第562回:私が貧困問題に取り組み続けている理由〜「死なないノウハウ」を得ると、意地悪度が下がるという発見〜の巻(雨宮処凛)

 「どうして心が折れずに続けていられるんですか」

 貧困問題に取り組んで15年。たまにこんな質問を受けることがある。

 状況は変わらないどころか悪化しているのに、自分たちの活動が政治を変えられないことに無力感を感じないのか、という質問だ。

 そんな時、この15年に思いを馳せる。数えきれないほどデモをし、集会をし、政策提言をし、国会議員や省庁に訴えてきた十数年。それを思うと、「変わらなさ」に心が折れそうになることもある。だけど折れずに続けていられるのは、この活動は「人を支援する」ことがメインだからだと思う。

 どれほど政治が変わらなくても、自分たちのノウハウによって、今困っている誰かが、「生きられる」ようになることがある。所持金はほぼゼロ、すでに路上という人の生活保護申請に同行し、無事に申請が通ったあと、「これで無理だったら、今日、自殺しようと思ってました」と耳にしたのは一度や二度ではない。

 そんな人が、安定した住まいを得て、先が見える生活になるとどんどん元気になっていく。そんな姿を何度も見てきた。それだけではない。自分が支援された人が、今度は支援する側になる。それはコロナ禍でも起きている。

 仕事も住まいも失い、所持金も数円となりSOSメールをくれた女性は、一年後の今、自らが支援者となって、同じ立場の女性たちを支えている。そんな姿を見るたびに、胸が震える。

 もうひとつ、続けている理由は、「出会った責任」「知った責任」があるからだ。

 私は多くの、貧困に苦しむ人たちと出会った。この国にそんな問題があることを知った。知ってしまったら、もう少しマシな社会になるまでは手を引かない、というのはごくごく普通のことだと思う。そしてそれは、多くの人が仕事や地域社会での活動を通して実践していることでもあると思う。

 そうしてさらにもうひとつ、続けていられるのは、現場で地道な活動をしている人々へのリスペクトがあるからだ。

 毎週炊き出しや食品配布をする人。いつも相談会に参加している医師や看護師。年末年始も休まず現場に張り付いている人たち。そのほとんどがボランティアだ。みんな淡々と、自分にできることをしている。そういう姿を見ていると、この人たちの近くにいたいと思う。人間に対しての信頼が取り戻せるからだ。

 ちょっとした下心もある。生存ノウハウを山ほど持っているこの人たちの近くにいれば、何があっても「経済的理由で死ぬこと」はないという確信があるからだ。

 考えるまでもなく、私自身の「貧困リスク」はあまりにも高い。北海道出身で高卒ロスジェネ。フリーランスの単身女性ゆえ、ここ数年は賃貸物件の入居審査にも落ちるようになった(保証人が父親しかおらず、その父親が65歳を超えたため。一定の年齢以上になると保証人として認めなくなる不動産業者も多い)。物書き以外はフリーターしか経験がなく、運転免許をはじめなんの資格も持っていない私が東京で一人で生きるなど、そもそも「無理ゲー」に近いわけである。そんな私が貧困問題に取り組み続けるのは、まずは自分自身のため。それが二次的に誰かの役に立てば万々歳だ。

 さて、そのような理由から貧困問題に取り組み続けてきたわけだが、「最低限、この国で死なない方法」がわかって気づいたことがある。それは「人は生きるにあたっての不安がなくなると意地悪じゃなくなる」ということだ。それまでの私は、いろんなことが不安で怖くて仕方なくて、常に気を張ってあらゆるトラップに引っかからないようにして生きていた。ずっと緊張が続いているような状態で、だからこそ、自分より楽して得して怠けてそうな人たちが許せないという気持ちもあった。

 だけど「生存ノウハウ」を山ほど手にした今、生きることへの不安と恐怖は霧散した。病気の場合はこうすればいい、仕事がなくなったらこの人にまず相談、住まいを失いそうになったらこの団体、というふうに「頼れる先」の目安がついた。そうしたらだいぶ楽になって、同時に寛容になったのだ。

 翻って周りを見渡すと、イライラしてギスギスして、「自分より楽して得して怠けてそう」な人をバッシングしなくちゃ気が済まないというような人は、5年前、10年前よりずっと増えている。意地悪度も格段に上がっている。そんなものを目にするたびに、みんな、生きるのが不安で仕方ないのかもしれないと思う。だからこそ、「死なない方法」を広めたい。生きるにあたっての最低限の心配がなくなれば、人は随分優しくなるようなのだ。

 さて、そんな理由から活動を続けているわけだが、私が「何かあったら泣きつこう」と勝手に決めているうちの一人がNPO法人「抱樸」代表の奥田知志さんだ。

 最近、NHKの番組でも特集があったので知っている人も多いだろう。北九州で33年間にわたり、ホームレス支援を続けている人だ。牧師さんであり、なんと元SEALDsの奥田愛基氏のお父さんでもある。そんな奥田さんの本を読み、激しく心を揺さぶられたので紹介したい。

 タイトルは『「逃げおくれた」伴走者 分断された社会で人とつながる』

 まえがきには、30年以上もこのような活動を続けていることについて「逃げおくれた」という表現が登場する。自分たちは「逃げる勇気がなかっただけ」だと。しかし、「すばらしく弱かった」おかげで、思いがけない出会いを経験していく。

 「それは、大変だけど決して不幸ではなかった。逃げおくれたことに感謝さえできた」

 一方、奥田さんは自身が出会ってきた野宿のおやじさんたち、困窮にあえぐ人々や行き場のない子どもたちも「逃げおくれた人々」だったと思うと書く。

 「自分の安全を最優先に考え、損得に敏感で、他者と関わることを嫌い、面倒なことからの逃げ足は早い――そういう調子のいい生き方が、できなかった」人たちだ。

 確かに、私が支援の現場で出会う人たちの多くも「逃げ遅れ組」かもしれない。調子の良さや口のうまさとは無縁で、不器用だったり引っ込み思案だったりする人が多い印象だ。

 そんな奥田さんがホームレス支援活動を始めたのは1988年12月。以来、33年間にわたって活動を続け、今や「抱樸」の支援で路上生活から自立を果たしたのは実に3600人にものぼる。が、ここに至るまでには随分苦難の道のりがあったようである。

 まず、活動開始から10年以上は北九州市との闘いだったという。年々路上で亡くなっていく人がいるのに何もしない行政。それどころか、北九州ではホームレス状態の人が生活保護申請をすると「自分で住居を確保すれば受け付ける」という違法な対応がまかり通っていたのだ(当然だが、生活保護は住まいがなくても申請できる)。

 こんな状況を受け、奥田さんたちは「自分たちで自立のために支援住宅を創ろう」と決意する。開所に向けた準備が始まったのは01年5月。が、当時の市内のホームレス数は300人以上だったのに対して、確保できたアパートはたった5室。すでに申し込みは70人を超えていた。

 ここから、苦悩が始まる。いったいどのような基準で入居を決めるのか。まずは「高齢者、医療的なケアが必要な人、障害のある人」が優先されることになった。が、それでも決められない。誰が一番困っているのか、誰を優先すべきかわからないからだ。

 「この人を落とすと決めた翌日に、この人が亡くなったらどうしよう」という想像が心を支配する。深夜になっても話し合いは終わらない。もう限界、と思った時、奥田さんはホワイトボードに書いた。

 「罪人の運動」と。

 結局、翌週の炊き出しで、選考の結果5人が選ばれたことを伝えた。選別の作業が「恣意的で差別的だ」と批判されたら……。そんな不安の中にいたが、炊き出し会場は拍手に包まれたという。

 「私たちは『赦された』思いがした」

 奥田さんがすごいのは、ホームレスの人々との関わりの中で、時に自らを恥じ、彼らから学び、「そこまで?」と思うほどにとことん関わるところだ。

 しかし、そんな奥田さんでも手を焼き、追い詰められることがある。それは「反対運動」。

 元ホームレスの人々のための共同住宅「抱樸館北九州」を建設しようとしたところ、住民による反対運動が起きたのだ。

 反対の理由は、ホームレスは危険、怖いというもの。17回にわたる住民説明会を開くが、なかなか理解は得られない。理解を深めようと、元ホームレスで今は地域で暮らす二人に話をしてもらっても、住民からは「あなたたちのようなまともな人はいいんですよ。しかし、ホームレスの大半はまともじゃないでしょう。そういう人に来られたら困るんですよ」「所詮元ホームレスじゃないか。危険だ」などの発言が飛び出す。

 その夜、奥田さんはやけ酒し、「野宿したことがある。それの何が悪い。何が違う。なんで差別する。所詮元ホームレスとはなんだ。誰がいったいまともなんだああああ」と号泣したという。

 本書の後半、奥田さんは南青山の子どもの施設建設をめぐって反対運動が起きたことなどに触れ、「こんな住民説明会」が各地で起こることを待ち望む、と書いている。宮沢賢治風のその「説明会」の一部を引用して終わりにしよう。

 「東に病の子がいると聞いても『親の責任だ』と助けない社会は、『自分が病気になっても助けてもらえない』との確信を君たちに与えたのです。この町は違います。絶対に見捨てません。

 西に疲れた母親がいると聞くと『お母さんなら頑張りなさい』と言う社会。育てられた経験のない母親は、そもそも何をしていいのかわからないのです。この町は違います。一緒になって子育てを担います。高齢化した町には、子育ての達人がいます。どうぞ、安心してください。

 南に死にそうな人がいると聞くと『自業自得だ』と切り捨てる社会。この町は違います。あるホームレスのおじさんは『畳の上で死にたい』と言っていました。その後、アパートに入った彼は『最期は誰が看取ってくれるんだろうか』と言いました。数年後、この町の人に見守られ、彼は幸せに逝きました。『幸せ』は不謹慎かもしれませんが、この町には看取ってくれる人がいるので死も怖くないということです。

 北に住民反対運動が起こったら、『つまらんことはやめろ』と言います。この町には反対運動はありません。そもそも地価は下がりません。みんなが住みたくなる町をつくるからです。泣いている子、笑顔を忘れた母親がもう一度笑える町。住みたい町の地価は上がります。

 君たちは、どれだけ泣いてきたのでしょう。『不良少年』と叩かれ、褒めてくれる人もいなかった。しかし、苦難を乗り越えた君たちを私たちは尊敬します。『えらい』と思います。君たちから『生きること』を学びたいと思っています。

 迷惑をかけてもいいのです。こちらの迷惑も引き受けてください。

 泣いている子ども、苦労した母親、自分を責めている父親、みんなこの町においでなさい。一緒に生きましょう。

 そういう人に、私はなりたいのです」

 (引用:『「逃げおくれた」伴走者 分断された社会で人とつながる』
 

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雨宮処凛
あまみや・かりん:作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。06年より格差・貧困問題に取り組む。07年に出版した『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版/ちくま文庫)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。近著に『死なないノウハウ 独り身の「金欠」から「散骨」まで』(光文社新書)、『学校では教えてくれない生活保護』(河出書房新社)、『祝祭の陰で 2020-2021 コロナ禍と五輪の列島を歩く』(岩波書店)。反貧困ネットワーク世話人。「週刊金曜日」編集委員。