第555回:「あなたを大切にしてくれない場所にいてはいけない」というメッセージ。の巻(雨宮処凛)

 「あなたを大切にしてくれない場所にいてはいけない」

 この言葉は15年、「不登校新聞」のサイトに寄せたメッセージの一部である。

 夏休みが明ける9月1日は子どもの自殺が増える日であることから、「学校に行きたくないあなたへ」というメッセージの依頼を受け、書いた。

 そんな一文から始まる『学校、行かなきゃいけないの? これからの不登校ガイド』の書評を、4月10日の朝日新聞で哲学者の柄谷行人さんが書いてくれた。自身も幼稚園で「登園拒否」をし、小学校には行ったものの2年間口をきかなかったという柄谷さんは、書評の最後でこのように書いている。

 「一般に、不登校やひきこもりをする者に対しては、『逃げるな、強くなれ』といわれるのだが、著者はいう。『あなたを大切にしてくれない場所にいてはいけない』。そしてそれが『人が生きる上で、一番くらいに大切なことだと思う』と」

 柄谷さんが引用してくれたこの言葉について、驚くほど多くの反響があった。

 自分を大切にしてくれない場所からはさっさと逃げる。

 それは私が生きる上で、やはり一番くらいに大切にしていることで、いじめや不登校に悩む子どもにだけでなく、大人にこそ伝えたいことでもある。

 さて、問いたい。あなたは、今いる場所で、関係性の中で、「大切に」されているだろうか。

 新年度、コロナ禍で社会に出る若者も多い季節だからこそ、改めて考えてほしい。

 私はと言えば、今いる場所・関係性の中で、自分自身が大切にされていると言うことができる。それは、私を支配・コントロールしようとし、無力化したり言うことを聞かせようとしたり意地悪したりハラスメントしたりするあらゆる人間関係から全速力で逃げてきたからに他ならない。

 仕事の場で、家族や親族で、パートナーや友人などプライベートな関係の中で支配やハラスメントの片鱗が見えた瞬間、一目散に逃走してきた。「ヤバめな人からの逃げ足の速さ」では誰にも負けない自信がある。

 そんな私の「逃走の歴史」を振り返ると、中学生に遡る。部活でのいじめに耐え、毎日自殺を考えていた日々。早く辞めればいいものを「部活を途中でやめると内申書に響く」という狭い狭い世界の都市伝説的なものに縛られ、また「辞めたら仕返しされるのでは」と怯え、なかなか辞められなかった。しかし、辞めたらあっさりといじめから解放された。

 「どうしてもっと早く辞めなかったんだろう!?」

 その時、思った。大人たちが言う「逃げるなんて卑怯だ、負けだ」という言葉は大嘘だと。死ぬくらいなら、心が壊れるくらいなら、絶対に、一刻も早く逃げた方がいいに決まってるのだ。

 以降、私をいじめたのと同じタイプ(声がデカくて自信に満ちている上、粗暴な感じの人)からひたすら逃げてきた。そのような人種の一部は本能的に「こいつは弱い」と判断すると、その対象を死なない程度にいたぶるという習性を持っているからだ。しかも、それを「暇つぶし」でやってるのだからたまらない。

 さて、高校を出た私は美大を二浪した果てにフリーターとなったのだが、バイト先にもその手の人種はいるので、そういうバイト先はすぐやめた。バイト先で長続きしたのはどこも「自分と同類のいじめられっ子タイプ」ばかりの職場だ。例外的に「全員やる気がなさすぎて、それゆえ全員仲のいいキャバクラ」も続いたが、そんな店はあえなく潰れた。とにかく仕事内容や時給なんかより、「怖い人と遭遇しない」ということを最優先課題として生きてきた。フリーターの途中、いろいろあって右翼団体に入ったりもしたが、私のいた右翼には私が思う「怖い人」はいなかった。

 そんなこんなで2000年、25歳で1冊目の本を出してデビューすることになったのだが、出版のきっかけは、私が右翼団体を抜けるまでの半年間がドキュメンタリー映画になったことだった。その映画がベルリン映画祭をはじめ、世界各地の映画祭に招待され、劇場公開することになって、私は映画関係者の知り合いが多くできた。そういう人たちの集まりに行く機会も増えた。しかし、「映画関係者の世界」は、体育会系が幅をきかせる社会だった。もちろん、そうでない人もいたが、なんだかやたらと偉そうで選民意識のかたまりみたいな人も少なくなくて、居心地が悪かった。

 さて、1冊目の本を出したことで私はバイトを辞め、脱フリーター。執筆活動で食べていけるようになったのだが、出版の世界もなかなかに魑魅魍魎が渦巻いていた。本当に、いろんな人がいた。自分好みに売り出そうとする人、勝手に人の「今後の路線」を決める人、やたらといい条件の仕事の話を持ってくるけど詐欺師にしか思えない人。日々戸惑うことばかりだった。

 ちなみに、あまり知られていないがデビューして数年間、私は生きづらさ問題などを取材しつつ、依頼されてたまに小説も書いていた。それはそれで面白かったのだが、とにかくお金にならない仕事だった。ひとつの小説が掲載されるまで延々と直しをさせられるので、小説一本に絞ると収入ゼロになるのだ。私は他の連載があったからやっていけたけれど、精神的には厳しい日々だった。なぜなら、いつ掲載されていつギャラが入るかわからない小説を、何回も何回も、正解がわからない中書き直すというのは拷問と言っていい行為だからだ。

 そうして2005年、決定的なことが起きる。私の師匠である作家・見沢知廉氏が飛び降り自殺したのだ。

 生前の彼は純文学に非常にこだわっており、作品は三島賞候補にもなっていた。しかし、その執筆過程はまるで自傷行為のようだった。純文学作品で賞をとることに命を賭けていた見沢さんは、担当編集者から何度も何度も書き直しを命じられ、それに従っていた。刑務所から出てきたばかりの弱った身体で書き直しを続ける彼は、心身ともにみるみるうちに病んでいった。彼が病んだのは執筆だけでなく、長年の獄中生活の後遺症や出所後の過労もあるだろう。だけどそうして病んだ見沢さんはマンションから飛び降りて死んだのだ。

 死後、多くの人が、執拗な小説へのダメ出しが彼を追い詰め、病ませたのではないかと噂した。一方で、見沢さんははしごを外されてもいたようだった。担当編集者の異動や退職で、作家は書く場を一瞬で失ったりもする。見沢さんもあれほど精魂込めて書いていた小説が宙ぶらりんになったようで、出版社のパーティーに原稿を持って行っては「持ち込み」をしていた。だけどその頃の見沢さんは誰から見ても病んでいて、それゆえにいろいろトラブルを起こしていたりもして、おそらく相手にされなかったのだと思う。そんな果てに、彼は死んだ。

 見沢さんの死を経て、私はそっちの世界から遠ざかった。見沢さんのように命がけでやっていく覚悟なんてまったくなかったし、いい時はちやほやするものの、見沢さんが病んだ途端に離れていく世界の人たちの薄情さにも引いていた。一方、文壇的な世界の作家マウンティングみたいなものも怖かった。「自分がいかに編集者に大切にされてるかマウンティング」をされたことは一度や二度ではなく、そんなギラギラしてる人たちが怖すぎた。そうして私は小説の出版は、06年の『バンギャル ア ゴーゴー』を最後としてしていない。以降、小説の連載をしたことはあるが、出版されたのは『バンギャル〜』が最後だ。これは最高傑作なのでぜひ読んでほしい。

 さて、『バンギャル ア ゴーゴー』が出たのと同じ年、私に「運命的な出会い」が訪れる。それが貧困問題との出会いだ。

 物書きとなって6年、小説も書く一方、ずっと続けてきたのは自殺や自傷行為や生きづらさの取材だ。その間、ネット心中が流行ったり、自分の周りで自殺する人も出た。生きづらさをテーマとしたイベントを開催したら、一年後にはお客さんの1割が自殺していたなんて悲しいこともあった。

 「なぜ、この国の若者はこれほどに生きづらいのか」

 そんなテーマを、「心の問題」として掘り下げていたが、何か構造的な原因があるのではないか? と思い始めてもいた。そんな05年、NHKで放送された「フリーター漂流」という番組を見た。「自動車絶望工場」や「蟹工船」を彷彿とさせる過酷な労働と生活苦に喘ぐ若者たちの姿に絶句した。このような問題を取材できないか。そう思っていた06年、たまたまネットで見たフリーターのメーデーに行った。そこで社会学者の入江公康氏の講演を聞いて、目から文字通り鱗が落ちた。

 彼は、今の若者たちの生きづらさを新自由主義というもので読み解き、いかにこの国で「普通に働き、普通に生きる」ことが難しくなっているかをわかりやすく解説してくれた。自己責任と放置されてきたものが、いかに政治的に作られたものであるかが鮮やかに説明された。そのあとデモに出ると、若者たちが「生きさせろ!」「月収12万じゃ生きてけないぞ!」と叫んだ。ガン、と後ろから頭を殴られたような衝撃だった。当時は小泉政権で、この国はまだ「戦後最長の好景気」なんて言われていた。だけどじわじわと格差は進行していて、この日私は、ネットカフェに住みなから日雇い派遣で働く家なき若者が増えていること、「都市がモザイク状にスラム化している」ことを知った。「ネットカフェ難民」なんて言葉がなく、誰もそんな層がいることを知らなかった頃の話だ。

 そうしてその日から貧困問題に取り組む人たちに取材をする中で、私はどんどんこの問題にハマっていった。特に「もやい」などの支援団体と出会った時は衝撃だった。見ず知らずの人が住まいもお金もなく助けを求めてくるのに対し、なんの見返りも求めず支援する。そうして生活保護など公的制度を使ってどんどん生活再建していく。とにかく現場には「人を死なせないノウハウ」が無数にあった。

 私は感動していた。当たり前のように人が人を助けている光景を初めて見たからだ。思えばそれまで、信じられる人に出会ったことがなかった。人間はみんな自分のことばかり考えていて、とにかく人を騙して蹴落とそうとしているんだとばかり思っていた。だけどどうだろう。目の前にいる人たちは、ものすごく淡々と、困っている人に手を差し伸べている。私は30代にして初めて、「人間は信じてもいいのかもしれない」と思った。そしてそんな現場には、これまで必ずいた「野心が強すぎる人」「マウンティングばかりする人」がいなかった。それにもびっくりした。

 この人たちの近くにいれば、私の生存確率は爆上がりするに違いない。そう思った。そうしてともに活動するようになった。そして気がついたら15年。まさか自分が貧困問題をテーマにするなんて思ってなかったし、こんなに長くこの問題に関わることになると思っていなかった。だけど続けていられるのは、「この人たちと一緒に社会を少しでもマシにしたい」という思いがあるからだ。

 長く続けていられる理由には、「怖い人がいない」こともそうだが、目的がはっきりしているということもあるかもしれない。「貧困をなくす」とか「困っている人を支援する」など獲得目標が常に明確なため、人間関係を気にする余裕がないのだ。ともに15年活動しながら、プライベートはまったく知らない人の方が多い。私には、そういう関係性が居心地がいい。なぜなら、人間関係が目的化してしまうとその維持、深化、発展にばかり気が向いてしまい、ちょっとした意見の違いもおおごとになったりするからだ。

 そんな現場で、そして物書きとして、自分が大切にされているかいないかと言えば、大切にされていると言える。いじめられず、迫害されず、バカにされない。そんな場所ははっきり言って生まれて初めてだ。

 私は30年以上生きてきてやっと見つけたのだから、まだ見つけていない人も多いだろう。特に若者は「若い頃は苦労して当然」なんて言われる。しかし、マトモに大切にされているなら、死ぬまで働かせたりは絶対しない。それ以外にもいじめられないし、傷つくことを言われない。職場だけじゃない。パートナーとの関係においても重要な指針だ。例えば女性が「避妊して」と言ってるのに避妊しないなんて、大切にしていないことの極みであり、明確な暴力だ。支配もコントロールもすべて、あなたを尊重していない証だ。

 そうして、「自分を大切にしない場所からすぐ逃げる」を、「生きる上で一番くらいに大切なこと」として徹底していたら、私はかなり、生きやすくなった。

 なんとなくここにいるのが、この関係が、この人といることがしんどいな、と思った時、このことを思い出してほしい。そうして少しでも大切にしてくれる方を選択し続けていったら、生きづらさは軽減されていくと思う。

 最後に。あなたを大切にしない場所はあなたを壊すだけでなく、より弱い者の命を奪うことさえある。

 目黒区虐待死事件で5歳の結愛ちゃんを死なせたとして逮捕された船戸雄大は、結愛ちゃんとその母に出会う前、2年間にわたり、毎朝、嘔吐しながら通勤していたという。大手企業に就職しながらそのような状態となり退職せざるを得ず、絶望の中、香川県のキャバクラで働くようになり、そこで結愛ちゃんとその母親と出会ったのだ。彼は結愛ちゃんに厳しいしつけをしていたことについて、「おれのようになってほしくない」と口にしていたという(『結愛へ 目黒区虐待死事件 母の獄中手記』解説「見えないDVと届かないSOS」/杉山春)。

 中学の部活で経験したという「いじめに近い体験」、そして会社に不適応を起こしながらも8年間も勤め続けた果ての退職。そんな挫折と絶望の中で出会った母子。

 彼が人生の早いうちに「自分を大切にしない場所にいない」を選択していたら。

 悲劇はきっと、防げていたと思うのだ。

       

雨宮処凛
あまみや・かりん:作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。格差・貧困問題、脱原発運動にも取り組む。07年に出版した『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版/ちくま文庫)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。近著に『ロスジェネのすべて』(あけび書房)、『相模原事件裁判傍聴記 「役に立ちたい」と「障害者ヘイト」のあいだ』(太田出版)。「反貧困ネットワーク」世話人、「週刊金曜日」編集委員、フリーター全般労働組合組合員。