第7回:僕が生きられる場所を探して(小林美穂子)

※これは日本を舞台にしたフィクションです。


 あの日、日常が変わった。
 数日降り続いた雨が朝のうちに止み、午後には青空が広がった。
 久しぶりに晴れた日曜日、映画館にでも行こうかと僕は外に出た。きらめく水たまりが鏡のように空を映している。風が首筋を撫でる。思わず鼻歌がもれるほどに眩しい初夏の空。
 電車に乗ると、もはやそれが人間の習性でもあるかのように、肩から斜めにかけたバッグからスマホを取り出しSNSを覗く。
 そういえば、今日、僕が常勤しているホームレス支援団体の同僚Fが国会議事堂前でスピーチをするらしい。この国で主義主張をする物好きは日に日に減っている。枯れ木も山の賑わい、どれ映画の前にひやかしに寄ってやるかと、僕は丸ノ内線に乗り込んだ。

 様子がおかしいと気づいたのは、抗議演説が行われている国会議事堂が遠くに見えてきた頃だった。F直筆の「共生社会の実現」と書かれた横断幕が引きちぎられ「現」の部分だけが辛うじて残っている。Fらの周りはいつになく異様な人だかりがしている。聞こえてくる声がいつもの熱のこもった演説やパラパラとまばらに聞こえる拍手ではなく、怒号と悲鳴であることが分かって、僕はFのもとへ駆けだそうとした。その時、彼がビールケースの上から引きずり倒されるのが見えた。あたりを見回すと、いつもなら必要以上に配備されている警備員の姿も、警官の姿もない。
 怒号と暴徒に覆い隠されて、Fや知人たちの姿はたちまち見えなくなった。角材のようなものが何度も何度も振り下ろされている。僕は、遠くで起きている光景をとっさに理解することができずに人形のように立ち尽くしていた。その時、角材を持った一人がこちらを振り向いた。目が合った瞬間、僕は我に返り、一歩後ずさると踵を返してそのまま全速力で地下鉄の階段を駆け下りた。遠くでFの悲鳴を聞いたような気がしたが、僕は走って走って…どのようなルートで家に帰りついたのかも思い出せない。

 テレビのニュースが首都圏のあちこちで多発した暴動を伝えていた。現政権の方針に異を唱える企業や政治団体の事務所の窓が割られたり、弱小団体の代表者が拉致されたりしているようだったが、新聞もニュースキャスターも「テロを企てる組織を自警団が鎮圧した」と、一切の感情を無くしたロボットのような顔で報じていた。

 本当のところ、予兆はずっとあったのだ。
 この国が自然災害に襲われ、無数の人々の生活を支えていた町がまるごと消滅し、多くの命が消え、直後に追い打ちをかけるように原発が爆発した。その傷も癒えぬまま、今度は未曾有の伝染病が流行り、国中がパニック状態に陥った。
 感染拡大の原因となるからと、家に閉じ込められた人々の不安は募り、心はすさみ傷つき、国からの経済的援助も十分に受けられないままに困窮する人々が爆発的に増えた。
 不安を自分の中で処理できない人たちが、それでも生き抜くためにしたことは、「諦める」そして「受け入れる」という行為で、一人また一人と手の中の自由と権利を手放して、どんな仕打ちや理不尽も受け入れる態勢が醸成されていった。「しょうがない」。そう呟きながらぬるい絶望に身を浸すうち、感覚は次第に麻痺して、痛みも不安もそれほど感じなくなっていった。それこそが強さだと喜び、幸せだと信じた。

 そんな中、発言力を増していく人たちがいた。
 自信も生気も失った社会に「生産性第一」をスローガンに「豊かな国の再生」を叫ぶ『優生日本党』。そして党を強烈にバックアップしているのが、国民の不安や不幸を吸収して大きく育った「偉大なる日本教団」で、「日本スゴイ!」を合言葉にズタズタに傷ついた人々の自尊心を慰め、信者を獲得していった。
 だけど、かりそめの幸せは長くは続かない。錯覚を続けてもらうためにはうっぷん晴らしが要る。この国では、いつの時代もイケニエを必要としてきたのだから。
 そこで標的となったのが、優生思想や生産性主義と真っ向から対立して「共生社会の実現」を叫ぶ僕たちのような人間だった。社会秩序を守り、復興を目指すためには、国の方針に逆らうような不届き者は和を乱すノイズでしかない。成敗するのはこの国の八百万の神が認める「正義」なのだそうだ。しばらくはネットや街宣での妨害が続いていたが、この日、ダムが決壊したかの如く、各地で攻撃が開始された。

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 Fは、体中に受けた傷がもととなって「テロリスト」として亡くなったことをネットで知った。同時に、同じような活動をする友人たちの多くと連絡が取りにくくなった。呼び出し音は鳴っても、僕の電話に出ない知人も出てきた。
 あの日以来、僕はカーテンを閉めて部屋に引きこもっている。青空を見るのが怖い。夜が更けるとフードをかぶり、マスクをして買い物に出かける。コンビニで買い物をしていても、店員が突然角材を振り上げるのではないかという恐怖に襲われる。
 あの時、Fは僕を見たのだろうか。

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 国会議事堂が「優生日本党」の支持者と「偉大なる日本教団」に占拠された。元々数を減らしていた野党議員たちがテロリストを扇動したとして拘束された。拘束された議員の中にはあっさりと優生日本党に寝がえる者が相次いだ。

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 「おい、君、無事か?」
 携帯を鳴らしてきたのは社会学を学んでいた大学の恩師だった。
 僕は感極まって泣き出して、だけど先生はそんな僕を制して早口でこう言った。
 「逃げろ」

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 社会学の権威だった先生もその数日後に逮捕されたと報道が伝えた。僕は小さなリュックに貴重品だけを詰め、夜中にスクーターで北関東の実家を目指した。
 深夜近く、ドアを開けてやつれ果てた僕を目にした両親は、一瞬狼狽したような色をシミの浮かんだ顔に浮かべたが、素早く周囲に目を走らせたあとで抱え込むように僕を家に招き入れた。母親が手早く僕が子どもの頃から好きだった豚肉の生姜焼きを作ってくれ、とにかく食べろと促す。父親は眉間に深い皺をよせて僕を見ていた。

 その晩、何日ぶりかに安心して眠りについた僕は、これまで聞いたこともないほどに緊張した父の声に起こされる。母が顔をこわばらせながら持ってきてくれた靴とリュックを胸に抱えて、ベランダづたいに隣の家の屋根に下りた、裸足で夜の闇を走った。やみくもに。
 玄関が乱暴に叩かれる音と複数の男の声、母親がドア越しに震える声で応対しながら僕を振り返り、早く行きなさいと必死に手で合図していた。その顔が頭に焼き付いた。
 僕はあのとき実家に逃げたことを、その後、一生後悔することになる。

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 ノロノロと動き出したボーイングがスタートラインで一旦止まり、大きく息を吸い込むみたいにエネルギーを最大限まで溜め、それから耳をつんざくような金属音を立てて加速をはじめる。遂に機体が浮いて大地を離れた瞬間、はりつめていた糸が切れたように座席に沈んだ。シャツもジーンズも汗でびっしょりになっていた。助かった。

 出国できたのは奇跡だった。
 海外なんて教授にくっついてフィンランドに一度行ったきりだが、その時に作ったパスポートの期限が残っていたこと。ネットでチケットを購入できたこと。
 観光の名目で、まずはマレーシアに渡った。クアラルンプールでブローカーに会い、父親が逃げる直前に僕のリュックにねじ込んだ50万円と、出国時に下ろした貯金のほとんどを渡し、ビザなしで行けて、難民条約に批准している国への出国を手配してもらった。
 乏しい選択肢の中から僕が選んだ国は、親切で礼儀正しい国民が住むという日本に似た小さな島国だった。

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 日本では、優生日本党を中心とする政権が、急ピッチで収容施設を建設しているようだ。政府に意見するもの、逆らうもの、生産性がないと判断されたものたちが片っ端から財産を没収され、職業訓練施設という名の収容所に容れられている。
 マレーシア滞在時に、かつて一緒に抗議活動をしていた仲間や友達、両親に連絡をしたが、誰ともつながらなくなっていた。
 Fの悲鳴や、恩師の声、父母の顔が一日のうちに何度も何度もよみがえる。そのたびに壁に頭を打ち付けたい衝動に駆られる。だけど、生きなくては。生きなくては。その理由が今は見つからなくても。

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 親切な国民が住むと聞かされていた国に到着すると、僕は空港の入管で難民申請をしたいと申し出た。もう所持金も尽きかけていた。
 頑丈なアクリル板で作られたボックスに入った入管の職員は、僕の挨拶に答えもせず、「日本に戻るか、あるいは別の国に行ったらどうか」と僕のパスポートをヒラヒラさせながら言った。帰れば命の保証がないし、他の国に行くお金はないと答えると、僕は空港にほど近い難民収容所に収容された。そこに2週間収容されたのちに、田園風景拡がる地方の収容所に移送された。

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 命からがら国を逃げ出してから5年が経つ。
 僕は難民条約に批准していて、優しい国民が暮らすこの小さな国の難民収容所で難民認定を待っている。この5年間、僕の世界は1.7m×3mの四角いセルの中。窓はない。鍵は外から施錠される仕組みだ。左隣にはベトナム、右隣のセルにはやはり日本から逃げてきた中年男性がいたが、「あたまがいたい、いたい」とうわごとのように繰り返しながら亡くなった。最後まで鎮痛剤しか処方されなかった。
 入管の職員にとって僕たちは人間に見えていないのかもしれない。体調不良を訴えても放置される。先の見えない絶望に抗議などすれば、制服を着た職員たちが口々に「制圧、制圧!!」と叫びながら走り出て来て、抵抗する力などとうに失われている者を床に押さえつける。あまりに長期に渡る終わりのない収容に、心身ともに疲弊して首を吊る者、ハンガーストライキの果てに餓死する者は後を絶たない。
 親切なはずの国民はこの実態を知ると、口を揃えて言う。「なら国に帰ればいい」

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 両親が2年前に収容所で亡くなったことを叔父からの手紙で知った。
 今では反政府思想を持つ者に限らず、権力者の気分次第で国民の運命が決まってしまうほどに独裁的になった日本は、生産性を上げるどころか、過去に例を見ないほどの経済困窮に陥っていると国際社会は伝えているが、国内では正反対の報道がなされている。
 日本に留まっていれば収容所に収容されていたであろう僕は、今、避難した国の収容所に入っている。イギリスやカナダ、ドイツや北欧に逃げた同朋たちは、数か月で難民認定を受け、手厚い語学研修や支援を受けながら、新たな人生を歩んでいる。
 僕はどこまで持ちこたえることができるだろう。

 最近再びアウトブレイクが始まった感染症の影響で、近々僕は「仮放免」という身分になるらしい。はじめて外に出られる。しかし、自由な移動も、仕事をすることも禁止されている。仮放免になるための保証金を払った今、僕にはもう所持金がほとんどない。在留資格を持たない僕には、支援制度も医療保険もなにもない。助けてくれる知り合いも誰もいない。
 外の世界で、僕はどうやって生きて行ったらいいのだろう。
 若くて健康な僕の体は、あの狭いセルの中で、あるいは生きる術を奪われた外の世界で、徐々に蝕まれていくだろう。礼儀正しく親切な人々が住むこの国で。
 


 日本に住む外国人たちの絶望的な状況を人に話すと、「でも、法律に違反しているのだから」とか「在留資格ないんだから仕方がないでしょ」という二通りの言葉に阻まれて、そこから先に話が進まない。説明しようとしても「私とあなたは考え方が違うから」で幕を引かれる。
 難民条約に批准しているくせに難民認定をほとんどしない国の狡猾さ、入管職員による犯罪と断じてよいほどの人権侵害と暴力をこそ問題視しなくてはいけないのに、国民は権力者にとても優しい。
 どうしたら、どうしたら分かってもらえるのか。どうしたら外国人たちの置かれた境遇を自分と地続きのこととして考えてくれるか、悩みぬいた挙句に書けもしないフィクションを書いてしまった。お目汚し、失礼いたしましたと恐縮する一方で、こんなことまでさせんな、コノヤロー! と、世の中にキレたい気持ちです。
 自分に起こり得ることとしてシミュレーションしたら、あまりの恐ろしさに途中で何度も想像を中断したほどに怖かった。しかし、ここでは「フィクション」として書いた状況を、実体験としてくぐりぬけて来た人たちが日本にたくさんいるということを知って欲しいのです。
 そして、難民だけでなく、都合のよい労働力として使い捨てられる技能実習生や、差別される外国人たちの身上を、この国の「親切」で「礼儀正しい」人たちが少しでも想像できるようになり、共生のために知恵を結集させるようになるのなら、本当の意味での「豊かな」国が作れるのではないかと思います。日本の人々にはその力があると信じたい。


       

小林美穂子
1968年生まれ。一般社団法人「つくろい東京ファンド」メンバー。支援を受けた人たちの居場所兼就労の場として設立された「カフェ潮の路」のコーディネーター(女将)。幼少期をアフリカ、インドネシアで過ごし、長じてニュージーランド、マレーシアで就労。ホテル業(NZ、マレーシア)→事務機器営業(マレーシア)→工業系通訳(栃木)→学生(上海)を経て、生活困窮者支援という、ちょっと変わった経歴の持ち主。空気は読まない。共著に『コロナ禍の東京を駆ける 緊急事態宣言下の困窮者支援日記』(岩波書店)。