第211回:少し面倒くさいけれど「裁判」の話(鈴木耕)

「言葉の海へ」鈴木耕

 このところ、重要な裁判の判決が続いた。ふだん、あまり裁判なんかに関心がない人でも、新聞の第一面にデカデカと大きな活字が躍れば、おや、なんだろう? と気になるはずである。ぼくもそんなひとり。

 5月25日、「海外在住の日本人が最高裁判所裁判官の国民審査に投票できないのは憲法違反かどうか」が争われた裁判の上告審で、最高裁判所大法廷が「在外邦人の国民審査の投票を認めていないのは憲法違反」とする判断を下したことは、各紙とも一面で大きく扱った。これは、最高裁裁判官15人全員一致の意見だったという。
 最高裁裁判官の罷免を決められる「国民審査」は衆院選と同時に行われるが、海外在住の邦人は、これまでその投票権が与えられていなかった。それは憲法違反であるとして、海外在住の5人が提訴していたのだが、それに「違憲判決」が出たのだ。
 この裁判の原告のお一人だったのが、映画監督の想田和弘さん。想田さんはこの「マガジン9」のコラムでもおなじみの方だから、ぼくも我がことのように嬉しかった。この判決によって、国会は「法改正」を迫られることになった。つまり、裁判所が国会に命令を下したことになる。
 これは、1947年5月3日の日本国憲法施行以来、実に75年間で11件目の最高裁による法令の憲法違反判断だ。75年間で、たった11件。裁判所が持つ最高の権限である「違憲審査権」は慎重に扱う必要があるとはいえ、こんな少なさでいいのだろうか。これまで、最高裁は重要な憲法判断を求められる事案であっても、ほとんどの場合は「統治行為論」という不思議な論法を用いて、その判断を避けてきた。
 日本国憲法には、次のような規定がある。

第81条 最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。

 憲法が規定する「最高裁の権限」である。国会が決める法律などについて「それは憲法上、認められない」と、国家に対して命令を下す権限を持つのは裁判所なのだ。その最高位にあるのが最高裁だ。例えば、米軍基地の存在や日米地位協定、日米安保条約などについてだって、裁判所は「それはおかしいから改めなさい」と言えるのだ。
 しかし、最高裁はその権限をほとんど使おうとしない。ことに政治的な問題が背景にある場合には、「統治行為論」という奇妙な論理を持ち出して判断を回避する。もっと簡単に言えば、判断を〝逃げて〟しまうのだ。
 ではその「統治行為論」とは何か? ぼくなりの解釈は、以下の通りだ。

統治行為論
司法としての判断が求められている国家機関の行為が存在するとしても、それが〝高度の政治性〟を有するものと裁判所が判断した場合、憲法に違反するかどうかの判断を避けてしまうこと。つまり、憲法上の判断が可能であるにもかかわらず、それをあえて行わず回避してしまうこと。

 もっと分かり易く説明できる方は、ぜひご教示いただきたい。
 ともあれ、きちんと考えれば判断することは可能なのだが、「政府にとってはいろいろと政治的な思惑もあるだろうから、敢えて裁判所は口を出しませんよ」ということだ。
 集団的自衛権の行使は果たして合憲なのか、安全保障関連法は憲法上の疑義はないのか、自衛隊の海外派遣は違憲ではないか、米軍基地の存在は憲法上許されるのか、米軍の輸送の肩代わりは違憲か合憲か、そもそも日米安保条約と日本国憲法は相いれないのではないか…などなど、何度も裁判が提起されたにもかかわらず、そして下級審で「違憲判決」が出たことがあったにもかかわらず、最高裁はどの場合でも、「統治行為論」を盾にして、憲法判断から逃げ回ってきたのだ。

 しかし、今回の「国民審査の在外投票不可の違憲判決」は、そのような「統治行為論」とはあまり抵触しなかったようだ。つまり、これを違憲と判断しても、現在の自民党政権には不都合なことは起きない、と最高裁は判断したのではないか。
 しかも、ことは最高裁裁判官に関することだ。もしこれを、最高裁が撥ねつけたら「最高裁の裁判官たちは、自分らが国民に審査されることを嫌がるような連中だ」との批判にさらされかねないと考えたのではないか。これはぼくの邪推か?
 いや、ぼくと同じように感じた人は、他にもいたようだ。
 判決が出た翌々日(27日)の「朝日川柳」に、こんな句が載っていた。

こんな時くらいは違憲にしとかなきゃ 東京都 土屋進一

 しかも、選者の西木空人さんが、☆印の優秀句にしている。
 これまでさんざん「違憲審査」を避けてきたくせに、まあこの程度の政治的波紋の少ないことでは「違憲判断」を下して差し上げましょう…って、ちょっとなあ。そんなら、他のもっと重大な政治的問題が絡む訴訟でも、毅然として「違憲審査権」を行使しろよ、との言外の批判が、最高裁の15人の裁判官には聞こえないのだろうか?

 最初に書いたように、このところ、裁判に関するニュースがけっこう目につく。やっぱりなあ、と感じたのが、東京新聞の記事(5月25日)。

安保法違憲訴訟二審も敗訴
東京高裁判決 憲法判断は示さず

集団的自衛権の行使を可能にした安全保障関連法は憲法違反だとして、市民873人が国に国家賠償を求めた訴訟の控訴審判決で、東京高裁は24日、訴えを退けた一審東京地裁判決を支持し、原告側の控訴を棄却した。渡部勇次裁判長は、違憲かどうかの判断を示さなかった。(略)
原告側は、政府が憲法九条を変更して集団的自衛権の行使を可能にしたのは実質的な憲法改正で、国民が憲法改正を決定する権利の侵害だと主張したが、判決は「憲法解釈を変更して立法化するか、立法に先立ち憲法改正を発議するかという判断は国会の専権に委ねるべきだ」とした。(略)

 これなど、典型的な「判断回避」判決である。原告側が、「国会がやったことは違憲ではないか」と問うたのに対し、裁判長は「それは国会の専権事項」と言った。めちゃくちゃな理屈だと思わないか。それでは、国会が一度決めたことは、裁判では絶対にひっくり返せないことになる。
 「国会が決めたことが正しいかどうかは、国会で決めなさい」と言うに等しい。同義反復どころじゃない。こんな理屈が通るなら、裁判所なんかいらない。裁判所は、国会(つまり、多数を占めた与党)の言いなりになります、と告白したも同然なのだ。

 沖縄で、何度も繰り返される「沖縄県敗訴」の裁判所判断。一度だって、地方自治の精神など認められたことがない。それは「国の専権事項、裁判所が判断することではない」の一点張り。まさに、沖縄に司法はない! のである。

 公文書改竄問題で苦悩し死を選んだ誠実な公務員の赤木俊夫さんの妻・雅子さんが財務省元理財局長の佐川宣寿氏に損害賠償を求めた裁判も、別の意味でひどいものだ。朝日新聞の記事(5月26日付)。

佐川氏への尋問認めず 大阪地裁
赤木さん妻「希望の光 ぷつんと消えた」

(略)中尾彰裁判長は、雅子さん側が請求した佐川氏本人への尋問を実施しないことを決めた。
中尾裁判長は「(注・尋問請求を)採用しなくても、判断は可能だ」と述べた。雅子さん側が求めていた、他の財務省幹部ら4人の尋問も行わないと表明した。
佐川氏は、財務省が2018年6月に公表した改ざん問題の調査報告書で「改ざんの方向性を決定づけた」と認定された。ただ、国会の証人喚問では、大阪地検の捜査を理由に大半の証言を拒否。不起訴になった後も、詳しい経緯を説明していない。そのため、雅子さんは、自死の真相解明には佐川氏への尋問が必要だと訴えていた。(略)

 これなど、どう考えたってリクツが通らない。佐川氏は、検察の捜査を理由に国会証言を拒否した。だが、捜査が終了して不起訴になったのだから、拒否する理由はなくなった。財務省自身が行なった調査でさえ「佐川氏が改ざんの方向性を決定づけた」としているのだから、その証言こそが、この裁判の肝になるはずだろう。それを行わないと中尾裁判長が言う。この裁判官がどこを見ているか、もはや自明だ。
 今でも自民党のキング・メーカーぶりを発揮する安倍晋三氏に〝忖度〟したのではないと、中尾裁判長は言えるのか。忖度ヒラメ裁判官、上ばかり見ていて自分の意志などない。こんな連中が司法官であることの悲劇、それがこの国だ。

 もっとも、たまにはいい判決だってないことはない。しかし、ほとんどが下級審(地裁、高裁レベル)で出る判断で、だいたいは最高裁でひっくり返される。
 朝日新聞(5月26日付)の記事。

生活保護引き下げ 違法
「専門家への諮問怠った」熊本地裁判決

国が生活保護基準額を2013年から3年間にわたって引き下げたのは、生存権を保障する憲法25条に反するなどとして、熊本県内の生活保護受給者36人が熊本市などに減額決定の取り消しを求めた訴訟の判決が25日、熊本地裁であった。中辻雄一朗裁判長は、厚生労働省の判断過程に誤りがあったとして、引き下げは生活保護法に反すると認定。同市など自治体による減額決定を取り消した。(略)

 また、表現の自由に関する問題の判決。毎日新聞(5月26日付)。

名古屋市負担金 全額支払い命令
あいちトリエンナーレ訴訟

愛知県で2019年に開催された国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」を巡り、同県の大村秀章知事が会長を務める実行委員会が、名古屋市に未払いの負担金支払いを求めた訴訟の判決が25日、名古屋地裁であり、岩井直幸裁判長は請求通り約3380万円の支払いを命じた。(略)
判決で岩井裁判長は、作品の政治的中立性について、「芸術活動は多様な解釈が可能で、時には斬新な手法を用いる。違法であると軽々しく断定できない」と指摘した。(略)

 もうひとつ、ある判決。朝日新聞(5月27日付)。

米兵 懲役4年6カ月
那覇地裁判決 強制性交致傷の罪

沖縄県内で成人女性に性的暴行を加えようとしてけがを負わせたとして、強制性交致傷の罪に問われた米海兵隊キャンプ・フォスター所属の上等兵、ジョーダン・ビゲイ被告(22)の裁判員裁判で、那覇地裁(佐藤哲郎裁判長)は、26日、懲役4年6カ月(求刑6年)の判決を言い渡した。(略)

 ほう、沖縄の裁判所もたまにはいい判決を出すじゃないか、と思った方は、これが「裁判員裁判」であることに留意してほしい。
 他にも注目すべき裁判はたくさんあるけれど、ぼくは特に、次の2つの裁判の行方に注目している。

◎「ウトロ放火、ヘイト犯罪」
 在日コリアンが多く住む京都府宇治市の「ウトロ地区」への、有本匠吾被告(22)が起こした放火事件だ。5月16日の初公判で、有本被告は「間違いない」と、放火そのものを平然と認めている。その上で、「韓国人への悪感情」と「どうせ憂さ晴らしをするなら社会の注目を」と語っている。唾棄すべき「憎悪犯罪」だ。京都地裁(増田啓裕裁判長)は、果たしてどんな判決を出すのだろうか。

◎「子ども甲状腺がん裁判」
 福島原発事故による放射線被曝の影響により甲状腺がんになったとして、事故時に福島県内に住んでいた17~28歳の男女6人が、東電に計6億1千百万円の損害賠償を求めた裁判が、5月26日に東京地裁(馬渡直史裁判長)で始まった。この日は、原告の女性の意見陳述があったが、傍聴席からはすすり泣きが漏れていたという。

 なんだか縁遠いと思っている「裁判」だが、少し調べてみると、ぼくらの暮らしにけっこう密接な関係があると分かってくる。甲状腺がん裁判のほかにも「原発裁判」は各地でたくさん争われている。ぼくはこれからも注目していく。

 ここまで書いたとき、いいニュースが飛び込んできたので付け加えておく。
 札幌地裁で開かれていた泊原発(北海道電力)に対する住民ら1200名による「運転差し止め訴訟」で、5月31日、札幌地裁の谷口哲也裁判長は、住民らの訴えを認め、泊原発1~3号機の運転を停止するよう命じた。このような判決が続けば、上級審の裁判官たちも考え直さざるを得なくなるかもしれない。
 ぼくは希望を持つ。

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鈴木耕
すずき こう: 1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)、『反原発日記 原子炉に、風よ吹くな雨よ降るな 2011年3月11日〜5月11日』(マガジン9 ブックレット)、『原発から見えたこの国のかたち』(リベルタ出版)、最新刊に『私説 集英社放浪記』(河出書房新社)など。マガジン9では「言葉の海へ」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。