夢のような午後を過ごした。
一夜明けた曇り空の日曜日。幸せな時間の余韻が、日常に混じって徐々に薄れていくのに抗うように、私は昨日のライブを反芻している。その頭の中を「森の木陰でどんじゃらほい」の童謡が流れている。そう、まさにそんな午後だったのだ。
「歌と踊り 風の会」と名付けられた寺尾紗穂さん企画のライブが、5月14日、徳田教会ベタニア宣教センターにて行われた。
カフェ潮の路のすぐ近所の徳田教会の入口を抜け、マリア様が迎えるロータリーのその更に奥に、側面を鬱蒼とした木々に守られたベタニア宣教センターがある。
晴天なら広い庭を観客席にして、荒天ならば大きな窓のすべてを開け放って室内ライブが行われる予定だった。室内ならば定員80人、庭が使えれば100人~200人は収容可能だったのではないか。天気によって、集客も、コロナ感染リスクも大きく変わる。
5月に入ると、連日雨が続いた。私達はかなり早い段階から天気予報を睨んでは一喜一憂し、「なんとかなりそう!」と喜んだ翌日に、「あ、やっぱ雨か」とガッカリしたりしたあとで「この時期、当日にならないと分からないね」と人知を超えた気象予想を手放し、それぞれがそれぞれの神頼みをしていた。
イベントを数日前に控えた頃、ベタニア修道女会のシスターから連絡があった。
「修道女会の男性ボランティアスタッフがね、てるてる坊主を作ってくださったの。雨に濡れたら可哀そうだからと、合羽も着せてくれたのよ」
てるてる坊主 てる坊主
明日天気にしておくれ
いつかの夢の 空のよに
晴れたら 金の鈴あげよ
童謡に歌われるように、晴れたら金の鈴をつけてあげなくてはと話しておられたと、少女のように笑いながら教えてくれた。
魔法みたいに
イベント当日の午前中、私の家の周りでは雨雲がときおり目覚めたみたいに軽い通り雨を降らしたりしていたが、空は徐々に明るくなってきていた。
今回のイベントは、忙しくて余裕のない私達に代わって、寺尾さんサイドの人たちが企画からチラシ作成、予約受付などをすべて担当してくれていた。
せめて当日のお手伝いをさせてもらおうと、早目に会場へ行くと、雨上がりの植物たちの色鮮やかさに、視力が上がったのかと思ったほど。
一つだと思っていたてるてる坊主は、会場にたくさんぶらさがって私達を迎えてくれ、「私達、がんばりました!」と口々に報告してくれているよう。一番大きなてるてる坊主リーダーの首には、お礼の金の鈴がつけられていた。
13時半開場。
受付で待ち構える私たちの元に整理番号で区切られた10人ずつがやってくる。「47番、●●●●です!」と皆さん申告してくださるのが、のど自慢を思い出させ、「北酒場を歌います!」と勝手に想像を膨らませて愉快になりながら受付をしていると、番号とお名前のあとに「Eテレ見ました」という予想と違う言葉が発せられて、顔を上げた。『わたしはパパゲーノ』を見てくださった方だった。
この2年ほどで、いくつかのテレビ出演やたくさんの取材の機会をいただいた。そのほとんどは「支援者」としての登場で、貧困問題を世の中に伝える上で猛烈に助けられた。ありがたい。とはいえ、私はそれほど立派な人間ではないので、番組を見た人たちに過大に評価されると、なんだか心細さや後ろめたさも感じてしまう。
『わたしはパパゲーノ』では、支援者として奮闘する姿ではなく、生きづらい社会で溺れながら、迷いながら、情けなく生きてきた自分のこれまでを白状している。私は、この番組を見てくれる人がいるのが嬉しい。大変だけど今日を生きてみる、そう思ってくれる人がいるのなら、胸をかきむしりたくなるような孤独も、涙が枯れて声しか出ないような嗚咽も、いなくなりたいと願った夜も、ずっと曇った空を見上げていた昼休みも、迷った日々も、報われるから。
私はまだ生きています、いくつもの
14時に寺尾紗穂さんが登場し、ピアノの前に座る。
静かなピアノとイントロで始まる一曲目は「いくつもの」。
お客さん達は会場の芝生の上で思い思いの恰好で座っている。つくろい東京ファンドのシェルターを経て地域で暮らしているおじさん達も、コロナ以降はじめての大きなイベントにワクワク、ソワソワしている。
会場に集まる多くの人たちが寺尾紗穂さん目当てなのに比べ、つくろい東京ファンドゆかりのおじさん達は、この日、ミュージシャンとして参加するつくろい東京ファンドの生活支援スタッフ村田結さんの歌を初めて聴けるとあって、ずっと楽しみにしてきたのだ。
酔っぱらって転び、腰椎を圧迫骨折したおじさんには「タクシーでおいで」と言ってあったのに、杖をついてえっちらおっちらやってきた。
今年の二月に足切断の危機に瀕して、すんでのところで助かった高齢のおじさんも、「今でも時々(足が)痺れるんだよなー」と言いながら、会場の前の方で鑑賞している。隣に座り、「写真撮ろう」と、ツーショットで撮る。そのおじさんの顔が穏やかで優しくて、思わず泣きそうになる。
また、贅沢なことに寺尾さんの伴奏で「河内おとこ節」を歌う長老92歳は、一週間前に洗濯物を干そうとして庭先で派手に転び、救急搬送された。医師に入院を勧められた長老は、その勧めを迷うことなく断り、縫った頭に大きな絆創膏を貼られ、介護タクシーで家に帰ってしまった。
この人はイベントに命を懸ける人で、5月にはつくろいシェルターの屋上にミニ鯉のぼりをつけるとか、デイサービスで達筆ぶりを披露するとか、彼のカレンダーは様々なイベントで埋め尽くされている。その中でも、100人以上の観客を前に、寺尾さんの生演奏で歌うなんて一世一代のチャンスを彼が諦めるわけがないのである。
電動車椅子で会場にやってきた長老92歳は、楽屋で粋な浴衣にハッピ姿に着替え、緊張で震えながらリハーサルを重ねる村田結さんに「たすきを縛ってくれ。後ろでキレイにバッテンになるように頼むわ」と迫り続けた。
長老十八番の「河内おとこ節」の歌詞を、見事な達筆で扇子の裏側にしたためてアンチョコにしたのに、その大事な扇子を途中で失くして大騒ぎ。直前までドタバタは続く。途中いなくなったので、どこに行ったのかとあたふた探していたら、喉が渇いたのだろう、外に買い物に出かけていたらしく、電動車椅子でウイーンと戻ってきた手にはジョージアの缶が握られていた。
もう一人の出演者であるアフリカ出身の仮放免中のジャンベ奏者は、現在、つくろいシェルターに入所中。朝、約束の時間になっても部屋から出てこず、迎えに行った支援者の間に緊張が走った。が、ただの寝坊だったことが分かり、何とかみんな会場入りした。いろいろ、予定通りにいかなくて冷や汗をたくさんかきました。
歌が生まれる場所
寺尾さんは実に楽しそうに歌っていた。
その様子を形容する言葉として、「愛」とか「慈しみ」のようなありふれた単語にしか変換できない自分の語彙力をいまほど悔しいと思うこともない。
寺尾さんは、思い出の一つ一つを、とても大切に、なでるように、愛でるように歌う。
私はファンの方々に比べれば、沢山ライブを見ているわけでもないが、笑うように歌う寺尾さんを見るのは初めてかもしれないと思った。
ライブが始まってからほどなくして、寺尾さんの声門が一気に開け放たれたような瞬間があった。いきなりのドルビーサラウンドである。圧倒的な歌声が一帯を完全に制覇する。
木々の鳥たちも賑やかにさえずり始め、活発に行ったり来たりする。その上を飛行機が飛んでいく。クロアゲハやツマグロヒョウモン、ハチが観客の間を縫うように舞い、目当ての花壇に向かう。路上生活を経験した方たちで形成された舞踏集団「ソケリッサ!」の面々が踊るその足元を、「はいはい、ごめんなさいよ」というようにダンゴムシが横断していく。歌声と踊りが交差する中を、いろんな生き物が共存していた。
寺尾さんの記念すべき通算10作目のオリジナル・アルバム『余白のメロディ』(6月22日発売)に収録されている「歌が生まれる場所」が心の深いところに落ちる。
ライブが始まる直前、かつての同僚で元ソケリッサダンサーの横内真人さんと話していたのだ。
「今日のライブにカズも来てるね」
「来てますよ、絶対。あの辺にいるんじゃないですか?」
カズは去年、闘病の果てに先立った同僚だ。横内さんは向かいの建物の屋根を示したので、「そんな遠くじゃなくて、横内さんのとなりに今いるかも」と私が指をさすと、「となりはちょっとうるさいんで、あの辺でいいです」と再び屋根を指さした。「目の前で観てあげますよ」と言う笑いを含んだカズさんの声が聞こえるようだった。
見えなくなった人たちも、みんな来てくれていただろう。会場に向かう前に事務所の仏壇にお線香あげて、ちゃんと知らせてきたから。
歌の途中で一羽のカラスが屋根にとまり、しばらく私達を見下ろしていた。写真を撮ろうとスマホを向けると、見透かしたように飛び立った。「カズですね」と横内さんは言った。
アジアの汗
会場には、つくろい東京ファンドや外国人の医療支援をする「北関東医療相談会」が関わる仮放免者たちも来ていた。
様々な理由で自国にいられなくなり、日本に辿り着いた人たちだ。
難民申請をしても却下され、認められず、かといって国に帰ることもできずに、入管施設に長年収容され、長期にわたって自由を奪われてきた。
現在コロナ禍で入管施設内での感染防止が難しいために、仮放免という形で施設の外には出られたものの、彼らは就労を許されず、健康保険の加入もできないために必要な医療も受けられない。社会保障へのアクセスもない。この日本で最も脆弱な立場に置かれている人たちだ。
県外に移動する場合には入管の許可が必要になる。都外から会場にやってきた南アジアの男性は、この日のために入管に2時間並び、許可を得ている。許可を得るために、会場の住所、地図、会場の写真、ライブのちらしなどを提出している。
ライブに出かけるにもこれだけの準備をしなくてはならない人たちがいることを、多くの日本人は知らない。明日、再収容されるかもしれない、そんな不安と恐怖に怯えながら、再収容されるか、飢えるか、ホームレスになるか、そんな選択肢しか持たずに眠れぬ日々を送っている人たちがたくさんいることを。
グローリーグローリー、ハレルヤ!
アフリカ出身の仮放免者はジャンベ奏者でもある。今は仮放免の身分で、深刻な病気治療も食べることも支援者頼み。ジャンベを買う収入はなく、叩く余裕も場もない。日本にいても死ぬのを待つだけなら、帰国して殺されても同じだからという絶望的な理由で帰国を選んだ彼は、今、長旅に耐えられるだけの健康を取り戻すためにシェルターで医療支援を受けている。
リハーサルも満足にできなかったのに、人からお借りしたジャンベを足で挟み、寺尾さんの歌に合わせて叩く彼の姿は、私達がこれまで一度も見たことがない姿だった。悠々と満ち足りた表情をしていた。歌声とリズムを体で受け止めるようにして、軽快に太鼓をたたくそのリズムよ! 音楽がコミュニケーションであることを実感する。静かに聴いていた人たちの体が、知らず知らずのうちにリズムを刻む。
日本という国は、この人を受け入れず、この人から音楽を取り上げ、帰れば身に危険が及ぶと分かっている国に帰そうとしている、そのことが途方もなく残酷で非人道的に思えた。
「日本のわらべ歌にアフリカのジャンベがこんなに合うなんて、不思議ですね」と寺尾さんが感想を述べたように、私達は、本当はその気になれば共存することなどわけないのだろう。
あなたがあなたであることを願いながら
わたしがわたしであることを願いながら
「Glory Hallelujah」の歌詞を反芻しながら、誰もが当たり前のように自分のままでいていい場所、思い思いの恰好で足を延ばしたり、体育座りに顔を埋めるようにしたり、あるいは日陰を選んで、一人ひとりが様々な思いを抱え、そこに「居る」こと、「居合わせる」ことができる場の力、豊かさを噛みしめていた。
ソケリッサのメンバー達が人々の間を踊りながら練り歩き、最初は緊張していた村田結さんの繊細で澄んだ声も遠くまで響き渡った。合いの手のように鳥が鳴く。テントウムシが芝生を上がったり下りたりしている。
寺尾紗穂さんは、私達が声高に叫んでも全然実現に近づかない「こうだったらいいのにな」な世界を、いつもあっさりと実現してしまう。
シスターが「夢のよう。こう言ったら大げさかもしれないけど、天国みたいね」と両手を合わせて囁いた。閉そく感と絶望に覆いつくされた日々に、一筋の光が差したような午後だった。