第6回:ふくしまからの日記──南相馬・飯舘村 「原発事故から10年経ったけど、メディアはこの事故をどう伝えていくのかな」(渡辺一枝)

 5月14日は福島地方裁判所で、私が支援者として関わっている裁判が開かれました。この裁判は、加害者と被害者の立場が全く逆転しているおかしな裁判です。福島県から東京・東雲の国家公務員宿舎に避難している原発事故被災者を、福島県が裁判に訴えて住宅から追い出そうとしているのです。
 この「原発避難者住宅追い出し裁判」を傍聴したくて、5月13日から福島へ行ってきました。その日は南相馬の知人たちを訪ね、小高区の双葉屋旅館さんに泊り、翌日の裁判は開廷時刻が3時なので、午前中に飯舘村に寄って菅野榮子さんを訪ねました。まずは、そのときのことをお伝えします。

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5月13日(木) 南相馬で

小林吉久さんを訪ねて

 小林吉久さんは鹿島区の農家さんで以前には市議を務めたこともあり、東日本大震災・福島第一原発事故後に南相馬市が仮設住宅を建てる際に土地を提供した人だ。また私が関わっていたボランティアグループ「六角支援隊」のビニールハウスや畑、田んぼの活動でも土地を貸して下さった。お連れ合いの秀子さんには郷土料理の「柿餅」の作り方を教えて頂き、小林夫妻にはたくさんお世話になってきた。
 秀子さんが亡くなったのは2018年。農業の傍らエコツーリズム協会に加盟していて農家民宿を営み、食べ物と健康に関してとても気を遣っている秀子さんだった。それまでずっとお元気で病気知らずだったのに、肝臓にガンが発見されたのは病状が深刻に進んでいた時だった。入院の知らせを聞いて、1年も経たぬ間に旅立ってしまわれた。
 それまでもたびたびお宅を訪ね、山歩きが好きで読書家の吉久さん、料理上手の秀子さんと話すのが、とても楽しみだった。また土と共に暮らしてきたお二人から学ぶことも多かったから、秀子さんの急逝が悲しく残念で、遺された吉久さんが気がかりだった。
 お悔やみに訪問して後、小林さんから読んだ本のことなどについて電話を頂くことが増えていた。電話が来るのは夜が多く、息子さん家族が離れに住んでいて食事は一緒に食べているようだけれど、夕食後の独り居がとても寂しいのではないかと思われた。それで私も、時々訪ねるようにしてきた。
 しかし昨年からのコロナ禍で頻繁には訪ねられず、この日は今年に入って初めての訪問だった。久しぶりにお会いした小林さんは一回りも二回りも小さくなってしまったように見受けられて、思わず「痩せられましたか?」と聞くと「54キロです」との返事にとても驚いた。4、5年前までは山登りを楽しまれていたし、秀子さんが亡くなられてからも2年ほど前までは長野の友人のところへ小旅行をしたり、またちょくちょく同じ市内の小高にある作家・柳美里さんのブックカフェに行ったりしていた小林さんだが、今はあまり出かけないらしい。こんなに痩せてしまっては、体力がもたないのだろう。
 無聊を託つ吉久さんは、三匹のラグドール種の猫の世話で気を紛らわせるが、秀子さんが亡くなってから飼い始めたものだ。小林さんの気持ちが紛れるようにと、娘さんが買ってくれたそうだ。小林さんは痩せてしまったというのに、三匹の猫たちは以前よりもグンと太っていて、長い毛を刈ってあるのに丸々と重そうだ。毛を刈るのに一匹1万円かかったという。人懐こい一匹はテーブルに上がって、小林さんの目の前でゴロンゴロンと体を転がせ、すると小林さんはその腹を撫でてやっていた。世話をする相手がいることが、日々を豊かにするだろうと私は思う。
 「お元気でいらしてくださいね」と挨拶をして席を立つと、小林さんは靴箱の上の水槽を指して「今ね、メダカを飼ってます」と言った。小林さんが水槽を見やる目は笑んでいた。私は外に出てもう一度、「どうぞお体お大事に、お元気でいらしてください」と挨拶をして失礼をした。庭には、芍薬が美しく咲いていた。
 小林さんのご尽力で被災者たちの仮設住宅になっていた場所は更地に、六角支援隊の畑だった所は雑草の原になっていた。

ビジネスホテル六角で

 ビジネスホテル六角に行く前に、トシさん(根本内利意=ねもとうち・としい=さん)の仕事場に寄った。久しぶりに会ったトシさんは、変わりなく元気そうだった。ここは福島第一原発から23キロほどの場所で、事故当初は警戒区域に指定されていた地域だが、トシさんは一度も避難せずにここで過ごしてきた。被災前からずっと、ここで自動車整備の仕事をしている。
 トシさんも六角支援隊のメンバーだった一人だ。六角支援隊のボランティアとして東京から来る人たちは、職業とは別にバンドを組んで音楽活動をしている人たちが多く、その彼らからは兄貴分として慕われていた。若い頃にはオフロードバイクの旅をしたり、バリか何処かでの島暮しをしてきたトシさんは、“世間的な常識”に捉われないものの見方考え方をするから、それが慕われる素なのだろう。
 トシさんにコーヒーを1杯ご馳走になってから、ビジネスホテル六角に向かった。
 インターホンを押すと、しばらくして六角支援隊の元リーダー、大留さんが現れた。すっかり痩せてしまった小林さんに会った後だったので、大留さんの変わりない様子にホッとして互いに近況を伝え合った。六角支援隊の活動を閉じ、ホテル経営を息子さんに譲ってからの大留さんは、活火山がただの山になってしまったようで、物静かな御隠居さん然としている。「あれから10年だものねぇ」と振り返りながら大留さんは「一枝さんは初めて来た時から、ちっとも変わらないね」と言ったが、そんなことはない。やっぱり10年分、体力は落ちている。初めの頃はパソコンを抱えてきて、その日に見聞したことをその日のうちに「一枝通信」で発信していたが、今はとてもその気力はない。重さを感じてパソコンを持ち歩くことさえできず、通信発信もだいぶ日が経ってからの福島報告になっている。
 大留さんと話していると、市議の田中京子さんが現れた。京子さんと、ここで会う約束をしていたのだ。原町の陸軍飛行場跡地で牛を飼いながら米作をしていた有機農家の安川昭雄さんの消息を知りたくて、2週間ほど前に京子さんに調べて下さるようお願いをしていて、その返事を聞かせてもらうことになっていた。
 私は安川さんに直接お会いしたことはなかったが、友人が発信している通信や、また2012年の新聞に載っていた記事で安川さんの名前は知っていた。
 昭和3(1928)年生まれの安川さんは、満州からの引揚者だ。原町飛行場は敗戦後に、食料増産のために民間に払い下げられたが、満州で農業を学んできた安川さんはそこを開墾して農業を営んできた。飛行場跡地の開墾は、大変な苦労があったと聞く。原発事故のあった2011年は南相馬市農協では作付けをせずと申し合わせていたが、安川さんは有機農法の効果を知りたくて試験的に作付けをしたことを新聞記事は伝えていた。牛糞や米糠、戦後の広島で効果があったとされるサンゴ礁の石灰等を肥料にしたと書かれていた。
 最近の安川さんは、時々デイサービスで外出するほかは自宅で過ごしているが元気でいると、京子さんは教えてくれた。京子さんも最近は安川さんに会っていないが、息子さんと親しい人に消息を尋ねてくれたのだった。
 コロナ禍の今、ご高齢の安川さんに会うことは叶わないが、できれば来し方のお話をお聞きしたかった。私は母を亡くして35年経つが、もっと話を聞いておけば良かったという思いが募る。そして、誰彼なく年配者たちの話を聴きたい思いに駆られている。昭和を生きた人たちの話を聴いておきたいと思う私がいる。

Hさんとの再会

 今年、桜の花の便りが聞こえてくる頃のことだった。南相馬のHさんから、宅配便が届いた。Hさんは3・11後に仮設住宅の管理や入居者の世話などを南相馬の社会福祉協議会の委託でしていた人で、私が繁く通っていた鹿島区のK仮設住宅もHさんの持ち場の一つだった。避難指示解除になって仮設住宅が閉じられてから連絡も絶え、ずいぶんお世話になりながら、ご無沙汰を重ねたまま過ぎてきていた。そのHさんからの便りだった。
 懐かしく思い、また何事かと思いながら荷物を解くと、カラフルな毛糸で編まれた数足の室内履きと手紙が入っていた。手紙には支援物資として届けた毛糸や布は仮設住宅が閉じられるときに入居者たちで分けたが、その時の毛糸が手元に残っていたのでそれで編んだ室内履きだと記されていた。手紙を読んで思い出した。仮設住宅の集会所を訪ねたある日のこと、そこにいた人たちの足元が華やいでいて、それはみんなが履いていた室内履きのためだった。支援物資の毛糸や布で様々な手芸品が作られていたが、その時目にした室内履きは、初めて目にしたものだった。「暖かそうね」と言った私に、入居者のY子さんが脱いで見せてくれたのだ。「これね、履いたままで床掃除ができるの」と言って見せてくれた室内履きの底はループ状に編まれていて、なるほど床磨きができそうだった。
 その頃私は毎月何ヶ所かの仮設住宅を訪ねていたが、場所によって雰囲気は様々だった。K仮設住宅は、入居者が互いに心寄せ合って和気藹々とした雰囲気だった。訪問が昼食の時間と重なることも多かったが、K仮設住宅の集会所では入居者達の持ち寄りで、近所の店で買った“おふかし(金時豆入りのおこわ)”、H子さんが炊いたカボチャの煮物、Y子さんの自家製漬物、Kさんの実家から送られてきた小女子の佃煮、それとみんなが畑で作ったトマトやキュウリなどを分け合って、私も一緒によばれた。Hさんも家で作ってきたお弁当の包みを開けて、みんなで一緒に賑やかに食べたものだった。Hさんは「私のは今日も黒いお弁当」などと言ってみんなを笑わせたが、カラフルなお子様弁当と違って、醤油色の煮物、佃煮、ご飯に乗せた海苔などで黒っぽく見えるからだった。きっと忙しい朝だから、前夜のおかずの残りを詰めて作ってくるのだろうと思った。
 K仮設住宅の集会所はいつも笑いが絶えず、みんなとても仲が良かった。入居者の皆さんの人柄もあったろうが、Hさんの存在も大きかったと思う。Hさんは一人ひとりに細やかに気を配り、よく相談に乗っていた。そして多分そうしたことは、Hさんの立場では、仕事として求められてはいないことだった。私が通っていた仮設住宅の中でも、K仮設住宅の雰囲気の温かさは別格だった。
 宅配便が届いた晩にHさんに電話をかけてお礼を言い、仮設住宅での思い出に話が弾んだ。その後私は、昨年出版された拙著『聞き書き 南相馬』をHさんに送った。そこにはK仮設住宅にいた人たちのことや、集会所で催したイベントのことなどを書いたので、Hさんにも懐かしく読んで貰えるだろうと思ったからだ。同封する手紙を書きながら私は、居住者たちの被災体験話はたくさん聴いてきたのに、Hさんからは何一つ話を聴いてこなかったことに気付いた。
 Hさんから本が届いたとお礼の電話があった時に、「今度お訪ねするから、ゆっくりHさんの話を聞かせて」とお願いし、この日の訪問になったのだった。Hさんの家は原町区の外れで、もうすぐそこが小高区になるあたりだった。電話で場所を聞いた時に道順を説明してくれながら、「信号機のある、角の家です」とHさんは言った。
 約束の時間に辿り着くと、Hさんは田植えの手を休めて田んぼから戻って待っていてくれた。農繁期に訪ねたことを申し訳なく思い、また仮設住宅に通っていた数年間に幾度も会っていながら、私はHさんについて何も知らずにいたことに改めて気付いた。「Hさん、ここから鹿島まで通っていたの?」と尋ねると、そうだと答えが返った。鹿島区のK仮設住宅まで二十数kmあるだろう。車とはいえ、毎日の通勤路を私は思った。
 「どうぞ」と誘われて靴を脱いで座敷に上がり、旧家然とした広い間取りと造り、時代を経た建具などの見事さに見入った。開け放たれた玄関の外に建つ、石造りの蔵の瓦屋根には見事な鬼瓦が飾られていた。大谷石でつくられた蔵は、Hさんのお連れ合いの祖母に当たる人が建てたのだという。彼女は、きっと才覚のあった人だったのだろう。この家に輿入れして27歳の時に夫を亡くし、子どもを育てながら婚家を守ったばかりか33歳の時に立派な石の蔵まで建てたのだから。そして蔵の建造で余った石を使って、母家の離れに竈家(かまや、炊事場)を設けた。その竈家も残っているが、今は物置にしている。
 東日本大震災で蔵の屋根は瓦がズレて雨漏りがするようになったので、当主であるHさんの夫が瓦屋さんに葺き替えを頼み、その際に鬼瓦も備えてもらったのだそうだ。Hさんが結婚した時にはそのお祖母さんはすでに鬼籍に入っていたそうだが、Hさんはお連れ合いから幾度となく、そのお人柄を聞かされてきたという。そんな歴史を聞けば、Hさんからだけではなくお連れ合いからも、私は色々と話を聞きたくなるのだった。
 田んぼは40町歩あるが、今はその内の27町歩を使って飼料米を作っている。被災前には食用米を作っていたが、被災後は飼料米のみで、食用米は作っていない。自家用米も購入している。Hさんは、「お米を買って食べるようになった時、わぁ! 買った米を使うって、なんて楽なんだろうって思ったの」と、笑いながら言った。私には米作りの実体験はないが、Hさんの言葉には妙に深く頷けた。たぶん、こんな言葉は男性からは出て来ないのではないかと思う。自分の田んぼで作った米の美味しさに叶う米はないと思ったとしても、それはまた別の話だ。Hさんの言葉は、農家の主婦の偽らざる心境だろう。27町歩という広さは想像がつかないが、1町歩は3000坪だと知るとため息が出そうな広さだ。それが一面ではなく何ヵ所かに分かれていたとしても、大型機械を使わなければこなせない作業だろう。農機具は非常に高額だと聞いているが、「機械貧乏」という言葉があるそうだ。用途は一つでしかない特殊機械で、年に一度の作業には絶対不可欠だがその作業時期以外は眠らせておくしかない。
 仮設住宅で会っていた頃には想像もできなかったHさんの暮らしに触れたこの日の訪問だった。田植えの手を休めて時間を作ってくれたHさんに感謝し、農閑期に改めてお訪ねする約束をして失礼をした。

小高、双葉屋旅館へ

 Hさんの家を出て今夜の宿へ向かう前に、佐藤智子さんの家に寄った。玄関前のポーチにはジャーマンアイリスの甘やかな色合いの大きな花と、凛とした紫色の日本アヤメが咲き競っていた。智子さんは「南相馬・避難20ミリシーベルト基準撤回訴訟」(年20ミリシーベルトを基準とした避難勧奨地点の解除は違法だとして、南相馬市の住民 が国に解除の取消しを求めている訴訟)の原告の一人で、私は、智子さんとはこの裁判の支援をしてくる中で知り合い、親しくお付き合いしてきている。原発事故による避難とそれに因って生じた家庭内の事情でとても苦労されているのだが、言うべき事は臆せずにはっきりと言い、元気に振る舞っている智子さんだ。だがきっと、心労は大きいことと察している。共に暮らしている二匹の猫の世話と花を育てることが、智子さんが心を遊ばせる時となっている。猫に語りかける智子さんの表情も声も、甘く優しい。人は、人のみによって生きるのではない、「命に優しい世界であってほしいなぁ!」と強く思う。
 双葉屋旅館では、元原子力発電従事者の白髭幸雄さんにお会いした。Facebookでお名前はよく拝見していたけれど、会うのは初めてだった。白髭さんも今野寿美雄さんと同じように原発の中で仕事をしてきたからこそ内部被曝の危険性を熟知して、曖昧な物言いはせずに意見を発している。原発事故後は南相馬から千葉に避難し、その後まるで単身赴任のように家族は千葉に置いたまま、南相馬の自宅に毎週やってきて汚染地の線量測定に歩き、また脱原発のための活動をされている。この日は今野さんと一献傾けながらの話が弾んだので、また今度ゆっくり話を聞かせていただこうと思う。

5月14日(金) 双葉屋旅館から飯舘村

双葉屋旅館と女将の友子さん

 一晩を過ごした双葉屋旅館を出る前に旅館の隣のハーブ園を見ていると、旅館女将の小林友子さんがやってきて、「良いでしょう? ボランティアさんに助けてもらいながら、育ててるの。せっかくだからこっちも見て」と言って、旅館に隣接する建物を案内してくれた。そこは前には「ワーカーズベース」という法人が事務所にしていたこともあったが、2015年の1月からは、避難先にいる小高の人たちが作った物を販売する「アンテナショップ希来(きら)」としてオープンしていた。当時はまだ避難指示解除になっておらず住む事はできなかったが、店の営業はできたのだ。避難中の人たちが作った手芸品や詩集などが置いてあり私はそれらを買うこともあったし、また通っていた仮設住宅の人たちが作った手芸品を置かせて貰ったりもした。
 この日、友子さんが「こっちも見て」と言ったのは、その「アンテナショップ希来」だった建物だ。数年前に希来が閉じてからは線量測定の事務所のように使われていたが、この日は室内には何も置かれていず、白く張り替えた内壁には檜材で棚が設けられていた。奥には流しやガス台があって、「リニューアルして『Kira』として来月オープンするつもりなの」と、友子さんは言った。これからの小高で欲しいものが買える店、花とお茶と香りの店にするという。友子さんがオーナーで、ボランティアとして関わってきた若い人たちが店の運営に携わっていくそうだ。元々ここは、お茶好きだった友子さんの亡父がお茶屋さんをやっていた場所だったそうだ。そう聞いて、友子さんは歴史を繋いでいく人なのだと思った。
 2011年3月11日の東日本大震災は、双葉屋旅館がある小高駅周辺にも甚大な被害を及ぼした。この周辺は地盤が緩い地域だったようで、築年数が古く土台の軟弱な家屋は崩壊したものもあった。
 区域再編成で2012年4月16日から小高区は帰還困難区域を除き日中の立ち入りができるようになり、その頃から友子さんは駅周辺に花を植え始めた。そして自宅の片付けに一時帰宅する人たちが休憩でき、また情報を交換できるようにと、旅館を休憩所として開いた。やがて小高に人が戻ってきたときに、綺麗な街であるようにと花を植え続け、被災前の繋がりが絶えない元気な街であるようにと、「希来」を始めさまざまな努力を重ねてきた。そして避難指示解除後に、旅館の営業を再開した。一方で、市内各地の放射線量を測定してマップを作り、そうした情報を発信して人々に注意を喚起してもきた。
 私が初めて友子さんに会ったのは、2012年か13年の春だったが、その時に友子さんが言った言葉が忘れられない。「私がこうやって花を植えたりしている事が、『線量が高いところに人を呼び戻そうとして、政府に加担する行為だ』っていう声もあるけれど、そうじゃないの。正しい情報を知って危険を避けながら、その情報も知ってもらいたい。危険な場所に戻ってほしくないけれど、でも小高を消したくないの。元のようにはならないかもしれないけれど、小高を残したいの」
 その言葉を私は胸に刻んで、応援していこうと思ったのだった。これからの「Kira」のオープンを、楽しみにしている。

飯舘村、菅野榮子さん

 裁判は福島地裁で午後3時からなので福島に戻る前に榮子さんに会ってから行こうと、飯舘村に向かった。道中の山々は藤の花が盛りで、その勢いは絡み付かれた樹木を覆い隠して、もとの木は精を吸い尽くされてしまうのではないかと思えるほどだ。時折、同じように薄紫の桐の花も見受けた。ふと、白い花が視線に入り、それは朴の木だった。
 飯舘に入ると山はまだ浅い緑で、山桜も咲いていた。ほんの少し標高が高くなるだけで、自然は異なる季節を見せてくれる。路肩に停車している乗用車があり、その先には数人の人が草むらに腰をかがめていた。どうやら蕨採りをしているようだ。採るのは良いが、食べてはダメだ。承知しているだろうか? 通りすがりではなくここが飯舘村だと知って来ている、もしかしたら村民かしら、などとも思った。
 榮子さんの家に着いて車を降り玄関に向かおうとすると、庭の奥から榮子さんが現れた。「お日様が出てると家の中には居らんねぇのよ」と笑いながら言う榮子さんだった。
 そのまま広縁に腰を下ろして、おしゃべりタイムの始まりだ。
 「昨日はヨッちゃん(菅野芳子さん、榮子さんの遠縁にあたる近所の仲良し)と一緒にダリアの種植えたの」と、榮子さんは言う。ダリアは多年草なので地植えならそのままおいても良いが、寒冷地では根を掘り上げて冬越しさせ、春に埋め戻す。その埋め戻しをしたことを、榮子さんは言っている。ダリアの球根は紡錘形の芋のような形のものが、茎の付け根に束状にくっついている。榮子さんは、こんなふうに言った。
 「根っこがな、こんなしていっぱいくっついてっけど、そこから芽を出すのは一つだけなのな。あとのは『あなたが芽を出して花を咲かせてください。私はその肥やしになりますから。そんで綺麗な花が咲くようにしますから』って、ダリアって、そうなんだよ」
 榮子さんの言葉に、私は競争社会の人の世を、思ってしまう。
 「私のとこのお墓はそこの山にあるんだけど、ヨッちゃんちのも同じ墓地にあるのな。だけど私が墓参りに行った時にいつ見ても、ヨッちゃんとこの墓には花が供えてないのよ。それでヨッちゃんに、墓参りしてんのかって聞いたのな。ヨッちゃんのお母さんは旦那さんが早くに亡くなって、その人の弟と再婚して、ヨッちゃんはお母さんの再婚相手がお父さんになって育ててくれたんだけどな。でもお母さんは旦那(先夫)さんに死なれて苦労したから、悔しいから墓参りしなかったって。だからヨッちゃんも子どもの頃から墓参りしたことないって。
 だけどこの間、ヨッちゃんの孫達が今年は爺ちゃん、婆ちゃん(芳子さんの義父と実母)の十年祭(芳子さんの家は神道)だからって千葉や埼玉から、墓参りに来たのよ。孫達はコロナの検査受けて『私たちは陰性でしたから、村へ行かせてください』って役場に届けて許可もらって、墓参りして行ったの。孫達が、ちゃんと先祖への感謝を忘れないで受け継いでんのな。感心したよ」
 私もそのお孫さん達の心根に感動したが、でも多分、芳子さんのお母さんが亡夫の墓参りをしなかったのは、先に死なれて残されたことへの恨みからではなく、再婚相手への遠慮からだったのではないかと、私は思う。芳子さんは、義父さんに大事に育てられたようだから。
 お母さんが芳子さんに、榮子さんが語るようなことを墓参りしない理由に言ったとしても、それもきっと、芳子さんが義父を慕うようにとの、心遣いからだったのではないかと思う。
 「原発事故から10年経ったけど、メディアはこの事故をどう伝えていくのかな? ちゃんと伝えて欲しいな。コロナも収まりがつかずにいて、みんな生活は大変になってるね。こうした中で、これからは緩やかな社会主義になっていくっていう記事を読んだけれど、私もそう思うことがあるよ。中国やロシアみたいなのは嫌だけれど独裁の社会主義ではなく、また経済ばっかり優先する資本主義ではなく、緩やかな社会主義になっていったらいいなと私も思うよ」
 榮子さんと話していると、榮子さんの言葉の一言一言が全て心に響く。その表情もまた胸に刻まれる。ダリアの花咲く頃を楽しみに、また訪ねよう!      

 14日午後のことは、次回に記します。

一枝

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渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。