第102回:四度目の緊急事態宣言。仏の顔も三度まで。(想田和弘)

 コロナ禍のなか、東京で4度目の緊急事態宣言が出された。

 今も発令中の原子力緊急事態宣言を気にかけている人がほとんどいないことからもわかるように、緊急事態が長く続くと日常化してしまう。したがって宣言をすること自体の意味が薄くなる。

 しかも緊急事態宣言下でもオリンピックだけは開催するというのでは、ダブルスタンダードの酷さにますます協力する気は失せるし、よってますます宣言の意味はなくなる。

 それでも映画館には、東京都から今回も「21時までの時短」と「客席数を半減」してほしいという「要請」(1,000㎡超の施設)や「協力依頼」(1,000㎡以下の施設)が出たようだ。

 「ようだ」と書いたのは、要請や依頼の内容が、どうにもはっきりしないからである。「客席数の半減」は東京都が配った資料の「イベントの開催制限」という項目の中で要請されているのだが、トーク無しの通常の映画上映が「イベント」に当たるのかどうか、それを読んだだけでは解釈に困るのだ。

 そこで映画館関係者に問い合わせたところ、どうも通常の映画上映も「イベント」に含まれる「らしい」。だからまあ、たぶん含まれるのだろう。

 とはいえ、仏の顔も三度まで。今回、結局ミニシアターで協力依頼に素直に従うところは、少なそうである。

 というのも、何度も言うようだが、この1年半の間、映画館では一度もクラスターが出ていない。厳しい基準をクリアした換気設備が稼働する中、観客はマスクをして黙って映画を鑑賞するのだから、映画館はそもそも相当に安全なのである。

 それに「要請」ではなく「協力依頼」だということは、おそらく協力金も出ない。少なくとも、現時点で出るかどうかもわからない。

 そんな失礼で不真面目な依頼に「はい、そうですか」と大人しく従うのは、はっきり言って馬鹿馬鹿しい。というより、もはや従ってはならないとさえ思う。

 だってそんな依頼を行政がすること自体、科学的根拠も公衆衛生上の利益もあいまいなまま、憲法で保障された「営業の自由」を侵害しているでしょうに。

 まあ、これが1年半前の時点であれば、まだ理解できないこともなかった。ウイルスの性質もよくわからず、感染予防の方法もすべて手探りだったのだから。

 しかし今やコロナ禍に入って1年半が経ち、少なくとも映画館の感染リスクが非常に低いことは、明確に証明されたはずだ。

 なのに政策が変わらない。

 だから映画界は振り回されっぱなしだ。

 下手をすると映画はこのまま死んでしまう。

 コロナ禍でよく取りざたされるのは「映画館の危機」だが、実はピンチなのは映画館だけではない。

 映画とは、映画館(見せる人)、配給会社(卸す人)、製作者(作る人)、観客(見る人)などが生息する〈映画のエコシステム〉が有機的に機能して初めて、成立する。映画館の収益が激減すれば、配給会社や製作者の収益も激減する。飲食店が酒類の提供を停止させられてしまうと、酒類を卸す業者が窮地に陥るのと同じである。映画館という出口がストップしてしまうと、エコシステムに棲むすべての人たちが干上がってしまうのである。

 考えてみてほしい。

 コロナ禍以前でさえ映画界は苦戦しているのに、まともに営業できない期間が1年数ヶ月にも及んでいるのである。政府からの手厚い補償があるのならまだしも、そんなものは皆無に等しい。

 このままでは、映画は本当に死んでしまうのだ。

 もう限界である。

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想田和弘
想田和弘(そうだ かずひろ):映画作家。1970年、栃木県足利市生まれ。東京大学文学部卒業。スクール・オブ・ビジュアル・アーツ卒業。BGM等を排した、自ら「観察映画」と呼ぶドキュメンタリーの方法を提唱・実践。最新作『五香宮の猫』(2024年)まで11本の長編ドキュメンタリー作品を発表、国内外の映画賞を多数受賞してきた。2021年、27年間住んだ米国ニューヨークから岡山県瀬戸内市牛窓へ移住。『観察する男』(ミシマ社)、『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』(講談社現代新書)など著書も多数。