第107回:太陽の運行と人間の生活(想田和弘)

 牛窓に住み始めて、気づいたことがある。

 季節によって、自分の起床する時間が変化するのである。

 冬から春へ、春から夏へと近づき、日が昇る時間が早まると、それにつれて起床時間も早まる。逆に夏から秋へ、秋から冬へと近づいていくと、起床時間も遅くなる。

 生活のリズムが、太陽の運行によって規定されるのだ。

 それは東京やニューヨークのような大都市では、あまり経験したことがない感覚である。大都市では、そもそも太陽の存在感が薄い。太陽の存在を意識しないまま、一日を過ごすことも少なくない。だから太陽の運行とはほとんど無関係に、人間のその日の都合に合わせてスケジュールが立てられ、遂行されていく。

 食生活も、同様だ。

 たとえば拙作『港町』にも出てくる牛窓の高祖鮮魚店では、その日に獲れた魚が売られている。地元で獲れる魚は毎日違うので、売られる魚も毎日違う。そして魚にも「旬」というものがあり、ある時期にはやたらと出回る魚が、次の週にはパタッと店頭に並ばなくなったりする。

 「俺様はメバルの煮付けが食いたい。カネは出すからよこせ」と言っても、獲れない日には獲れないのだからしかたがない。

 野菜も同じで、近所の人からやたらと大根のおすそ分けをいただくかと思えば、次の週にはパタッとなくなったりする。同じ地域で育てられた大根は、同じ時期に一斉に食べ頃になるからだ。

 思えば当たり前のことである。しかしコンクリートで塗り固められた大都市で人工的な生活をしていると、そういうことに気づきにくい。なにしろスーパーでは大根は一年中店頭に並んでいる。というより、大根が置いてなかったら、消費者は「なぜ大根がないのか」「品揃えが悪い」と文句を言うだろう。だからスーパーは産地や品種を季節によって変えていくことで、一年中、大根を提供できるように用意する。

 いきおい、大根の旬が冬であることも、実感できなくなってしまう。人間の生活が、意識が、太陽の運行、すなわち自然から隔離されていく。

 大根に限らず、人々はあらゆる農水産物が一年中いつでも手に入ることを「便利」と呼ぶ。便利さを追求するために、長距離輸送をしたり、品種改良したり、農薬や化学肥料を使ったり、遺伝子操作をしたりする。 

 確かに便利かもしれないが、それは自然ではない。もっと言うと、不自然なことである。そしてその不自然のために失われるもの、犠牲にされるものは、視野にも計算にもほとんど入っていない。

 便利さを追求する思想は、人間中心主義の思想である。人間の欲望がまず最初にあり、それを満たすために、自然を改変していく。その土地でその時期に自然にできたもの、獲れたもの、をありがたくいただく、という自然を中心に置いた思想ではない。

 たしかに便利な方が生活はしやすい。僕も人間だから、人間中心主義を全面的に否定するわけではない。しかしものには限度というものがある。

 そして逆説的だが、限度を超えた人間中心主義の追求により、人類はいままさに、存亡の危機に立たされている。

 実に皮肉なことだと思う。

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想田和弘
想田和弘(そうだ かずひろ):映画作家。1970年、栃木県足利市生まれ。東京大学文学部卒業。スクール・オブ・ビジュアル・アーツ卒業。BGM等を排した、自ら「観察映画」と呼ぶドキュメンタリーの方法を提唱・実践。最新作『五香宮の猫』(2024年)まで11本の長編ドキュメンタリー作品を発表、国内外の映画賞を多数受賞してきた。2021年、27年間住んだ米国ニューヨークから岡山県瀬戸内市牛窓へ移住。『観察する男』(ミシマ社)、『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』(講談社現代新書)など著書も多数。