第174回:おぞましい!(鈴木耕)

「言葉の海へ」鈴木耕

 もう、東京オリンピックに関しての記事は書かないことにしようと思っていた。オリンピックってこんなにひどい催しだったっけ、と関連の報道に接するたびにイヤな気分になっていた。だから、もう触れまいと決めたのだった。他に、日本にも世界にも、大切なことや大事なことがたくさんある。そろそろ、そちらへ目を転じる時期じゃないか。そう思っていたのだ。
 だけど最後に、この「東京五輪のおぞましさ」については、やっぱり書き残しておく必要があると思った。
 「おぞましい」とは、広辞苑には「ぞっとするようで、いやな感じだ。恐ろしい」とある。うむ、そういう感じの記事が朝日新聞に載っていた(7月23日付)。

組織委、森氏復帰を検討
「名誉最高顧問」政府内に反対論

 東京五輪・パラリンピックの大会組織委員会が、前会長の森喜朗元首相を「名誉最高顧問」に就ける案を検討していることが分かった。大会開催に果たした功績や、期間中の海外要人の接遇役も念頭に置いたものという。ただ、森氏は「女性蔑視発言」で会長を辞任した経緯がある。国内外で大きな批判を招く可能性があり、政府などに強い反対論も出ている。
 複数の組織委や政府関係者が明らかにした。(略)
 安倍晋三前首相と同じ組織委の「名誉最高顧問」としたい考えで、組織委幹部と政府側が水面下で調整している。(略)

 ほら、「ぞっとするようで、いやな感じ」になったでしょ?
 記事を読んだ時には、「ホントかよ、悪い冗談だろ」と思ったのだが、どうもガセではないらしい。
 この報道はかなりの反響を呼び、24日の組織委の記者会見でも「朝日報道は事実か?」という質問が集中した。だが、組織委の高谷正哲スポークスマンは、終始、答えをはぐらかしたままだった。
 「大会開催に貢献された方々への役職等については、必要に応じて対応するが、個別の案件についてはお答えを差し控えたい」と、まるでアホ政府のような答弁。記者たちからの「否定はしないのか」という再質問には「申し上げたことがすべてであり、これをどう受け取って報道するかは各社の自由」と開き直った。
 好きに書けよ、こちらは関知しないぜ、ということだ。つまり、「オレたちがやることに口を出すな」である。高谷とかいう広報マン、上ばかりを見ているヒラメ役人の一種なのだろうか。
 もし、森氏就任の報道が間違いならば「そういう事実はありません」と、きちんと答えればいい。それをしないということは、組織委内部では「森喜朗名誉最高顧問就任」が具体的になっているということだ。あとは世論の動向を見て、発表のタイミングを見ているに過ぎない。なんだか菅政権のやり方に似ているな。
 まさに、上から下まで腐りきっていやがる!

 森喜朗氏を、組織委はなぜ異常なほど優遇するのだろう。
 そういえば21日、無観客であるはずの福島のソフトボール開幕戦の会場に、なぜか森喜朗氏の姿があった。これはどういうことか。
 現在は、正式には森氏と組織委とは無関係なはずだ。いわゆる「別枠」の観客の中に森氏が入っていたとすれば、どういう「資格」で別枠に入れられたのか。組織委の匙加減ひとつなんでも可能になるのか。
 今回のオリンピックのデタラメさが、ここにも露呈している。

 考えてみれば、安倍晋三氏の「東京オリンピック・パラリンピック組織委員会名誉最高顧問」というのも「おぞましい」の一言だ。だいたい「名誉」に値するようなことを、安倍氏は少しでもしたか。IOC(国際オリンピック委員会)の2020年開催地決定総会の際に「原発事故はアンダーコントロール」との大嘘を吐いたことが「最高の名誉」に値するのか。
 自分の選挙のための道具として五輪を使おうとし、結局、おナカを壊してそれも出来ずに逃げ去った男のどこに、名誉があったか。彼が「最高名誉顧問」であったという事実を再確認して、このオリンピックの「おぞましさ」をもまた再確認したのだ。
 それにしても「名誉」にこだわる老醜には辟易する、反吐が出る!

 最高名誉顧問の「安倍晋三・森喜朗ツーショット」など、見るも不快だ。「おぞましさの極致」だ。もし閉会式のステージにふたりそろって現れるようなことがあったら、ぼくはテレビ画面に汚れ雑巾を投げつけるだろう。テレビがもったいないから、壊れるようなものは投げないが。
 そんな場面が現出するとしたら、それこそ全世界に「ニッポンの恥」を晒すようなものだろう。少なくともぼくには耐えられない。もっとも、ぼくは「閉会式」など見るつもりは毛頭ない。「開会式」でさえ見はしなかったのだから。

 IOCという組織が腐りきっていることを露呈している今回の「東京五輪」だが、それをはっきりと示す事例がある。
 IOC副会長コーツ氏が、森喜朗氏以上の強圧的な女性蔑視を公然と演じて見せたのだ。東京新聞(7月25日)の記事だ。

開会式出席強要「隠れようったってそうはさせない」
IOCコーツ氏 女性に公開説教

 国際オリンピック委員会(IOC)のコーツ副会長(71)が二十一日に東京で行われた記者会見で、二〇三二年夏季五輪のブリスベン開催を勝ち取ったオーストラリア・クイーンズ州のパラシェ州知事(51)に発した言葉が、男性が女性を見下す“公開説教”と受け止められ、オーストラリアで批判が強まっている。
 コーツ氏はオーストラリアのオリンピック委員会の会長を30年以上務める実力者。00年シドニー五輪招致の立役者ともいわれ、バッハ会長の右腕だが、母国のインターネット上では辞任を求める声も出始めた。
 パラシェ氏は、新型コロナウイルスの感染防止策の陣頭指揮を執るため、直前まで訪日に消極的だったとされる。市民による訪日反対の署名活動も行われた。
 コーツ氏は会見の席上、隣に座るバラシェ氏に向かって「君たちは開会式には来るんだろうね。32年の五輪にも開会式がある。君らは伝統のなんたるかを理解しなくてはならない」と持論を展開。「いいか。隠れようったって、そうはさせないぞ」とすごんだ。
 うつむいて聞いていたパラシェ氏は、消え入るような声で「わたしは(コーツ氏やIOC関係者の)気分を害するようなことをするつもりはありません」と話し、会見場を後にした。(略)

 IOCという組織の体質が、これほどあからさまにさらけ出された場面もないだろう。森氏の場合は、演説での「ウケ狙い」だったという言い訳もできようが、このコーツ氏の女性差別の凄まじさは森氏の比ではない。
 こんな男らが牛耳るIOCが、いくら多様性だの平和だのとのたまわったとしても、それは口先だけ。「スポーツの祭典」は、空虚なスローガンに過ぎない。誰かが言っていたが、オリンピックはオワコンなのである。
 それぞれのスポーツに「世界選手権」があるのだからそれで十分である。五輪はもはや不要だ。

 ぼくは、やっぱり、見ない。
 誰が金メダル(かねメダル)を取ろうと、その陰に、どんな涙と汗と感動の物語があろうと、ぼくは、今度ばかりはオリンピック・ボイコットである。
 実はスポーツ大好きなぼくの、せめてもの痩せ我慢である。

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鈴木耕
すずき こう: 1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)、『反原発日記 原子炉に、風よ吹くな雨よ降るな 2011年3月11日〜5月11日』(マガジン9 ブックレット)、『原発から見えたこの国のかたち』(リベルタ出版)、最新刊に『私説 集英社放浪記』(河出書房新社)など。マガジン9では「言葉の海へ」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。