開廷前
この裁判は
これは東京電力福島第一発電所の事故当時に福島県内に居住していた、当時6歳から16歳の男女6名が、事故による放射線被曝によって甲状腺がんを発症したとして、東京電力に損害賠償を求める裁判です。原告の6名は甲状腺がんの手術を受け、内4名は再発したために再度の手術を受けて甲状腺を全摘しなければなりませんでした。甲状腺がん発症とそれに伴う手術、薬の服用などで生活は一変し、進学や就職にも影響して将来設計の変更をせざるを得ず、夢を諦めるなど大きな損害が起きています。
事故後に福島県は「県民健康調査」を実施していますが、38万人対象の甲状腺検査で、現在までに約300名の小児甲状腺がんが確認されています。通常は100万人に1〜2人とされている小児甲状腺がんですが、原発事故後福島では、こんなに多発しているのです。原告らは、自分たちの小児甲状腺がん発症は被曝が原因であると考えて提訴しており、もし被告・東京電力が被爆は関係ないと主張するなら、被曝以外の原因を被告が証明すべきであると主張しています。
原告の6名は、この裁判で東電の責任が認められたら、差別や偏見で声を上げられずに苦しむ他の仲間たちが声を上げやすくなる、また差別や偏見をなくしていけるだろうと考えて、勇気を持って告訴に踏み切ったのです。
東京地裁前
1時から入廷前行進が予定されていましたから、私は12時半頃、霞ヶ関駅に着きました。駅の改札を出て地上への階段を上がると、この日はいくつかの団体がビラ配りをしていました。「中核派」「法輪功」などなどでしたが、申し訳ないけれど私はそれらのビラは受け取らず「311子ども甲状腺がん」裁判支援の仲間たちの方へ行きました。すでに福島からの仲間たちが横断幕を掲げて立ち、支援者たちも続々と集まってきて、報道関係者が忙しげに撮影にかかっていました。1時、横断幕を広げ持った代理人弁護士たちを先頭に福島からの仲間たちがそれに続いて、40名ほどで地裁の門前まで入廷行進しました。支援者たちは、それを拍手で迎えました。
傍聴整理券配布は1時20分からでしたが、それ以前から地裁前の道路には支援者たちが溢れていました。それで裁判所の職員は私たち支援者を敷地内に誘導して整理券配布場所の前に2列に並ぶように指示しました。その列は敷地内に長く続き門の外にもなおなお長く続きました。
1時20分から傍聴整理券が配られ、券を手にした人は待機場所に入って並び1時40分の抽選発表を待ちました。226名もの支援者たちが、傍聴整理券を求めて並んだのでした。T B S報道特集の金平茂紀さん、湖東記念病院冤罪事件の西山美香さんの姿もありました。なお、この裁判では原告の6人は顔を出しません。この裁判についてこれまでに報じられたニュース等でも、顔出しをせず本名も公表はしていません。心無い酷いバッシングを避け、原告らの日常生活を守るためです。
裁判傍聴
103号法廷
東京地裁で一番大きい103号法廷の傍聴席は96席あり、本来だと全席が埋められますが、コロナの影響を鑑みて報道席を除く一般傍聴席は半数に減らされていて、この日の一般傍聴席は29席に制限されていました。私は抽選に外れましたが、幸い当たった人から譲って頂き、法廷に入ることができました。
原告席には弁護団長の井戸謙一弁護士、副団長の河合弘之弁護士はじめ10名の弁護士が詰めていました。被告席には黒っぽいスーツ姿の6名が座り、中の一人は実年齢はわかりませんが、見たところはまるで高校生のような幼顔でした。部屋の前に表示された裁判官3名と書記の名前を見るのをうっかり忘れ、ここでは裁判官と書記の名前をお伝えできません。裁判前にNHKの T V撮影がありました。
裁判
初めに裁判長と弁護団長との間で準備書面に関しての確認がいくつかあり、それから審議が始まりました。まず、原告代理人の弁護士たちによる陳述の内容を以下にまとめます。
*河合弘之弁護士
河合弁護士は、なぜ原告が6人だけなのか、なぜ提訴までに11年かかったのかを説明しました。
「300人もの小児甲状腺がんが確認されたが、被害者たちは完全に分断されていて、県は情報公開をせず、被害者たちは互いに名前も顔も知らない。小児甲状腺がん患者は、本人以外は家族しかその事実を知らない。政府や県の広報は事故を忘れさせたくて、被害を見えないようにさせている。因果関係がはっきりしないのだから、言うべきではないと言う空気を作っている。
そのような状況下で、原告たちは11年経ってようやく声に出し提訴する気になったのだ」
*井戸謙一弁護士
井戸弁護士は、この裁判が2022年1月27日に、17〜28歳(原発事故当時6〜16歳)の男女6名が提訴したものであることを述べ、事故当時とその後の気候条件によってヨウ素、セシウムがどう流れたかについて、また小児甲状腺がんについて、パワーポイントを使って丁寧な説明をされました。
「(小児甲状腺がんは)100万人に1〜2人といわれるが、10歳未満では0.3人、10〜19歳では2.1人というように、年齢により罹患率には差がある。
福島県では、県民健康調査で11年間に293人の小児甲状腺がんが確認された。被告は被曝線量が100ミリシーベルト以下ではリスクは無いと言うが、被告にはその根拠はあるのか? WHO(世界保健機関)では10ミリシーベルトの被ばくでも甲状腺がんのリスクありとしている。
事故後の3月24〜30日の間に、いわき市・川俣町・飯舘村の1080名のみの検査で、原子力安全委員会が示すスクリーニングレベル(除染などの措置が必要とされる基準値)を超えた者はいないと被告は言うが、根拠は非常に杜撰だ。
今回の裁判では賠償額は包括一律請求で6億1,600万円だが、片肺切除の場合は8,800万円、全摘で1億1,000万円としている」
井戸弁護士はこのように述べ、また裁判の争点や原告たちの請求の中身について説明しました。
*田辺保雄弁護士
田辺弁護士は、県民健康調査の目的と結果を説明された後で、次のように陳述されました。
「チェルノブイリでは事故後4年目以降に甲状腺がんの多発が見られたが、県民健康調査の検査結果からはそのような傾向は見られない、だから原発事故由来と説明できないと、被告は主張する。
しかし疫学者の津田敏秀氏の論文によれば、チェルノブイリでも地域別に発生率は異なるとされる。今回の福島原発事故後も浜通りでは19.5人、中通りは25.5人、会津は●人(メモを取る前にパワポの画面が変わってしまったので、記録できませんでした)、避難区域の13市町村では49.2人となっている。有病率の補正をしても、従来の甲状腺がん発生率と比較して今回は多発していると言える」
また、検討委員会、評価部会の評価の問題点、県民健康調査をめぐる問題点などについても説明されました。
*熊澤美帆弁護士
熊澤弁護士からは、原告たちが受けた治療や、麻酔無しで喉に注射針よりも太い針を刺す穿刺吸引細胞診の辛さ、また再発や転移の不安を抱いていることが語られました。また、将来を具体的に思い浮かべられず、人生を制約されながら、これから先の長い人生を歩まねばならなくなった原告たちの損害の大きさについて言及されました。
*中野宏典弁護士
「被告はこの裁判を、放射線被曝と甲状腺がんについての科学的な裁判であると言うが、果たして医学的なメカニズムを理解しないとならないのか?
例えば、私たちが居る部屋が暗くて、その壁にボタンが一つあり、そのボタンを押すと電気が点くとする。もう一度ボタンを押すと電気が消える。さらにもう一度押すと電気が点く。また押すと消える。こうしたことを繰り返せば、小さな子ども、幼稚園児でもボタンと電気の間には関係があることを理解する。電流のことや配電のことなど電気に関しての科学的な知識がなくても、その関係を常識として理解する。これが疫学だ。
メカニズムがわからなくても疫学も科学である。裁判官各位にお願いしたい。どうか、『科学的』という言葉に臆しないで判断していただきたい」
代理人弁護士の意見陳述を「面白い」などと言っては失礼かもしれませんが、中野弁護士の発言は面白く、そして聞いていて非常に痛快でした。
原告本人意見陳述
原告代理人たちの席の左手にパーテーションで仕切られた部分があり、そこにはこの日意見陳述する原告の他にも3名の原告が出廷していたそうです。原告本人の意見陳述の際も、傍聴席及び被告席からその姿が見えないようにと、仕切りのパーテーションが組まれました。その用意ができて原告が証言台に座りました。閉廷後の報告集会で配布された意見陳述の印刷物を、ここに転記します。
*意見陳述要旨 2022年(令和4年)5月19日 原告2
あの日は中学校の卒業式でした。
友だちと「これで最後なんだねー」と何気ない会話をして、部活の後輩や友だちとデジカメで写真をたくさん撮りました。そのとき、少し雪が降っていたような気がします。地震が来たとき、友だちとビデオ通話で卒業式の話をしていました。最初は、「地震だ」と余裕がありましたが、ボールペンが頭に落ちてきて、揺れが一気に強くなりました。
「やばい!」と言う声が聞こえて、ビデオ通話が切れました。「家が潰れる」揺れが収まるまで、長い地獄のような時間が続きました。原発事故を意識したのは、原発が爆発したときです。「放射能で空がピンク色になる」そんな噂を耳にしましたが、そんなことは起きず、危機感もなく過ごしていました。
3月16日は高校の合格発表でした。
地震の影響で電車が止まっていたので中学校で合格発表を聞きました。歩いて学校に行き、発表を聞いた後、友だちと昇降口の外でずっと立ち話をして、歩いて自宅に戻りましたが、その日、放射線量がとても高かったことを私は全く知りませんでした。甲状腺がんは県民健康調査で見つかりました。
この時の記憶は今でも鮮明に覚えています。
その日は、新しい服とサンダルを履いて、母の運転で、検査会場に向かいました。検査は複数の医師が担当していました。検査時間は長かったのか。短かったのか。首にエコーを当てた医師の顔が一瞬曇ったように見えたのは気のせいだったのか。検査は念入りでした。
精密検査を受けた病院にはたくさんの人がいました。この時、少し嫌な予感がしました。
血液検査を受け、エコーをしました。
やっぱり何かおかしい。自分でも気づいていました。そして、ついに穿刺吸引細胞診をすることになりました。この時には、確信がありました。私は甲状腺がんなんだと。わたしの場合、吸引する細胞の組織が硬くなっていたため、なかなか細胞が取れません。
首に長い針を刺す恐怖心と早く終わってほしいと言う気持ちが増すなか、3回目でようやく細胞をとることができました。10日後、検査結果を知る日がやってきました。あの細胞診の結果です。病院には、また、たくさんの人がいました。結果は甲状腺がんでした。
ただ、医師は甲状腺がんとは言わず、遠回しに「手術が必要」と説明しました。その時、「手術しないと23歳までしか生きられない」と言われたことがショックで今でも忘れられません。
手術の前日の夜は、全く眠ることができませんでした。不安でいっぱいで、泣きたくても涙も出ませんでした。でも、これで治るならと思い、手術を受けました。
施術の前より手術の後が大変でした。
目を覚ますと、だるさがあり、発熱もありました。麻酔が合わず、夜中に吐いたり、気持ちが悪く、今になっても鮮明に思い出せるほど、苦しい経験でした。
今も時折、夢で手術や、入院、治療の悪夢を見ることがあります。手術の後は、声が枯れ、3ヶ月くらいは声が出にくくなってしまいました。
病気を心配した家族の反対もあり、大学は第一志望の東京の大学ではなく、近県の大学に入学しました。でも、その大学も長くは通えませんでした。甲状腺がんが再発したためです。
大学に入った後、初めての定期検診で再発が見つかって、大学をやめざるをえませんでした。
「治っていなかったんだ」「しかも肺にも転移してるんだ」とてもやり切れない気持ちでした。「治らなかった、悔しい」この気持ちをどこにぶつけていいかわかりませんでした。
「今度こそ、あまり長くは生きられないかもしれない」そう思い詰めました。1回目で手術の辛さがわかっていたので、また同じ苦しみを味わうのかと憂鬱になりました。手術は予定した時間より長引き、リンパ節への転移が多かったので傷も大きくなりました。
1回目と同様、麻酔が合わず夜中に吐き、痰を吸引するのがすごく苦しかった。
2回目の手術をしてから、鎖骨付近の感覚がなくなり、今でも触ると違和感が残ったままです。手術跡について、自殺未遂でもしたのかと心無い言葉で言われたことがあります。自分でも思ってもみなかったことを言われてとてもショックを受けました。
手術跡は一生消えません。それからは常に、傷が隠れる服を選ぶようになりました。手術の後、肺転移の病巣を治療するため、アイソトープ治療も受けることになりました。
高濃度の放射性ヨウ素の入ったカプセルを飲んで、がん細胞を内部被曝させる治療です。
1回目と2回目は外来で治療を行いました。
この治療は、放射性ヨウ素が体内に入るため、まわりの人を被ばくさせてしまいます。
病院で投薬後、自宅で隔離生活をしましたが、家族を被ばくさせてしまうのではないかと不安でした。2回もヨウ素を飲みましたが、がんは消えませんでした。3回目はもっと大量のヨウ素を服用するため入院することになりました。
病室は長い白い廊下を通り、何回も扉をくぐらないといけない所でした。
至る所に黄色と赤の放射線マークが貼ってあり、ここは病院だけど、危険区域なんだと感じました。病室には、指定されたもの、指定された数しか持ち込めません。汚染するものが増えるからです。病室に、看護師は入って来ません。
医師が1日1回、検診に入ってくるだけです。
その医師も被ばくを覚悟で献身してくれると思うととても申し訳ない気持ちになりました。
私のせいで誰かを犠牲にできないと感じました。薬を持って医師が2、3人、病室にきました。
薬は円柱形のプラスチックケースのような入れ物に入っていました。薬を飲むのは、時間との勝負です。
医師はピンセットで白っぽいカプセルの薬を取り出し、空の紙コップに入れ、私に手渡します。医師は即座に病室を出ていき、鉛の扉を閉めると、スピーカーを通して扉越しに飲む合図を出します。私は薬を手に持っていた水と一緒にいっきに飲み込みました。
飲んだ後は、扉越しに口の中を確認され、放射線を測る機会をお腹付近にかざされて、お腹に入ったことを確認すると、ベッドに横になるように指示されます。
すると、スピーカー越しに医師から、15分おきに体の向きを変えるように指示する声が聞こえて来ました。
食事は、テレビモニターを通じて見せられ、残さずに食べられるか確認し、汚染するものが増えないように食べられる分しか入れてもらえません。
その夜中、それまではなんともなかったのに、急に吐き気が襲ってきました。
すごく気持ち悪い。なかなか治らず、焦って、ナースコールを押しましたが、看護師は来てくれません。ここで吐いたらいけないと思い、必死でトイレへ向かいました。
吐いたことをナースコールで伝えても吐き気どめが処方されるだけでした。
時計は夜中の2時過ぎを回り、よく眠れませんでした。次の日から、食欲が完全になくなり、食事ではなく、薬だけ病室に入れてもらうことの方が多かったです。2日目も1、2回吐いてしまいました。
私は、それまでほとんど吐いたことがなく、吐くのが下手だったため、眼圧がかかり、片方の目の血管が切れ、目が真っ赤になっていました。扉越しに、看護師が目の状態を確認し、目薬を処方してもらいました。
病室から出られるまでの間は、気分が悪く、ただただ時間が過ぎるのを待っていました。
病室には、クーラーのような四角い形をした放射線測定装置が、壁の天井近くにありました。その装置の表面の右下には数値を示す表示窓があり、私が近づくと数値がすごく上がり、離れるとまた数値が下がりました。
こんなふうに3日間過ごし、ついに病室から出られる時が来ました。
パジャマなど身につけていたものは全て鉛のゴミ箱に捨て、ロッカーにしまっていた服に着替えて、鉛の扉を開け、看護師と一緒に長い廊下と幾つもの扉を通って、外に出ました。治療後は、唾液がでにくいという症状に悩まされ、水分の少ない食べ物が飲み込みづらくなり、味覚が変わってしまいました。
この入院は、私にとってあまりにも過酷な治療でした。二度と受けたくありません。
そんな辛い思いをしたのに、治療はうまくいきませんでした。治療効果が出なかったことは、とても辛く、その時間が無駄になってしまったとも感じました。
以前は、治るために治療を頑張ろうと思っていましたが、今は「少しでも病気が進行しなければいいな」と思うようになりました。病気になってから、将来の夢よりも、治療を最優先してきました。治療で大学も、将来の仕事につなげようとしていた勉強も、楽しみにしていたコンサートも行けなくなり、全部諦めてしまいました。
でも、本当は大学をやめたくなかった。卒業したかった。大学を卒業して、自分の得意な分野で就職して働いてみたかった。新卒で「就活」してみたかった。友達と「就活どうだった?」とか、たわいもない会話をしてみたりして、大学生活を送ってみたかった。
今では、それは叶わぬ夢になってしまいましたが、どうしても諦めきれません。一緒に中学や高校を卒業した友達は、もう大学を卒業し、就職をして、安定した生活を送っています。
そんな友達をどうしても羨望の眼差しでみてしまう。
友達を妬んだりはしたくないのに、そういう感情が生まれてしまうのが辛い。病院に行っても、同じ年代の医大生とすれ違うのがつらい。同じ年代なのに、私も大学生だったはずなのにと思ってしまう。
通院のたび、腫瘍マーカーの「数値が上がっていないといいな」と思いながら病院に行きます。
でも最近は毎回、数値が上がっているので、「何が悪かったのか」「なぜ上がったのか」とやるせない気持ちになります。体調もどんどん悪くなっていて、肩こり、手足が痺れやすい、腰痛があり、すぐ疲れてしまいます。薬が多いせいか、動悸や一瞬、息がつまったような感覚に襲われることもあります。
また、手術をした首の前辺りがつりやすくなり、つると痛みが治るまでじっと耐えなくてはなりません。自分が病気のせいで、家族にどれだけ心配や迷惑をかけてきたかと思うととても申しわけない気持ちです。もう自分のせいで家族に悲しい思いはさせたくありません。
もとの身体に戻りたい。そう、どんなに願っても、もう戻ることはできません。
この裁判を通じて、甲状腺がん患者に対する補償が実現することを願います。
今後の進行について
原告は時折声を詰まらせながら、しかし最後までしっかりと陳述し、傍聴席からはすすり泣きが漏れていました。
原告の意見陳述が終わった後、裁判長から今後の進め方に関して確認がありました。井戸弁護士は今後も原告の意見陳述を入れてほしいと伝え、裁判長が被告東電側弁護士に意見を求めると、被告側弁護団長は「裁判所の判断に任せます」と答えました。
彼は原告の意見陳述の間、終始落ち着かず、顔や頭、服を触ったり、視線を書類に落としたり顔を上げたりを繰り返していました。聞いていて良心の呵責を感じていたのか、あるいは原告の訴えが裁判官の心に届くことで被告にとって形勢不利になることを感じての苛立ちだったのか、どちらかわからないですが、動揺して落ち着かない様子に思えました。
裁判長から次回は9月7日(水)、3回目は11月9日(水)、4回目は1月25日(水)と裁判期日が告げられて閉廷しました。
報告集会
裁判と並行して、午後2時から日比谷コンベンションホールでは、支援集会がもたれていました。傍聴席に入れなかった支援者たちはこちらで、ウクライナ出身のカテリーナさんのバンドゥーラ演奏に聴き入ったそうです。その後この会場では、閉廷後の報告集会が行われました。そこでの代理人弁護士らの発言内容をご紹介します。
*中野宏典弁護士
中野弁護士は、まだ裁判後の記者会見から戻らず、その場にいない井戸弁護士、田辺弁護士、熊澤弁護士の陳述について報告されました。
「大勢の人が集まってくれたことが、原告を勇気付ける。今日の法廷は東京地裁の大法廷で一番大きい法廷だった。我々はなるべく早く進めたい思いもあるので、直近の2回目の法廷は狭い方でも構わないが、3回目以降はできれば大法廷をと希望している。現在3回目、4回目も狭い法廷を予定されているが、これだけ大勢の人が集まったことをしっかり裁判所に伝えて、大きいところでやって欲しいと申し入れた。
井戸弁護士は陳述の中で、この裁判の基本的な骨組みについて話された。東電の違法行為で原告たちは被害を受けたということを説明した。
田辺弁護士は、被告側から出るだろう反論を予測して、それに対してこういうことが言えるという反論を示した。というのは、裁判官は比較的早い段階で裁判についての心証、これは偏見とも言えるが、『この裁判はこういう筋だろう』ということを思う。だから、最初の段階で、こちら側が正しいということを理解してもらう、つまりこちら側の『偏見』を持ってもらうことが大事だ。被告側の反論を待ってからこちらが言ったのでは、被告の側の主張が先に頭に入ってしまう。それは良くないだろうということで予め、おそらく被告はこう言ってきますと伝え、それに対してはこのように言えるということを話した。法廷で聞いていた人には少し難しかったかもしれないが、こちらの主張を裁判官に早期に判ってもらうために田辺弁護士はあのように話した。
この訴訟において被告側は科学的な因果関係が大切だと主張しているが、その意図は原告の声は聞きたくない、それを聞いてしまうと裁判官が心を動かしてしまうから、それを避けたいということではないか。とにかく原告の意見陳述はなるべくするべきではないということで客観的、科学的な判断をするよう求めていた。それに対して我々は、被害者の実情から、原告の思いはどうなのかということから判断をするよう求めている。それについて熊澤弁護士から、原告たちはどんな被害を受けているのかを話した。
私からは、被告の考え方は裁判所に間違った偏見を与えるものだという趣旨で、疫学的に数多くあるデータが動かし難い事実なのだから、極めて常識的なところから判断を出発してもらいたい、難しい科学のことを被告は言うだろうが、大局を見失わないでほしいということを話した。
そして次回以降だが、2回目は9月7日午後2時から、3回目は11月9日11時半から、4回目は来年1月25日11時半からとなっている。2回目はおそらくこの通りだろうが、3回目4回目は、変更になるかもしれない。大法廷でとなれば変わる可能性がある。
裁判官は期日の前の進行協議では、原告の意見陳述は毎回でなくても良い、節目でやれば良いという考えだったが、今日、改めて我々から原告の声を毎回聞いてほしいと申し入れ、裁判官もその点についてもう一度考えると言った。
原告の意見陳述では、会場全体からすすり泣くような声が聞こえた。裁判官も頷きながら聞いていたように見えた」
*河合弘之弁護士
「私は冒頭で短い意見陳述をした。なぜ原告が6人しかいないのか、なぜ提訴まで11年もかかったのかを話した。甲状腺がんの被害者、家族の人たちは福島県内で完全に分断されている。互いの顔も名前も知らない。県は個人情報保護ということで一切知らせない、そういう状況の中で6人は、必死の思いで立ち上がった。そのことを裁判官は、まず知って欲しいと話した。
今日の法廷のハイライトは、被害者の一人の陳述だった。自分の言葉で話す非常に良い文章だった。17分くらい、会場はシーンとなって聴いていて、その効果はあった。裁判官は意見陳述は初めの1回は認めるが、あとはなるべく制限したい意向だったが、今日の陳述を聞いた後は、よく考えましょう、検討しますという態度に変わった。東電の弁護士は進行協議の時は、この裁判はすぐれて科学的な裁判だから被害者の声を聞いて感情的な訴えを聞く必要はない、科学的な因果関係を調べるには感情的にならないようにしなければいけないと言っていた。それが、意見陳述が終わった後で裁判官が今後の意見陳述について東電側はどう考えるかと聞いたら、『科学的な裁判なので色々考えはあるが、最終的には裁判官にお任せします』と言った。被害者の声など聞く必要はない、などということを言えるような雰囲気ではなくなった。
真実の訴えは強いと思う。弁護士が百万言を弄するよりも被害者が『私はこんなに苦しいのです。助けてください』という方が、どれだけ力があるかということだったと思う。
政府は原発被害のことをなるべく忘れさせよう、復興一筋で行こうと思っている。復興が大事、甲状腺がんの裁判など起こされたら、それに冷や水をかけるようなものだというのが彼らの本音だろう。私たちは、それに負けてはいられない。この裁判は、他の原発関係裁判全体の中でも特に重要な裁判だ。原発から出る放射線による被害を、政府は絶対に認めない。国策だと言えるくらい強固な方針だ。原発事故による放射性物質によってがんや白血病が発生するとなると、原発は怖いということになり原発を止めなきゃダメだという世論になることが、政府は何より困る。原発は怖くないから稼働させるというどす黒い強固な政策でやってきている。我々はそれに抗して被害者に寄り添って、被害者の声を前に出しながら、被害者を救済することによって、こんな政策をやめさせるということを改めて確認できた今日の法廷だった」
*柳原敏夫弁護士
「原告の意見陳述を聞いていて、本当にここまでよく頑張ったと改めて思った。
2011年に文科省が20ミリシーベルト通知※を出したのに抗議して、福島県郡山市の小中学生14人が、安全な場所で教育しろと集団訴訟を始めた。その時に、自分たちの健康を守って欲しいと訴える、郡山駅から開成山公園までのデモを一緒に歩いた。郡山市は線量が高く、チェルノブイリ法※ならば強制移住にあたる線量のところを歩いた。その時にショックだったのは、デモに参加しないで沿道の家々で窓を開けずに、デモをじっと見ている眼差しに出会ったことだった。線量が高く、郡山市は戒厳令下にあると思えたが「助けてくれ」の声も上げられず、避難もできずにじっと息を潜めている人たちがいることをまざまざと見た、非常にリアルな体験だった。
今日の原告は、そういうところにいた人が、10年経って、やっと私たちのところに来てくれた。今まで声も上げられずじっとしていた人が、これはおかしいではないか、自分たちを人間として扱って欲しい、私たちは人間だと声を上げた。そして彼女は自分から意見陳述をすると言って名乗り出てくれた。彼女には、『通りいっぺんのことではなく、あなたしか言えない言葉を語って欲しい』と言って陳述書を書いてもらった。アイソトープ治療中の辛い体験、思い出したくない体験を彼女は書いた。それが今日のメインテーマだった。書いただけでも苦しかったが、それを読むのも本当に辛かっただろう。見ていても大変な陳述をして、彼女は、これは自分しかできないし、もしかしたらそれによって心を動かして社会が変わってくれるかもしれないと、辛さを堪えて陳述してくれた。
私も、彼女の姿勢に励まされた。彼女に拍手を送ってあげてほしい」(会場からは、大きな拍手が響いた)
※20ミリシーベルト通知…2011年4月19日に文部科学省が福島県教育委員会などに向けて出した、学校校舎・校庭などの利用判断における放射線量の目安を年間20ミリシーベルトとする通知のこと。
※チェルノブイリ法…チェルノブイリ原発事故から5年後の1991年に当時のソ連で制定された法律。「避難の権利」を明記し、空間線量や土壌汚染の程度に応じて、「強制移住地域」「移住の権利がある地域」などのゾーン区分を行う。
*録音再生による原告意見陳述
法廷で陳述する前に、陳述書を読む練習をした時の彼女の声は録音されていましたが、ここで会場に、その録音の声が流されました。その声が流れている間、会場は水を打ったように鎮まり、あちこちからすすり泣きが漏れていました。
*古川健三弁護士
「原告の話を聞いて、とても切ない。何が切ないかって、自分のせいで家族に迷惑をかけている、自分のせいだって言うのね。信じられないよね。だって、被曝したくてしたわけじゃあない。どうして自分のせいだって言わせてしまうのか。本当に悔しい! この思いを共有していきたい。若く、とっても能力のあるいい子です。辛い治療に向き合って、乗り越えていくと思います。乗り越えていかなきゃいけない。
3・11の年に生まれた子は今、11歳です。小学生のほとんどは、何があったか知らない。中学生だって、覚えているかどうか。でも私たちは、11年前に何があったか、語っていかなきゃいけない。大事な裁判なので、頑張っていかなきゃいけない。
もう一つ言いたい。先日TBSが、とてもいい報道をしてくれた(5月21日に『報道特集』で放送された「原発事故と甲状腺がん」のこと)。あれによって、支援の声が大きくなりカンパもたくさん頂いた。ところがネットで変な情報がたくさん出ているんです。ツイッターで心無い書き込みがあって炎上したりしている。
私たちは、6人を守らなきゃいけない。力を貸して頂きたい!」
※裁判後の記者会見を終えた井戸弁護士らが報告会場に合流され、続けて発言された。
*井戸謙一弁護士
「記者会見で記者たちからたくさん質問が出たので、報告会参加が遅くなった。
今日の裁判では、弁護団からは陳述を45分ほどで説明したが、それは前座だった。本番は、原告本人の意見陳述だった。大変素晴らしい内容だった。事前協議の段階では、毎回意見陳述を認めるかのどうかという話が出ていて、被告(東電)は反対していた。『1回目は、まぁいいでしょう。2回、3回と毎回やることには反対』と言っていた。裁判所はハッキリとは言わなかったが、とても消極的な雰囲気だった。
今日、原告の陳述を聞いて、またその問題になった時に裁判長が被告代理人の意見を聞いたら、建前的には裁判は大事な争点整理であるのだからそれを優先すべきだという言い方をしたが、原告の意見陳述をするかどうかについては反対とは言えなかった。最終的に『裁判所に委ねます』と言った。裁判所は今日の法廷では態度を明らかにせず、1週間くらいの間に態度を決めて、我々に伝えるといった。反対していた被告代理人がそう言ったのは、意見陳述が被告代理人の心を打ったのではないかと考える。
この裁判は、本人たちには理由がないのに、苦しめられている若者たちを救済していく問題で、一番大事なのは原告の若者たちがどういう被害を受けたのか、どういうふうに苦しんできたのかを、裁判所に理解させることだ。それによって真っ当な判決に結びついていくと思う。
(この裁判を取り上げた)『報道特集』に対するバッシングの問題もあるが、中身も知らないでバッシングする社会に対して、『そうじゃないのだ。真実は、こうなのだ』ということを、私たちもいろいろな機会を見つけて発信したい。ここにおられる皆さんも、ここで掴んだ真実をいろいろな機会に発信して、今のバッシングする社会に対して声を上げ、原告たちを支援していく道を作っていけば、真っ当な判決を実現する大きな力になる。
どうぞ、よろしくお願いします」
*大河陽子弁護士
「私は今日は法廷で陳述はしなかったが、陳述した原告の意見陳述作成を担当していた。
原告は自身の体験を振り返りながら、文章を書いてくれた。本当に辛い体験だっただろう。法廷でも裁判官に伝えるために陳述すると言って、今日の意見陳述になった。涙を堪えきれず泣いているところもあったが、素晴らしい陳述をしてくれた。聞いているこちらも、涙を堪えながら聞いていた。
原告に、終わった後で感想を聞いたら、『自分の伝えたいことは、伝えることができたと思う。陳述の機会をもらえたことで、自分の言葉で裁判官に直接会って意見を聞いてもらえて、良かったと思う』と話していた。裁判官に直接、体験や思いを自分の言葉で伝えるという大きな役割を果たしてくれた。本当に頑張ってくれた」
※報告会場には原告のお母さんも居て、その方にも発言をいただいた。弁護士に促されて席を立ち、壇上に上がって話された。この日に陳述した原告とは別の原告のお母さんでした。
*原告の母親
「みなさま、今日は本当にありがとうございました。
息子は27歳になりますが、息子には、勇気を出して原告になってよかったねと、改めて伝えたい。今日も参加したいと言っていたのだが、来られなかった。自分の言葉で伝えたいという思いが息子にもあるので、次回に機会があれば是非参加させたい。みなさまの温かい支援を、どうぞよろしくお願いいたします。
どうもありがとうございました」
裁判傍聴報告、大変長文になりました。お読みくださってありがとうございます。どうぞ、この裁判を支援してください。裁判に注目し続けてください。お願いいたします。
次回期日は9月7日です。