第102回:デニー知事・中止命令を回避~沖縄戦の遺骨を含む土砂採掘問題(三上智恵)

 ガマフヤー(「洞窟を掘る人」の意・遺骨収集ボランティアの団体名)の代表、具志堅隆松さんらが3月、沖縄県知事の決断を求めて那覇のど真ん中の県庁前でハンストを決行したことは前回ここでリポートしたが、「沖縄戦の犠牲者の遺骨が混じった土を埋め立てに使うな!」という県民の怒りは、このひと月で瞬く間に拡がった。そのうねりは久しぶりに保革を超え、年代を超え、立場も超えて静かな怒りとなって人々の心を掴んでいった。

 国会前で、高江で、豊見城市役所前で、ハンストや座り込みが始まったり、市町村議会が反対決議を上げたり、反対声明を出した若者らが連日のようにZoomを使ったシンポジウムを展開したりして、具志堅さんはひっぱりだこになった。紆余曲折はあったものの、沖縄県議会も15日、遺骨が混じった土砂を使わないとする意見書を全会一致で可決した。その翌日の16日が、知事の中止命令で問題の業者の採掘を止められる期限の最終日に当たっていた。県議会の決議に勇気づけられた具志堅さんは、あと一歩と知事の判断に期待をかけた。しかし——。

 懸案になっている糸満市米須の「魂魄の塔」付近の採掘業者に対し、県は自然公園法の基づく「中止命令」を出さないという見方が濃厚になっていた。それよりもゆるい「制限命令」や、いくつかの措置を義務付ける「措置命令」では、掘削自体は止められない。具志堅さんはじめ、ハンストに参加した人たちや遺族らは、あくまで「中止命令」を求める覚悟だったため、取り急ぎ知事が態度を表明する16日正午、県庁前で緊急集会を開いた。

 「中止という知事の言葉を聞くまでは、私たちは頑張っていきましょう! 玉城知事!聞こえますでしょうか? 遺族は怒っていますよ! 静かに眠っている英霊たちも怒り狂いますよ!」

 ある遺族の女性がマイクをもって叫んだ。平日の昼間で、急な呼びかけにもかかわらずおよそ70人の県民とメディア合わせて100人ほどがコロナに配慮して距離を保ちつつ県庁前広場に集まっていた。26歳の若者もこう訴えた。

 「デニーさんには勇気ある決断をして欲しいと思います。大丈夫です、民意がちゃんとついています!」

 13時半に県庁のロビーで知事が会見を開くという。参加者もそれを見守るべくほぼ全員が残っていたが、会見場は急遽会議室に変更になり、メディア以外は入れなくなった。

 「みんなの前で言えない内容なのか」

 一瞬で空気が重苦しくなった。県庁の廊下は人であふれ、急遽別室にモニターを用意するなど対応に追われて会見時刻は押した。

 翁長県政を引き継ぎ、辺野古反対、人情派で人気者の玉城デニー知事だが、当然反対してくれるだろうという大方の期待にもし今回、応えないとしたら、これは玉城県政はもちろん、オール沖縄体制にも、国と対峙してでも平和な暮らしを求める今の沖縄の姿勢にも大きな影を落としかねない。私は、具志堅さんという県民の信頼の厚い人物がハンストに入ると聞いたときから、こんな日が来ることを恐れていた。

 国が戦後処理を怠って遺族を悲しませているこの遺骨の問題は、一義的に国の責任であり、被害者は遺族で、責められるべきは国である。沖縄県知事でもなければ、個々の採石業者でもないはずだ。それなのに、自然公園法で状況を止めようとすれば、県知事の決断が必要で、踏み込んだ判断ができないとなれば矛先は知事に向けられてしまう。また県民同士が対立する構図にはまってしまうのではないか。その危惧した状況に今まさに近づいているようで、胃がキリキリと痛んだ。

 祈るようにこの日を迎えた具志堅さんの心労もいかばかりかと思う。3月頭のハンストからこの日まで、具志堅さんは寝る間を惜しんで現地に議員や市民を案内し、要請行動をし、シンポジウムに取材に時間を取られ、それでも本業と、遺骨収集も続けていた。私も3月末、問題の採石場を見学する勉強会に参加した。そこは多くの慰霊碑が並ぶ「祈りの丘」のような緑地帯になっている場所なのだが、今回前半の動画で紹介しているように、遠くから見ても無残に削り取られた斜面が痛々しい。

 具志堅さんはこの斜面から去年11月に遺骨を発掘している。それは歯のすり減った具合から、兵士よりは年齢が上とみられ、高齢の住民の可能性が高いという。しかし立ち入り禁止になってそれ以上掘ることができなくなってしまった。具志堅さんの手に抱きあげてもらうことを75年間も待っていたこの老人の遺骨は、すぐそばに娘がいます、孫がまだ眠っています、と訴えかけていたかもしれないのだ。そんな声を聴いてしまう具志堅さんが現場で見せた、やりきれない表情が胸に刺さった。

 問題の採石場の敷地内には「シーガーアブ」と呼ばれる大きな自然壕がある。その入り口には「有川中将以下将兵自決の壕」と書かれた慰霊碑が建つ。ここでは歩兵第64師団の幹部らが自決したとされているのだが、もともとは風葬に使われていた墓地であり、戦争中は地域の住民の避難壕だったところに、宜野湾市の嘉数高地の闘いなど激戦を経て南下してきた有川中将らが入り込んだという形だ。証言によると、住民7家族がシーガーアブに隠れていたが、なかなか投降に応じなかったためか、米軍にガソリンを大量に流し込まれて焼かれたということだ。その奥で自決していたのは有川中将か、または別の説もあるようだが、とにかく軍民混在の壕であったことは確かだ。それは今回、ひょんなことで私も中に入って遺品や遺骨を見たので間違いない。

 実は、沖縄戦のことを長くやっているのに、私は大の「骨恐怖症」である。小学生の時、理科と社会の教科書はまず姉に渡して頭蓋骨や骨の写真、イラストは最初にすべて切り取ってもらった。そうでなければ怖くて開けなかったからだ。博物館でミイラを見てしまった時は1週間眠れなかった。いまだにドクロのデザインの服を着ている人を見るのも苦手。ガマの取材も必要最小限にし、行く時はお守りや塩をもち、覚悟をしていくのだが、今回は鹿児島の新聞社の女性記者が取材に見えていて、急遽シーガーアブに入る流れになった。有川中将が鹿児島ゆかりの人物だからという。

 私は「この靴だと無理ですよね」とそろ~りと抜けようとしたが、具志堅さんが「三上さんのその靴で大丈夫ですよ」と言われ、引けなくなってしまった。この時期毛虫が、とか腰痛が、とか往生際の悪いことを呟きながら茂みをかき分け、ひんやりとした石がむき出しのガマの入り口まで降りていく。細い通路を5メートルも入ると、懐中電灯がなければ何も見えない。そこですぐに具志堅さんの声。

 「これは遺骨ですよ。これは日本軍のポンチョのハトメ(金具)。あ、歯があります」

 数分も置かずに足元の土から次々に見つかる骨や遺品。ここは何度か遺骨収集されて、測量もされている壕なのだが、それでも具志堅さんの目には小石と骨片の区別は瞬時に着くようで、それこそ「神の手」のように土をなぞりながらここで起きた出来事を読み解いた。

 茶碗やボタンの種類から、陸軍がいたこと。歯の形から、若い兵士がいたこと。木枠の一部から、防毒マスクがあったこと。高熱で焼かれたようにひしゃげたガラス片から、火炎放射器か黄燐弾を入れられ、焼き殺された可能性があること。住民の食器から、軍民混在の壕だったこと。そして奥に粉々の遺骨があることから、奥で自決した軍人がいたこと。7家族がガソリンで焼かれたという証言とこれらを結びつけて、奥にいる日本軍から捕虜になるなと圧をかけたために投降できないまま犠牲になってしまったであろうこと……。

 40年間、戦没者の遺骨を掘り続けてきた具志堅さんの手と目は、瞬時に時空を超えて、1945年この空間で展開された光景を翻訳する。私にはただ暗く冷たい、気味の悪い場所に過ぎず、カメラを回したってなにも映らない。でも、彼が来れば、着実に自分たちの生きた証と死にざまを本当に伝えたい相手に伝えてくれる、と、その瞬間を待ちわびている遺骨たちがいることを、私は肌で感じた。具志堅さんのような仕事をしている方々は、経験を積めば積むほど、死者たちの最後の望みを叶える存在として渇望されていることを自覚するのだろう。死者たちの思いを一手に引き受けて背負い、国とも、行政組織とも対峙する具志堅さんの強さの源を、ガマでは全くのヘナチョコな私ではあっても、そこに行ったから垣間見た気がした。今もまだ、一日千秋の思いで待っている人たちがいるのだ。死者も、遺族も。だからあきらめるなんてありえない。人道上やるべきことがなされていない、それをやるのみなのだと。

 県庁の記者会見場に現れた玉城デニー知事は、「ハイサイぐすーよう、ちゅううがなびら」といういつものにこやかな挨拶すらこわばっていた。たぶん会場にいた人すべてが、こんな伏目がちなデニーさんを初めて見た、と思ったのではないだろうか。用意した文書を早口で読み上げ、「措置命令」で、業者に対して遺骨の有無を関係機関と連携して確認することや戦没者の遺骨収集作業に支障がないような措置をとるよう求めるとした。中止命令を望む声が強まってはいるが、業者の鉱業権も尊重しなくてはならず、県としては最大限に踏み込んだ異例の判断だと説明した。数人の記者の質問に答えて早々に会見を切り上げた知事は、具志堅さんがいる方向に一礼し、「デニーさん、頑張ってよ!」という誰かの激励の声を背に足早に去っていった。

 脱力したように座っている具志堅さん。知事が去って開口一番「私に何か聞かれると思っていた」とつぶやいた。記者会見だから、記者があえて「ここにいる具志堅さんに何か一言」と促さない限りそういう場面は作れなかったと思うが、体を張ってハンストをし、多くの共感に背中を押されて此処にいる具志堅さんに対しては、そういう異例の質問をぶつける記者がいてもいいと私は思った。「置き去りにされた気がする……」と落胆の色を隠さなかった。ため息をつく姿は痛々しくさえあった。

 「残念を通り越して憤りを感じております」

 カメラが集まってくると、具志堅さんは背筋を伸ばしてマイクを握った。理路整然と何がおかしいのかを述べた。せめて、あの斜面だけでも手を付けないでという制限をかけて欲しかった、と、事前に落としどころを話し合うような機会も与えられなかったことを残念がった。そして、採石業者も含めて、うちなーんちゅは子どもたちの見本になるような生き方をして欲しいと呼びかけた。

 その呼びかけは、理想論に過ぎると言われそうだが、具志堅さんのまっすぐさ、ロマンチストと呼びたくなるくらいの純粋さはこんな時には強さになる。こんなに打ちのめされた日にまっとうなことが言える人はそうはいない。さらに、21日に防衛省に土砂採取計画の断念を求め、それでも止められなければ、6月23日の慰霊の日に向けて今度は摩文仁の丘でハンストをすると宣言した。全国から来る遺族に問題を知ってもらうためだという。さらに改まらなかった場合は、8月15日に東京の武道館の前でハンストをし、もっと多くの遺族の皆さんに訴えるという。小柄な具志堅さんの身体のどこにこんなエネルギーがあるのだろう。数分前の肩を落とした姿とは別人のようなこの変化に私は圧倒されていた。

 ところで、今回「措置命令」にとどまったことで、くだんの業者は自然公園法の上では翌日から砕石や伐採に着手できることになってしまう。しかし農地法や糸満市の景観の規制上、まだクリアされない問題があるため、すぐに動くことはなさそうだ。それにしても今回沖縄県は、法的な拘束力のない「留意事項」に、遺骨の混じった土砂は採取しないこと、などと書いているが、土砂の掘削自体は認めておいて、こんな一行を書き込んでも非現実的であり、責任回避のようにも感じられる。一方で、県は最終的には防衛省の設計変更を「承認しない」という形で、辺野古への土砂投入を止める長期戦の構えだと解釈する向きもある。他府県には不要でも沖縄には必要な「遺骨を救済するための条例」を整備する可能性に、会見で玉城デニー知事が触れていたことから、実はしっかり考えているのではないかという期待の声もある。

 知事の真意は今のところ私には推し量ることはできないが、これでは終わらないとする具志堅さんはじめ戦没者を大事に思う県民のエネルギーと、それに呼応する全国の人たちが、この渦をもっと大きく育てていく可能性はおおいに残っている。あの戦場に長年向き合い、血を吸った大地に根を張った人たちが組み上げていく平和運動は、どうやら簡単に崩れ去るようなものではなさそうだ。

三上智恵監督『沖縄記録映画』
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標的の村』『戦場ぬ止み』『標的の島 風かたか』『沖縄スパイ戦史』――沖縄戦から辺野古・高江・先島諸島の平和のための闘いと、沖縄を記録し続けている三上智恵監督が継続した取材を行うために「沖縄記録映画」製作協力金へのご支援をお願いします。
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三上 智恵
三上智恵(みかみ・ちえ): ジャーナリスト、映画監督/東京生まれ。1987年、毎日放送にアナウンサーとして入社。95年、琉球朝日放送(QAB)の開局と共に沖縄に移住。同局のローカルワイドニュース番組のメインキャスターを務めながら、「海にすわる〜沖縄・辺野古 反基地600日の闘い」「1945〜島は戦場だった オキナワ365日」「英霊か犬死か〜沖縄から問う靖国裁判」など多数の番組を制作。2010年、女性放送者懇談会 放送ウーマン賞を受賞。初監督映画『標的の村~国に訴えられた沖縄・高江の住民たち~』は、ギャラクシー賞テレビ部門優秀賞、キネマ旬報文化映画部門1位、山形国際ドキュメンタリー映画祭監督協会賞・市民賞ダブル受賞など17の賞を獲得。14年にフリー転身。15年に『戦場ぬ止み』、17年に『標的の島 風(かじ)かたか』、18年『沖縄スパイ戦史』(大矢英代共同監督)公開。著書に『戦場ぬ止み 辺野古・高江からの祈り』(大月書店)、『女子力で読み解く基地神話』(島洋子氏との共著/かもがわ出版)、『風かたか 『標的の島』撮影記』(大月書店)など。2020年に『証言 沖縄スパイ戦史』(集英社)で第63回JCJ賞受賞。 (プロフィール写真/吉崎貴幸)