第24回:トークの会「福島の声を聞こう!」vol.38報告(前編)「住民の49%が戻らない、21%が戻れない」(渡辺一枝)

 大変遅くなりましたが、昨年暮れ(2021年12月5日)に神楽坂セッションハウスで催したトークの会「福島の声を聞こう!」vol.38の報告です。ゲストスピーカーは飯舘村の伊藤延由さんでした。
 伊藤さんは、「これからお話しする焦点は、復興五輪がよい例ですが、国は原発事故を終わったものにしようとしているということ。でも、飯舘村に居てわかったことは、原発事故は全く終わっていない。10年経って新たな被害が出てきていることを、原発事故の実像として話したいと思います。原発事故の本質をご理解いただけると思います」と言って、用意してきた図表や写真などをスクリーンに映しながら、話してくださいました。この報告ではそれらをお見せできませんが、話してくださった内容をできる限りしっかり文字化したつもりです。

伊藤延由さんプロフィール
1943年11月新潟県生まれ、78歳。1962年4月(株)新潟鐵工所(新潟鉄工)に入社(入社直後から福島第一原発の非常用ディーゼルエンジン製造開始)。2010年3月、福島県飯舘村に設置された農業研修所「いいたてふぁーむ」の管理人に就く。管理人の仕事の傍ら、水田2.2ヘクタール、畑1.0ヘクタールを耕作。2011年3月、2年目の準備を目前に東日本大震災と福島第一原発事故で被災。6月末、福島市へ避難(避難先から飯舘村へ通い施設管理)。11月「飯舘村新天地を求める会」を立ち上げ活動。

はじめに

 1962年に新潟鐵工所(新潟鉄工)に入社し、県内で働いていたが、2年後の64年に新潟地震が起き信濃川沿いに在ったエンジン工場が内陸部に移転した。67年頃、新しい工場の操業時に作っていたのが、福島第一原発の非常用発電のためのディーゼルエンジンだった。当時、国内で一番大きいエンジンで、これが原発事故の最後の砦だった。だが2011年3月11日は、エンジンが動くことなく事故になった。新潟鉄工はすでに潰れたが会社の名誉のために言うと、エンジンが悪くて動かなかったのではなく、置いた場所が地下で水を被ってしまったからだ。
 2010年から飯舘村に住み始めた。新潟鉄工を辞めてから勤めていたIT企業を定年退職した翌年に、その会社が飯舘村に農業研修所を創り、私はそこの管理人になったからだ。
 私自身は放射能については「ちょっと危ない」という程度の理解はしていたが、福島第一原発事故後の3月15日に飯舘村に設置されたモニタリングポストの値が44.7µSv/h(マイクロシーベルト/時)という数字だった。当時の村長はこの数値を公表するなと口止めしていたので、我々のところには聞こえてこなかった。聞こえたとしてもこの数値が意味するものを、私自身は当時はわからなかった。
 今だと、事故がなければこのあたりの空間線量率は0.05µSv/hくらいだとわかっているから、44.7ということは通常の1000倍位も高いところにいたことがわかる。しかも44.7というこの値は、村役場の前に設置されていた測定器の値だ。私の住んでいた野手上地区では、これの3倍か4倍あった。一番線量の高かった長泥地区は、おそらくこれの10倍、400〜500µSv/hだったのではないか。それが発表されることもなく、村民はずっと被ばくし続けた。

飯舘村

 福島県は浜通り、中通り、会津の3つに分けられる。飯舘村は、どちらかと言えば浜通りに属すが、ただ標高が高く(阿武隈山系の北部に位置し標高は400〜500メートル)他の浜通りの地とは違う様相を呈している。冬は非常に寒いが夏は涼しくて、村の90%の世帯にはクーラーが無い。私も飯舘村に住んでいて扇風機はあるが、この夏にそれを使ったのは10日もない。極寒の冬にはマイナス20℃を観測し、年の平均気温は10℃。だから花が長持ちし、紫陽花は8月〜9月まで綺麗に咲いている。
 事故当時は、飯舘村には6544人が住んでいた。村の面積は230平方キロ。大阪市では225平方キロのところに275万人が住んでいるのと比べてみてほしい。豊かな自然の中にあり、「日本で最も美しい村」のひとつに認定されたような村だ。世帯数は1716で、村の木は「赤松」、村の花は「山百合」、村の鳥は「鶯」、特産品には御影石、リンドウやトルコギキョウなどの花卉、畜産、酪農、野菜。極寒を利用した凍み大根、凍み餅も特産品で、どぶろく特区でもあった。
 電源三法交付金の対象になっていない村で、原発立地自治体のような原発マネーの恩恵は全く受けていなかった。私の住んでいた野手上地区は13世帯の内、農業をやっているのは3軒(2軒は2010年に新規入植)だけで、限界集落だった。
 文科省による福島県西部の航空機モニタリングの測定結果図を見ると、原発から30キロのサークルが、ほんの少し飯舘村にかかる。事故当時は20〜30キロ圏内は自宅待機とされていたが、飯舘村には何の避難指示も出ていなかった。後でわかるが、そういう村に被害だけが降り注いだ。

豊かな自然

 飯舘村は自然が豊かで四季折々に花が咲く。春一番には福寿草が咲き、植えた覚えもないのに水仙が咲き、紫陽花など今年は10月まで綺麗に咲いていた。秋にはリンドウが咲き、10月には木々も美しく紅葉して、居ながらにして紅葉狩りを楽しめる。自然の恵みが豊かで、雪が溶けるとフキノトウ、タラの芽、ウド、ワラビ、フキなど、すぐそばに在る。ワラビやフキなど春先に採って塩漬けで保存して、野菜が無くなった冬にはそれを出して食べている。飯舘村は福島県の経済統計で見ると所得レベルでは最下位だったが、私は村人と一緒に生活する中で、そのような貧しさは全く感じなかったし、心は豊かで食卓も豊かだった。
 村の木が赤松なので松茸がたくさん採れる。私は2009年の秋から村に通っていたので、村の人に「松茸が採れたら持ってきて」と頼んでいた。2010年の秋に持ってきてくれたが、800gくらいあった。市場では国産松茸800gだと4、5万円払わなければいけないと思いながら「いくら?」と聞いたら、5000円で良いという答えだった。私は当時66歳だったが、66年間で食べた松茸よりも、その年1年間で食べた松茸の方が多かった。
 これは事故前の写真だが、4月の朝6時に霜柱が15センチくらい立っていたかと思うと、同じ日の朝10時には田んぼでオタマジャクシがウヨウヨと泳いでいた。これが、飯舘村の農作物を美味しくしていた寒暖差だ。野菜を頂いて、その美味しさを実感していた。
 これは田んぼにあったモリアオガエルの巣だが、農薬を使っていたら翌年はモリアオガエルは絶対に出てこない。飯舘村はこんな風景が普通にある村だった。

「いいたてふぁーむ」

 2010年に東京のIT企業が開設した農業研修施設「いいたてふぁーむ」は、開設当初から私が居た施設だが、水田2.2ヘクタール、畑1.0ヘクタールと、結構な広さだった。翌2011年に作ったパンフレットには、企業社員教育やリフレッシュ休暇、メンタルヘルスの不調で休職中の社員の社会復帰プログラム、小中高生の学校研修に、大自然の中での農作業や自然体験セミナーを勧め、施設の規模(野手上農場12,000坪、沼平農場16,000坪、宿泊棟30名収容、男子棟15名収容、女子棟12名収容)と電子黒板やプロジェクターなどの設備備品を載せている。
 ここでは農業に関しては何でもできるが、牧畜だけは当時、国内で狂牛病が出て家畜の移動は禁止だったので残念ながらできなかった。それ以外は全部、思ったことはやった。2.2ヘクタールの農地で米を作るのに、草取りはエンジン付きの田車を使い、取りきれないものは手で取っていたが、今時そんなやり方でやっているところは無かった。
 2.2ヘクタールの泥の中を歩くのは、素人にはとても辛い。私は当時66歳だったが、よく頑張ったと思う。村の人に、お金を払うからやってと頼んだが断られた。私は自分の希望で来たからまだいいが、可哀想なのは会社の業務命令で来た若手たちだった。
 その他、じゃがいもなど野菜の植え付けと収穫、野沢菜漬け、里山の手入れ・下草刈りなどなど、大変ではあったが、本当に楽しく充実した日々だった。飯舘村が失ったものを話すには、こうした楽しかった時のことを話さないと伝わらないだろう。
 稲を稲架にかけて天日干しした米は、本当に美味しかった。炊いている時の湯気の匂いからして違った。8000キロ、8トン収穫した。私も会社もこんなに穫れると思わなかったから売ることを真剣に考えていなかった。社員が200名くらいいたので、社員とお客様に「買って」と言ったら、年内に全て売れた。主食だから本来は、翌年の収穫期まで供給しないといけないのだが、12月で売り切れてしまい、その後の供給分は残らなかった。
 スーパーなどで売っている米には「新米入り」のシールが貼ってあるものがあるが、それは新米が何%か入っているというシールだ。古米とか他の品種を混ぜるのはごく普通で、古々米が混ざっていたりすることがあるのは、たった1年百姓をやっただけの私にもよくわかった。いいたてふぁーむは、古米も古々米も他品種も無かったから、100%新米だった。それは絶対に美味しい。それですぐ売り切れたというのが実態だ。

自然の恵み

 中山間地の農業は、イノシシ、サル、シカ、ニホンカモシカなどの獣害にやられている。
 飯舘村では元々イノシシやシカなどで動物性タンパク質を摂っていた。食卓が豊かなのにはそうした面もあって、それも自然の恵みだった。
 村では日本蜜蜂もたくさん飼われていて、その巣箱に蜂が入ってくれると秋には10万円相当くらいの蜂蜜が採れる。日本蜜蜂なので、蜂蜜は結構高い値段で売れる。米を作っているよりも良いという話があるくらいで、そんなふうに素晴らしい村だった。

発災前後

 それが原発事故でどうなったか、国の動きがどうだったかを話したい。
 原発事故の被害を見るときに考えなくてはならないのは、被ばくのリスクだと思う。私が考える被ばくリスクとはどういうことか。たとえばこの部屋も(と言って伊藤さんは持参の線量計を講演会場のそこここにかざし、空間線量を測った)、結構高めだ。福島から飛んできた放射能だけではなくて、セメントや建材の中にも自然由来の鉱物の中にも、放射性物質はある。太陽からも出ているから、ごく普通に高いところはある。
 また、日本ではレントゲン検査やCT検査などによる医療被ばくが非常に多いと言われていて、それを避けたければ、検査を受けなければ良い。ただし、受けることのメリットもある。的確な診断ができる。誰が見てもわかるほどに、患部の位置や様相が写し出される。しかし、デメリットもあるということだ。
 もう一つ言われているのが航空機の移動による被ばくで、日本からアメリカのニューヨークまでの往復で200µSv被ばくする。(環境活動家の)グレタさんのように飛行機に乗らなければ被ばくしないが、しかし乗ることで移動時間を短縮できるメリットがある。航空機に乗るのは被ばくの危険があるからと、乗らない人はほとんどいないだろう。
 マイクロ(1000分の1ミリ)の単位の被ばくはそんな程度で、際立って心配する必要はない。ただ私は、放射線被ばくは自然界からのものを含めて、必ずリスクはあると思う。それが許容限度かどうかが問題だ。
 日本の土壌は、50〜60年代に大気圏内核実験がされた時の汚染の残滓がまだ残っている。自然由来、鉱物由来の放射性物質も土壌1キロあたり10〜20Bq(ベクレル)あると言われている。また原発事故前の空間線量率が平均0.05µSv/hくらいで、最低は北海道の二風谷で記録した0.036µSv/hだった。これは事故がなければ、一般的にはこれくらいだという値だ。
 原発事故による被ばくの問題は、我々のような高齢者よりも若い人のリスクが非常に高いことだ。若い人の被ばくは、避けるべきだ。
 たった今も原発構内の放射性物質は、土壌1キロあたり100Bqまでが安全に再利用できる基準とされている。しかしなぜか原発事故後、原発構内以外の一般の人が住む場所では8000Bq/kg以下の汚染土を再利用できると特措法で決められた。100Bqまでというのは原発構内や放射性物質を扱う場所に適用されていて、一般大衆が住む場所には適用されなかった。
 原発構内で働く人は、それなりに放射線についての教育を受けたりしていて、リスクはあるが高い給料を貰って仕事をしている筈だ。しかし一般大衆は放射能についての危険性は知らずにいて、そういう人が住む場所の基準が8000Bqで良いのか? 要するに原発事故が起きたら100Bqの基準は守れない。だから基準を下げた。これが国のやったことだ。原発事故が起きたら絶対に100Bq/kgには戻らない。
 レントゲンを撮るときにも放射線を浴びるが、レントゲンの場合は「大きく息を吸って、吐いて」と、被ばくは一瞬だ。しかし原発事故の後は、放射性物質がある限り、人々はずっと被ばくをし続けることになる。

ベクレルとシーベルト、用語

 ベクレル(Bq)というのは放射線を出す強さのことだ。簡単にいうと、1Bqは1秒間に1発放射線が放出されるということ。そして、放射線の影響は、放射線を出している物質からの距離の二乗に反比例して弱まる。つまり10メートル離れると、100分の1になる。離れた場所で測った時に、どれだけ被ばくしているかを示すのがシーベルト(Sv)。7Svを1時間100人が浴びたら、100人とも死ぬ。マイクロシーベルト(µSv)の単位の被ばくは低線量被ばくだから「直ちに健康に影響はありません」となるが、「直ちに影響がないのはわかったが、やがて影響があるんだね」と聞きたかった。
 放射線についてはベータ線、ガンマ線、アルファ線と色々あるが、ベータ線やアルファ線は我々には測れない。ガンマ線はなんとか測れるので、測り続けている。飯舘村をはじめとする原発事故による汚染地が、ガンマ線によって汚染されているのは確かだ。ガンマ線は密度の高い金属の鉛か分厚い鉄板(薄ければ通してしまう)でなければ遮蔽できない。本来、国はこういう放射性物質による汚染があることを伝えなければいけないのに、言おうとしない。

事故の主な経緯

 3月11日の発災以降の経過を見ると、原発は津波で事故を起こしたと思われているが、実は地震の時点で冷却装置が作動しないなど、壊れていたと思う。しかし、国会事故調もそれを確認できなかった。
 飯舘村では3月14日午後、突然モニタリングポストが設置された。モニタリングポストは空気中の放射線量を測定する機械だが、それ以前、村にはそんなものはなかった。14日午後、突然設置されたのだ。そして24時間後、44.7μSv/hを記録。SPEEDI(緊急時環境線量情報予測システム)という放射線量の予測システムがあるのだが、事故時にはこれが稼働していたのに結果は発表されなかった。内閣特命担当大臣の細野豪志が「モニタリングポストの観測点の電源が切れていたので、発表するとパニックになるから発表しなかった」と言ったが、これは嘘。県のサーバーにはデータが来ていた。そのサーバー情報を県民に公開すれば飯舘村住民は避難できただろうし、浪江町の人たちが津島や赤宇木など放射線量の高い地区に避難するようなことなどは絶対になかったはずだが、なぜか公表しなかった。44.7という数値も、村長が公表するなと口止めした。
 15日の朝、福島第一原発4号機爆発で放射性物質を含んだ雲が飯舘村を覆った時に雨が降り、夜半から雪になった。これにより放射性物質が降下して汚染が広がった。飯舘村の原発事故被害は、自然現象が全く偶然にもたらしたもので、たまたま飯舘村が汚染されたが、気候状況によってはどこが汚染されてもおかしくないのが原発事故だ。チェルノブイリ原発事故では350キロ離れたところが汚染地になっていると聞いた。
 飯舘村は、地震では被害はなかった。飯舘村の地盤は強固で、地震では屋根瓦が波打った程度だった。
 21、22日の地元紙は「健康上心配ない」と長崎大の山下俊一の講演の様子を報じているが、もう片面では村が住民に飲料水を配っている写真がある。山下が「被ばく量が年間100mSv(ミリシーベルト)以下は安全」と講演したその日、飯舘村の簡易水道から965Bq/kgの放射性ヨウ素を含む水が出て、慌てて村長が水を配ったのだ。
 国はオリンピックで被害の矮小化を始めたのではなく、もうこの時点から始めていて、「大したことはない」と言い続けている。国がいかに画策したのか、山下俊一と(長崎大の)高村昇は放射能は安全だという講演を何十回、何百回行っていた。これが原発事故に際しての日本政府の態度だ。
 こうして「100mSv以下は大丈夫」と言っておきながら、4月11日には突然、飯舘村に「1ヶ月以内に全村避難」の指示がきた。村の人たちは「それならなんで安全だと言ってたのか、一体なんなんだ!」と憤りと不信感でいっぱいだった。国は1ヶ月以内にと言っていたが、実際には全員が避難したのは最後の仮設住宅が伊達市に完成するのを待って7月になってからだった。福島市や近辺の民間のアパートなどは既に相馬郡や双葉郡からの避難者でほぼ埋まっていて、仮設住宅ができるのを待つしかなかった。それまでの3、4ヶ月もの間、住民は高線量の村にいて被ばくしている。それでも「直ちに健康に被害はない」と言えるのか。
 さらに、避難先の仮設住宅と村内とでの住環境はあまりにも違って、ストレスが嵩む暮らしだった。狭いために世帯分離で生活していた家も多く、隣の家の生活音で生活レベルは低下した。2012年4月に地元経済誌と村民有志の共催でアンケートを取ったが、自身と家族の体調については「なんとなく良くない」「著しく悪くなった」の返答が85%にも上り、自身と家族の通院・投薬は「増えた」が65%にもなった。さまざまな苦難を強いられての過酷な避難生活に、この結果となった。

リスコミという“スリコミ”

 国は原発事故後、「リスクコミュニケーション」という言葉を流行らせた。国や県・村から回ってくる資料は、ずっと「安全」で統一されていた。喫煙や飲酒、肥満など他の発がん要因のリスクと比較すれば、放射線被ばくは、癌の危険がわずかに高まるだけという論調だった。内閣官房「低線量被ばくのリスク管理に関するワーキンググループ」の報告書では、喫煙や日に3合以上の飲酒は1000〜2000mSvの被ばくに、肥満や運動不足・高塩分食品摂取は200〜500mSvの被ばくに、野菜不足や受動喫煙は100〜200mSvの被ばくリスクに相当するとしている。しかし、喫煙や飲酒、野菜不足などの生活習慣は改善することができるが、汚染地域の暮らしでは、生きるために必然的に被ばくし続けなくてはならない。私は国のいう「リスクコミュニケーション」は安全の「スリコミ(刷り込み)」だろうと思う。
 広島・長崎でも100mSv以下の被ばくの健康への影響は、実際には調査していないからわからない。わからないことをもって、安全だと言い切る。挙句の果てに野菜不足だとか、太っていても痩せていても身体に悪いし、酒を飲んでも悪いと言い、それらと比較する。放射線の害があるとしたら、癌になる危険がわずかに高まるだけだと言う。
 100mSv以上被ばくすると、1000人に5人は癌で死ぬ確率が高まると国は認めているが、1000人に5人が、わずかだろうか? 数値で言えば0.5%だが、本人にとってみれば100%なのだ。国は、こういうことを平気で言う。
 タバコをやめた方が良いのはわかっていても、ホッと一服がなんとも止められないという人は多い。受動喫煙は別として、飲酒や喫煙など生活習慣は自分で好きでやっていることだが、放射線はなんのメリットも無いのに被ばくし続けるのだ。これを比較して被ばくは大したことはないなどと、言ってはいけない。被ばくは好まなくても続く。被ばくのリスクは、必ずある。これが国がやっていることだ。
 ある説明会で、国は遮蔽について話した。放射線源からの放射線量は、距離の二乗に反比例して減少する。10メートル離れれば100分の1になるという。でも飯舘村は、10m離れた場所も放射線源、村中が放射線源なのだ。こんな説明をして安心させているのが、国のとった政策だった。これは非常に作為のある説明だ。

除染

 事故後1年の2012年4月のアンケートでは帰村についても調査した。帰村するつもりはないとの答えが49.1%、宅地における年間被ばく量が1mSv以下になれば、あるいは村全体が1mSv以下になれば帰村したいという答えは21%あったが、残念ながら1ミリ以下にはならない。住民の49%が戻らない、21%が戻れない村。この70%が行く末をどうするかを含めての復興でなければならなかった。でも国が示したのは「除染して帰村」。除染するから戻りなさい、ということだけだった。除染の対象は宅地と農地と道路で、作業が行われるのはそれらの境界から20メートルの範囲だけだった。除染はゼネコンに金儲けさせただけの事業だった。しかも、住宅除染といっても屋根に上がって屋根瓦を拭いただけで、そんなことをしても放射能は落ちない。
 農地の除染は表土を5センチ剥ぐ。これによって放射性物質のかなりの部分が除去される事はわかる。5センチ剥いで、汚れてない無機質な山砂を入れる。しかし表土の5センチは、そこで栽培される野菜にとっては一番美味しいところだ。それを剥いで無機質な山砂を入れても、農業再開は簡単にはできない。
 除染作業をすれば、1ヘクタールの農地から1000トンの排土が出る。それをフレコンバッグに詰める。バッグには1立方メートル、重さでいうと1.5~1.7トンの土が入る。それが県全体で2200万袋、飯舘村だけで240万袋ある。国は除染して3年程度仮置き場において、中間貯蔵施設に運んで30年、そこで減容化して最終処分場は県外にすると言った。しかし、どこが受け入れるか? 受け入れるところはないだろう。
 東京電力の電力消費量に応じて放射性廃棄物を配分すれば良いという説もあった。すると東京に持ってくることになる。私は福島県民だが、県外に出すべきではないと思う。せっかく金をかけて集めた物を拡散するのか? それもゼネコンの事業になるからそのほうが良いとの声もあるが、私は県内で処分すべきと考えている。

汚染土壌再利用の暴挙

 これまでに、4000億円の費用をかけて村面積の16%だけ除染したが、まだ全部終わっていないから費用はもっと増えるだろう。山林は未除染、農地も畦、水路の法面は未除染、宅地も法面は未除染、もっと酷いのは手抜き除染で、これでは住める環境にはならない。除染作業の際の被ばく発生の問題もある。
 さらに、除染土2200万立方メートルの処置に困る国は、その内の放射性物質の濃度が1キロあたり8000Bq以下の土は再利用が可能として実証実験を始めた。すでに飯舘村長泥地区で農地造成に使っている。
 かつては100Bq/kg以下だった基準値を8000Bq/kgに基準を緩めて、農地の下に鋤き込んで、その最終処分の量を減らそうという魂胆だ。8000Bq/kgは大したことはないとしているのだろうが、8000Bq/kgとは、1秒間に8000発の放射線が出るということだ。それをどう捉えるかだろうが、私はやはり従来の100Bq/kgを守るべきだと思う。
 最終処分場計画では、国は中間貯蔵施設に置いた除染土を30年経ったら県外に持って行くと言ったが、今後はその量を減らして県内で最終処分場を作るという話になっていくと思う。

(後編に続く)

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渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。