第111回:ジーン・シャープの非暴力抵抗理論(想田和弘)

 前回(3月9日)、僕は本欄に「私たちは軍事国家から侵略を受けたときに、それに対してどう向き合うべきか」と題するコラムを書いた。そして4月15日朝日新聞のオピニオン欄「耕論」には「非暴力抵抗こそ民を守る」と題する談話を寄せた。

 以来、僕のソーシャルメディアには批判……というよりは罵詈雑言と呼んだ方がよいような感情的なリプライが怒涛のごとく寄せられている。

 それらの大半は、僕が言ってもいないことを、言ったかのように(意図的に? 無意識に? 読解が出来ず?)曲解して、あたかも僕の発言として攻撃するものである。いわゆる藁人形論法(ストローマン論法)という詭弁だ。しかし僕の言っていないことを攻撃しても虚しいだけで、意味がない。

 もっとも、藁人形論法が無意識に起きる心理的メカニズムは理解できる。相手が自分と異なる意見を述べていると、不快な感覚と嫌悪の感情が湧いてくるので、それが耐えられなくて相手の主張を聞けなくなるし、受け止められなくなるのである。議論で相手の話を途中で遮るのも、まったく同じメカニズムである。

 いずれにせよ、彼らのフラストレーションは、次のように要約できるだろう。

 「虐殺事件まで起きているウクライナの状況をお前は知っているのか? お前は家族が殺されたり強姦されたりしても無抵抗なのか?」

 そうした反発に、この場を借りて答えておきたい。

 まず、これも典型的な藁人形なのだが、僕が唱えているのは「非暴力による抵抗」であり、「無抵抗」ではない。朝日新聞の耕論には「戦うべきか、否か」という表題が付けられていたが、それに対する僕の答えは「戦うべき」である。ただし、物理的な暴力を使わずに、ストライキやボイコット、サボタージュなど、非暴力のあらゆる手段を駆使して侵略者と戦うのである。

 また、ウクライナの悲惨な状況は、もちろん知っている。というより、ウクライナの街や村が破壊され、多数の市民が殺され、虐殺事件まで起きているのを見れば見るほど、結局、武力で民を守ることはできないという確信が深まっていく。

 忘れてならないのは、ウクライナは非暴力の抵抗ではなく、武力による抵抗を選んだということである。

 素朴な主戦論者は「武器を取って国や国民を守る」と口々に言うが、それで実際に国や民を守れているといえるのか?

 残念ながら、僕にはまったく守れているようには見えない。

 というより、「武力は民を守るための有効な解決策ではない」ということを、ウクライナの惨状は、むしろ明らかにしてしまっているように思うのだ。

 では、どうしたらいいのか。

 主権国家であるウクライナの対応は、ウクライナ人が決めることであり、僕はその決定がなんであれ、尊重するしかない。

 だから私たち日本人が考えるべきは、「ウクライナ人はどうすべきか」ということではない。私たちが真剣に“自分ごと”として問う必要があるのは、日本が他国から侵略されたときに、どのように対応すべきか、ということなのだ。

 そのことを考える上で、最近、とても参考になる本を2冊読んだ(3月9日のコラムを書いた時点では読んでいなかった)。

 『市民力による防衛 軍事力に頼らない社会へ』(法政大学出版局、三石善吉訳)と『独裁体制から民主主義へ 権力に対抗するための教科書』(ちくま学芸文庫、瀧口範子訳)である。

 いずれもジーン・シャープ(1928-2018)というアメリカの政治学者が書いたものだ。

 シャープは「非暴力のマキャベリ」「非暴力的戦争論のクラウゼヴィッツ」などと称される、高名な学者である。ノーベル平和賞に何度もノミネートされ、アラブの春やウォール・ストリート占拠運動、セルビアのオトポール! 運動、ウクライナのオレンジ革命などにも大きな影響を与えたと言われている。

 ジーン・シャープが世界中の非暴力革命運動に与えた影響の概要を48分にまとめたドキュメンタリー映画『非暴力革命のすすめ』(2011年、イギリス)は、下記のリンクで見ることができる。シャープの理論と影響の大きさを知る上で、貴重な作品である。
 

 シャープの権力理論は、シンプルにして明快だ。

 そのエッセンスは、「いかなる独裁者や占領者も、人々の協力なしには権力を行使できない」ということである。

 どういうことか。

 たとえば、プーチンがロシア軍にウクライナ攻撃を命じたときに、軍の誰一人として、その命令に従わなかったらどうなっていたか。想像しにくいかもしれないが、あえて想像してみてほしい。

 結論から言うならば、プーチンが泣いてもわめいても、たった一人では戦争は起こせなかったはずだ。命令を実行しない軍人を処罰しようにも、彼らを逮捕するはずの警察や、裁くはずの裁判官までが命令に従わないのなら、お手上げである。

 つまりプーチンが戦争を起こすには、彼を正統な政治的権力者であり上司であると認め、命令を実行する無数の人々の協力が必要だったのである。要は彼の権力は、軍や警察や官僚やロシア民衆といった協力者たちに依存している。いくら偉そうにしていても、協力者がいなければプーチンと言えども「上半身裸で馬に乗る、ただのマッチョなおっさん」にすぎないのだ。

 考えてみれば当たり前にも思えるが、このコロンブスの卵に気づいて理論化したのが、ジーン・シャープである。

 彼は「人々の協力」という「権力の源泉」を崩壊させさえすれば、抑圧者が持つ権力そのものが自然に崩壊してしまうメカニズムを見抜いた。そしてそのメカニズムを起動させるには、暴力よりも非暴力的手法の方が、はるかに強力で犠牲も少ないと悟ったのである。

 シャープはこの気づきと、非暴力抵抗の歴史的実例(巷の思い込みに反して、実はたくさんの成功例がある)を挙げながら、それが独裁者であれ、占領者であれ、権力を無力化するための198の非暴力的方法を列挙している。

 それは抑圧者に対する政治的・経済的・社会的協力を、官僚も軍も警察も組合も民間団体も民衆も公然と拒否し、非協力を貫くための具体的方法である。

 シャープはこうした手法を、時には国を挙げて一斉に、時には分野を限って選択的・集中的に行うことを提唱する。そうすることで、占領者による統治をあらゆる局面でボイコットし、困難にさせるのである。そして占領を継続しようとしても、人的・経済的・政治的コストばかりがかかって果実が少ないという状況を出現させ、最終的には撤退に追い込むわけである。

市民力による防衛の武器あるいは方法は、非暴力的であり、心理的・社会的・経済的・政治的なものである。過去の準備なき非暴力闘争の事例で用いられた方法には、以下のものがある。すなわち、象徴的抵抗・輸送機関の麻痺・社会的ボイコット・特定部門のストライキおよびゼネラルストライキ・市民的不服従・経済封鎖・政治的非協力・偽造身分証の発行・経済的ボイコット・大衆的デモ行進・怠業・発禁新聞の発行・命令の意図的非効率的処理・被迫害者への支援・抵抗ラジオTVの放送放映・議会による正式な拒否・司法の抵抗・政府の正式な抗議・簒奪者の正統性の拒否・公務員の非協力・議会の引き延ばしと遅滞・拒否宣言・従前の政策と法の継続・学生たちの拒否・子供たちのデモ行進・協力の拒否・個人的集団的辞職・大規模かつ選択的な不服従・独立した集団と組織の自立性の堅持・簒奪者の軍隊の反政府行動、および反乱への扇動。(『市民力による防衛』)

 もちろんこうした手法を使えば、抵抗者は占領者によって激しく弾圧されたり、投獄されたり、処刑されたりする可能性はある。武装抵抗に犠牲者が出るのと同様、残念ながら、非武装抵抗運動でも犠牲者が出ることは完全には避けられない。

 しかしシャープいわく、そうした厳しい局面にあっても、非暴力闘争を成功させるためには、暴力を使うことは厳に控えなければならない。暴力を使うことは、権力者が優位性を保つ土俵にわざわざ自分から乗って、自らを不利にする行為だからである。暴力を使うことで、非暴力闘争の力を減じることはあっても、増大させることはありえないからである。

 そのことは、時に権力者がわざと抵抗者を挑発して暴力を使わせようとしたり、抵抗者のふりをして武装反乱を起こす撹乱者を投入したりすることからも、容易に想像することができるだろう。

 また、非暴力闘争を行うことで犠牲者が出たとしても、それは武力で応戦した場合に生じる犠牲者数と比べれば、はるかに少ない傾向にあることにも、留意すべきだとシャープは言う。

市民的防衛者に対する抑圧は、苛烈なものとなるだろう。抵抗者・家族・友人たちは、逮捕され、拷問を受け、そして殺されるかもしれない。全住民集団は、食料・飲料水・燃料を絶たれるかもしれない。デモ参加者・スト実行者・指示に従わない公務員は、銃殺されるかもしれない。人質は処刑され、異議を申立てる人たちすら大量虐殺されるかもしれない。防衛における人的犠牲は過小評価されてはならない。しかしながら、市民力による防衛における死傷者数およびその他の犠牲は、核戦争は言うまでもなく、通常の戦闘およびゲリラ戦といった厖大にして遥かに高い犠牲を生み出す状況と比べてみる必要がある。被災や死者は、激しい闘いであるなら事実上どのような場合でも、避けられないものである。しかしながら非暴力闘争は、死傷者数と破壊とを最小限にする傾向がある。限られた入手可能の証拠からではあるが、死傷被災率は、通常の戦闘、特にゲリラ戦のそれと大まかに比較した場合、<ごくわずか>である、と見られる」(『市民力による防衛』)

 市民による非暴力の抵抗運動は、武力による抵抗と違って、老若男女、あらゆる市民が主体となる。したがってその運動を効果的に行うためには、平時から非暴力闘争の方法を研究・計画し、コンセンサスを作り上げ、訓練していくことが必要になる。さまざまな歴史的事例が示す通り、侵略を受けてから動き出しても実行不可能ではないにしろ、やはり事前の準備や計画、戦略が成功の鍵なのである。

 だから僕はとにかく、まずはできるだけ多くの人にジーン・シャープの考えに触れて欲しいと思う。できれば彼を知らない人が、日本にも世界にもいなくなるくらいに。

 幸い、彼の著書は世界中の言語に翻訳され、日本語にも訳されている。『独裁体制から民主主義へ』は、侵略者に対する防衛というよりは、自国の独裁者を倒すための指南書だが、29の言語に翻訳され、圧政に苦しむ国々の人々に指針を与えているという。

 また、『非暴力を実践するために 権力と闘う戦略』(彩流社)と題する新刊も、今月出たばかりである。僕もさっそく読もうと思っている。

 みなさんも、ぜひ。

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想田和弘
想田和弘(そうだ かずひろ): 映画作家。1970年、栃木県足利市生まれ。東京大学文学部卒業。スクール・オブ・ビジュアル・アーツ卒業。93年からニューヨーク在住。BGM等を排した、自ら「観察映画」と呼ぶドキュメンタリーの方法を提唱・実践。監督作品に『選挙』『精神』『Peace』『演劇1』『演劇2』『選挙2』『牡蠣工場』『港町』『ザ・ビッグハウス』などがあり、海外映画祭などで受賞多数。最新作『精神0』はベルリン国際映画祭でエキュメニカル賞受賞。著書に『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』『観察する男』『熱狂なきファシズム』など多数。