第26回:安保法制違憲控訴審(1)私の意見陳述「戦争のない平和な世界を願うのは、国家を超えて人としての願いなのだと、はっきりと言えます」(渡辺一枝)

 安倍晋三氏が首相だった時、「戦後レジームからの脱却」を唱えていた彼が目論むところは、憲法を変えて日本を戦争のできる国にすることだと思えてなりませんでした。戦前の治安維持法を思わせる「秘密保護法」を強行採決し、続けて「安保法制法案」が出され、ますますその疑念が膨らみました。これは自衛隊の役割を拡大して日本が戦争のできる国になる道を開く法律で、野党議員からは「戦争法」との声も上がっていました。秘密保護法の時と同じようにこの時もまた、思いを同じくする多くの仲間たちと共に私も、連日国会を囲んで抗議の声を上げました。
 しかし、2015年9月19日、法案は強行採決されてしまいました。法案そのものも、その採決の仕方も、民主主義の根幹を台無しにするものでした。戦争放棄を高らかに謳った憲法9条を無視する許しがたい法律は、与党議員たちが議長席に駆け寄って「人間かまくら」を作り、議長による採決の手続きもその記録もないまま、止めることもできぬ怒号の中で強行に採決されてしまったのです。
 こうした異常な国会運営に対して日弁連や法律家団体が、この法律は憲法違反であると司法に訴え、2016年4月東京を皮切りに全国22の地方裁判所で25件の訴訟を提起しました。そして私も、東京地裁に提訴された訴訟の原告に連なったのです。
 東京地裁での一審では、裁判官は憲法判断をしないまま敗訴となりました。それを受けて控訴し、東京高裁で控訴審が進められてきました。第6回期日の2月4日、控訴人の堀尾輝久氏(教育学者)と私が原告として意見陳述をし、6名の代理人弁護士が意見を述べ、結審となりました。まず、私の意見陳述の内容をお伝えします。

安保法制違憲控訴審 意見陳述

 私は1945年1月9日に、旧満州国ハルビンで生まれました。当時、父は商工公会に、母は図書館に勤めていました。同年7月20日、父は根こそぎ動員で臨時召集されました。生後6ヶ月の私を置いて出征する日、父は「この戦争は、じきに日本が負けて終わる。そしたら俺たちの時代が来る。必ず帰るからイチエを頼む」と、母に言って出たそうです。漢数字の一に枝と書いてイチエと読ませる名は、父が私に残してくれたただ一つの形見です。 
 翌年9月に私たち母娘は引き揚げ、母の実家に身を寄せました。ある日叔母の連れ合いが復員する知らせが入り、1歳下の従弟と私は「お父ちゃんが帰る、お父ちゃんが帰る」と喜び、部屋中跳ね回りました。叔父が戻り、私たちが駆け寄ろうとすると、祖母は泣きながら私を抱き止めて「あんたのお父ちゃんじゃないんだよ」と言いました。父無し子を自覚した3歳の私です。 
 中学生の時に我が家を訪ねてきた人に母が、父と同じ部隊にいた人からの伝聞を話すのを私も一緒に聴きました。 
 ハルビンから程近いチチハルで部隊は8月18日に武装解除となり、部隊長が「我々は捕虜としてソ連に送られる。家が近い者は家族に会ってこい」と言い、父たち3人は部隊を離れました。3人は線路伝いに歩きましたが降り続いた雨で水没した線路を見失い、湿地帯に入り込んでしまいました。父は脚を傷めた仲間を背負っていたそうで、先を歩いていた人が振り返った時には2人の姿は消えていたそうです。「彼を置いてこい」と言ったのに、「家族が待っているだろう。連れていく」と答えたのが、その人が聞いた父の最後の言葉だったそうです。 

 幼かった頃の私は、街並みの美しさから「東洋のパリ」と謳われたハルビンに、憧れのような思いを抱いていましたが、満州は日本が中国を侵略して作った国だったと知るに連れて、自分の存在が疎ましく思え、自分が嫌いになっていきました。帝国主義に反対だった父、軍国主義に反対だった母は、なぜ自ら侵略地に行ったのか? 生後6ヶ月の赤ん坊を残して、父はなぜ召集に応じたのか? 「戦争はもうじき終わる」と言いながら出征する父を、母はなぜ止めなかったのか? なぜ私は侵略地で産まれたのか? 詮無いことと思いながらも、私は心の中で母を責めました。 

 母が死んだ翌年、私はハルビンを訪ねました。 
 子どもの頃に母が語った思い出話のハルビンは、父と過ごした日々のことでした。夏はスンガリー(松花江)で泳ぎ、冬には凍った川面でのアイススケート、日脚の長い夕暮れには住宅の敷地内のテニスコートでラケットを振ったことなどでした。私には思い出さえも残さずに死んだ父が恋しかったです。ハルビンに行って私が生まれた家を探し、そこに立てば、父の吸った空気を私も吸えると思い、母が語らなかった言葉を感じられるだろうかと思ったのです。 
 初めてのハルビン行では、生家をみつけることはできませんでした。けれどもその時に、見知らぬ私を家に招き入れてお茶を振舞ってくれたおばあさんがいました。胸がいっぱいになりながら、「私たちの国は、中国のみなさんに本当に申し訳のないことをしました。お詫びします」と言うとおばあさんは、「それはあなたのせいではないですよ。日本の軍部がやったことです。あなたも同じ犠牲者ですよ。あなたがここで生まれたなら、ここはあなたの故郷です。懐かしくなったら、何度でも訪ねていらっしゃい」と言ってくれたのです。 
 母からは当時の日本人の暮らしは聞いていましたが、中国の人たちがどんな暮らしをしていたのかは聞いていませんでした。おばあさんの言葉に、中国の人たちの当時の生活を知りたいと思い、またハルビンへ行きました。2度目のハルビン行では、たまたま訪問した老人ホームで残留日本人に会いました。そこに日本人が居るとは知らず何の手土産も持たずに行った私に「お土産なんかいらない。日本語が話せるだけで嬉しい。だから、きっとまたきてください」と言われました。 
 それからの私は、ハルビンだけではなく幾度となく旧満州の各地を訪ね、その地に残されてしまった日本人や残留孤児を育てた養父母にも会い、戦争に翻弄された多くの人たちの声を聞いてきました。朝鮮人のおばあさんが、片言の日本語で言いました。「私2回の戦争あった。一つは日本、日本負けたね。それからアメリカと朝鮮ね。戦争2回ね」。朝鮮戦争では日本は米軍の補給基地の役割を果たしていたことを思い、身がすくみました。「申し訳ない思いでいっぱいです」と言う私に、「終わったらもういい。私かわいそうな人です。あんた、解ったらいい。私、あんたのこと解ります。あんた、私の娘よ」と、そのおばあさんは言いました。 
 祖国を恋いながら異国に暮らす残留邦人や、被害国の中国や朝鮮の人たちが、戦中・戦後をどのように暮らし、何を望んできたかも知りました。私が出会ったどのお一人も、戦争に蹂躙されて人権を踏み躙られ、人生を弄ばれ傷つきながら生きてきた人たちでした。 
 戦争のない平和な世界を願うのは、国家を超えて人としての願いなのだと、はっきりと言えます。あの戦争が終わり、私たちは再び戦争はしないと新しい憲法を持ちました。その憲法の下で育った私は、かつての侵略地への旅を重ねる中で、これらを確信してきました。 
 ところが2015年9月19日未明に閣議決定された安保法制は、平和を希求する憲法の理念を蔑ろにして、戦争への道、軍事体制を支える社会、国内外の犠牲を内包するものでした。そして法制定後の6年、この国は軍備を増やし、他国との武力紛争へ進む社会へと変えられ、近隣国への敵愾心が煽られる中で人々の意識はそれに慣らされてきています。 
 人は自分の生を生きるだけではなく、自分が生きた時代をも生きるものです。それはまた、自分の生に責任を持つだけではなく自分の生きた時代にも責任を持つことだと思います。初めて訪ねたハルビンで、恨まれても仕方のない老女から私は、お茶を振る舞われ優しい言葉をかけていただきました。その言葉で私は少しずつ自分の存在を肯定できるようになりました。そして戦争によって被った辛い体験を話してくれた多くの人たちの平和への願いを、私自身の思いと重ねて具現化することを自分の責務と思って生きてきました。しかし安保法制は平和への願いを打ち砕き、私たちの願いとは真逆の道へ舵を切ろうとしているように感じます。人生の後半になって、責任を負いきれないこのような現実を突きつけられ、悔しさと虚しさで胸が張り裂けそうです。憲法に反する安保法制に、私は強く異議を唱えます。

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渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。