第29回:福島の今を知るツアー報告&飯舘村へ(前編)「福島の良いところも被害を受けて酷いところも知って欲しい」(渡辺一枝)

「あれから11年 福島の今を知るツアー」

 5月5日、「あれから11年 福島の今を知るツアー」と題する福島行きのツアーに参加した。いつも私が福島行きの際の案内をお願いしている今野寿美雄さんと私がガイド役で、教会関係の方たちを案内しての日帰りツアーだった。

 きっかけは、昨年の11月23日に福島県の須賀川シオンの丘で開催された「日本福音同盟」主催の「JEA宣教フォーラム21」だ。この集会に私は、講師の一人として参加した。「〜これまでのフクシマと、これから〜」のタイトルで、ピアニストの崔善愛さん、元朝日新聞記者の本田雅和さんと私が発言者として招かれていた。その時もまた私は、今野寿美雄さんに同行をお願いしていたので、集会関係者の方たちに今野さんを紹介した。そして、このタイトルでの集会では今野さんこそ発言者としてふさわしいとなって、今野さんも発言をした。私は自分の発言の中で新聞やテレビでの報道では判らない現実を、現地を訪ねることで知ってほしいと話し、今野さんは被災地ツアーをするなら案内しますと言った。
 今年になって、集会の事務局を担当されていた会津聖書協会の高橋拓男牧師から、被災地ツアーをしたいので協力をしてほしいと依頼があった。参加者は十数名でシオンの丘から日帰りでという希望だった。今野さんにその旨を伝えた。訪問先は双葉町の「東日本大震災・原子力災害伝承館」と浪江町請戸に絞った。須賀川から日帰りでは、それで精一杯だろうからだ。
 参加者は県内外各地からシオンの丘に集合し、そこからマイクロバスで現地に向かうという計画で、今野さんも私も、当日はシオンの丘に9時集合だ。

まずは大熊町へ

 当日は郡山駅で今野さんにピックアップしてもらい、シオンの丘へ向かった。出発してすぐに簡単に各自自己紹介をした。車内にはマイクが備えられてなかったので、右耳難聴で左耳しか機能していない私にはよく聞き取れなかったが、神奈川、東京、仙台、県内各地から参加されていた。参加者は15名で、それに今野さんと私、マイクロバスの運転手と、総勢18名だった。
 五月晴れの爽やかな青空に鯉のぼりが泳ぎ、早苗田に日光が照り返す。自生の藤がそこらの樹木に絡みついて薄紫の花を重たげに咲かせている。また同じ色で桐の花も咲く。里桜が八重でぽったりとした花を、枝いっぱいにつけている。ツツジが赤く咲き、原っぱはタンポポが一面に黄色い花冠を空に向けていた。
 バスは通称「ニイパッパ」と呼ばれている国道288号線を通って、田村市の都路町地区を抜けて大熊町に向かう。前の座席に座った今野さんは都路を通過するときに後ろを向いて立ち、「原発事故後ここは警戒区域に指定された地域だが、2014年4月1日に指定解除された」と説明した。私は避難指示解除後に雑誌『たぁくらたぁ』の取材で、1軒の農家を訪ねたことがあった。あのときに話を聞かせてくれた田中さんはどうしているだろう。
 田中さんは、被災前にはお父さんと共に、米作のほかに大きなビニールハウス数棟でトマトを作っていた。味が良いのが評判で都内の有名レストランなど固定客が多くついていて、品種や栽培時期などを工夫して一年中いつでも新鮮なトマトを出荷していたと言った。取材では、原発事故後警戒区域に指定されてからの苦難を話してくれた。指定解除になって戻ってくるまでの間に赤ちゃんが産まれて、その子はまだ1歳のお誕生日前だった。トマト農家として再生を目指しながらも、果たして地域は安全な場所なのかを苦悶していた。農家の後継として、そして幼子のお父さんとして、悩みに悩んでいる様子だった。
 今野さんは「窓を閉めてください。ここからは高線量地域に入っていきます」と注意を促し、バスは大熊町に入った。参加者のお一人で福島市のパプテスト派教会の大島博幸牧師が、持参の線量計を出してスイッチを入れた。空間線量0.3マイクロシーベルトになると警戒音を発するように設定されていて、すぐにもピーピー鳴り出した。やがてピピピピと間断なく鳴り出したのは線量が高くなったからだった。大島牧師は「0.5、0.6……」などと線量計に掲示される数値を読み上げながら「車内でもこれだけですから外はもっと高いでしょう。場所によって、風向きなどによっても変化しますが、多少上下はあっても危険区域です」と皆に言った。
 やがて大熊町役場や復興住宅などが見えてきた。今野さんは「ここは大川原地区といって大熊町の復興拠点です。あの黒い建物は町役場でその向こうの住宅は復興住宅です。これらの建設に35億円がかかりました。役場に27億円、住宅に8億円だそうです。復興住宅は50戸くらいありますが、全部埋まっています。ここは元々の町民たちが入っていますが、高齢者しかいません」と説明し、バスは住宅の周囲をぐるりと回って、役場の前にある商業施設の「おおくまーと」の駐車場に停車した。トイレ休憩だ。
 「おおくまーと」には、隣接して宿泊や温浴施設、ホールや会議室のある施設が営業していた。その向こうに工事中の場所があり、大きなクレーンが見えるのを指して今野さんは「学校をつくっています。小中併設校です。子どもたちは現在は避難先の会津の学校に行っていますが、来年度ここができても、子どもたちは戻ってくるでしょうか?」と言った。
 以前に私は大熊町役場に置いてあった「学び舎 ゆめの森」と題されたパンフレットを入手していたが、そこは0歳児から受け入れる子ども園と義務教育学校を併設した、とても凝った設計の建物になるようだった。校歌は谷川俊太郎さんが作詞し、息子の谷川賢作さんが作曲している。ここと同じように認定こども園と小中学校を併設した飯舘村の学校では、制服がコシノジュンコデザインだ。「なんだかなぁ!」と思う私は、根性が曲がっているのだろうか? 子どもたちが健やかに育つ環境こそ大事だと思う。土を掘ってダンゴムシを見つけたり、どろんこを捏ねて硬い泥団子を作ったり、森の中でカブトムシを見つけたり木登りしたり、野の花や草笛で遊んだり……。そんな環境こそ大事だと思うけれど、ここもまた除染したとはいえ、そんな環境には程遠い。
 トイレ休憩を終え、またバスに乗り込むとすぐに土地を造成中の場所が見えた。そこは企業を誘致して工業団地にする予定地だという。道路を隔てて役場の向かいに立っているのは東電社員の独身寮だ。家族寮は別に在り、だがそこには家族で暮らす社員はおらず、皆単身赴任だ。国、県、町はこの大川原地区をコンパクトタウンとして、住民の呼び戻しと新たな居住者の呼び込みに使おうとしているのだ。私には敗れた国の汚染された山河に人を住まわせて、無理矢理に国を繕い直そうとしているようにしか思えない。

双葉町へ

 国は帰還困難区域に指定した地域内の復興拠点地域について、大熊町、双葉町、葛尾村は今春中に、浪江町、富岡町、飯舘村は2023年春に指示解除の方針で、除染とインフラ整備に当たっている。そして解除の1年前から、各地の準備宿泊制度を設けている。一体どれほどの人が戻るというのか。指示解除されても、これまでの例から推測して、行政区の元の人口の1割に満たないほどしか戻らないだろう。もっと人口増があるように喧伝されていても、それは作業員など他地域からの移住者であったりする。かつては大熊町で一番賑わっていたであろう大野駅周辺は、寂しい限りだ。帰らないと決めた人たちは、国が費用をもつ期限内に自宅の解体申請をしたから、そこここが更地になっている。ポツリと残っている家屋は11年もの間無人だったから、荒れて廃屋状態だ。その廃屋に薄紫の藤の花が咲き、更地になった住居跡には濃紫の三寸アヤメが咲いていた。
 こんな侘しい大野駅周辺だが、駅舎は真新しく立派だった。ここには特急「ひたち」も停車するが、折しもちょうど、その特急「ひたち」が停車し、そして上野に向かって発車していった。下車した人は居なかった。ここからは見えなかったが乗車した客もいなかっただろう。駅前には何台かのタクシーが停車していて、「観光タクシー」のポール看板が立っていた。運転席に運転手の姿は見えなかった。きっと看板にある電話番号で呼び出すのだろうが、どのような観光ルートを回るのか、興味深く思った。
 大島牧師の線量計は警戒音を発し続けている。読み上げられる数値は、「0.6、1.2、2、4(マイクロシーベルト)」と上がっていった。更地になった場所を指して、今野さんが言った。「ここは冨沢酒造という酒屋さんがあったところです。江戸時代から300年続く造り酒屋で銘酒『白富士』を作っていました。店の人たちは震災後米国シアトルに避難しましたが、酒蔵の酵母が活きていたので、今は避難先のシアトルで伝統の『白富士』を復活製造しています」。驚くような話に車内には「ほぉっ」と声があがった。
 北上する窓の外には、屋根の片側が地面について傾いた、11年前の地震の被害がそのまま残る家屋、屋内のカーテンも障子もズタズタに破れて屋根の上まで蔓草に覆われた廃屋などが見える。今野さんは「見てください。これが11年目の福島です」と言い、窓ガラス越しに写メを撮る人もいた。

復興シンボルロード

 名門双葉高校を過ぎるとしばらく先でバスは右折する。信号の手前で左の跨線橋工事を指して今野さんが「あの工事は常磐線の線路とこの6号線を跨ぐように、右に行くこの道に繋げるために跨線橋での道を作っています。常磐線なんて1時間に1本しか通らないし、ここもそんなに信号待ちしないのですが、これも復興予算でゼネコンを儲けさせる工事です。我々が今右折した道に繋げる工事ですが、この道路は“復興シンボルロード”です。ほら、道路標識に書いてあるでしょう」と言った。何度通っても私は、そのネーミングには背筋がゾワゾワとする違和感を覚える。

「東日本大震災・原子力災害伝承館」へ

 伝承館の駐車場にバスを停めて、まずは伝承館に隣接する「双葉町産業交流館」のフードコートで昼食。18人の集団で時間も限られた日帰りツアーなので、フードコート内の「せんだん亭」に今野さんが予めパック入りのなみえ焼きそばを注文してあった。ツアーガイドの今野さんは、このなみえ焼きそばについても参加者に説明をした。「元々B級グルメとして人気はあったのですが、震災後に被災地応援の意味もあったのでしょうがB級グルメグランプリとなりました。麺は太いですが、うどんじゃないですよ」。その言葉にみんな笑いながら美味しく食べて、建物屋上に向かう。
 屋上からは太平洋が望めて請戸漁港も見えるが、逆側に目を向ければ、双葉町の中間貯蔵施設が顕に見える。黒いフレコンバッグが並べ置かれている様、フレコンバッグを汚染度によって仕分ける施設、仕分けたフレコンバッグを一時保管する施設などが見える。中間貯蔵施設のここに30年貯蔵して、その後、どこに持って行けるというのだろう? 聞くたびに、見るたびに、「嘘つけ!」とはらわたが煮え繰り返る。
 そして次はいよいよ「東日本大震災・原子力災害伝承館」へ。ここについてはこれまでの「一枝通信」で何度も書いてきたので省くが、今回参加した人の感想「津波の被害についての展示が多かったですが、原発事故についてはあまり触れられてなかったです」が、全てを表していると思う。

請戸・大堀、そして帰路へ

 請戸小学校震災遺構を見学してから、2011年3月11日の地震で顕になった断層を見にいった。そこははっきりと断層があることが見て取れる。道路の左右の車線を分かつ黄色い線がぶつりと途切れて、1.5メートルほどもそれがずれている。地盤も沈下している。地震列島に住む怖さを、改めて思う。
 更地の街になった浪江の商店街跡を抜けて浪江の道の駅へ。ここで買い物タイム20分。
 そこから大堀地区を抜けて一路須賀川へ。大堀を通るときに今野さんは、先日の千葉訴訟(原発事故後に千葉県に避難した福島県の住民たちが、国と東電に損害賠償を求めて起こした裁判)上告審で、原告で92歳の小丸哲也さんが意見陳述をしたことを話した。
 4月15日の最高裁でのこの裁判には、私も傍聴に行った。傍聴券の抽選には漏れたが、報告会で法廷の様子を知った。小丸さんは意見陳述で、次のように述べた。
 「国は多額の交付金を大熊町・双葉町に出し、東電への設置許可を与え、原子力発電所を建設したのですから、理屈なしにこの原発事故は国の責任と考えます。国は原子力発電所を監督する為、経済産業省から保安検査官を派遣しました。そして、国も東電も『原子力発電所は絶対安全・安心』という安全神話を、莫大な経費を使いあらゆる媒体を通じて、地域住民に対し40年間言い続けてきました。この『絶対安全・安心』を大前提として、国と東電は、防潮堤を造らず、津波対策を行わないという判断をしていたのですから、東電の責任は当然のことながら、国の監督責任は重大であると思います」。最高裁の4名の裁判官たちは、しっかり耳を傾けていたという。
 帰りの車内では、私も2011年夏から福島に通い、そこで聞いてきた被災者の声と私自身が感じてきたことを話した。また参加者たちからのツアーの感想もあった。高校生の参加者もいて、「叔父さんに誘われてきましたが、メディアの情報ではわからないことをたくさん知ることが出来て良かったです」と言い、また彼を誘って参加した阿部信夫さんは「今は神奈川に住んでいますが出身は福島県ですから、原発事故は我が事です。今日は甥を連れて参加しましたが、彼には福島の良いところも被害を受けて酷いところも知って欲しくて、昨日は会津の綺麗な風景を見せて温泉にも行ってきました」と話してくれた。

 須賀川のシオンの丘で解散し、私は今野さんの車で飯坂温泉へ向かった。翌日は飯舘村から福島市に避難している菅野哲さんを訪ねる予定なので、飯坂温泉に泊まった。

(後編に続く)

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渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。