第107回:70回目の「屈辱の日」@辺戸岬(三上智恵)

 沖縄本島最北端までドライブした人なら必ず訪れるであろう、辺戸岬。車を降りて散策すれば、遠く与論島を望む崖っぷちに立つ石碑の前で記念写真を撮った記憶があるだろう。ところでその碑は、「祖国復帰記念碑」ではなくて「祖国復帰」だということ、復帰を“寿ぐ”碑ではないということを、どれだけの人が理解してるだろうか?

 私は小学6年生の時、初めて家族旅行でこの国頭村北端の岬を訪れた。父が「沖縄が復帰した記念碑だよ」と教えてくれた。でも、碑文を読んでも意味がよくわからなかった。厳しいアメリカ軍政が終わって日本に復帰できたというのに、ちっとも喜びが感じられない文章。それどころか、怒りや口惜しさが渦巻いているように思えた。私は眉を寄せて一生懸命読むが、旧字や筆づかいのせいなのか、さっぱり理解できない。

 「なんか、これ書いた人怒ってない? お祝いじゃないの? なんでなの?」
 「そうだね……」

 父は明快な答えを示してはくれなかった。12歳の私は、ちゃんとその理由がわからないと、なんだか呪いの言葉みたいで怖いと思った。だからそのまま立ち去りたくなかったのだが、納得できる説明もなく、モヤモヤした気持ちで引き返した記憶が鮮明に残っている。

 この沖縄旅行は後々、私の人生を決定づけるものになるのだが、子ども心に私は二つの「呪いのように私にまとわりつく言葉」、すぐに解決できない宿題を沖縄から持ち帰ることになった。一つは旧平和祈念資料館の出口に書かれていた「むすびの言葉」。これも、長くなるので稿を改めるが、後ろ髪を掴んで展示室に引き戻されるのではないかと思うほど恐ろしい力で私の身体に入り込み、棲みついた。そしてもう一つがこの祖国復帰闘争碑のこの言葉なのだ。碑文は長いので後半だけここに書くことにする。

「祖国復帰闘争碑」(後半)

一九七二年五月十五日 沖縄の祖国復帰は 実現した
しかし県民の平和への願いは叶えられず
日米国家権力の恣意のまま 軍事強化に逆用された
しかるが故に この碑は
喜びを表明するためにあるのでもなく
まして勝利を記念するためにあるのでもない
闘いをふり返り 大衆が信じ合い
自らの力を確かめ合い 決意を新たにし合うためにこそあり
人類の永遠に生存し
生きとし生けるものが 自然の摂理の下に
生きながらえ得るために 警鐘を鳴らさんとしてある

 今考えてみると、12歳から沖縄に通い始めてこれまでの45年、そして30歳から住み始めて今までの28年は、あの平和祈念資料館の言葉に誠心誠意こたえようと自分なりの模索を実践する日々であり、またこの闘争碑の苦悶を自分の五臓六腑の痛みとし、内在化させるための年月だったのかもしれない。この間、数年おきに辺戸岬に来てこの碑文を読むたびに、わからなかった行がひとつずつ減って行き、やがて意味が全部わかるようになると、風に涙を飛ばしてもらわなくては読めなくなり、さらに対岸の与論島の「沖縄返還記念碑」の碑文に出会った時には滂沱の涙だった。その文章は、今回の動画のラストを見て欲しい。 

 そして今年は……。

 この復帰50年という妙に浮ついた年の5月15日を前に、そして日本から引き離された「講和条約」の日からちょうど70年である2022年の「屈辱の日」に、自分は何を思うのか? 何を思えばいいのか?

 それを知るために、海上集会やかがり火のイベントがある4月28日の辺戸岬に立ち寄ってみた。たくさんのメディアのカメラが並ぶ。中継車、消防車、大きなイベントのテント。ステージでは華やかな琉舞と歌。でも「屈辱の日」という言葉はどこにもなくて、「祖国復帰記念式典」と書かれた看板が日の丸と共に壇上に掲げられていた。

 式典には、国頭村と海を隔てて向き合う与論町の関係者も招待され、和やかに交流を深めていた。復帰の日は5月15日なのに今日復帰記念式典?という気もするが、沖縄の復帰に尽力してくださった与論島の方々を迎えるこの日にあわせ、感謝を込めて式典を、ということなのだろう。そして陽が落ちて、与論島と辺戸岬でお互いに見えるようにかがり火を焚くイベントが始まる。コロナ拡散防止への配慮で一般の参加者は少ない中、火が燃えあがっても「沖縄を帰せ」の歌声はあまり大きくはならなかった。いや、大勢来たとしても、どういう気持ちで今年それを歌うのか?は、微妙な問題だった。私は遠巻きに見ていた。結論から言えば、夜になってもどんな感情を持っていいかわからないまま、泣くこともできない自分がいた。

 「日本への復帰とは何だったのか?」と大上段に振りかぶった質問をされれば、それは、救済や解放の瞬間であるべきものが、あらゆる期待が失望に変わり、新たな苦難が始まった節目だったというほかない。碑文にもあるように、平和を希求する沖縄の思いは踏みにじられ、日本とアメリカ、二つの国によって更なる軍事化が始まったのだ。「戦争の島」から解放されなかった落胆は大きい。

 しかし、「絶望」ではなかった。沖縄はようやく日本国憲法を手にした。民主主義の主役になることができた。司法権も享受でき、異国の弾圧に怯える日々とは決別したのだから、積み残した課題は民主主義の手続きの中で徐々に実現してゆけばいい。復帰を勝ち取るまでの辛酸の日々に比べれば、これからはもっとじっくり、憲法に守られながら連帯を拡げて取り組んでいけばよいのだ。今より悪くなることはないのだ、と。
 
 私は復帰後の歩み50年のうち、28年をここで報道人として過ごしたので、5月が来るたびに、どこまで復帰時に積み残した課題を前進させ、そして何が未解決なのか? を毎年考えて取材し企画を作ってきた。本土との溝は簡単には埋まらないが、少なくとも、戦争や占領から遠ざかり、平和や解放に向かって進んでいるつもりだった。その速度は遅くとも、後退はしていないと信じていた。ところが、この数年の自国の軍隊による軍事要塞化のスピードはどうだ。米軍、米軍とアメリカの基地ばかり敵視しているうちに、あれよあれよという間に「中国と戦争するなら南西諸島で」という体制に組み込まれてしまったではないか。

 去年12月24日の県内の新聞の見出しは「沖縄 また戦場に」「米軍台湾有事で展開」「住民巻き添えの可能性」だった。米軍は、機動力を持った小規模な部隊を駆使し、自衛隊が展開している島も、そうでない島も縦横無尽に拠点としながらEABO(遠征前方基地作戦)という新たな戦略で中国を抑え込む態勢を構築する。日本もそれを了承するという方針が明らかになったのだ。沖縄はまた戦場にされるのか?

 よく読めば辺戸岬の碑文にも、県民の平和への願いは「逆用され」軍事拠点にされること、生きとし生けるものが命を長らえる、その当たり前が叶わなくなる「警告」が、ちゃんと書きこまれている。そうなのだ。この碑文はもちろん復帰の達成を祝うものでもなければ、ただの悔しさを刻み付けたものでもない。これは、日米両方の軍事拠点であることに県民が抗わないならば、私たちの島はまた戦場になるという明快な「警告」だったのだ。

 なぜ、復帰50年の沖縄が、再び戦場になる恐怖に怯える羽目になっているのか? いったい何が間違っていたのか? この50年の歩みのうち28年取材報道してきた私たちの仕事は、とんでもなく的外れだったのか? この5カ月もマガジン9を更新できなかったのは、ここを戦場にしないためのあらゆる努力をしなければ手遅れになるという焦りから、撮影どころではなかったという事情がある。昨年12月から「ノーモア沖縄戦 命どぅ宝の会」を立ち上げ、保革問わず、改憲派もそうでない人も、自衛隊の是非もどっちでもよく、とにかく南西諸島の島々を戦場にしないという一点で共に行動しようという会にして、賛同者を募っている。すでに1900人余りが賛同し加わってくださっている。しかし、まだまだ大きなうねりをつくれてはいない。

 「台湾有事」は日本の存立危機だと煽る声に乗って、自衛隊も米軍と共に参戦するなら、戦場になるのは南西諸島に留まらない。日本列島全体に及ぶことは避けられないだろう。ウクライナ情勢を受けて国内でも改憲・敵基地攻撃能力確保・核の共有を肯定する流れになり、日本列島の戦場化も日々現実味を帯びている中で、この「沖縄撮影日記」の枠の中で何かが書ける気がしなかった。しかし、それでもやはり、沖縄が日々直面する事柄からしか実感してもらえないことがある。先人が復帰記念「闘争碑」に、「未完の闘争を継続しなければ、ここはまた戦場になる」と警告していることを伝えなければならない。国内戦を知る沖縄から要塞化の末路を伝えなければどうするのか? と自分に喝を入れてこれを書いている。

 「祖国復帰」を渇望した沖縄に応えて、一足先に米軍統治から逃れた奄美の人々、特に目視できる距離に暮らす与論島の人たちが、どれだけ復帰運動に協力を惜しまなかったか。その秘話を、1998年に取材した動画を今回編集で入れているので、25年前の私の取材だが、ぜひ見て欲しい。全国の支援者、本土にいる沖縄出身者が大挙して4月28日の「屈辱の日」に合わせて与論に押し寄せ、目に見えない海の上の境界線「27度線」を挟んで船で交流し「沖縄は一人じゃないぞ」「分断を終わらせよう」と手を握り合った海上集会のこと。その前夜に海を挟んで大きなかがり火を焚いて「沖縄を返せ」を歌ったこと。しかし私の特集はそこで終わらない。与論が沖縄を見つめ続けているのに対し、沖縄は復帰後、与論島を見つめてこなかったことに触れている。近くて遠い奄美と沖縄の関係は、私の中でずっと一つのテーマとして消化しきれないでいる。そのあたりに関心がある方は是非今回の動画を見ていただきたい。

 復帰50年の月日とは何だったのか? と問われれば、私はこう答える。「憲法と民主主義を手にしても、日本と沖縄の不幸な関係を変えきれなかった50年である」と。そして、沖縄が再び戦場に使われるのでは、という危惧をついに払拭できなかった責任は、我々メディアにも大いにあるだろうと思っている。もっと言えば、沖縄が切り離されたことを悲しみ、その27年後の復帰を祝った覚えのある本土の善人たちが、みんなで沖縄の戦争の島から解放させようとこの50年本気で取り組んできたなら、沖縄戦の再来に怯えるような今日を迎えることはなかったのだ。

 「沖縄の不屈・人間解放の輝ける歴史」と与論島の人たちが称えてくれた沖縄の先人たちの苦労が実を結び、非戦の島としていつか、沖縄から世界の武装を解く流れを作ることができないものか。この丘に立ち、遥かに霞む与論島と、その手前に引かれた境界線を雲散霧消させた歴史を思う時、そんな壮大なことを考えてしまうが、夢想家に過ぎるだろうか。

 しかし、12歳の時に何らかのバトンをここで受け取った私は、それぞれに引き受けたものを担いで走ろうとする人たちと一緒に、何かを生み出していかねばならぬのだと改めて思う。怯えたり、泣いたりしている余裕はもうない。責任世代として本気でことを動かさねばと覚悟をしているからこそ、今年、私は辺戸岬で泣くこともできなかったのだと信じたい。

三上智恵監督『沖縄記録映画』
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標的の村』『戦場ぬ止み』『標的の島 風かたか』『沖縄スパイ戦史』――沖縄戦から辺野古・高江・先島諸島の平和のための闘いと、沖縄を記録し続けている三上智恵監督が継続した取材を行うために「沖縄記録映画」製作協力金へのご支援をお願いします。
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三上 智恵
三上智恵(みかみ・ちえ): ジャーナリスト、映画監督/東京生まれ。1987年、毎日放送にアナウンサーとして入社。95年、琉球朝日放送(QAB)の開局と共に沖縄に移住。同局のローカルワイドニュース番組のメインキャスターを務めながら、「海にすわる〜沖縄・辺野古 反基地600日の闘い」「1945〜島は戦場だった オキナワ365日」「英霊か犬死か〜沖縄から問う靖国裁判」など多数の番組を制作。2010年、女性放送者懇談会 放送ウーマン賞を受賞。初監督映画『標的の村~国に訴えられた沖縄・高江の住民たち~』は、ギャラクシー賞テレビ部門優秀賞、キネマ旬報文化映画部門1位、山形国際ドキュメンタリー映画祭監督協会賞・市民賞ダブル受賞など17の賞を獲得。14年にフリー転身。15年に『戦場ぬ止み』、17年に『標的の島 風(かじ)かたか』、18年『沖縄スパイ戦史』(大矢英代共同監督)公開。著書に『戦場ぬ止み 辺野古・高江からの祈り』(大月書店)、『女子力で読み解く基地神話』(島洋子氏との共著/かもがわ出版)、『風かたか 『標的の島』撮影記』(大月書店)など。2020年に『証言 沖縄スパイ戦史』(集英社)で第63回JCJ賞受賞。 (プロフィール写真/吉崎貴幸)