ある日突然、重度の障がいを負ったら。
誰の人生にも起きうることだし、事故や病気で障害を持たなくても、人間、高齢になれば誰もが若い頃のようには動けなくなる。
身体の自由が利かなくなる――。そのことは、数年くらい前まで、私にとっては恐怖でしかなかった。しかし、今の私はあまり恐怖を感じていない。身体が動かなくても、さまざまなテクノロジーを駆使して社会参加し、活躍している人たちを知っているからだ。
その先頭に立つ一人が、れいわ新選組の参議院議員・舩後靖彦氏だろう。「寝たきり界のトップランナー」と言われる舩後さんは、議員になる前から福祉系の会社の副社長をしていた。もちろん、全身麻痺で呼吸器を装着してからの話だ。舩後さんと同じALSの患者には、そのような人が少なくない。身体は動かないけれど思考はクリアなので、わずかに動く眼球や指先、口などを使ってパソコンを操作し、自らヘルパーを派遣する事業所を運営する人が多くいるのだ。いわば「全身麻痺の社長」であり、その存在はALSの「社長モデル」として世界から注目されている。
それだけではない。東京・日本橋の分身ロボットカフェ「DAWN」では、ALSなどの難病や重度障害で外出が困難な人たちが分身ロボットOriHimeの「パイロット」となり、カフェで接客をして働いてお金を得ている。
このように、病気や障害で動けなくても、いろんな人と出会い、コミュニケーションし、自分らしく生きていく道は無数にある。ALSや難病の人たちとの出会いから、私は「寝たきりの先にある世界」の豊かさに目を見開かれ、「怖がることなんてないんだ」と大きな勇気をもらってきた。
そんなふうに「人間の無限の可能性」について気づかせてくれた人の一人に、天畠大輔さんがいる。
1981年生まれ。病気とも障害とも無縁の生活をしていた彼が、突如として若年性急性糖尿病になったのは14歳の頃。救急搬送されたものの、病院での処置が悪く、一時、心停止を起こす。約3週間の昏睡状態後、四肢麻痺、発話障害、視覚障害、嚥下障害が残る。しかし、読めず、書けず、話せないという状態で彼は猛勉強し、大学に進学。さらには大学院へ進み、博士号を取得。現在は日本学術振興会の特別研究員として研究をしている。
それだけではない。自ら介助者を派遣する事業所を運営し、また、相談支援をする「一般社団法人わをん」を設立するなど、一人で何役もの仕事、活動をこなしているのである。それを24時間介助を受けてやっているのだからすごい。しかも、一人暮らしをしながらだ。
そんな天畠さんと初めて出会ったのは、10年近く前、ある院内集会でのことだった。私に「重度障害者のめくるめく豊かな世界」を教えてくれた川口有美子さんが紹介してくれたのだ。
天畠さんは2019年の参院選で舩後さん、木村英子さんが立候補した際には応援スピーチに駆けつけてくれた。舩後さんのように「文字盤を目で示して介助者が読み上げる」形ではなく、「あ、か、さ、た、な」とヘルパーが言うのに合わせて腕を引き、一文字ずつ言葉を拾っていくという「あかさたな話法」でのスピーチは、そこにいたほとんどの人が初めて目にするもので、多くの人がコミュニケーションの奥深さに震えるほど感動したと話してくれた。
さて、そんな天畠さんが『〈弱さ〉を〈強み〉に 突然複数の障がいをもった僕ができること』という本を出版したのでさっそく読んでみた。
1章のタイトルはズバリ「『障がい者』になる」。
原因不明の体調不良が続くも病名がわからない、というところから話は始まる。そうしてある日、天畠さんは意識を失う。救急搬送された病院で心停止状態になってしまい、両親は医師から脳死状態だと告げられる。
3週間が経ち昏睡状態から目覚めるが、そこから苦難の日々が始まった。ラジオの音や周囲の会話は聞こえ、理解できているのに、全く反応できないのだ。医師は両親に「植物状態で、知能は幼児レベルまで低下している」と説明していたという。
頭では理解しているのに、声も出せず、身体も動かず、意思表示ができない。想像しただけで恐ろしいことだが、そんな中、天畠さんがもっとも辛かったのは、「痛みを伝えられない」ことだった。
危篤状態の時、体位交換ができず褥瘡ができてしまい、壊死した肉を切除する手術が2回されたのだ。全身麻酔の手術だったが、術後は血圧の低下をおそれて痛み止めがいっさい使えなかったという。
「生身を切り裂かれるような激痛が続き、心拍数が190を超えていたのです。しかし、その泣き叫びたくなる激痛を他者に伝えるすべがありませんでした」
結局、100日目で一般病棟に移ったものの、泣くか笑うかという表現しかできない状態で、やはり声を出すこともできない。周囲の会話は完全に理解しているのに、幼児扱いされてしまう日々。
が、そんな状況を打破したのは、天畠さんが何かを伝えようとしていると確信していた母だった。頭の中に「あかさたな」の50音をイメージさせ、たとえば「て」の場合、あかさたなの「た」で舌を動かし、たちつてとの「て」でまた舌を動かすように言ったのだ。
そうした手法で天畠さんが初めて母親に伝えたのは「へつた」。経管栄養が空になっているのを見た母親に、「おなかが空いているって意味なの?」と言われた瞬間、彼は顔中の筋肉を歪ませて泣いたという。心停止以降、初めて自分の言葉が伝わった瞬間であり、「あかさたな話法」が生まれた瞬間だった。
しかし、そこからも苦難の道のりは続く。退院後は、リハビリテーションの施設に入り、養護学校に通うものの、あらゆることを管理される施設での生活は、天畠さんから生きる希望を奪っていく。同時に、進路相談では「もちろん入所施設ですよね」と当然のように言われ、このままずっと施設暮らしなのかとショックを受ける。
が、養護学校で天畠さんはただ一人、大学進学を希望。それはその養護学校の開校以来、初めての出来事だった。進学への一番の動機は「モテたい」だったというから正直だ。そんな「欲」が出てきたきっかけは、養護学校の高等部2年を終えた時点で施設を出て、家で暮らし始めたこと。多くの大学生ボランティアにリハビリを手伝ってもらうようになり、大学生たちが話す彼女とのエピソードに、「いつか、僕だって!」と大いに刺激を受けたのである。
そうしてノートをとることも、英単語を書いて覚えることも、書いて計算することもできず、発話できず、よく目も見えず、身体も動かない天畠さんはボランティアの助けを受けて猛勉強を続け、見事、大学合格を勝ち取る。そこから大学院に入り、介助者たちの助けを借りて博士号を取って学術振興会の特別研究員になるまでは本当に紆余曲折ありすぎるのだが、それは障がい云々というよりも、一人の青年が、自分の前に立ちはだかるあらゆる壁を突破していく「大冒険」の胸踊る物語だ。
そんな中、ハッとさせられたのは「障がいの受容」だ。自らを障がい者だと受け入れること。
10代で中途障がい者となった天畠さんは、当然だが、障がいを受け入れられない。当初の思いとして何度も「障がいが治ると思っていた」という表現が出てくる。だからこそ、リハビリを頑張るし、自宅をバリアフリーにしたくなかったという。
「自分の障がいがもう治らないと認めてしまうような気がして、バリアフリーにすることがどうしてもできませんでした」
以降、身体を治すためにできる努力はなんでもしてきたという。
「リハビリのために渡米することも、まだ治験段階であったバクロフェンポンプ埋め込み治療(バクロフェンという薬を脊髄に持続注入する治療法。投与量をコントロールするための機械をお腹に埋め込む手術をする)を国内二例目として受けることも、そこに迷いはなかったのです」
しかし、17年、脳に直接電極を刺すという手術か可能かどうかの検査をし、「残念ながら、今の医学であなたを治療する方法はありません」という説明を受けたとき、不思議なほどすんなりと受け入れられたという。
「それは障がい者となって20年が過ぎ、障がいが治らなくても介助を利用しながら、あらゆる可能性に挑戦できる、という自信がついてきたことが背景にあったと思います」
今の彼は、多くの介助者に支えられながら、「発話困難な重度障がい者」が生きることに付随する多くのことを研究し、発信している。
「いつしか、僕の研究活動は社会運動の意味もある、と意識するようになっていったのです」と書く通り、彼の当事者研究は、この社会を多くの人が生きやすいものに変えていく可能性を無限に秘めている。
同時に、重度障がいがあってもこんなふうに本を書くことだってできるというメッセージは「能力主義の肯定に繋がるのではないか」という迷いも正直に吐露し、自らが強く内面化している能力主義にも向き合っている。
本書を読んで、改めて、自分がどれほど何も知らないかを痛感した。
天畠さんが障がいをもったからこそ向き合わざるを得なかった、家族との関係、介助者との関係、行政との交渉の仕方などなど、本書には「まだ障がいを持っていない」私たちも知っておくべきノウハウが満載だ。
本書で驚かされたのは、天畠さんが視察に行った、フランスの障がい者施設の話。そこは自由で開放的であるだけでなく、「入所する施設を本人がある程度自由に移れるシステム」になっているという。日本では、一度施設に入れば生涯その施設、ということが多いが、フランスでは引越しに近い感覚で、自分の住む施設を変えられるのだという。
「高齢化社会」「人生100年」と言われながらも、この国には、障がいをもったり病気になってからの情報はあまりにも少ない。今、なんともなくても、家族や大切な人が突然難病になることだってある。
その時に焦るより、今から情報を集めておいて決して損はない。
自分の弱さをどう強みに変えるか。そんな永遠のテーマの答えのひとつがここにある。