第32回:おコウばっぱの話──「色々あった、戦争もあった、だけどいい人生だったって、私は思う」(渡辺一枝)

 飯舘村では、菅野榮子さんに聞かせてもらう話がいつも心に残ります。今回もまたとびきり印象深い話を聞かせていただきました。私は常々、榮子さんという人は「土に生きる哲学者」だと思っているのですが、その榮子さんのルーツにはこんなお婆ちゃんが居たのでした。

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 これは飯舘村の菅野榮子さんに聞かせてもらった、榮子さんのお婆さんについての話だ。
 父方の祖母の「おコウばっぱ」は慶応2(1866)年生まれで、お歯黒をしていたお婆さんだったという。その「おコウばっぱ」の話だ。

戦死広報が届いた

 「父ちゃんの兄弟で一番末っ子の叔父さんはタツジって名前だったんだけど、海軍の潜水艦さ乗って戦死したの。ソロモン島で。昭和18(1943)年2月12日に(戦死を知らせる)広報入ったの。ほしてタツジ叔父さん名誉の戦死だってんで、役場から村長さんと偉い人たちが来たの。父ちゃんの兄さんの子どもで私のいとこの三郎と二人が、『じいちゃんが山さ行ってっから、にしゃら(お前たち)山さ行ってじいちゃんに役場から偉い人来たから戻って来うって言ってこい』って、言わらっちゃったの。その日のこと、よく覚えてんの。広報入ったからな」
 榮子さんの家のすぐ上手が榮子さんのお父さんの長兄の家で、おコウばっぱとじっち(お爺さん)は、その伯父さんの家に同居していた。戦死したタツジおじさんは、独身だった。
 “名誉の戦死”者の遺族には遺族年金が給付された。

おコウばっぱの家出

 「この遺族年金、貰ったべしさ。したらじっちが、ワガ(自分)ばっかり取って使って、酒買って飲んで、ばっぱに1銭も呉れねえんだったよ。ほしたらばっぱは『じいちゃん、タツのお金、半分寄越せって言わねえから、孫にだって呉っちゃいてえから、三分の一でいいから、タツのお金もらった時オレさの小遣いに呉んねえか』って、こう言ったんだと。
 ほしたらじっちが、『ほだな』って言えば良いもんを、昔の封建的な世界で生きてきたから、『なに? ショウジタツジはショウジツヨシの息子なんだ』って、こう言ってはだかった(威張って立ちはだかった)んだって。
 ばっぱはじっちより体が大きかったの。じっちの方が小さかったの。ばっぱはじっちのこと襟首掴んで引き摺り出して、庭さ出して、ワガは出て行って2週間も3週間も帰って来ないの。家とってる(後を継いでる)おんさ(おじさん。“おんさん”とも言う)が、私の父の兄貴だから、うちの父ちゃんはトヨゾウって、トヨって呼ばれてたのな。『トヨ、ばっぱ1週間も帰って来ないから山さ入って死んだりしてっとなんねえから、捜索願出さなきゃなんねえでねえか』って、おんさが来たんだよ。うちの父ちゃんは『ばっぱのことだから、死にはしねえべえ』って言ったの。覚えてんだ、私。小学校さ入る前のことだ。私は18年の4月に小学校さ入ったからな」

帰ってきたばっぱ

 「ほうやっているうちに、2週間も帰って来ねえうちに、またおんさが来るわけだ。うちの父ちゃんも『死ぬわけはねえから、そのうち帰って来るべえ』って言ってたけど、心配してたんだな。ほしたら3日くらい経ったら、家はガラス戸だったのな。昔の家は戸障子だから外が見えねえけど、ガラス戸だったのな。こうやって外見たら、あれ、ばっぱが来んの見えたんだわ。
 ばっぱはじっちのこと引っ張り出して行ったから、わが家さトントンとは(そのまままっすぐには)入らんねえだわ。昔のことだからな。ほして私の家さ来たんだよ。父ちゃんが『なんだ、ばっぱ。どこに居たんだ。何やってたんだ。あんにゃ(お兄さん)、うんと心配してたんだぞ』って言わったら、『ふーん、心配かけて済まなかったな』って言って、昔、金華山(宮城県石巻市沖にある島)の土産で黄色い布地で金華山って書いた財布の袋さあったんだよな。ほいつを着物の懐から出して紐でくるくる巻いて閉じたのを解いて、私に『ほら榮子、銭呉れっから』って、銭貰ったんだよな。お金貰ったから大変だべしと思ったら、父ちゃんが『ばっぱ、何してきたんだ?』って言わったら、秋口だったから運動会応援して、おでん売りしてきたんだって。七輪と炭買って、こんにゃく買って竹串作って貰って、ほして原町や他のいろいろの小学校の運動会回って、おでん売りしてきたんだって。ほして財布パンパンにしてきたの。
 ほして今度、暗くなるまでオラえの家でじっち寝るまで居て。じっち脱腸で麦まんま食わねえ人で、奥座敷に隠居してたの。この頃は戦争の真っ只中だから、ご飯もじゃがいもだのなんだの混ぜた「かて飯」や麦飯食ってたの。ほして孫の前でじっちだけ白いご飯食ってらんめえ。別の鍋でじっちさご飯炊いてばっぱは食わせてたの。脱腸だから麦まんまだのかて飯だの食わねかったの。腹痛くなっからな。
 そうやっていたら3週間も帰って来ねえでて、ほして帰ってきたんだ。私は父ちゃんに『榮子、じっちが寝てたらばっぱ帰ってきたぞって、おんちゃんに言って来い。おんちゃんにだけ言えばいいんだからな』って言われて行って来たの。
 みんなまんま食ってから、ばっぱはポンポコリンになった財布抱いて、帰ったんだべや。
 『ばっぱ何してきたの。心配してたぞ』って息子に言われて、『こういうわけでおでん売りしてきたんだ』って。ほうやって、じっちのこと見ねえわけにいかねえから、隠居部屋で眠ってんの見たんだって」

「男が子どもなしたのは、オラ聞いたことねえ」

 「ほして朝になってもじっちは、『ばっぱ、何して来た』なんて言わんねえだって。自分の心にあるからな。黙ってたんだべ。だけどばっぱは、朝起きてお湯沸かしてお茶淹れるわけだ。じっちは、相馬焼の外に穴の空いた相馬焼の茶碗(相馬焼は外側と内側の二重焼きで外には透かしの穴が空いている)で、茶を飲むわけだからな。
 毎朝ばっぱはじっちの前にお茶淹れて、『爺さまは偉いもんだな。男が子どもなしたのは、オラ聞いたことねえ。ショウジタツジはショウジツヨシの息子なんだって。どこから出てきたの』って、ほう言って毎日泣いたんだって。お茶飲むときな。
 ほしたらじっちも困ったんだべ。毎日はぁ、こうしてうなだれてたって。ほいで次から遺族年金全部持って来て『婆、これみんなやっから』って。したらばっぱは『要らねえ』って。『自分で働いて生きっから、要らねえ』って。金華山の財布持って来て言ったって。こういうばっぱだった」

酒精を行商

 「ばっぱには、そういう物語があるんだ。自分で働いて生きっからって、物語が。
 『オレは働いてお金取る』って言って、ほうしてなんだと思ったら、こういう“半切り”っていうんだけど桶、味噌桶よりも大きいやつ、1尺5寸くらいある“半切り”の桶、桶屋に作って貰って、どぶろく作る素作りさ。師匠さま頼んで。『今日は師匠さま来る日だ』ってから、師匠さまってどんな人だべって、私は思ったよ。そしたら、深谷の人だけんじょも体の大きい人が来て、寒い時来んだから、寒仕込みすんだから、雪あっ時。ほうやってから、酒の素作りして、売って歩ったの。この酒の酒精な。こいつを1本売っと米4升と交換すんだって。
 1升瓶5本入る“コシコ”って判っぺ? 背負って歩く“コシコ”、縄で編んで作ったバッグな。この“コシコ”をじっちに作って貰ったんだって。1升瓶の幅測って5本入るくれえの幅にして1升瓶の高さをくぐって、紐で動かねえようにして“コシコ”を作ってくれろってじっちに言ったら、じっちはワラメゴっていうんだけどワラの穂ばっかりで捩って、とろとろってのを(柔らかいのを)作ってくれたって。ほして5本入れて、酒の素売りさ行って来るって、デンガスカデンガスカ行って、5本売って米20升なっぺさ。ほういうばっぱだった。
 酒なんか買って飲むようなことは経済が許してねえわけだから、みんな冬になっと屑米でどぶろく作って、明日働くために山仕事さ行ぐために、夜、酒飲んでほうやってワラで作った寝床さ寝て、ほうやって飯舘ってのは生きてきたとこだよ。
 こういうばっぱだったから、じっちと喧嘩してからは、ばっぱはじっちからもなんぼか貰ってっから、それに自分で稼いだお金もあった。孫たちさ、孫20人も居て、3人子どもさ居てから孫20人も居て、ほいでお正月っていうと孫たちにお年玉。ほの頃お年玉なんて呉れられる年寄りなんて居ねえべしさ。ほうやって私ら孫たちはお年玉貰って、ほうやって育ったんだよ私らは」

 「ほういうばあちゃんな、生きるって、自分が生きるっていうことがどういうことなんだっていう生の教育を私らに見せてた。
 ほういうふうなばっぱの生き様を見て来たしな、じっちの生き様も見て来たしな。孫が来たって、爺ちゃんはお金呉れるなんて言わねえけど、技術的な腕は持ってて、何もねえとっからワラメゴをこう1本ずつ引っ張って抜いて、捩って、1升瓶5本並べてちゃんと入るだけの“コシコ”作られる腕は持ってたんだよな」

オレも選挙してくるわ

 「昔は男の人しか選挙(投票)できねかったからね。終戦後、女の人も選挙できるようになった。ばっぱはその頃80なんぼだったんだべえ。字も書かれねえんだわ、学校さ行かねえんだから。『選挙しられるようになったから、オレも選挙してくるわ』って。自分の息子に『オレはあの人に入れてえんだから』って、その人の名前をカタカナで書くのを習って、鉛筆を舐め舐め習って、選挙に行った人だよ。ほして書いたやつは入れてくんだから持って帰って見せれんねえから、自分の息子に他の紙に書いた名前を持ってきて見せてたんだって。そういった婆ちゃんだった。そうやって自分の足で歩けるうちは歩いて選挙行ったけど、あと歩けなくなってからは嫁さんに『おアキ、リヤカーさオレのこと乗せてくれろ』って、リヤカーさ乗って、選挙行った人だよ。そういうばっぱだった。今までは父ちゃんばっか選挙に行ってたのに、今度はオレも選挙しられんだから、ワガて良い人に入れるって。ほして名前言って字覚えて、行って、書いてきたんだ。大したもんだわな。
 ばっぱっていう人は社交的で、友達もいっぱい居た。そういう人生歩んだ。私ら、面白い育ち方したよ。ほういう中で生きてきたけど、私らは先生があって覚えてきたこともいっぱいあっけど、先生が無くて、ほういう爺ちゃんと婆ちゃんの喧嘩の中からも生きるってこと学んできた。
 今、こうやって振り返ってみると、ああ色々あった、戦争もあった、こういうこともあった。だけどいい人生だったって、私は思う」

ばっぱの100円札

 「通信簿貰ってくっと母ちゃんが、『じっちとばっぱと、おんちゃんにも見せてこう』って。ほいで私は上の家行って、通信簿見せたんだ。おんちゃんが『にしゃ(お前)、よく頑張ったな』って言って奥さんに『カカ、財布持ってこ』って言って、その中からなんぼか取って、ご褒美だって私に呉っちゃの。ほうすっと、ばっぱは、『榮子は一生懸命勉強すっから、こうやってちゃんと字覚えてくんだ』って言わっちゃって、孫さのみんなにほう言った。じっちにはご褒美もらったことはねえけど、ばっぱには貰ったの。
 じっちが死んでから、タツおんさの年金はばっぱが受け取るようになった。ばっぱは毎朝仏壇の前で、畳に給付された100円札ズラ〜っと並べて、突っ伏しておいおい泣いてたよ。毎朝、仏壇の前で泣いてた。
 夏休みだ、農繁期休みだって学校休みがあったから、妹がおんさの家手伝いに行くとばっぱが『ありがとう。ご褒美だ』って、お金呉れたって。いつだったか、もう私らもとっくに孫できてたような時だったけんじょ、妹が『姉ちゃん、こればっぱから貰った100円だよ』って、畳んでしわくちゃになった100円札見せてくれた」

 私は、榮子さんは稀代の語り部だと思う。汲めども尽きない榮子さんの話を、もっともっと聞いていたい。
 今回は「おコウばっぱ」のことを話してくれたけれど、その話の中から時代の風景も目に浮かんでくる。戦争中でも小学校では運動会が行われたこと、そこではおでん売りなど行商も出て、そんな日常だったことも知る。明日の朝また山仕事にいかなければならない冬の夜は、どぶろくを飲んでその酔いを借りて藁布団で眠りについたことを知る。
 年表に書かれるものが歴史ではなく、こうした庶民の生きてきた足跡が歴史なのだと、改めてまた思う私だった。

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渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。