第109回: Call My Name~死者と共鳴する慰霊の時間~(三上智恵)

 毎年、新たな戦没者が見つかり、今なお刻銘者の数が増え続けている沖縄の「平和の礎(いしじ)」。軍人・民間人・外国人・敵味方も一切関係なく、沖縄戦で命を落としたすべての人の名前を刻んだモニュメントだが、現在、24万1687人となったそのすべての名前を、生の人の声で交代で読み上げて行こうというイベントが、今年初めて行われた。

 え、全部聞く人なんているの? 名前の読み仮名を正確に把握するのは無理よね? 各市町村でホストを決めて、読谷村の戦没者は読谷村の人が…と言っても、取り組める地域とできない地域が出てしまうのでは?

 計画を聞いたとき、無謀ではないか? という懸念がまず私の頭をよぎった。でも同時に面白い! と思った。名前を読むだけ。これは誰でも参加できて、そして参加した人にこそ、実は大きな変化をもたらす、画期的なイベントになるかもしれない、と。そして気づけば、この『沖縄「平和の礎」名前を読み上げる集い』の実行委員に名を連ねていた。

 6月12日から23日「慰霊の日」の朝までの11日間。連日、早朝から夜中の3時までひたすら戦没者名簿を読み上げるという試みなのだが、どこにいても、ネット環境があればYouTubeやZoomで見守ったり参加したり自由にできる。インターネットを使わない人でも、主催者から名簿を受け取れたら電話でも読み上げに参加できる。そんな感じで、わりと何でもありの、垣根の低い形で読み上げイベントはスタートしていった。

 この期間、本当にずっと名前が読み上げられ続けているのかな? と夜中や平日の朝などにちょこちょこサイトを覗いてみた。すると確かに、画面では常に途切れることなく、生で、誰かが戦没者の名前を淡々と読み上げていた。画面には名簿と、読んでいる人ワンショットがあるのみで単調、地味ではある。Zoomの参加者も少ない時は4、5人だったりするが、それでも参加者はそれぞれに真剣に、丁寧に、1945年に突然人生を終えることになってしまった一人ひとりの魂に息を吹き込むように、死者の名前を声に出して読んでいた。

 慰霊の日を明日に控えた22日は、その平和の礎がある糸満市の摩文仁の丘から、刻銘された戦没者の名前に囲まれた空間で読み上げが行われるというので、これは行かなくてはと車を南に走らせた。ところが、梅雨が明けて一気に上昇した気温に体がついて行かず、平和祈念公園を歩いているだけでフラフラになる。そんな炎天下に、40~50人の元気な高校生たちの一団が列を作っていた。その先にはパソコンを載せた譜面台があって、一人の生徒が50人の名前を読み上げると後ろの人に交代していく。近隣の県立向陽高等学校の生徒たちだった。さすがに参加したいと自ら手を挙げた子たちというだけあって、しっかりと役割をこなし、インタビューにも快く応じてくれた。

 「体験者の話を聞いたり新聞で読んだり、戦争のことを学んできたつもりだったんですけど、名前を読み上げると、それ以上に戦争の悲惨さが分かりました」

 「同じ苗字の方がいっぱい並んでたってことはたぶん、一族の方が一緒に亡くなったのかな? とか、自決しちゃったのかな? とか思えて、辛くなりましたね」

 「やっぱり沖縄が好きだから、沖縄で何があったのか知りたくて。過去に学べ、じゃないですけど、どんなことがあってこうなったんだよ、ということがわかれば、じゃあ(次の戦争は)やらないでおこうね、ってなるから」

 年のころで言えば、まさにひめゆり学徒として戦場に動員された女生徒たちと同じである彼女たちが、77年前の出来事をここまで自分に引き付けて考えてくれていることが嬉しかった。戦死者一人ひとりも、もとは彼女たちと全く同じように人生を謳歌していた、確かに存在していた命なのだ。ということが、声帯を震わせ、誰かの声となって名前が呼ばれることで、かつてなくリアルに感じられた。そして何より私には、彼女たちが発する言霊が「待ってました!」とばかりに、摩文仁の丘に、礎の石の中に、瞬時に滲み込んで渇きを潤していったように感じられた。

 去年の慰霊の日についてのマガジン9コラムの主人公だった、遺骨収集ボランティアの具志堅隆松さんも、この活動の呼びかけ人の一人だった。彼がこれまで取り上げてきた名もない骨たちも、本当は掬い上げられた瞬間に即座に名前で呼ばれたかっただろう。その人たちの名前もきっと、含まれているに違いない。だから具志堅さんは、何度も読み手にもなって参加されていた。たぶん読み手の誰よりも具体的に、70年経った彼らの姿に接し、指で、五感で遺骨の手触りを感じている具志堅さんだからこそ、彼ら一人ひとりの存在が多くの人たちによって確認され、若い世代の人たちが死者と共鳴していくこの試みを、ことのほか歓迎しているようだった。

 具志堅さんはあれから1年、遺骨が未回収の激戦地だった地域からも辺野古の埋め立て土砂が採取されるという件について、県内外に訴え続けてきた。全国の自治体から反対決議が次々と上がり、関心も高まった。7月の頭には国連の人権理事会の下部組織である「先住民族の権利に関する専門家機構」の会議に参加、基地の集中に加えて遺骨を埋め立てに使われるなど非人道的な問題を訴え、日本政府の弱い者いじめを終わらせるべく、さらに行動を拡大する予定である。しかし、実は慰霊の日の翌日、沖縄県は土砂採掘を申請していた業者との和解に応じると報道された。魂魄(こんぱく)の塔の裏手の、まだまだ骨が出てくるような地域の開発に、実質的にGOサインが出た形になってしまう。新たに条例を作って守る手段でも講じない限り、個人の営利目的の開発が遺骨収集作業に優先される前例をつくってしまいかねないと、今危機感が広がっている。

 この間の動きがもう一つある。今年1月に私たちは「ノーモア沖縄戦 命どぅ宝の会」を立ち上げて、日米両軍事組織が「台湾有事」を口実に南西諸島の島々で武力衝突を想定した対中国戦略を練っていることに対し、大きな怒りと危機感を抱き、これを阻止すべく活動をしているのだが、その共同代表には同じ危機感を共有する具志堅隆松さんに就任していただいている。具志堅さんの発言にはさらに切迫感が加わっている。

 「戦争を否定するためにやって来た活動なのに、今また目の前に戦争を突きつけられてしまった。天地がひっくり返ったような衝撃だ。日本本土を守る軍事的な防波堤の役割を、沖縄戦に続いてもう一度、担ってくださいと言われているような気がします。でも、今度は断ります」。きっぱりとした口調でこう続けた。

 「いま、戦場になった島々からどうやって住民を安全に避難させられるか? という議論が盛んになってきていますけど、これはおかしいです。出ていくべきは、私たちではありません。軍事基地です。私たちは、沖縄に住み続けていい。その権利を持っているんです!」

 25年間、沖縄の民意を無視して辺野古の基地をごり押ししてきた日本政府は、さらに沖縄戦の犠牲者の遺骨をそこに投入すると言い、挙句の果てに中国の太平洋進出を止める作戦の要衝として、私たちの住む島々を勝手に使うという。復帰して50年という節目の年は、こんなに残酷な「祖国」の本性をいやというほど直視させられる年になった。

 そんな中で、新型コロナの影響で見送られていた総理の追悼式典への参加が3年ぶりに実現した。黙っていたら再び沖縄を戦場に差し出すことになりかねない、と焦る人々は、政府首脳が摩文仁にやってくる機会を捉えて異議を申し立てようと会場周辺に集まって来た。

 島中が悲しみに溢れる慰霊の日。静かに追悼するのが本来の姿であることは沖縄県民が一番よく知っている。が、今年は政府側も沖縄県民の不満を見越してなのか、県外から大勢の機動隊員を動員して過重な警備をしき、式典会場からあからさまに一般客を遠ざけた。参拝するにも遠回りを強いられた高齢者たちが激怒する場面を何度も見た。そんな中で、岸田総理の挨拶の時のみ、かつてないほどの怒号が会場周辺から上がった。現場では緊張が走った。中継のマイクにも入ったであろうこの声に対し、死者たちに敬意はないのか? と非難する書き込みがネットに溢れた。しかし、この行動を「お行儀がいい、悪い」という価値判断だけで非難するのは、誰にでもできる簡単な、そして何の足しにもならない論評と言わざるを得ない。

 敢えて問おう。死者に対して「お行儀がいい」というのはどういう態度であろうか。32軍司令部のトップが自決したと言われる「黎明の塔」で、彼らに敬意を表して「海ゆかば」を熱唱するのは、確かに死者を軽んじている行為ではないだろう。そこには命を懸けて国を守ろうとした人々への尊敬の気持ちと誠意もあるだろう。しかし、であるならば、同じく命を懸けることになってしまった一兵卒や民間人たちの骨が散らばっている南部の土にも、最大限の敬意を表して、最後の骨片を回収し供養するまでは開発は控えるべきだという運動にも加わってほしい。旧日本軍を誇りに思う自衛隊関係者や防衛省の人間であればなおさら、具志堅さんのやっていることを応援するのが戦死者に対する人道的な礼儀ではないだろうか。

 さらに言わせてもらうが、今回の動画の証言にもあるような、追い詰められた摩文仁の地で折り重なるように死んでいった名前もわからない死者たちは今、「立派だった」と、「国のいしずえになってくれてありがとう」と褒められたり感謝されたりすることを望んでいるだろうか? 彼らが死んでいった状況に向き合い、本気で理解する努力をした人間であれば、あの場所で死んでいった人たちは、兵も民もみな「国に見捨てられた」ために「叩き殺された」に過ぎないとわかるはずだ。なぜこんな目にあったのか? という嘆きは「立派でした」という札で封印するなど到底できないことも。

 名誉や感謝の包装紙で遺体をくるんでおきたいのは、彼らを死なせた側が楽になりたい、それだけが動機の陳腐な行動であることに、戦後77年経ってなお気づかないことこそ死者に対する最大の侮辱である。死者は、死んでなお「軍神」や「英霊」という枠にはめられて利用されたいはずがない。そうではなくて、「見つけて欲しい」のだ、「名前を読んで欲しい」のだ。「なぜこうなったのか、解明して欲しい」と、同じ地獄が再現されることがないよう、騙されないよう、「私たちの屍から揺ぎ無い平和を掴み取ってほしい」と地中から声を上げていることが、なぜわからないのか。

 死者たちの声に耳を傾け、代弁することが慰霊になるなら、だまされないぞ! 沖縄の海を埋めるな! 戦争に使うな! という叫びは、彼らの思いを可視化した弔い方のひとつともいえる。戦死者に礼を尽くすということは、沖縄をぶっ壊す政権の長が島にやって来た時に、おとなしく下を向いてやり過ごすことでは決してないと私は信じる。私が沖縄戦の死者なら、今年77年ぶりに名前を呼んでもらった事に、地中から躍り上がって喜ぶだろう。

 「私の話を聞いてくれる? 私は〇〇村の〇〇ですよ、ここには姉も弟も眠っているのよ、彼らの名前も呼んであげて!」

 と語り始めるだろう.そしてこう言うだろう。

 「たくさん聞いて欲しいけど、本当に伝えたいことは一つだけ。もう騙されないで。
 また利用されないで。本気で命を守りなさい」

 と。そして77年ぶりに名乗りを上げて、高らかに言うだろう。

 「口をつぐんではダメ。さあ声を上げて! 命どぅ宝! 命どぅ宝!
 島の命を潰すすべてのたくらみを追い出せ!」と。

三上智恵監督『沖縄記録映画』
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標的の村』『戦場ぬ止み』『標的の島 風かたか』『沖縄スパイ戦史』――沖縄戦から辺野古・高江・先島諸島の平和のための闘いと、沖縄を記録し続けている三上智恵監督が継続した取材を行うために「沖縄記録映画」製作協力金へのご支援をお願いします。
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三上 智恵
三上智恵(みかみ・ちえ): ジャーナリスト、映画監督/東京生まれ。1987年、毎日放送にアナウンサーとして入社。95年、琉球朝日放送(QAB)の開局と共に沖縄に移住。同局のローカルワイドニュース番組のメインキャスターを務めながら、「海にすわる〜沖縄・辺野古 反基地600日の闘い」「1945〜島は戦場だった オキナワ365日」「英霊か犬死か〜沖縄から問う靖国裁判」など多数の番組を制作。2010年、女性放送者懇談会 放送ウーマン賞を受賞。初監督映画『標的の村~国に訴えられた沖縄・高江の住民たち~』は、ギャラクシー賞テレビ部門優秀賞、キネマ旬報文化映画部門1位、山形国際ドキュメンタリー映画祭監督協会賞・市民賞ダブル受賞など17の賞を獲得。14年にフリー転身。15年に『戦場ぬ止み』、17年に『標的の島 風(かじ)かたか』、18年『沖縄スパイ戦史』(大矢英代共同監督)公開。著書に『戦場ぬ止み 辺野古・高江からの祈り』(大月書店)、『女子力で読み解く基地神話』(島洋子氏との共著/かもがわ出版)、『風かたか 『標的の島』撮影記』(大月書店)など。2020年に『証言 沖縄スパイ戦史』(集英社)で第63回JCJ賞受賞。 (プロフィール写真/吉崎貴幸)