第110回:私たちは軍事国家から侵略を受けたときに、それに対してどう向き合うべきか(想田和弘)

 ロシアによるウクライナへの侵略行為は、人道的にも、国際法上も、許されぬものである。

 したがって国際法的には、主権国家であるウクライナのゼレンスキー大統領には、ロシアに対する「自衛のための戦争」を遂行する権利があるのだろう。だから彼が自衛戦争を行うと決断したことについて、第三者は基本的に、それを尊重するという立場以外を取ることは難しいのかもしれない。

 しかし一方で、個別的自衛権を行使し、ロシアに対して徹底抗戦するという彼の選択が、本当にウクライナの人々を守ることになるのかどうかについては、それとはまったく別の問題として、現実を直視しながら検討せねばならない。

 なぜならその問題は、軍事力が支配するこの野蛮な世界に暮らしている私たちにとって、まったく他人事ではないからである。

 私たちは軍事国家から侵略を受けたときに、それに対して、どう向き合うべきなのか。

 やられたから、やり返す。

 それは当然の権利のように思えるし、先述したように、国際法上、主権国家には自衛権があるとされている。

 しかし問題は、繰り返すようだがそれで本当に国や国民を守れるのか、ということだ。

 というのも、やられたからやり返せば、相手も当然、さらにやり返してくるのが物事の常である。それに対してやり返せば、相手もさらにやり返してくるだろう。

 実際、ロシアとウクライナはそのようにして、恐るべき暴力の連鎖に陥ってしまったように見える。NATO諸国はウクライナに武器を供与するらしいが、それは火に油を注ぐようなものであろう。下手をすると、この戦争はシリアやイラクやアフガニスタンの戦争のように何年も続き、ウクライナは焦土と化すのではないかと懸念している。

 忘れてならないのは、戦場となっているのは、誰もいない無人の荒野ではないということである。それはウクライナの人々が日々の生活を営んでいる住まいであり、商店街であり、病院であり、学校である。戦争が長引けば長引くほど、街はむやみに破壊され、人が死ぬ。人々は生活の場を失い、大量の避難民が生じる。

 3月4日には、ロシア軍の攻撃によって、ザポリージャ原発で火災が起きたという衝撃的なニュースも入ってきた。ひとたび戦争になれば、戦火は原発にまで及びうる。幸い、現時点で火災は鎮められ、原発も破壊されていないようだ。しかし一つ間違えば、ウクライナのみならず、ヨーロッパやロシアが広範に放射能で汚染される事態になりかねない。

 くどいようだが、「正しさ」だけを問うならば、ウクライナの自衛戦争は大義のある「正義の戦争」なのかもしれない。そういう意味では、それを断行するゼレンスキー大統領は「英雄」なのかもしれない。

 しかしその正義の戦争が、本当にウクライナの民を守ることになるのかどうか。

 ゼレンスキー大統領は「国家総動員令」を発して成年男子の出国を禁じたようだが、そのように国家が国民に戦うことを強いることが、倫理的に許されるものなのかどうか。

 彼はまた、市民に武器を提供して戦わせているようだが、それがロシア軍に民間人を攻撃する口実を与えないのかどうか。

 今後、ウクライナ軍が奇跡的にロシア軍を撃退し、いわゆる「勝利」を勝ち取ったとする。しかしその時点で街が廃墟となり、国土が放射能で汚染され、夥しい数の人々が亡くなっていたとしたら、それで果たして「国や国民を守れた」といえるのかどうか。

 このように書くと、必ず人々は問うてくるだろう。

 お前はプーチンの味方をするのか、と。今は一致団結してウクライナを全力で支援すべきなのではないか、と。

 彼らが善意でそう言うのはわかる。しかしそうした素朴な善意が、戦争を止め市民を守ることにつながるのか、意図とは逆にむしろ戦争と殺戮を煽ることになるのか、それが問題なのである。そして僕は、残念ながら後者の方向へベクトルが進んでいるように感じてならない。

 人々はこうも問うだろう。

 応戦の方針を疑問視するお前は、他国から侵略されても、座して死を待てというのか、と。

 この問いは、座すことが死を意味するとの前提に立っているが、僕はその前提の正しさこそを疑っている。

 たとえばウクライナ軍が一切応戦せず、逃げたい国民はすべて国外へ逃し、いわゆる「無血開城」をしていたら、どういう展開になっていただろうか。

 応戦しないのだから、ロシア軍による発砲は一切なくなるか、最小限に抑えられるだろう。ゼレンスキー大統領は失脚するだろうし、ウクライナはロシアに併合されるかもしれない。しかし街は破壊されないし、人々も死なない。原発も攻撃されることはなかっただろう。

 もちろん、そんな屈辱を受けるくらいなら、戦って死ぬことを選ぶ、街が破壊されても後は野となれ山となれだ、という人もいるだろう。

 しかし、応戦することが唯一の選択肢ではないのだということを、世界中の人々が忘れているような気がして、僕はどうにも危うさを覚えるのだ。いちおうは憲法九条を掲げる日本の人々までが、自衛戦争を「反戦」の対象からほとんど自動的に外しているように見えることも、実に気がかりである。

 僕自身は、「相手を殺してまで生き延びたい」とは思わない人間である。

 武器を取って相手を殺すことが(おそらく何人も!)、そもそも自分にできるような気がしないし(自分を殺そうとしている人間を殺すというのは、そう簡単なことではないと思う)、たとえ殺すことができたとしても、それが自分の幸福につながるようにも思えない。

 そもそも殺そうとする相手は、侵略を命じた国の指導者ではない。彼らは指導者の命令を受けた兵士であり、そういう意味では、国家に殺し合いを強いられた犠牲者でもある。

 彼らを殺すことに、いったい何の意味があるのだろう。

 僕はそう強く思うので、武器を取ることは選択しないだろうと思っている。

 では「座して死を待つ」のかといえば、決してそうではない。

 僕は逃げることが最上だと思える状況なら逃げるだろうし、そうでないならば、侵略者に対して非暴力の手段を使って全身全霊で抵抗することであろう。

 マハトマ・ガンディーは次のように述べている。

非暴力は、「悪に対する真の闘争をすべて断念すること」ではない。それどころか、私が考える非暴力は、その本質が悪を増大させるに過ぎない報復ではなく、悪に対する、より積極的な真の闘争である。私は、不道徳に対する、精神的な、したがって道徳的な反抗をもくろんでいる。私は専ら、より研ぎ澄まされた武器を振りかざして対抗するのではなく、私が力ずくの抵抗をするだろうという相手の予想を裏切ることによって、圧制者の剣を鈍らせようとするのである。私が行う精神の抵抗は、圧制者をうまくかわすだろう。それはまず、圧制者を茫然とさせ、そして最後には承認を取りつけるだろう。その承認は、彼の面目を失わせるものではなく、彼を高めるものとなろう。

(マハトマ・ガンディー『私にとっての宗教』新評論)

 ガンディーのような非暴力不服従の方法は、しばしばタカ派からは「お花畑」「空想的」などと揶揄される。しかし僕は非暴力不服従こそ、倫理的に高潔なだけでなく、実際的にも有効な策であると信じている。

 自国よりも侵略者の方が軍事力で圧倒的優位にあるならば、なおさらだ。僕に言わせれば、軍事的に圧倒的に劣るのに戦いを挑む方が、よほど「お花畑」であり「空想的」だと思うのだ。

 無論、非暴力不服従で対抗したからといって、国や国民を守れる保障はない。

 しかし繰り返しになるが、国や国民を守れる保障がないのは、武器を取った場合もまったく同様なのである。実際問題、何十基もの原発がひしめいている日本では、武力で国と国民を守ることは、現実的にほとんど不可能であろう。

 にもかかわらず、ウクライナ侵略を受けて、日本では「敵基地攻撃能力」だの「核共有」だのを求める声が一部から聞こえてくる。

 彼らは、そういう動きがむしろ侵略行為の呼び水になったり、口実になったりする可能性を無視している。彼らはウクライナがNATO加盟を望んだことが、ロシアによる侵略の直接的な口実に使われてしまったことを、まるで忘れてしまったかのようだ。

 現実を直視せよ、と言いたい。

 コロナ対策でも見られたことだが、何か大変な災厄がふりかかってきたときに、対応策が裏目に出て、さらに大変になってしまうことはよくあることである。

 何かしないと不安だからといって、闇雲に逆効果なことをやってしまったら、元も子もない。

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想田和弘
想田和弘(そうだ かずひろ):映画作家。1970年、栃木県足利市生まれ。東京大学文学部卒業。スクール・オブ・ビジュアル・アーツ卒業。BGM等を排した、自ら「観察映画」と呼ぶドキュメンタリーの方法を提唱・実践。最新作『五香宮の猫』(2024年)まで11本の長編ドキュメンタリー作品を発表、国内外の映画賞を多数受賞してきた。2021年、27年間住んだ米国ニューヨークから岡山県瀬戸内市牛窓へ移住。『観察する男』(ミシマ社)、『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』(講談社現代新書)など著書も多数。