第112回:「くじ引き民主主義」を導入せよ。政治を「みんなのもの」に取り戻すために(想田和弘)

 細田博之衆院議長が5月10日、東京都内で開かれたパーティーで、次のように発言した。

 「いったい、いくら歳費をもらっていると思いますか。議長になってもね、毎月もらう歳費は100万円しかない。“しか”というと怒られちゃうけど、そんなにもらってるのかと言うけど、会社の社長は、1億円は必ずもらうんですよ、上場の会社は」

 この発言に接して、僕はSNSで次のような投稿をした。

 「細田衆院議長の『月100万円しか』発言が話題ですが、そもそも日本の国会議員の給料は高すぎます。各種手当を含めると世界第1位だそうです(報酬だけだと世界第3位)。私見では、日本国民の収入の中央値(約433万円)を年間の報酬額として設定すればいいと思います。それが妥当じゃないですか?」

 すると僕の投稿に賛同する人も多かったが、批判的なコメントもいくつか寄せられた。そのなかで目についたのは、「それではそれぞれの専門分野で多額の報酬を得ている専門家や有能な人が政治家になってくれない」という趣旨の反論である。

 僕はこうした意見を読んで、いくつかの問題について、改めて深く考えざるを得なかった。

 まず、彼らは言外に「“できる人”(エリート)が国会議員になるべき」と言っているわけだが、それはデモクラシーのあり方として、本当に理想的といえるのかということである。

 いや、かく言う僕も、「有能で良識のある人に議員になってもらわねば困る」とずっと無意識に考えてきたような気がするし、選挙ではそういう基準で票を投じてきた気がする。

 だが、それで本当によかったのか。

 というのも、「自分たちのことは自分たちで決める」というデモクラシーの理念からいえば、議会はむしろ、社会の多様性をそのまま縮図にしたようなメンバーで構成されるべきではなかったか。つまり、社会からはみ出した人や“できない人”も、一定数、議会にいるべきではないかと思うのだ。

 “できる”エリートばかりが構成するエリート主義的な議会がさまざまな決定を積み重ねていけば、当然、社会はますますエリートに有利な制度や法体系に改変されていくはずである。少なくとも、エリートに不利なものには変わっていきにくいだろう。

 そう考えると、日本を含む世界中の“民主主義国”で、エリートとそうでない人の格差が広がっていったのも、必然ではなかったか。ほとんどの“民主主義国”では、日本同様、主にエリートが構成する議会で法律や制度が作られてきたからである。

 そこまで考えて、僕はフェイスブックに思いつきで、次のような投稿をした。

 「これは僕の妄想ですけど、必ずしも『できる人』に議員になってもらわなくてもいいから、人口構成を反映した議会を目指すのはどうですかね。男女は半々。弁護士もいれば、会社員、主婦、飲食店経営者、農家、漁師、学生もいる。いろんな背景の、いろんな利害の人が、抽選とか順番制とかで選ばれて、議会を構成する。政党は廃止。
 議員として働く間は、国民の平均的な収入を保障される。イメージとしては議会を町内会役員みたいな感じにするわけです。『あれれ、今年はウチの順番ですか。しかたねえなあ』とか言って、議員になって議会へいく。その方が民主的じゃね? 議会で出される結論も、それほど変なことにはならない気がします。
 まあ、想像してみてください。3000万円の年収がある人は、年収200万円の人の生活は想像できないし、守ろうとしませんよ(例外はいるけど)」

 この投稿には、思いのほか、共感する人が多かった。現時点で、1056人が「いいね」をして(「超いいね」「大切だね」なども含め)、78人が「シェア」してくれた。

 結構、みんな今の制度に限界を感じているのだ。

 その主な理由は、

 1)選挙制度がうまく機能していないこと。
 2)その結果、議会が利権や報酬に群がるシロアリの巣か、世襲議員の家業のようになっていること。
 3)政党が部族化・利益集団化して、公共の利益よりも党利党略を優先していること。
 4)その結果、政治が私物化されていること。
 5)総じて、議会が人々の立場や利益を代表していない、と感じていること。
 6)地方議会では、そもそも議員のなり手が不足していて、無投票選挙が増えていること。

 などが挙げられるだろう。

 そう書きながら、僕は数ヶ月前に本屋さんで何の気なしに手に取り、買ったけれども読まずに本棚にしまっていた新書のことを思い出した。

 政治学者の吉田徹同志社大学教授が書いた『くじ引き民主主義 政治のイノヴェーションを起こす』(光文社新書)である。

 なので早速読んでみたのだが、僕の「妄想」もあながち的外れではなかったのだなと、我ながら驚いた。

 吉田氏によると、古代アテネや15世紀のフィレンツェ共和国では、実際にくじ引きで代表が選ばれていた。そして現代でもドイツ、アイスランド、アイルランド、フランスなど、くじ引き民主主義(ロトクラシー)を限定的に導入する例が増えているという。くじ引き民主主義は古くて新しい民主主義の手法であり、行き詰まった代表制民主主義(選挙で代表を選ぶ民主主義)に風穴を開け得るものなのだ。

 そして何よりも、アリストテレスやモンテスキューまでが、僕と同じようなことを言っていたことに驚かされる。

「執政官がくじ引きで選ばれるのが民主的で、選挙で選ばれるのは寡頭制的であるとみなされる」(アリストテレス)
「くじ引きによる選出は民主主義の本質であり、選挙による選出は貴族政の本質である」(モンテスキュー)

 吉田氏の新書の帯には「選挙では何も変わらない」とセンセーショナルな煽り文句が踊っているが、彼もすべての議会をくじ引き民主主義に変えるべきだと主張しているわけではない。代表制民主主義を使いつつも、それを補完する手法としてくじ引き民主主義を使うべきだというのだ。

 僕は、それはデモクラシーの原点に立ち帰り、政治を「みんなのもの」に取り戻すために、絶対に必要なアイデアだと思う。

 だからみなさん、ぜひとも読んでみてください、吉田氏の本を。

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想田和弘
想田和弘(そうだ かずひろ):映画作家。1970年、栃木県足利市生まれ。東京大学文学部卒業。スクール・オブ・ビジュアル・アーツ卒業。BGM等を排した、自ら「観察映画」と呼ぶドキュメンタリーの方法を提唱・実践。最新作『五香宮の猫』(2024年)まで11本の長編ドキュメンタリー作品を発表、国内外の映画賞を多数受賞してきた。2021年、27年間住んだ米国ニューヨークから岡山県瀬戸内市牛窓へ移住。『観察する男』(ミシマ社)、『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』(講談社現代新書)など著書も多数。