第22回:ふくしまからの日記──須賀川・南相馬・宮城県・飯舘村「一人で暮らすってのは、大変だよ。寂しいよ」(渡辺一枝)

 11月は発言を依頼されていた集会があったので、そこへの参加に併せて他の予定も組み、福島県から宮城県へと足を延ばしました。
 11月23日に須賀川市の教会で催された集会に出た後で、南相馬・小高のすぎた和人さんのスタジオ、「サードアイ」でチベットのことを話し、その晩は双葉屋旅館さんに泊まりました。翌24日は宮城県に入り、女川原発、大川小学校に行き、夜は追分温泉泊。25日は福島県に戻って飯舘村の菅野榮子さんを訪ね、長谷川健一さんのお宅に伺い御仏前にお線香を手向けた後で、避難先の福島市でお店を再開している椏久里珈琲店に寄ってから帰りました。今回も今野寿美雄さんに運転をお願いし、23・24日は気仙沼の木村理恵さんとも行動を共にしました。

11月23日 須賀川シオンの丘で

「JEA宣教フォーラム福島2021 〜これまでのフクシマと、これから〜」

 11月23日は須賀川市にある「須賀川シオンの丘」で開催された「宣教フォーラム福島実行委員会・日本福音同盟(JEA)宣教委員会」主催の集会に、元朝日新聞記者の本田雅和さん、ピアニストの崔善愛さんと共に講師として参加した。
 JEA理事長の石田敏則氏の開会礼拝のご挨拶で、会は始まった。「これまでのフクシマ」のタイトルで、崔さんを進行役にして、本田さんと私がこの10年間のことを話した。
 初めに崔さんが、「『故郷を奪われた、あるいは故郷はどこにあるのか』という視点から、在日コリアンとしての立場が福島・東北の人たちに通じる何かがあるのではないかということで、この場に呼ばれたのだと思う」と自己紹介されて、「これまでのフクシマ」の本題に入るべく、本田さんにマイクを向けた。
 本田さんは豊富な資料をもとにパワーポイントも使いながら、立て板に水のような勢いでたくさんのことを話された。事故後の官邸や原子力安全・保安院、東電の動き、甲状腺検査、飯舘村、情報隠蔽、避難者数や避難の実態、などなど盛り沢山に話されたが、あれからの10年は、短い時間では到底語りきれない。
 私は、「ふるさと」を失うということについて話した。津波で家が流され家族を喪った後、自宅があった場所は災害危険区域に指定された人たちがいること、避難指示は解除されたが住民は戻れないまま建物がどんどん解体されて更地になっていき、そこには新たに住民不在の箱物が建てられていく様子、住宅は野獣に荒らされ田畑は草木が生い茂り、一帯は原野に戻ってしまっている帰還困難区域の様子など「故郷を失う」実態を話した。
 ここで崔さんは私と一緒に会場入りした今野寿美雄さんを紹介し、今野さんにも発言を促した。元原発作業員だった今野さんは、3・11当日は女川原発にいたことや被災後の自身や家族が体験したこと、「子ども脱被ばく裁判」のことなどを話し、子どもを守れるのは大人しか居ないのだから、共に力を合わせて子どもを守ろうと結んだ。

 崔さんが本田さんと私に、そのような10年を過ごしてくる中で「祈り」についてどう思うかを問うた。
 本田さんは釜石で出会った柳谷雄介牧師のことを話した。釜石は津波被害が大きかった地域で、釜石教会も津波で流された。教会の在った場所の瓦礫の中で、被災直後から集まることのできた数人の信徒と共に柳谷牧師は祈りを捧げた。建物の屋根も壁もないその場での祈りを、柳谷牧師は「祈りの原点、教会の原点」だと思ったそうだ。
 牧師も信徒たちも教会の再建を望んだが、以前の教会と同じ建物にするなら復旧費用は支援されるが、そうでなければ再建費用は自分で賄わなければならない。信徒たちはステンドグラスのある以前と同じ建物を望んだが、柳谷牧師にとって大事なのは建物ではなく、あばら屋でも良いからピアノが欲しかった。だがそれだと費用は上からは下りず、自分たちで集めなければならない。牧師は信徒と中央の板挟みになって心を病み、彼自身が「迷える子羊」のようになって、著名なカトリックの神父を訪ねて救いを求めた。その後釜石に戻り、教会を復活させ、新生釜石教会として牧師を務めている。
 プロテスタントの牧師が信徒を放っておいて、カトリックの神父を訪ねて救いを乞うなど本来なら有りうべからざることだが、柳谷牧師の「私は弱い人間です」という言葉に、本田さんは非常に強く人間性を感じて心打たれたと話した。
 私はチベットで見聞したチベット人の祈りの姿と祈りの言葉について話した。足腰を傷めた老婆が祈っていた言葉は「私のこのような痛みを、他の誰もが味わうことのないように」だったし、また別の場所で別の人が言ったのは「生まれ変わる時は、また仏法を信仰することができる人間に生まれますように。もし家畜に生まれるなら、優しい飼い主のもとに生まれますように」だったことを話し、そして私自身は特定の宗教を持たないが、ひたすらに祈る人の姿を見ると、その姿に祈りたくなることを話した。また私も原告の一人である「宗教者核燃裁判(※)」のことを伝えた。
 最後に崔さんが、「本田さんと渡辺さんというクリスチャンではない2人を迎えて(崔さんはクリスチャン)の集会は、新たな視点で学ぶことが多かった。震災時生まれていなかった子どもは何が起きたか知らないし、生まれていた子どもはあれから10年経って当時は解らなかったことを知っていくようになった。子どもたちに伝えていくこと、そして子どもたちが大人になったときに、今度はまたその子どもたちに伝えていくこと、それがもう一つの祈りになっていくのだろう」と締めて閉会となった。

※宗教者核燃裁判:「宗教者核燃サイクル事業の廃止を求める裁判」。200人以上の宗教者が、キリスト教や仏教など宗教の違いを超えて集まり、使用済み核燃料サイクル施設(青森県六ケ所村)の運転差し止めを求めた裁判

シオンの丘

 集会が開かれたシオンの丘は、元神学校だった場所にある施設だ。チャペル、宿泊施設、カフェ風集会所が在り、日本イエス・キリスト教団が管理している。緩やかな芝生の丘にこれら施設が点在していて、東日本大震災後は、ボランティア活動の拠点になっていた。
 集会はチャペルで行われたが、午前の部が終わった後は芝生の上のテーブルで、信徒の方たちの手作りの豚汁、ピザ、サラダが供され、美味しくいただいた。そればかりか食後には焼き芋や鯛焼きまで出て、それがまた素敵に美味しかった。
 食事をしたテーブルのそばには1本の大きな山茶花の木があって、こんもりとピンクの花をつけていた。見事な山茶花だった。私は以前は山茶花は特別好きでも嫌いでもない花だったが、演歌の「さざんかの宿」という歌が流行ってからは、なんだかひどく俗な花に見えてきてしまって嫌いになっていた。でもこの日この山茶花を見てそんな気持ちは払拭されて、山茶花を愛おしく思う私になっていた。

11月23日 小高

スタジオ・サードアイで

 須賀川を出て浪江を通り抜けて、南相馬・小高のすぎた和人さんの家に向かった。小高の山側に位置する大富という地域だ。3・11後、支援者として関わってくる中で小高に移住を決意したすぎたさんは、持ち主が避難して空き家になっているこの家を借りた。
 絵を描き、また映像作品を創るアーティストのすぎたさんは、内装をリフォームして「スタジオ・サードアイ」として、時々ここでさまざまな催しを企画し実施している。この日はここで、「チベット夜咄の会」と称して、私がチベットの話をした。
 チベットを話せば三日三晩話し続けてもまだ時間が足りない私だから、5時からの2時間ばかり、何から話そうかと迷いながら、子どもの頃から興味があったチベットへ初めて行った日のことから話し始めた。何度か旅を重ねて50歳の時の馬旅のこと、カイラス巡礼のことなどを、言葉が浮かぶままに話した。
 2時間ほど話した後は、すぎたさん手料理のディナーの時間だった。グリーンサラダ、スープ、ダルカレー。サラダの野菜類は新鮮で香りがよく、ドレッシングがとても美味しかった。デザートがまたとびきり素敵なケーキで、パウンド型で焼いたナッツ入りのチョコレートケーキの上にヒマラヤの山並みを模した白いクリームがふわりとかかっていて、目に美しく、味もとびきり美味しいケーキだった。
 すぎたさんは以前から、週に一度小高駅前の双葉屋旅館でお昼にカレーやケーキも作って出していたが、私はFacebookでその情報を見て食べに行きたいと思いながら叶えられずにいて、この日に念願叶ったのだった。すぎたさんの料理は口福、眼福、心福の絶品ものだった。被災後にボランティアで通っていた時から今日までのすぎたさんを思いかえすと、彼は人が喜ぶこと、人が幸せに思えることに心血注いでいるに違いないと思えた。 
 チベットに心を遊ばせて美味しい食事を頂いた後、この夜は小高駅前の双葉屋旅館に宿泊した。

11月24日 宮城県へ移動

 双葉屋旅館を出発して、女川を目指した。今回同行してくださったのは「女川原発再稼働と選挙Web会議」を主催している、気仙沼市在住の木村理恵さん。私が理恵さんを知ったのは、zoomでこの会議に参加したことがきっかけだ。先に行われた衆議院議員選挙と同日に宮城県知事選挙があったが、その選挙に先立って理恵さんはこの活動を始めていた。曰く「選挙期間中だけ選挙活動をするのではない活動を」と、女川原発の再稼働について問いかけ、問題提起するためのWeb会議で、毎回ゲストを招いてオンラインでの意見交換を行っている。講師に今野寿美雄さんが出た時に私は初めて参加し、以来参加している。そして今年10月22日に仙台高裁で開かれた「子ども脱被ばく裁判」の日に、理恵さんと初めて顔を合わせた。それ以前はメールでのやり取りだった。裁判傍聴は抽選になって、私は抽選に外れたのだが、当った理恵さんが傍聴券を譲ってくれた。ありがたかった。
 それよりももっとずっと前から私は、今野さんに女川原発に連れて行ってほしいとお願いをしていて、裁判で仙台高裁へ行く日にかけて女川へ行くことを決めていた。そんな後でWeb会議で理恵さんと知りあい、理恵さんの方は以前から拙著を読んでくださっていたそうで、23日の須賀川でのイベントや小高での「チベット夜咄」に参加を希望され、それなら女川にも理恵さんも一緒に行って貰えたらと願ったのだった。当初の予定の仙台高裁へ行く日にかけてではなかったが、理恵さんも一緒に行ってくれるとなって、却ってありがたかった。

女川原発

 まず仙台市に向かい、市議会議員の​猪股​由美さんに会った。理恵さんが今野さんと相談して、私が会うべき人を人選して手配してくれていたようだ。由美さんと車を連ねて女川町に向かった。女川の駅前で町議会議員の阿部みきこさんと合流し、みきこさんはそこの駐車場に自分の車を置いて、今野さんの運転する私たちの車に同乗して、女川原発へ向かった。道路標識「コバルトライン」とある道を行った。コバルトは金属元素の名だが、みきこさんは「眼下に見える海がコバルト135のターコイズブルーに見えるから付けられたのだろうが、原発反対の仲間達は『コバルト60のコバルト? 皮肉だね』と言っていた」と言った。コバルト60は放射線同位体でガンマ線源として工業用に利用される。
 途中の山肌に立つ看板「なくせ!原発 事故で止まるか みんなで止めるか」。これは原発困りごと相談所(女川原発反対同盟)が建てた看板で、「阿部」と名前が書いてある。みきこさんのお父さんが、原発反対者の所有する山地に30年前に建てたものだという。看板はその先にももう一枚あって、そこには「げんぱつ あっかんべー!! 止めよう原発! 子どもたちの未来のために」と、子どもが舌を出してあっかんべーしている顔の絵も描かれていた。これもみきこさんのお父さんが立てたものだ。10代の頃からみきこさんは父親と一緒に原発について学んでいったそうだ。元原発作業員だった今野さんは「女川原発に入る時はいっつも、この『事故で止まるか みんなで止めるか』を見ながら通ったんだよ」と言って笑った。看板のことばを見ながら、そこに仕事で入る時の気分を想像した。
 山肌が迫るリアス式海岸につけられた道路を行くが、みきこさんは「ここは野々浜」「ここは飯子浜、原発反対派の人が多かった地域」などと、説明も加えながら小さな湾の一つひとつの名を教えてくれた。隣り合う湾の片方が賛成派で片方が反対派ということもあり、するとそれが漁労上での諍いになっていくこともあったそうだ。原発をすすめたい政府は、その分断を煽り、利用していったことだろう。
 再稼働をすすめたい町長にみきこさんは、こう問うのだそうだ。「あなたがお風呂に入る時の湯の温度は何度ですか?」返ってきた答えは40〜41度だったという。答えを聞いたみきこさんは、再度問うた「47度のお風呂に入ることは?」。すると町長は、そんな高い温度では入れないと答えた。その答えをきいてみきこさんは、原発からの排水は海水温度から7度高い。女川原発3基合わせて1秒間に156tもの、海水よりも7度高い温排水が排出される。1号基から36t、2号基、3号基からそれぞれ60tずつもの温排水が出ると説明するそうだ。みきこさんのこの風呂温度の問いは女性ならではの視点からではないかと、私は思う。
 湾の向こうに女川原発が見えるごく小さな港状のところに着いた。コンクリートの敷地入り口はチェーンで塞がれて、「立ち入り禁止」の札が下がっていた。ほんの小さな漁船が2艘係留されていて、漁師さんが何か作業をしていた。この人たちは、出漁する日はいつもあの煙突を見ながら出かけるのだなと思った。
 ふと、理恵さんがみきこさんに「ここらもアワビ採りに箱メガネ使いますか?」と聞き、みきこさんは「使うわよ」と答えた。すると理恵さんが、震災後には箱メガネも支援物資として届いたと言った。理恵さんの住む気仙沼の漁師は、箱メガネを上下の歯でがっしりと咥えて使うので、顎関節症になる人が多いのだとも言った。海辺の暮らしを知ることができて、また同じく海辺の暮らしだからこそ支援物資に箱メガネを届けることを思いつくなど、私にはとても興味深い話だった。
 女川原子力PRセンターへ行った。中に入ると原子力発電所とPRセンターのあゆみが写真や図版でずらりと展示され、1階の各コーナーには原子力発電の仕組みがパネルや模型で展示されていた。映像ホールに入れば、特殊眼鏡をかけて女川原発の内部を360度VRで体験できるということだが、これはパスした。2階は展望コーナー、くつろぎラウンジ、遊具の並ぶキッズコーナーに授乳室なども備えてあった。小中学生など、課外学習で来ることも多いのだろう。
 入館時に配られた「女川原子力発電所見学BOOK」の表紙には、女川原発を説明すべく「原子力がなくても大丈夫じゃない?」「福島第一原子力発電所との違いはなんですか?」「東日本大震災では震源地に近かったのになぜ無事だったの?」「再稼働に向けてどんな安全対策をしているの?」などの文言が、若い男女の写真とともに載っている。その写真の男女がこれらの質問を発したように見做してページが組まれていた。表紙を開くと黄色いヘルメットに青い作業服を着た男性の写真が「それでは、ご案内しましょう。発電所の周辺は三陸復興国立公園に指定されているんですよ!」の吹き出しと共にあり、表紙にあった疑問に図版や写真、文章で答えているように編集されている。
 でも中は、ツッコミどころ満載だ。たとえば表紙を開いたページの、見学者の男性からの「どうしてここに発電所を作ったの?」という質問への答えは「原子力発電所の建設条件には、『広い土地』『固い地盤』『大量の水が確保できる』などがあり、それらの条件を満たしているこの場所になりました」とある。そもそも事故は絶対に起きないことを前提に原発が建設されているから、事故が起きた時の避難路のことは考えられていない。立地しているのは牡鹿半島の中程にある女川町と石巻市で、避難するにはリアス式海岸の海岸線に沿った道路をウネウネと行くしかないのだが、そうした地勢的な説明は見当たらなかった。
 また、「福島第一原子力発電所事故を教訓とした新規規制基準に沿った安全対策を進めています」と言い、新規制基準のポイントとして「重大事故への対策やテロ対策」をあげて、身分証明書を携帯している者しか出入りできないと説明しているが、原発敷地内に鹿の姿を見ることもあり、糞が落ちていることもよくあるという。そんなふうに大型動物が侵入しているなど、テロ対策が万全に取られているとは到底思えない。裏表紙では作業服の男性が、福島原発事故の影響から「原子力に対して、不安を感じられるのは当然だと思います。皆様に安心していただけますよう、これからもしっかりと取り組んでまいります」と吹き出しで述べている。
 さらに裏表紙には、女川原発の見学を終えてどう感じたかという設問への回答が並べられている。「大津波を想定した防潮堤に驚いた」「福島第一原子力発電所とは、敷地の高さの設定が違っていた」「念入りな安全対策と、『これで十分』はない」という言葉に共感」などなどと誘導された答えが出ていた。
 今回はこのPRセンターと配布資料よりも何よりも、実際にこの地に足を運んで地理的地勢的状況を知ることができたのが大きな収穫だった。そして高校生の時から反対運動を続けて今は町議として活動して居る阿部みきこさんと知り合えたことも嬉しいことだった。いつか今度、みきこさんの話をゆっくりと聞きに来たいと思った。

大川小学校

 女川駅でみきこさんと別れて私たちは、石巻市の震災遺構大川小学校(※)へ向かった。
 私は2012年に仙台に住む友人の案内で宮城県の被災地を訪ね、その時に大川小学校も訪ねていた。また同じ友人の案内で2013年には、南三陸のワカメ漁師の家にボランティアで収穫の手伝いに行ったことがあった。そこここにまだ津波の爪痕が大きく残っていたあの頃しか知らない私には、途中の景色は初めて訪ねた場所のように思えたが、大川小学校に近づくと記憶が鮮明に戻ってきた。駐車場や新たな建物ができていたが、小学校はそのままのたたずまいで在った。「校庭のすぐ裏の山に逃げていれば…」と、詮無いことをまた思った。駐車場には観光バスが6台停車していて、どこかの高校生たちが訪ねてきていたのだった。献花台ができていて、そこで高校生らと並んで手を合わせて祈りを捧げた。

※大川小学校:東日本大震災前、石巻市にあった小学校。地震の後、近くの川を遡ってきた津波により、全校生徒の約7割にあたる74人が死亡・行方不明となった。跡地は現在、震災遺構として整備され公開されている

追分温泉

 今回の私の希望は女川原発に行くことだけだったが、せっかくの宮城県訪問なので、他の訪問先やコースなどすべて理恵さんが今野さんと相談して手配してくださっていた。
 宿泊先の追分温泉は理恵さん推奨の鄙びた山の温泉だった。この日は朝から、「夜はサプライズがありますからね」と聞かされていたが、追分温泉宿泊は、東京を出る前に告げられていてわかっていたから、サプライズは追分温泉ではなくもっと別のことらしいが、何かわからずにいた。 宿に着いて判ったのは、もう一人加わる人がいて、それがサプライズということだった。
 待つことしばしで、到着したのは先日の衆議院選挙と同日で宮城県知事選があったが、その時に立候補した長純一さんだった。長さんは「市民連合みやぎ」の要請を受けて無所属で立候補し、現職の村井嘉宏氏と対決し敗れた。
 温泉宿のご馳走をいただきながらの歓談で、仙台からご一緒してきた由美さんと、ここで初対面の長さんとお二人の人柄を知ることができ、嬉しいご縁を繋ぐことができた。
 長さんは東京で生まれ、信州大学医学部卒業後は医師として長野県の佐久病院に勤務していた。佐久病院は地域医療の先駆的役割を果たしてきた病院で、私の旧知の友人も勤務していたことがあり、他の知人は地域ケア科の医長をしている。だから佐久病院と聞いただけで親しい気持ちが湧いたが、長さんは東日本大震災直後に長野県医療団長として石巻市に入った。そして12年5月に市立病院開成仮診療所の所長に就任し、翌年、石巻市包括ケアセンター長に就任する。
 その長さんが「市民連合みやぎ」の要請を受け県知事選への出馬を表明したのは投票日の1ヶ月前の9月末になってからだった。県の選挙管理委員会が衆議院選挙と同日選挙と決めたのは10月6日だったから、運動期間はごく短期間しかなく、知名度の低い新人候補の長さんには厳しい選挙だった。だが、県政では自民党支持者の建設会社社長が、県知事選では長さんを応援するなど、地域医療に力を尽くしてきた長さんの姿勢や「声なき声を拾い、対話を基調とした県政を目指したい」という主張に期待する人たちは少なくなかった。全県から見ず知らずの支援者が次々訪ね、「よく立ってくれた」「必ず勝って」と、応援の声が寄せられたともいう。もっと時間があれば、あるいは結果は違ったものになっていたかもしれないと思う。長さんは、「医者だから見えること、できることがある。医療の面から行政を考え、変えていきたかった」と言った。
 市議の​猪股​由美さんの話にも、私は深い感銘を受けた。網走で生まれた由美さんは母子家庭で、自分を育てるためにパート・アルバイトで時間に追われて低賃金で働く母の姿を見て育った。進路を意識する頃には、日々生きるのが精一杯の人の中に自分は居ると思っていた。
 高校を卒業して正規雇用で一般職として働き始め、それが自分にとっての人生のゴールだと思っていた。だが働く中で様々な大人たちと接したことと、インターネットでもっと広い外界を知ったことで、もっと世の中を知りたい、もっと学びたいと思うようになった。大学進学を目指したが、正規職の他に2つも3つもバイトを掛け持ちしても、学費や家を出た後の住居費を得ることは難しく、勉強する時間をとることもできなかった。
 それでも「学びたい。もっと世間を知りたい」思いは募り、25歳の時に退職して札幌に出た。昼は契約社員として働き夜は専門学校でデザインを学んだ。卒業後は電気関係の会社に勤めながら、休日や夜間にNPOや市民活動の広報ボランティアに参加し、そうした中で自分の生まれ育った環境を客観視できるようになった。政治や経済、戦争、原発、差別などの問題についても、主権者が声を上げ動かなければ、都合の良いようにやられてしまうと考えるようになった。
 3•11後の5月に震災ボランティアとして宮城に来て被災地に立ち、「こんな痛ましいことがあるのだろうか。明日はないのかもしれない」と衝撃を受けた。20代の頃から「より良い明日」を目指して走ってきたが「今、ここ」を意識するようになり、微力でも震災復興や生活再建のために働きたいと思うようになった。そしてボランティア活動で知り合った縁で結婚することになった。
 子どもを産み育てていく中で若い母親たちが抱える問題を痛感し、「子育てしやすいまちづくり」活動を開始した。家族の協力も得て37歳で看護学校に入学し、2年間学び2018年准看護師の資格を得た。そして同年8月の仙台市議会議員選挙に立候補し当選。子育てや介護、障がいのある人など、手助けが必要な人にあたりまえに支援が届き、誰もが自分らしく社会参加ができる世の中、格差や戦争のない世の中を目指していると言う。
 追分温泉のお湯も料理も素晴らしかったけれど、それよりも何よりも私には、この日、みきこさん、長さん、由美さんに出会えたことが、何よりも嬉しいことだった。

11月25日 飯舘村

 朝食後、由美さん、理恵さん、長さんと別れて、私は今野さんと飯舘村へ向かった。長谷川さんの御仏前にお線香を手向けたいと思い、また榮子さんにも会いたかった。

榮子さん

 榮子さんの家に着いて顔を合わせた私が、「榮子さん、元気で良かった」と言うと、即、「元気じゃないよ。ジャガイモみてぇにコロコロ転ぶんだ」と、心配な答えが返ってきた。
 先日も家の中で転び、膝を打ったという。それで介護申請をして、返答を待っているところだそうだ。村の職員にも「ばあちゃんの面倒をよく見てくれろ(帰村した高齢者の面倒を見てくれるように)」と頼んだのだという。
 「一人で暮らすってのは、大変だよ。寂しいよ」と言う榮子さんだった。9人家族で暮らしていた時を懐かしく語り、村の合併問題が持ち上がった頃のことをまた語るのだった。
 さらに、「大間原発差止訴訟」で原告側証人として尋問にのぞんだ時のことも話してくれた。
 この裁判は、大間原発建設予定地の対岸である函館の住民たちが国と電源開発を被告として、建設差し止めや損害賠償を求めて訴えたもので、函館地裁で審議が進められてきた。第22回口頭弁論で、榮子さんは証言台に立った。原発事故の被害者として、何世代にもわたって培ってきた飯舘村が原発事故によって一瞬にして奪われてしまったこと、家族がバラバラになり、生活もコミュニティも地域の歴史も奪われてしまったことを話した。
 その榮子さんに対して、被告電源開発代理人は質問したそうだ。「あなたは(東電を相手取った)ADR(裁判外紛争解決手続)の原告ですね」。榮子さんが「はい」と答えると、被告代理人は「賠償金が欲しかったのではないですか」と畳み掛けて聞いたという。上から目線の質問にはらわたが煮え繰り返るような思いを抱きながら、「違います」と答えたという榮子さんだった。
 裁判記録を読むと、証言台に立った榮子さんの、「亡くなった夫の『苦労かけるね』の言葉を胸に辛い避難生活を生き抜いてきて、今日もその言葉を抱きしめて福島から函館まで来た。函館・青森の皆さんには、自分と同じような思いはしてほしくない。原発は必ず事故を起こす。建設を止めて欲しい」との切実な言葉に、原告席・傍聴席からは啜り泣きが起こったという。そして最後に榮子さんは上から目線の失礼な被告代理人に「ありがとうございました」の言葉を残して証言を終えたという。
 「花ちゃん(長谷川健一さんのお連れ合い)の顔見られねぇ。四十九日過ぎたら行くつもりだけんじょ、花ちゃんなぁ」と、榮子さんは長谷川さんの死を悼んで言った。「健ちゃんには、世話になったよぉ。本当によく面倒見てもらった。仮設に居たって、一人ひとりみんなに寄り添ってなぁ、世話してくれたんだ。村民のために、本当に頑張った人だったよ。お葬式に行かねかったけど、大勢の人が来て村の人より、外からの知らない人たちがいっぱい来て、葬式に行った人が『あんなに大勢の人が悼んだ葬式は初めてだ』って言ってた。原発さえなければなぁ。悔しいな」そう言う榮子さんだった。帰村した人も少なく、しかも高齢者ばかりの村で、自分よりもずっと若く、頼りにしていた人の死は、どんなにか辛く堪えることだろうと思った。
 別れ際に榮子さんに、どこに行く時も、家の中で移動する時もトイレに行く時も、必ず携帯電話は身につけていて下さいと言って、お暇をした。「ジャガイモみてぇにコロコロ転んで」起き上がれない時には、すぐに誰かに連絡ができるようにと思ったからだが、「一人で暮らすのは大変だよ。寂しいよ」の声が耳の中でリフレインしていた。

花子さん

 花子さんには訪問をあらかじめ伝えて、「待ってます」の返事も貰っていた。だがこの日の朝、「知り合いが亡くなって弔問に出かけることになったから、留守にします」のメッセージが入った。それでも用意してきた御仏前にお供えする品を玄関先に置かせてもらおうと思い、家に行った。そして玄関のポストの上に置いて道を戻った。道の駅まで戻った時に、携帯が鳴って、「私、居たんだよ」と花子さんからの電話だった。呼び鈴を押して確かめることもせずに、品だけ置いてきてしまったことを悔いながら、すぐに戻った。
 玄関で迎えてくれた花子さんに「お線香をあげさせて」と言って、遺影とお骨箱、ご位牌が置かれた花で飾られた祭壇の前に座り、お線香を上げ心の中で般若心経を唱えた。これからお通夜に出かけるという黒い喪服姿の花子さんは、四十九日が終える12月9日に納骨をすると言った。そうしたらお墓参りもさせてくださいと言って、お暇をした。
 その後も何度か電話をしているが「元気よ。忙しくしてるから大丈夫」と返事が返る。元気でばかりではないだろうと察しながら、その度に取り止めもないことを話して電話を切るのだった。

椏久里珈琲店

 福島市で、久しぶりに、椏久里に寄った。原発事故前は飯舘村にあった椏久里珈琲店には、村内ばかりでなく村外、また県外からのリピーター客も多く訪ねていた。美味しいコーヒーを飲ませる人気店で、市澤秀耕・美由紀夫妻が経営していた。被災後に夫妻は福島市に避難し、7月から市内で店を再開した。最初は借り店舗で営業していたが、その後すぐ近くに新店舗を作って移動した。
 私は前の店も何度か訪ね、今の店も時々訪ねているが、最近はなかなか寄れずにいたのだった。「トークの会 福島の声を聞こう!」の度に販売用のコーヒーを注文するので、電話やメールでのやり取りはしていても顔を合わせるのは、本当に久しぶり。美由紀さんはカウンターにいる車椅子のお客さんの相手をしているところだった。
 私たちはコーヒーを注文し、美由紀さんの体が空くのを待った。 車椅子のお客さんが帰って、美由紀さんがこちらに来た。車椅子の人は進行性の筋萎縮症で、介助の人も付いてきていたが、難病を持っていても施設入居や親との同居を選ばず、一人で暮らすことを選んで、生活しているという。月に一度、椏久里に来て、コーヒーを飲みケーキを食べることを楽しみにしているのだという。コーヒーカップを口に運ぶのも、ケーキをフォークで切って口に入れるのも、自分ではできないから美由紀さんがやってあげていた。それもまたお母さんに甘えている心持ちで、嬉しく楽しみにしていることらしい。美由紀さんもまた、自分の店にそうやって通って来てくれることを楽しみにし、嬉しく思っているという。素敵な話だなぁと思って聞かせてもらった。ここに来て美由紀さんの顔を見て話をしていると、私はなんだかホッと寛げるので、車椅子のお客さんの気持ちもよくわかった。
 長谷川さんの話になり、やはり美由紀さんも健一さんの病気は原発事故由来だと思うと言った。私も絶対にそうだと思っている。長谷川さんの葬儀に参列した秀耕さんは、メディアの人がとても多く参列していたと言った。
 
 美由紀さんの体調のことや私自身のことなどひとしきり話した後で、「お互いに元気でいましょう」と言って店を後にし、今野さんに福島駅まで送ってもらって帰京した。

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渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。