第97回:否定的な言葉と、肯定的な言葉(想田和弘)

 私たち人間には、やられたらやり返したくなる、という本能的な習性があると、つくづく思う。

 それは自分自身の日々の生活を観察していれば、一目瞭然である。

 誰かに悪口を言われれば、悪口を返したくなるし、不機嫌な顔や声を出されたら、不機嫌な顔や声で返したくなる。それはたぶん生き物としての習性だから、ある意味でいたし方ないことである。しかしちょっと視点を後ろへ引いて冷静に眺めてみれば、この本能のおもむくままに振る舞うことには、弊害が大きいことにも気づかされる。

 というのも、悪口を言われたからといって悪口を返してしまえば、相手はさらに返してくるのが自然の道理だからだ。そしてさらに返されたら、こちらもさらに返したくなるというものだ。こうして争いはエスカレートしていく。夫婦喧嘩も、ネット上での言い争いも、国同士の戦争も、基本的には同じ構造で起きている。それでみんなが不幸になっていく。

 この悪循環を断ち切るためには、相手か自分のどちらかが、「やられても、やり返さない」という道を選択するしかないことは明らかであろう。また、相手のことはコントロールできないのだから、自分こそがその道を選び取ることが、平和への近道であることは明白である。

 明白なのだが、いわばそれは人間の本能に反する行動なので、頭ではわかっていても、なかなかそうはできない。ここに難しさがある。

 しかし一方で気づかされるのは、誰かに褒められれば褒め返したくなるし、親切にされたら親切を返したいと思うのも、人間の本能的な習性であるということだ。この好循環が始まれば、みんなが幸福になっていく。したがって、この本能には積極的にしたがう方がよい。これも明らかである。

 ところが巷に流布する政治的言説は、どうだろうか。

 僕自身もそうだが、政治を論じる際には誰かを否定し批判する言葉ばかりが先行し、褒めたりねぎらったりする言葉が圧倒的に不足している。どうしてそうなってしまったのかはわからないが、とにかく政治的発言=批判的発言でなければ気が済まないような感じになっている。というより、昔からずっとそのような気がする。しかしこれでは、みんなが「敵」と「味方」に分断され、不幸になっていくのも、至極当然ではないか。

 ならば否定的な言葉で政治を語ることを減らし、肯定的な言葉で政治を語ることを増やしていくことが必要だろう。「糾弾」よりも「共感」の言葉を、「抗議声明」よりも「ラブレター」を増やしていくのである。この点を改善していくことが、世の中をみんなにとって住みやすくしていくことの、大きな鍵のような気がしてならない。

 と、書きながら、これは僕にとっても超不得意分野であることを認めざるをえない。ふと気づけば、否定的な言葉ばかりを発している。恥ずかしい限りである。

 まずは僕自身が変わっていきたいと思う。

       

想田和弘
想田和弘(そうだ かずひろ): 映画作家。1970年、栃木県足利市生まれ。東京大学文学部卒業。スクール・オブ・ビジュアル・アーツ卒業。93年からニューヨーク在住。BGM等を排した、自ら「観察映画」と呼ぶドキュメンタリーの方法を提唱・実践。監督作品に『選挙』『精神』『Peace』『演劇1』『演劇2』『選挙2』『牡蠣工場』『港町』『ザ・ビッグハウス』などがあり、海外映画祭などで受賞多数。最新作『精神0』はベルリン国際映画祭でエキュメニカル賞受賞。著書に『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』『観察する男』『熱狂なきファシズム』など多数。