第21回:トークの会「福島の声を聞こう!」vol.37報告「懐かしい風景は、みんな消えてしまった」(渡辺一枝)

 私は2011年8月から福島に通い始めましたが、見聞したことを私の言葉で伝えるだけでは伝わりきれないものがあると感じました。そこで2012年3月から、現地の当事者が自身の声と言葉で直接語る「トークの会 福島の声を聞こう!」を催しています。懇意にしている神楽坂セッションハウスの伊藤孝さんが会場のセッションハウス・ギャラリーを無償で提供して下さり、不定期で続けています。これは9月13日(月)に実施した、その37回目の記録です。原発事故後、浪江町から東京へと避難してきた門馬昌子さんのお話をお聞きしました。

門馬昌子さんプロフィール
1943年福島県いわき市生まれ
1965年から38年間、いわき市と相双地区の高校で英語教師を務める。
2011年3月11日の原発事故で、浪江町の自宅から東京都北区に避難、現在に至る。

 トークの会当日、お話をしていただく門馬昌子さんから前もって送られてきていた資料をコピーして、参加者に配布した。届いていたのは、24葉の写真をA4の用紙に4枚ずつ貼ったものと、「再生可能エネルギー供給を目指す! 電力会社一覧」のチラシだった。写真には浪江町にある昌子さんの自宅全景、被災前の暮らし、反原発集会で発言している夫の洋さん、国会正門前の金曜行動で訴える昌子さん、被災前の請戸の鮭の簗場などなどが写っていた。チラシにも、昌子さんが訴えたいことが端的に表れていると思った。
 昌子さんは発言内容を原稿に書き起こしてきていて、「話をすると伝えたかったことを言い忘れたり、脱線してしまうことがあるので、書いてきたものを読みます」と言って、読みながら語り始めた。その内容を、ここでお伝えしたいと思う。

被災前の浪江町での暮らし

 私の住んでいた福島県双葉郡は、関東圏の各家庭と長い長い電線を伝って繋がっていた。しかし、この東京電力福島第一原子力発電所で生み出された電気は、東北電力管内である双葉郡の住民は1ワットも使うことはできなかった。
 2011年3月11日の東電福島第一原発事故では、私の住む浪江町だけで21,000人、双葉町、大熊町、富岡町、南相馬市、飯舘村、葛尾村、都路村、川内村、楢葉町の人々をあわせて福島県内で16万人が、自分の家から追い出された。
 私にとってこの原発事故の最大の被害は、夫の死だ(そう言って昌子さんは配布した2番目の写真、被災前の2010年5月5日に娘夫婦が孫を連れてきたときに家族全員で写した写真を示し、「思えばこの時が、夫の人生にとって最も幸せな時だったのだろう」と言った)。
 私の退職時に自宅の屋根に太陽光発電装置を取り付けて、昼間発電した電気を自家用にし、残りを東北電力に売電して、夜間は東北電力の電気を使っていた。1年間を通して東北電力に払った電気料金は5000円をわずかに上回る程度だった。私たち夫婦は原発反対運動をしていたので(1970年代に東電福島第二原子力発電所建設計画が持ち上がったときに地元住民らが反対をし、計画差止の裁判を起こした。敗訴して第二原発は建設されてしまったが、この裁判闘争の中心的役割を果たした中の一人が、夫の洋さんだった)、原発の電気はなるべく使いたくなかった。我が家の太陽光発電装置は昨年で止めたが、17年間使い元は取れたので満足している。

生き甲斐を無くして夫は死んだ

 私たち夫婦は3月14日夜に羽田空港に着き、東京に住む娘の家で3週間過ごした後で北区の今の住まいとは別の集合住宅に移った。
 夫は(2012年、北区の飛鳥山原発反対集会で発言している夫の洋さんの写真を示して)あちこちに呼ばれて話をしているうちに、2013年ごろから「俺は何のために生きているのかわからない」というようになった。高校教師を退職後、浪江町では自治会の会計係を務めていた。反原発運動を40年近く続けてきたのに運動の成果はなく、原発事故で家を追い出されたという敗北感があったのだろう。そんなときに一度、コンビニの清掃係をやってみようかなと言ったことがあった。私は、38年間も仕事をしてきたのだからゆっくりしたら良いのではないかと反対したが、これが間違いだったと後になって気付いた。
 夫は近所に知り合いもなく、やるべき仕事もないまま、鬱病になった。日本医科大学精神神経科を受診し処方された薬を飲んでいるうちに、物忘れがひどくなった。私が近くのスーパーに買い物に行くと1分もしないうちに「どこに居るんだ。早く帰ってこい」と電話が来る。10分くらいで帰宅すると答えても、また1分もしないうちに電話が来るようになり、それからは2人で買い物に行くようにしたが物忘れは治らず、次回の薬処方時に医者にどうしたものかと聞いてみた。医者は「『俺は死にたい』と毎日言われるのと、少しの物忘れとどっちがいいですか」と言った。それであの薬は認知症を引き起こしているのだと判った。その後は介護施設に週2回通い、お風呂にも入れてもらうようにしたが、肺血栓症で45日間入院し、また大腸ポリープでも入院した。
 港区に家を買って引っ越した娘から孫の保育園の送迎を頼まれたので、私たちも近くのアパートに引っ越すことにした。夫にはショートステイに行ってもらって、その間に引っ越し、やっと片付いたので夫を迎えに行った。私も疲れていて風邪をひいてしまったが、それが夫にうつって肺炎を起こしてしまい、2013年12月2日に近くの慈恵医大病院に入院した。担当のM医師は誤嚥性肺炎だと言い、栄養は点滴だけだった。夫はどんどん痩せていき、原発事故前は52kgあった体重が39kgまで落ちてしまった。
 浪江町出身で新宿の歌声喫茶“ともしび”のバリトン歌手の吉田正勝さんが病室に見舞いに来てくれて、夫の好きな歌や浪江小学校校歌を歌ってくれた(そう言って昌子さんは、写真を示した)。
 M医師からは、夫の肺機能が落ちているから人工呼吸器をつけるように勧められ、素人の私は何もわからないまま承諾した。初めは口から入れていたが、医師は「長い時間口から入れておけないから、気管支に直接に繋ぎましょう」と言い、2014年1月10日、喉に穴を開ける手術をしてICU集中治療室に4日間いた。そして集中治療室から一般病棟に移された14日の夜9時頃、病院から夫の容態が大変だからすぐ来るようにと電話が来て、娘の家族と駆け付けた。夫はベッドの上で1秒ごとに体全体の痙攣で、ガバッガバッと体を起こしていた。医者は気管支から50ccの出血があって肺に入り込み、心肺停止になったのをどうにか蘇生させたとのことだった。さらに植物状態を覚悟するようにと言われ、私は体が弱ってしまうのでこの痙攣状態だけは治してくれるよう頼むしかなかった。
 植物人間になっても耳だけは聞こえるということを娘から知らされ、私は話しかけるようにした。ベッドの右側から話しかけると顔は動かないが黒目が右に動き、左から話しかけると目は左に動く。嬉しくて毎日病院で話しかけ、テレビの音を聴かせたり音楽を聴かせたりしていた。
 ところが3月になると医者からは、同じ病院に3ヶ月以上入院できないことになっているから転院先をここから選ぶようにと3つの病院名を伝えられた。3つの中から比較的広い個室のある要町病院を選び、3月24日に救急車で転院した。転院後は耳も聞こえなくなり、目は見開いたままの状態で4本のチューブに繋がれた。私は、夫の手足をマッサージするしかできなかった。
 7月7日、唇が土気色になり医者を呼ぶと「ご臨終です」と告げられた。避難してわずか3年、70歳の若さで夫は亡くなった。原発さえなければ、夫はこんなに早く死ぬことはなかった。悔しくてたまらない。

敗れた裁判闘争

 今年2月にこの本(『裁かれなかった原発神話 福島第二原発訴訟の記録』松谷彰夫著/かもがわ出版)が出版されたが、私たち夫婦の話も出てくる。私たちは2人とも高校の教師だったが、27歳で楢葉町で結婚した(そう言って昌子さんは、浴衣姿の2人が町営住宅の庭で写っている写真を示した)。その時から、楢葉町に建てられようとしていた福島第二原発の設置許可取り消しを求めて、知人と4人で運動を起こした。福島第一原発はすでに大熊町と双葉町に跨って建設されていたが、原発の危険性を考えて第二原発への反対運動を始めたのだ。その後1977年に私たちは浪江の夫の実家の近くに家を建てたが、その頃には反対運動は双葉郡全体に広がっていて、実行委員たちは我が家で会議を開いていた。第二原発設置取り消し訴訟の原告404名は、ほとんどが県内の小・中・高の教員たちだった。
 大熊・双葉町だけでなく浪江町も原発城下町のようになっていた。以前は出稼ぎに行かなければならなかった人たちが、原発で働くようになっていたからだ。私たちは1982年、町民への啓蒙活動として青年劇場の「臨界幻想」という芝居の上映に取り組んだ。脚本は我が家で実行委員たちから聞き取った双葉郡の現状をもとに、作者が書いたものだ。当日は何人が見に来てくれるかと案じたが、800人もの人々が体育館に押し寄せいっぱいになった。自分の仕事先である原発に反対はできなくても、また学校では原発は安全との副読本が配られていて安全神話が横行していても、本当に原発は安全なのかという想いが、人々の心の底にはあったのだろう。
 私たちの裁判は1984年に福島地裁で不当判決敗訴、1990年には仙台高裁で不当判決敗訴、1992年最高裁で敗訴となった。その後、私たちは大熊町、双葉町、浪江町の地層を調べ、原発の近くの双葉断層が活断層の可能性があり、地震の震源地になるかもしれないが、その際の防御策はどうするのかを東電に問いただした。東電は「双葉断層は北にある南相馬市までしか来ていないから大丈夫」と言って耳を貸さなかった。また、私が参加していた新日本婦人の会の浪江の仲間達と共に「原発事故に備えて安定ヨウ素剤を町民全員分を備えて配布するように」と町に要求したが、町は「飲み方が難しい。幼児にはジュースなどに溶かして飲ませなければならない。妊婦は胎児に影響があるかもしれないから医師に相談しなければならない」などと言って、庁舎に保管はしたが配布はしなかった。
 このために今回の原発事故の時には、安定ヨウ素剤を誰一人飲むことができなかった。あの芝居から29年後の2011年3月11日、芝居の最後の場面のように原発が爆発し、人々が逃げ惑うことになった。

避難時の様子

 2011年3月11日、私は隣町の南相馬市原町区のパソコン教室にいた。突然の大きな揺れに教室にいた私たちは机の下に潜り込んだ。揺れが止まって帰ろうとしたが余震でまた揺れ、なかなか車に乗れなかった。ようやく車に乗ったが、往きに使った国道6号線は渋滞しているだろうと思い、山道の県道34号線で帰ろうと西に向かった。もし6号線を通っていたら津波で流されていただろう。だが、県道も大変だった。他に通行する車はなかったが、センターラインから左側が20cmも陥没していたので右側を走っていくと、そこは横に20cmも盛り上がっていた。スピードを緩めて盛り上がりを乗り越え、その後114号線を避けて田んぼの間の畑道を通って、やっと我が家に辿り着いた。
 夫は外で、落ちた屋根瓦を集めていた。食料が心配だったからスーパーに行ったが、既に閉店していた。その夜は電気が通っていなかったが冷蔵庫の中のものを食べ、5分おきくらいに余震が続いていたのでいつでも外に飛び出せるよう、外出着のままベッドに入った。
 翌朝8時頃町役場の放送で、原発が危ないから西の津島地区に避難するようにと伝えていた。以前は少しの地震でも原発は大丈夫かと心配していたのに、この時は酷い地震の揺れに神経を取られて、原発のことに思い至らずにいたのだった。2、3日で帰れるだろうと思い、私はバッグ一つ、夫もショルダー1個で着替えも下着も持たず、家具が倒れて部屋の中はメチャメチャだったので通帳なども探しようもなく、着の身着のままで防寒用にダウンのオーバーを上に着て出た。
 津島に向かう114号線は渋滞していて、いつもは30分のところを2時間かかって津島に着き、菅野みずえさんの家に寄せてもらった。そこには既に23人が避難していた。みずえさんは、公民館に炊き出しに行かなければならないから出かけるが、家にある米や野菜、肉は全部使って良いから昼食を作って食べるようにと言って出かけて行った。私たちは豚汁とおにぎりで昼食を済ませると、津島は電気が通じていたからテレビを見た。福島中央テレビだったと思うが、1号機の爆発の映像が流れたのを見て皆驚いて声をあげ、ここは大丈夫だろうかと案じた。誰かがここは原発から27km離れていると言ったので、きっと大丈夫だと安心した。請戸から避難してきた女性が、新築したばかりの家が流されてしまったと言ったのを聞いて、津波が来ていたことを初めて知った。
 夕方、みずえさんが帰ってきて「家の門をくぐろうとしたら、白ずくめの男性が2人車から降りてきて、ここは危ないから逃げろと言った。私が、ここは避難所ですというと、とにかく福島市へ逃げるようにと叫んで車で福島市の方へ去っていった。ここも危ないのじゃないか」と言った。今考えると、その男性2人は東電か県庁の職員だったのではないかと思う。私たちは皆、前の晩は余震でほとんど眠れていなかったので、今晩だけでもここに泊めてとみずえさんに頼んで眠らせてもらった。1歳半の子どもを連れた若夫婦だけは避難してきた人が貸してくれた車で、夜中にさらに避難して行った。
 翌朝、食事の後でみずえさんに礼を言って10時までには全員、それぞれの知り合いを頼って散っていった。しかし、この時までに既に放射性プルームは津島に届いていたと思われる。
 学校や公民館に避難していた人たちは15日の昼頃に町民一斉避難で二本松市に避難して行った。それまで昼間は炊き出しをしながら、夕方自宅に帰ると雨が降っている中で鉢植えの花や木を畑に植え直していたみずえさんが、郡山に避難した後でスクリーニング場にいくと線量計が振り切れて、係員に上着はすぐに脱いでナイロン袋に入れて1週間後に洗うこと、髪の毛は今晩必ず洗うようにと言われたそうだ。彼女はその後、2016年の避難者検診で甲状腺がんが見つかり、4月に手術をして、その後も定期的に検診を受け、ホルモン剤を飲み続けているという。私たちはさっさと逃げてきたのに、彼女は15日まで避難民の炊き出しを続け、がんになってしまった。彼女に申し訳ない気持ちでいっぱいだ。

東京へ

 娘からは何度も、早く東京に来るようにと携帯にメールが届いていたが、こちらから返信ができずにいた。とにかく北へ逃げようと南相馬市原町へ行ったが、コンビニはどこも閉まっていて、やっと1軒だけ開いていた食堂で昼ごはんを食べた。所持金が少なかったので銀行に行ったが、銀行も閉まっていた。郵便局に行くと身分証明書だけで20万円まで下ろせると町の人に教えられ、人でいっぱいの郵便局でやっとお金を下ろせた。宿泊場所を探したがホテルはどこも満室で、一部屋だけ空いていたホテルがやっと見つかってその晩はそこに泊まった。水が止まっていたので風呂には入れなかったが、ようやく人心地がつけた。
 翌朝も娘からは女川原発も危ないから早く東京へとメールが入った。私たちは東京まで行かずとも福島市へ行けばなんとかなるだろうと思い県道を通ったが、コンビニは閉じていて、ガソリンスタンドは長蛇の列だった。それを見て夫が、それなら東京へ行くかと言い出し、福島空港に3時に着いた。空港でたった2つ余っていた弁当を買って羽田行きのチケットが買えるのを待った。夜8時にようやくチケットが買え、9時の羽田行きに乗った。10時に羽田に着き、空港でもらったホテル案内を見て連絡したが10軒とも全て断られた。以前に大学の同窓会で泊まったことのある上野のホテルを思い出して電話をし、事情を話すと、夕食は終わっているし風呂も明朝でなければ入れないがそれでよければと言われたが、ホッとしてそこに行った。翌朝、5日ぶりの風呂から上がってから娘に電話をした。その晩から3日間は、娘が用意してくれた赤羽のホテルに泊まり、その後の3週間は娘たちの家で過ごした。その間に娘は北区の集合住宅を探して契約をしてくれて、そこに入居した。
 だから私たちには、体育館や仮設住宅での避難経験は無い。東京に避難できて良かったかと思ったが、知り合いの誰もいない土地で、夫は心を病んでしまった。

請戸で起きたこと

 (昌子さんは『請戸小学校物語』という絵本を読んだ。これは請戸の海べりにあった請戸小学校の児童たちは、3月11日の地震の後で全員が校庭に出て、そこから山の方へ避難したので、犠牲者は一人も出なかったことを伝えている絵本だ)
 こうして子どもと先生達は無事に避難できたが、その後、浜の方では大変なことが起きた。「請戸の悲劇」としてアニメにもなったが、182人が犠牲者になったという事実だ。津波が引いた後、町の消防団員たちは生存者の救助にあたっていた。夕闇が迫り暗くなって見通しが効かなくなり、車の警笛やうめき声が聞こえる中で「朝になったら助けに来るから待ってろな」と呼びかけて団員達は引き上げた。ところが翌朝、原発の爆発の危険性から町民全員に津島地区への避難指示が出され、消防団員達にはその誘導と手伝いが課せられた。
 皮肉なことに実際には西の津島地区の方へ放射線プルームが流れ、浜の方へは流れなかったので、避難先のほうが放射線量が高く、浜の方は低かった。それを知らされることなく、団員達が再び捜索に入ったのは1ヶ月後の4月半ばになってからだった。SPEEDIのデータが伝えられていたら、こんな悲劇は起こらなかっただろう。当時の馬場有町長は「これは殺人行為だ!」と、政府の対応を憤った。彼はその後、避難した町民のために懸命に力を尽くしたが70歳を前にガンで亡くなった。彼も原発関連死の一人だと私は思っている。

反原連のデモに

 私は悔しくて毎週金曜日の首相官邸前での反原連(首都圏反原発連合)のデモにはほとんど毎回参加して、1分間のスピーチをしていた。東京地裁での福島原発の刑事裁判傍聴にもほとんど毎回参加した(そう言って昌子さんは、それらの写真を示した)。
 裁判傍聴で、原発事故は単なる自然災害によるものでは無いことが判ってきた。福島第一原発は、もともと30mあった高台の敷地を20m掘り下げて建ててあった。また東電は2008年の時点で、推本(地震調査研究推進本部)が示した見解「福島県沖と茨城県沖でマグニチュード8クラスの津波地震が起きる可能性がある」から、最大15.7mの巨大津波が福島第一原発に到達するという解析結果を得ていた。一旦は対策を取る方針となり社員達はそのために奔走したが、対策費用が莫大になることから勝俣元会長、武藤元副社長、武黒元副社長の三幹部は、これを握りつぶした。多くの学者や現場の証人などの証言があったにもかかわらず、東京地裁は2019年9月19日、被告3人全員無罪の判決を言い渡した。検察代理人指定弁護士は控訴し、これから控訴審が始まる。控訴審も傍聴していくつもりだ。3人の責任を問うて有罪にしなければ、夫を含む犠牲者達は浮かばれない。

保養キャンプ

 夫の死後、私は鬱病にだけはなるまいと思い、色々なことに参加して友人や仲間を作っていったが、その中で新日本婦人の会東京北支部では、「東京で使っていた電気のせいで福島の子どもたちを大変な目に遭わせたから、せめて保養を」と言って、コンサートや落語会などの催しを開き、その収益を使って2泊3日の保養キャンプを2度もしてくれた。また、私をガイドにして被災地巡りのバスツアーもしてくれた。
 代々木で開かれた反原発集会の後のデモの時に、歩道を歩く多くの人は無関心だったし、中にはわざわざ近寄ってきて「死ね!」と叫んだ老人もいた。また「原発がなかったら日本の経済は成り立っていかないぞ!」と叫ぶ男性もいた。無関心や冷たい人も少なく無い中で、新婦人の仲間達の温かさに触れて感激した。

家庭文庫・家庭菜園

 浪江町に住んでいたときも、いろんな活動をしていた。
 娘が小学校に入学したとき、家で読んだ本のことを書いて提出する読書カードが宿題になった。当時、町に図書館はなかったので同じように子育て中の友人達と相談して、郡山市立図書館や福島市立図書館から本を借りてきて6軒の家で家庭文庫を開くことにした。1日がかりで1200冊の本を借りてきて6軒の家に200冊ずつ置いて貸し出しをし、読み聞かせもやった。2ヶ月に一度6軒を順繰りに回していった。だから全部読んだ子どもは、1年間に1200冊読める事になる。10年後に子ども達は高校生になったから家庭文庫は閉じたが、「あの文庫のおかげで本が好きになった」とか「国語が得意になった」などと子ども達からの手紙をもらって、文庫をやってよかったと思った。
 退職後は東京にいる娘に孫ができたら野菜の収穫をさせたいと思い、それまでは近所の子どもや母親達に栽培体験をさせてやりたいと思って、自宅の西に30坪の畑を借りて家庭菜園を始めた。子ども達は、5月5日の町のグリーンフェスティバルで買った15種類の苗を、予め大人が土おこしや肥料を入れて用意しておいた畑に植えていく。夏休みには我が家の庭にシートを敷いて、収穫したスイカや茹でたトウモロコシ、キュウリ、トマトなどをみんなで食べ、ナスやピーマン、オクラをお土産に持ち帰る。秋にはさつまいもと里芋掘りをした。畑で「落花生はどこに実がなるか」とクイズを出した時には、親子共に誰も言い当てられなかった。私は苗を引き抜いてみせた。根っこには落花生の実は付いていない。落花生は花が咲いて萎れて地面に落ちると、そこから茎のようなものが伸びて土の中に入り小さな丸い玉になる、玉は少しずつ大きくなりながらしばらくすると網目のような筋がついてくる。それらの過程が全て見えた時のみんなの驚きようといったらなかった。畑に集まる子どもたちと一緒に、11月には紅葉の美しい高瀬川渓谷に行き芋煮会をし、泉田川では鮭の簗場に行き捕獲の見学をした。また、榾木にシイタケ菌を植え付けて、1本ずつ家庭に持ち帰って育てさせた。
 こんな風に活動してきたことが、子どもたちにとって楽しい思い出になっていて欲しいが、原発事故後にそれぞれが避難して行った先が掴めず、あの時の子どもたちが今、どこでどうしているのか判らない。みんな元気でいてほしい。

大堀相馬焼

 浪江町は、瀬戸物の大堀相馬焼の産地だった。大堀地区は良質の陶土が取れるので22軒の陶工たちが登り窯を持って、それぞれのデザインで作っていた。大堀相馬焼の特徴は青ヒビと呼ばれる細かいヒビ模様と馬の絵、そして二重(ふたえ)焼きだが、毎年5月の連休に催された大瀬戸祭には、近隣からばかりでなく遠方からも大勢のお客さんが集まり大賑わいだった。しかし原発事故で大堀地区には高線量の放射能が降り注ぎ、帰還困難区域となった。陶工さんたちの何人かは避難先の二本松で作陶を続け、また別の地で続けている人もいる。
 浪江の子ども達は幼稚園や保育所時代から焼き物教室に参加していた。泥んこ遊びで作るようなものが皿や茶碗になって使えるので、楽しかったことだろう。大人達も教室に参加して色々なものを作り、私もランタンを作った。窯出しに立ち合ったことがあるが、窯の扉を開けるとチリンチリンという音が聞こえた。

学校解体

 2021年3月時点で浪江の人口は1,628人ということだが、被災前には21,000人だったから7%強しか住んでいない。しかもこの1,628人は元の住民ではない作業員の数も含んでの数だ。家屋の解体は急激に進んでいる。2018年3月末までに申請すれば解体費用は国費で賄われるが、申請期間を過ぎてからは自己負担だ。それで解体ラッシュのようになっている。私の地区19軒のうち戻って住んでいるのは3軒、私は家を残して時々帰っている。それと3軒の空き家、だから家屋が残っているのは7軒で他は全て更地になった。寂しい限りだ。
 一番賑やかだった新町通の商店街はほとんど更地になり、どんな店があったかも思い出せない。
 事故前には3つの中学校と6つの小学校があったが、新たに開校された浪江創生小・中学校となった東中学校と、津波の震災遺構となった請戸小学校、高線量で手がつけられない津島小学校と津島中学校を除いて、全て解体する情報が入った。浪江町民3名と浪江出身者2名の5名で「各校の見学会と正式な閉校式を行うまで 解体を延期してほしい」と、3,915筆の署名を集めて12月議会に向けて副町長と町議会議長に提出したが、請願は否決されて、解体は始まってしまった。私たちは、せめて放射線量の低い浪江小学校だけは残して、各小中学校の記念館として一教室ごとに卒業アルバムや優勝カップなどを陳列するなどの構想を持っていたが、古い校舎だからとか地盤が緩いだとかいうことで解体が決まってしまった。
 (浪江小学校は2021年7月に解体され、更地になった。浪江小学校は「2020東京オリンピック」の聖火リレーの出発点だったが、解体工事が始まったのは、そのリレー走者が小学校を出発した翌日からのことだった。オリンピックの記録映像には、そっくり残っている校舎を背景にリレー走者が出発した様子が残されたことだろう。そして多分、更地になった後に何かが建設され、それを「復興の姿」として、また映像に残していくのだろう。住民の願いや思いを踏み躙るような、なんとあざといやり方なのか! 浪江小学校は、この学校の卒業生たちばかりでなく、町民たち全てにとって思い出深い、文化の中心地でもあったのだ。一枝記)

復興とは?

 浪江町では、海に近い棚塩部落に水素工場ができ、役場の近くに無印良品の入った「道の駅」ができたが、そんなものを見ても懐かしい気持ちにはなれない。懐かしい風景は、みんな消えてしまった。
 ただ一つの救いは、請戸浜にあった酒造店が避難先の山形県で酒造りを続けていて、この3月に浪江の米と水を使って10年前と同じ味の酒を作り上げたことだ。その酒には「ただいま」と銘を付けた。道の駅の隣に建てた店で、販売している。以前からの銘酒「磐城寿」も販売している。この酒造店の主人は「復興というのは、元の生業が戻ることだ」と言ったが、その通りだと思う。
 またこの店の隣には大堀相馬焼の店もでき陶芸教室も始めたというので、私もまたコーヒーカップを作ってみたいと思っている。

さて、これからの私は

 二十数人いた友達は皆避難先に落ち着いてしまって、浪江には戻らない。私も友人たちがいない浪江に戻っても、鬱病になってしまうだろう。しかし、夫と娘の思い出の詰まった我が家を壊す気にはなれない。私設の「原発被災と反原発運動の記念館」にしようと思う。懐かしい浪江町がなくなるのは悲しいので住民票は移さずに固定資産税、水道料、健康保険税を町に払い少しでも役立つようにして、月に一度は帰って浪江の空気を吸ってくるつもりだ。あと10年はこうした生活を続けていきたいから筋トレに通い、声が出なくなるのを防ぐためにすぐ近くの隅田川の岸でスマホを片手に倍賞千恵子の歌を1時間くらい歌っている。今はコロナで休んでいるが、60代、70代の人たちの食事会で皆が歌う歌の歌詞カードを作ったりピアノの伴奏をしたりで、少しでも役に立つことをしていくつもりだ。
 最後にお願いだが、配布した資料の「再生可能エネルギー供給を目指す! 電力会社一覧」を参考に、ぜひ皆様には再生可能エネルギーを使っていただきたい。私のような原発避難民を、出すことがないように、すべての原発を廃炉にしたい。
 今日は、話を聞いてくださってありがとうございました。

 立て板に水を流すように原稿を読み語って下さった昌子さんでした。概ねを書き起こしましたが、全てを書き起こすことはできませんでした。どうぞ、悪しからずご了解を。(一枝)

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渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。