第558回:コロナ禍、不自由な日々の中で突き刺さる「無実の罪で獄中29年」、桜井昌司氏の言葉。の巻(雨宮処凛)

 「この一年、コロナのせいで季節の思い出もイベントの思い出も何もない」
 「人生、むちゃくちゃ損してる気がする」

 そんな声を耳にすることがたまにある。

 私自身も、自粛自粛のかけ声の中、時々うんざりする気持ちが込み上げる。「人となかなか会えない」「会食もできない」「旅行もできない」「海外なんてもってのほか」という日々が一年以上も続いているのだ。多くの人がストレスを抱え、不自由さに理不尽な思いを募らせている。

 唯一、「よかったかも」と思ったのは、自分が40代であることだ。

 もし、私が20歳の頃にコロナ禍が起きていたら……。「遊びたい盛り」に在宅を命じられるストレスは今の何百倍にもなっていただろう。そう思うと、「若者の軽率な行動」がメディアでことさらに非難されていることに同情したいような気持ちも少し、沸き起こる。同時に思うのは、もし20代前半とコロナ禍がかぶっていたら、私は決して物書きにはなっていなかっただろうということだ。

 なぜなら、20代前半はバイトをしながら「何者かになること」を目指していた時期だったからだ。いろんなイベントや集まりに行って、すでに「何者か」である人たちとがむしゃらに知り合い、刺激を受けていた。誘われた会には極力顔を出し、自分の「やりたいこと」「できること」はなんだろうと日々模索していた。生活費は、バイトで稼いでいた。

 そんな生活をしていた頃、コロナ禍が直撃していたら。せっかく東京でいろんなチャンスを掴もうにも、人と会う機会もイベントもないのであれば、高い家賃を払って東京にいる意味がない。しかも生活費を稼ぐためのバイト先も壊滅的な打撃を受けている状態。おそらく、コロナ禍での東京生活は半年と持たずに実家の北海道に帰っていただろう。そう思うと、若い世代に与える影響は、上の世代以降とは桁外れのものに思えてくる。

 それでも、40代の私も「損失」を日々感じている。

 軒並み中止となった講演会で、思いを共にする人々と出会う機会がなくなった(なのでたまにリアル講演会があるとすごく嬉しい)。コロナ前はよくしていた路上飲みもしていない。何より、人と会っていないので、気を抜くと「自分だけ仲間はずれにされている」感覚に陥ってしまう。何か「忘れ物」をしているような、宙ぶらりんな喪失感。そんなものを一年以上、抱えている。

 不満を燻らせていたところ、ガツンと頭を殴られるような一冊に出会った。それは4月に出版された桜井昌司さんの『俺の上には空がある広い空が』(マガジンハウス)。

 桜井昌司さんの名前を知る人はどれくらいいるだろう。彼は無実の罪を着せられ、29年間を獄中で過ごしたという「冤罪」の人だ。20歳から、29年。20代、30代のすべてを、殺人の濡れ衣を着せられて刑務所で過ごさざるを得なかったのである。そうして事件から実に44年後の2011年、無罪が確定。

 すべての始まりは、1967年に起きた布川事件だった。今から54年前の8月、茨城県北相馬郡利根町布川で当時62歳の男性が殺され現金が奪われたのだ。

 同年10月、逮捕されたのが当時20歳だった桜井さんと、当時21歳だった杉山卓男さん。厳しい取り調べの中、あの手この手で自白を強要され、桜井さんは嘘の自白をしてしまう。そうして桜井さんと事件を結びつける物証はひとつもないにもかかわらず、無期懲役が確定してしまったのだ。

 20歳から29年間、自分がやってもいない殺人の罪で囚われの身となる――。誰にとっても、「人生で絶対に起きてほしくないことナンバーワン」ではないだろうか。しかし、桜井さんのすごいところは、それでも決してくじけなかったことだ。31歳で無期懲役が確定した時はさすがに「これで俺の人生は終わった」と思ったものの、前向きな気持ちを取り戻す。「今日という日は社会にいても刑務所にいても、どこで過ごしても一日しかない。ならば刑務所へ行っても、一日一日を人生の一日限りの今日として大事に生きよう」と決めたのだ。

 そうして「今なすべきことを全力でなせ」という思いで生きてきた。それまで一度も真面目に働いたことがなかったという桜井さんは、「刑務所では真面目に働いてみよう」と決め、靴工場で誰にも負けない作業量をこなした。それ以外にも父に仕送りするため、自己労作と呼ばれる「内職」もする。

 しかし、理不尽に獄中に囚われる日々の中、時々、「頭が爆発してしまう」ほど「自由になりたい!」という思いが押し寄せることがあったという。そんな時、桜井さんは深呼吸して、「俺の上には空がある。広い空がある。自由な空がある」と心を鎮めたという。

 そんな獄中生活を支えたのが、桜井さんの無実を信じる弁護団と支援者たち。が、再審請求は何度も棄却されてしまう。

 事件から29年後、仮釈放となって「シャバ」に。獄中にいる間に、母も父も亡くなっていた。が、無実の自分を信じ、見返りを求めず支援してくれた人々を裏切らないよう誠実に生きていくことを決め、地元の工務店で働く。99年には支援者だった女性と結婚し、01年、54歳の時には第二次再審請求。05年、再審開始が決まり、事件から44年後の11年、64歳でやっと無罪が確定したのだ。

 桜井さんと初めて会ったのは、4年前。17年5月に日比谷公園で開催された集会でのことだった。この日集まったのは、桜井さんの他に、90年、栃木で起きた「足利事件」で女児殺しの犯人にでっち上げられて17年を獄中で過ごした菅家利和さん(2010年、再審で無罪が確定)。63年、女子高生が殺害された「狭山事件」で逮捕され、31年間も獄中生活を送った石川一雄さん(再審請求中)。そして66年、一家4人が殺害された「袴田事件」で犯人とされ、48年も獄中に囚われていた袴田巌さんの姉・秀子さん。

 この4人を合わせた獄中生活の期間、なんと125年!

 「冤罪オールスターズ」と呼びたくなる面々が集まり、いまだ無罪が確定していない石川一雄さんの無実を訴えたのだった。

 その時会った桜井さんの印象は、一言でいうと「メチャクチャ明るい人」。ハイテンションで常にみんなを笑わせるムードメーカー的存在。しかも歌が好きで、なぜかCDデビューまで果たしているということだった。

 そんな桜井さんが癌の告知を受けたことを最近、テレビ番組で知った。ステージ4の直腸癌で、何もしなければ余命一年だという。桜井さんはこれまでの人生を考えた時の心境を、本書で以下のように書いている。

 「20歳で冤罪となって29年間の獄中生活、社会に戻り結婚。詩集と自作のCD作成、善意の弁護団と支援者に支えられての再審無罪、ドラマチックな数々の出来事を思うと、『俺の人生は楽しかった、満足だった、有り難かった』と思えた。このまま死んでも充分笑って死ねると思ったのだ」

 桜井さんは満足していても、やっぱりもっと、生きてほしい。そして冤罪についてだけじゃなく、桜井さんの超絶ポジティブなメンタルの保ち方について、もっともっと、発信してほしい。もっと詩も作ってほしいし歌ってほしい。勝手ながら、そう思う。

 桜井さんは現在、74歳。この6月、桜井さんが国家賠償を求めた控訴審の判決が出る予定だ。

 まずは判決を見守りたいと思っている。そしてぜひ、多くの人に、本書を読み、桜井さんの言葉に触れてほしい。

 「一度限りの人生と今日。ならば明るく楽しく」

 囚われの身だった桜井さんの言葉には、コロナ禍を乗り切るためのヒントが詰まっている。

「冤罪オールスターズ」の皆さんと。左から、桜井さん、袴田秀子さん、菅家さん、石川一雄さん、私

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雨宮処凛
あまみや・かりん:作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。06年より格差・貧困問題に取り組む。07年に出版した『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版/ちくま文庫)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。近著に『死なないノウハウ 独り身の「金欠」から「散骨」まで』(光文社新書)、『学校では教えてくれない生活保護』(河出書房新社)、『祝祭の陰で 2020-2021 コロナ禍と五輪の列島を歩く』(岩波書店)。反貧困ネットワーク世話人。「週刊金曜日」編集委員。