私は1945年1月9日に満州ハルピンで生まれた。同年7月15日、父は現地召集を受けて出征した。8月9日にソ連軍が侵攻し15日、日本の敗戦で戦争は終わった。翌年9月、私は母に連れられて日本に引き揚げた。私には満州の記憶も引き揚げの記憶も全く無い。父は生後6ヶ月の私を置いて出征したまま、帰っては来なかった。
私の最も幼い時の記憶は、母と一緒に人力車に乗っていたことと、迷子になった時のことだ。どちらも母と静岡の教職員組合の職員住宅に暮らしていた2歳の時だ。その後母は実家に私を預け、単身で静岡の山奥の分教場に赴任した。母の実家は山梨の南巨摩で、そこには祖母と母の姉とその息子が2人、母のすぐ下の妹と一人息子が居た。祖母以外はみな、満州からの引揚者だった。伯母の息子は2人とも小学生だったから、私の遊び相手はサチ子叔母の息子で1歳年下のツトムだった。私が1月9日生まれ、ツトムは翌年の1月2日生まれで、ちょうど丸1歳年下だった。
サチ子叔母の家族と私の家族はハルピンでは隣同士で住んでいたという。乳の出が悪い叔母に代わって、母乳が豊富に出ていた母がツトムにも乳を飲ませていたというから、ツトムと私は、いわば乳きょうだいと言えるかもしれない。私たち2人は、祖母や大人たちに「金魚の糞みたいにいつもくっついている」と言われるほど、いつも一緒に遊んでいた。そしてサチ子叔母は、一緒に居ない母に代わって私には親代わりのようでもあった。
ある日、サチ子叔母の夫が復員してくる知らせが入った。その事が、子どもたちにどう伝えられたのか覚えてはいないが、大人たちの喜びに満ちた声の調子が嬉しくて、ツトムと私は「おとうちゃんが帰る、おとうちゃんが帰る」と部屋中跳ね回って歌い、はしゃぎ続けていた。そしてその人が姿を現した時、叔母に促されてツトムが「おとうちゃん」と駆け寄り、一緒に「おとうちゃん」と飛び出そうとした私は、柱の陰で祖母に抱き止められた。「あんたのお父ちゃんじゃないんだよ」。泣きながら祖母は、私の背を撫でさすっていた。父無し子を自覚した私は、3歳だった。
その頃は祖母の家には、時々「おこじきさん」がやって来た。黒っぽい緑の服と帽子の「おこじきさん」もいたし、白い服で腕や脚に包帯を巻いて杖を突いて歩く人もいた。祖母は「おこじきさん」に食べ物やお金を渡していた。「おこじきさん」は戦争から帰って来たけれど、家も身寄りも無い人だと、祖母は言った。後になって私は、祖母の言ったのは「お乞食さん」だったと知った。戦争は終わってもその頃の生活では、まだ影のように「戦争」は日常に普通に、どこにでもあったが、子どもの私には他所ごとの遠い話だった。けれども3歳のあの日、その「影」は私の内に根を下ろしたのだと思う。
それは私の内で「戦争反対」のタネになった。幼かったあの日以来、私は身の内にそのタネを育て続けてきた。
2014年7月1日、安倍政権は集団的自衛権行使容認を閣議決定し、2015年9月19日未明に安保法制を強行採決した。2016年4月、東京地裁に提訴された「安保法制違憲訴訟」に、私も原告として連なった。安保法制は、私たち国民の「平和的生存権」「人格権」「憲法改正・決定権」を侵害しているとして国家賠償を求めた。裁判が始まってみると、3名の裁判官はまるで、行政に飼い慣らされた犬に思えた。
第8回裁判期日でのことだ。原告側が申請していた8名の証人尋問について裁判長が「いずれもその必要性はないものとして却下」と言い渡した。原告席からは一斉に不服の声が上がり、すかさず原告代理人弁護団長が立ち上がって、「裁判官を忌避します」と宣言した。そして忌避理由を述べた。傍聴席からは拍手が起こり、裁判官に向かって「恥ずかしくないのか」「良心はないのか」などの声が上がった。
こうした経緯を経た裁判だったが第12回期日の2019年11月7日、敗訴の判決が下った。直ちに原告団は控訴を決め、現在東京高裁で控訴審が進められている。そして来る2月4日には結審となる。私はこの日、原告として意見陳述をする。3歳だったあの日、私の内に芽生えたタネは大きく根を張り、揺るがぬ幹に育っている。私は裁判官の目を見据えて、被告代理人の耳にしっかりと言葉が届くように、意見を申し立てようと思う。
一枝