第547回:コロナ禍における「学校」、そして「不登校」「ひきこもり」〜ステイホームで突然「フロントランナー」となった在宅人たち。の巻(雨宮処凛)

 コロナ禍で変わったことはたくさんあるが、もっとも変わったのは、「在宅」をめぐるあれこれだろう。

 「ステイホーム」が呼びかけられる中、多くの企業が在宅勤務を実践し、そのうちのかなりの割合が意外とできること、問題ないことを知った。

 「これまでの長い会議はなんだったんだろう」「満員電車に乗らないことが生活の質をこれほどあげるなんて」「リモートの方がずっと効率よく仕事ができる」

 そんな声を聞いた一方、「家が狭い上、子育て中だから在宅ワークどころじゃない」という意見もあれば、「テレワーク中なのに、ハンコひとつもらうために出社しなくちゃいけない」という、令和の時代に昭和が紛れ込んだような話も聞く。一方で、「正社員はテレワークできるけど、派遣社員は全員出社させられている」などの待遇格差も耳にする。

 私自身、取材や打ち合わせ、会議の多くがリモートとなり、最初は少し戸惑ったものの、今はその便利さの恩恵を受けている。しかし、コロナ以前は取材や会議、打ち合わせのあと、気心の知れた編集者や活動仲間らと食事をし、いろんな話をすることで「今度こういうことをしよう」と新たな企画や活動が生まれてもいたわけで、そういう時間がないことは、やっぱり少し、寂しい。

 寂しいけれど、そういう時間そのものが、わずか一年でもはやリアリティがないくらいに「過去のもの」なってしまっている感覚もある。

 そんなふうに日本中、世界中の人々が「在宅」になる中、「ほっとした」「自分がおかしいと思わなくなった」「時代がやっと俺に追いついた」と口にする「在宅のプロ」たちがいる。それは不登校やひきこもりの人々だ。

 これまで、外に出ないこと、学校や会社やバイトなど、「子どもなら/大人なら行くべき場所」に行かないことで、時に白い目で見られ、時に「問題視」されていた人々が、コロナ禍で突如「見習うべきライフスタイルの人」となったのだ。しかもこの一年間は、在宅しているだけで「感染拡大」を防ぎ、「医療崩壊」を防ぐ活動をしていることとなる。能動的に「社会貢献」している形になったわけである。同じことをしてただけなのに、ある日突然、「コロナ時代を先取りしたフロントランナー」となったのだ。

 このことを寿ぐ人もいれば、戸惑っている者もいる。外に出られないだけでイライラしている「在宅の素人」の家族に、ストレスをためる者もいる。また、これまでは日中、家にいるのは自分だけだったのに、突如として家族全員が自宅のパソコン前でバリバリ仕事をする姿を見せつけられて劣等感を刺激され、「家にいたくない……」と吐露する人もいれば、「平時でも何もできないのに、コロナ禍でも何もできない自分」を責め続けている人もいる。

 そんな中、昨年3月には突然の全国一斉休校。これにより、学校も子育て世帯も大パニックになったわけだが、子どもの休校のために仕事を休む親への給付がまた混乱に拍車をかけた。フリーランスへの給付がなぜか企業に勤める人の半分だったり、当初は風俗業などを除外するという職業差別つきだったり。親が仕事に行けなくなるだけでなく、子どもが家にいることで食費が増えて家計が大変、家族が狭い家で顔を突き合わせていると喧嘩が絶えないなどの悲鳴も聞こえた。

 休校で浮き彫りになったことがある。

 それは通信環境の格差だ。

 コロナ禍で世界的にオンライン学習が推進され、海外ではかなり早い段階から環境が整備されたところもあった。日本でも、大学でオンライン授業が始まった。

 「大学だけでなく、小中学校、高校の授業もオンラインでやればいい」という声があちこちから上がった。

 が、自宅にパソコンとネット環境があり、オンラインでいくらでも勉強できる子がいる一方で、この国にはパソコンやネット環境がない家庭の子もいる。

 NPO法人しんぐるまざあず・ふぉーらむと専門家による調査チームが2020年7月に実施した調査によると、中学生以上の子どもがいるシングルマザー家庭の36.8%が自宅にパソコンやタブレット端末がなく、ネット接続のできない世帯や通信量が制限されている世帯は合わせて30%を超えるという(朝日新聞2020/9/11)。

 そんな家庭があることに想像もつかない人が「オンラインで」と言う時、貧しい家庭の子どもたちは排除されている。こんなことが繰り返されることで、学力には歴然たる差がついてくる。塾や習い事もそうだ。勉強できる、できないは本人の努力という前に、環境的に努力することもできない子どもたちがいることを、決して忘れてはいけない。コロナ禍は、ある意味でより格差を増大させているのだ。

 さて、この一年で不登校やひきこもりの立ち位置が変わったように、「学校」そのものの意味合いも変わっていると私は思う。

 在宅で仕事をする大人が増えたように、子どもだって在宅で学習するという選択肢があっていいのだし、それはコロナ禍における「ニューノーマル」になっていく可能性がある。

 「いや、勉強以外に人間関係や集団行動などの学びがあるからこそ、リアルに学校に行くことは必要なのだ」という声もあるだろう。

 が、その人間関係でいじめに苦しみ、あるいは教師からの暴言暴力に傷つけられ、自ら命を絶つ子どもたちは後を絶たない。何も学校をなくせと言っているわけではない。だが、しんどいと思った時に在宅に切り替えられるようなシステムがあったら、どれほど救われる子どもがいるだろう。要は選択肢の問題なのだ。

 ということで、不登校にまつわるもろもろを取材して、一冊にまとめた。
 『学校、行かなきゃいけないの? これからの不登校ガイド』(河出書房新社)だ。1月26日に全国書店に並ぶ。

 コロナ禍の中、不登校に詳しい人たち、経験した人たち、不登校にまつわる活動をしている人たちに会いに行き、話を聞いた。

 フリースクール「東京シューレ」理事長であり、自身の子どもが不登校を経験したという奥地圭子さんは、不登校について「子どもという生命」と「学校という制度」のミスマッチだと述べた。

 校則なし、宿題なし、チャイムなし、定期テストなし、制服なしを実現させた世田谷区立桜丘中学校・元校長の西郷孝彦さんは、子どもたちが「幸せな3年間を送ること」だけが唯一のルールだと笑った。

 自身も「子どもの貧困」当事者の経験を持ち、今は困窮世帯の子どもたちの学習支援をする「アスポート」理事の土屋匠宇三さんは、「学ぶことで選択肢が増える」ことの実例について、教えてくれた。

 そうして「ウンコを漏らした」ことで神童から一転、不登校になったお笑い芸人・山田ルイ53世さんは、当時の思いやその後のひきこもり生活、今も抱える「後悔」について赤裸々に語ってくれた。

 精神科医の松本俊彦さんは、不登校やひきこもりの子どもたちと接するプロとしてだけでなく、ヤンキーと校内暴力だらけの「悪夢のような」中学時代を過ごした元子どもの一人として、「刑務所と軍隊をモデルにした学校」の息苦しさを語ってくれた。

 そして本書の最終章には、10代から50代までの「不登校経験者」たちの座談会が収録されている。

 これが私には、鳥肌が立つほどに面白いものだった。

 特に、80年代に不登校になり、30代後半まで昼夜逆転生活、その後、お互い実家を出たいと思っていたひきこもり同士で結婚し、アルバイトを掛け持ちしながらそれぞれ10万くらいずつ稼いでなんとか暮らしているという50代女性・林恭子さんの話は、「これからを生きのびる」ヒントに満ちていた。

 なぜなら、これは不登校・ひきこもりに限った話ではないからだ。

 例えば私の周りには、貯金もスキルも正社員経験もなく、これから老いていくばかりと嘆く同世代の非正規の人々が多くいる。そんな人たちにとって、彼女の実践は、ひとつの「手に届くモデル」だと思うのだ。

 単身だと、10万円で自立して生きるのは厳しい。しかし、「つがい」になれば家賃や光熱費を折半しながらなんとか暮らしていける。しかも特筆すべきは、そう語る彼女が、今はひきこもり当事者団体「一般社団法人ひきこもりUX会議」の代表理事として活動を繰り広げていて、なんだかものすごく生き生きしているという点だ。

 根拠のわからない校則に違和感を抱き、高校に入学した日に「大学入試まで何百何日」と脅迫されるような「学校」文化にも一般社会にもなかなか適応できなかったけれど、今は「水を得た魚」のように、不登校・ひきこもりの人々が生きやすい社会のために活動しているのである。

 さて、コロナ禍の中、自殺者が増えていることはこの連載でも書いてきた通りだが、昨年の自殺者は11年ぶりに増加に転じ、2万919人。

 中でも増えているのは、女性と若年層。女性は前年より885人も増え、また小中高生の自殺は過去最多となった。

 家庭の不和のしわ寄せが子どもに向かうことや、子どもがふらっと立ち寄れるゲームセンターなど娯楽施設の休業によって逃げ場がなくなったなど、様々な背景があるだろう。

 そう思うと、どんなにつらいことがあっても、生殺与奪の権利は常に親に握られていて、逃げ出せば「家出」と言われ罵倒されるばかりだった自分の10代の頃が蘇る。

 特に中学時代は地獄そのものだった。

 「人生で一番つらかったときは?」

 そう聞かれたら、迷うことなく「中学時代」と答える。

 いじめに遭ったこともつらかったけれど、それがなかったとしても中学時代は絶対に、何があっても、たとえ5億円積まれようとも戻りたくない過去だ。

 何が、と問われれば無数にあるが、私の人生においてもっとも「囚人度」が高かった数年であることは間違いない。

 教室に大きく「無言、敏速、整然」と書かれているのがつらかった。

 髪の長さ、靴下の色、靴の色やスカートの長さなど細かすぎる校則が嫌だった。

 教室での一挙手一投足がみんなに「監視」され、「唾を飲み込む」とかの生理現象でさえ最新の注意を払わないと悪目立ちしてしまう空気が息苦しすぎた。

 運動音痴でスポーツなんて興味ないのに、「部活に入らないと内申書に響く」と言われて嫌々入ったバレー部のすべてが拷問だった。

 毎日ガラスにヒビが入りそうな甲高い怒声で暴言を吐く部活顧問が恐ろしすぎた。機嫌が悪いと暴言は暴力になり、しょっちゅう殴られたことも理不尽すぎた。

 私はずっと、あの頃、「不登校をせずに学校に行き続けたこと」を、今も悔いている。不登校をしなかったことによって、しなくていいはずの嫌な思いを死ぬほどしたからだ。教師からの日常的な暴力。いじめ。友人たちが寝返って私をいじめる側に回ったこと。そんないじめに耐え続けたせいで極まった人間不信。自殺以外のことなどまったく考えられなかった日々。つらさを誤魔化すために始め、以後10年続いたリストカット。

 そしてその「後遺症」は30年以上経った今も、私をどこか縛っている。例えば私は今も、実家に帰ったとしても決して一人で外を出歩かない。いじめ首謀者に限らず、元同級生たちにもし出会ってしまったらと思うと、それだけで恐怖に身がすくむからだ。

 そんなふうに帰省だけで怯える私は、未来永劫「地元に戻る」ことはないと思う。ということは、今後、親が病気や要介護状態になったとしても、「戻る」という選択肢はないということだ。いじめは人から故郷を、そこに戻るという選択肢を奪い去る。このことはおそらく、あまり知られてはいない。が、いじめられ経験がある者同士では「あるある」のひとつだ。

 さて、コロナ禍によって、はからずも「学校に行かない学び」の門戸が開かれた。

 そんな今だからこそ、「学校中心」の価値観は見直されるべきだと思うし、学校に行かなくても選択肢が減らない社会への道筋がどんどん示されていくべきだと思うのだ。

 今、10代の人はもちろん、元10代の人、子どもが10代という人にも、ぜひ、手にとってほしい。

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雨宮処凛
あまみや・かりん:作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。06年より格差・貧困問題に取り組む。07年に出版した『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版/ちくま文庫)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。近著に『死なないノウハウ 独り身の「金欠」から「散骨」まで』(光文社新書)、『学校では教えてくれない生活保護』(河出書房新社)、『祝祭の陰で 2020-2021 コロナ禍と五輪の列島を歩く』(岩波書店)。反貧困ネットワーク世話人。「週刊金曜日」編集委員。