田端に開館したというニュースはずっと以前に得ていて関心はあったが、足を運ぶことはなかった。だが8月初旬の1週間、『もうひとつのヒロシマ』がそこで上映されると知って、チャンス到来とばかりに出かけたのだった。どうしてもこの映画を観たかったし、田端に在るこの映画館にもぜひ行ってみたかったのだ。
どんな人も映画を楽しめる、映像の力に触れ、味わえる劇場が田端に在ることが、とても嬉しい。というのは、私は小学3年生の3学期から5年生の1学期まで、田端の隣の駒込に住んでいた。その頃の田端駅には大きな操車場があって、機関車や貨車を見るのが好きだった私は下校後に家に帰る前に、よくその操車場風景を眺めに通ったものだった。田端には、そんな懐かしさもあったからだ。
駒込駅も田端駅もすっかり様変わりしていて、降り立った田端はまるで見知らぬ場所だった。けれども改札口の駅員さんに劇場の名を言うと「あ、映画館ですね」と言ってプリントされた地図を渡してくれながら、表に出て道を指し示してくれた。そんな仕草に、子どもだった頃のこの街の雰囲気を思い出したりもしたのだった。暑い日差しの中で辿り着いたシネマ・チュプキ・タバタは、2016年9月に開館した「日本一小さくて、日本一やさしい映画館」だった。
●『よみがえる声』
私は若い頃から陶芸に興味があったので、そんなことからも半島の伝統や文化に惹かれ、私が「日本の文化・伝統」と思っているものの中には半島から伝わり、受け継がれてきたものも少なからず在ると知っていた。また、私には親しくしている在日コリアンの友人も多く、在日一世と結婚した叔母や在日二世を伴侶に持つ従弟も居る。だから半島の歴史や在日の人たちの思いや暮らしも聞き知っているつもりだったし、本や映像によるドキュメンタリーを通して、私なりに理解しているつもりだった。
けれども、それらは全て「つもり」でしかなかった。映画『よみがえる声』を観て、私はそう思った。
『よみがえる声』は朴壽南監督(以下スナムさん)と娘の朴麻衣監督(以下マイさん)の母娘共作の作品で、私は公開から2日後の8月4日にポレポレ東中野に観に行った。
映画が終わって、クレジットが流れて最後の文字が消え場内が明るくなっても、私はすぐには立ち上がれなかった。「打ちのめされた」と言えば良いだろうか。私は、80歳の私は、今まで何を生きてきたのだろう! これまでの私自身を疑った。そして、「私を、生き直さなければ! 生き直そう!」と思った。
監督のスナムさんは私よりも10歳年長で、三重県に生まれた在日朝鮮人2世だ。
雑誌記者だったスナムさんは、1958年に金子鎮宇(カネコシズオ)と名乗る18歳の少年が起こした殺人事件に強い衝撃を受けた。定時制高校に通う女学生を殺害した金子は在日朝鮮人2世で、本名・李珍宇(イ・ジヌ)であることが明かされたからだった。
自ら犯行を警察に知らせて逮捕されたジヌは一審で死刑判決を受け、二審も変わらず、最高裁は上告棄却され19歳で死刑が確定していた。
迷った挙句に、スナムさんは獄中の少年死刑囚イ・ジヌに手紙を出した。ジヌから返事が届き、それから二人は手紙を交わすようになり、手紙の一部が雑誌『婦人公論』に掲載された。
ジヌは、スナムさんとの手紙のやり取りと面会を通して生きることを決意して、恩赦出願を申し出た。また世間でも減刑運動が大きく盛り上がっていた。しかし19歳で刑の宣告を受けていたジヌは、1962年8月30日に確定死刑囚を収容する宮城刑務所仙台拘置所に移送され、11月16日に死刑執行された。22歳だった。
最初の手紙から4年間にわたって二人の間で交わされた手紙は、その後に三一書房から往復書簡集『罪と死と愛と』として出版され、大きな反響を呼びベストセラーとなった。
出版翌年からスナムさんは日本政府の植民地支配による強制連行や、広島・長崎で被爆した在日朝鮮人の声を取材して歩き、表に出てこなかったそれらの声を掘り起こして証言集を出版、やがてペンをカメラに代えてドキュメンタリー映画を制作発表するようになった。
スナムさんは、これまでに『もうひとつのヒロシマ─アリランのうた』『アリランのうた─オキナワからの証言』『ぬちがふぅ(命果報)─玉砕場からの証言』『沈黙─立ち上がる慰安婦』を映像作品として送り出しているが、作品化した後も取材したフィルムやテープは廃棄せずに保管していた。母親の仕事をずっと手伝ってきたマイさんは、スナムさんが取材し保存していた膨大な16ミリフィルムや録音の音声の記録が劣化して消えてしまう前にデジタル化する作業を続けていた。デジタル化しながら当時のことを質問し答えるやり取りから、スナムさんとマイさんは、まだ伝えきれていない歴史の証言者の声を新たな映画として制作することを思い立ち、共同監督として作品化した。それが、この『よみがえる声』だ。
ポレポレ東中野での初見で、映画から投げかけられる問題の大きさを全て受け止めきれず、再度観に行った。それでも足りずにまた観に行った。観るたびに、なお深く知りたくなって耳に残った言葉をもう一度、記憶に残しておきたくなって、また観に行った。それとともにスナムさんに魅せられて、マイさんとの母娘関係にも心惹かれて、29日、ポレポレ東中野での上映最終日にも行った。それが5度目の鑑賞だったが、この日はスナムさん、マイさん、そして大好きな映画監督のヤン ヨンヒさんの3人による上映後トークがあった。ヨンヒさんは、言わば勝手連のようにこの映画の宣伝広報活動をしている。私はヨンヒさんの映画も繰り返し観てきたが、『よみがえる声』を観た後で、改めてまた観たいと強く思った。新しい眼を持った私として、なお深く心に刻めるだろうと思ったからだ。
『よみがえる声』は劇場を変えて再上映される。まずはシネマ・チュプキ・タバタで9月1日から上映されるので、5日のチケットを予約した。また嬉しく観に行くつもりだ。