第33回:被災地ツアー報告「避難する時、ご先祖たちに家を守ってくださいとお願いして避難したんです」(渡辺一枝)

 昨年に続いて、今年も友人たちを誘って被災地ツアーに行きました。
 6月24〜26日、今野寿美雄さんのガイドで福島県の浪江町、双葉町、大熊町、富岡町、楢葉町を回りました。参加者は私を含めて5名でした。内2人は何度かボランティアで福島を訪ねたことがあり、また1人は福島訪問が初めてで、もう1人は以前に私が南相馬の仮設住宅でぬいぐるみ講習会をしたときに助っ人をお願いした人でした。

◎6月24日

帰還困難区域

 福島駅で今野さんに迎えていただき、一路国道114号線で浪江町津島へ向かった。その道すがら今野さんは、通過する地域について説明をする。例えば「川俣町に入りました。この道路は今も工事中ですが、一時期よりもだいぶ進んできました。道幅を広げてるんです。3・11以前から住民たちの要求で避難路として拡幅工事が予定されていたのに着工されずにいて、ようやく工事にかかったのは、原発事故後です。汚染土搬送に大量のダンプカーが行き交う必要が生じてからでした」と言う。工事費用の財源は復興予算からだというから、なんだか割り切れない。
 国道114号線に沿った山肌には、マタタビの白い葉が目に付く。この季節に葉を白くするのは、花の蜜を吸いにくる虫を誘うためだという。虫の羽で受粉して、秋にはあの小さなキウイフルーツのような実がなるのだ。葉裏に花が咲くのだが、花があることを知らせるために花の時期になると、葉が白くなる。数式や化学式がなくても自然の摂理は、季節を違わず巡りくる。
 山木屋地区を抜けて浪江町津島に入った。「ここは石井ひろみさんの家、明治期に建てられた旧家です。これも解体されてしまいます」。今野さんの説明に、みんなからは「え〜っ!立派な家なのに、保存できないのかしら」などと声が上がる。その声に応える暇もなく「次の津島の名所旧跡、菅野みずえちゃん家です。もう花は終わっているけれど、通り門に絡まっているのは白藤です」。今野さんのガイドは淀みなく続く。
 私はひろみさんの家もみずえさんの家も、どちらも中に入らせてもらったことがあったけれど、放射能の汚染さえなければ文化遺産として大切に後世に伝えられるべき建築だと思う。ひろみさんの家の台所のかまど、みずえさんの家の通り門や母家の神棚など、津島の暮らしを後世に伝えるものなのに、間も無く解体されて跡を残さなくなる。
 今野さんは「苦渋の解体です」と言う。原発事故は、暮らしを奪い、過去の歴史を消し去ってしまうだけでなく未来に繋ぐべき歴史をも奪ってしまう。私は、みずえさんの家にも何組かの人たちが避難してきたが、みずえさんはその人たちには家にある食品を自由に使って自分たちで食事を作って食べるように伝え、自分は避難所になった公民館や高校に通い、避難者たちがみんな別のところへ移動して居なくなるまで炊き出しをしていたことを話した。3月12、13、14、15日と高濃度の放射性物質が降り注いだ日々。その後みずえさんは関西に避難したが、間も無く甲状腺がんの手術を受けた。今野さんは「みずえちゃんは、大切な友人です。元気に振る舞って裁判など頑張っていますが、本当に悔しいです」と言った。
 スクリーニング場に入り人数分の装備品を受け取った。更衣室で、受け取った白い防護服、靴カバー、キャップで身を固めて、また車に乗り込み、まずは浪江高校津島校に向かった。ここでは、車から降りずに車内で今野さんの言葉を聞いた。「私の息子もここに避難していました。このグランドで遊んだり、雪が降っていたのでその雪を食べたり、ここで被曝をしました」。“子ども脱被ばく裁判”原告代表の声に、悔しさが滲む。
 大和久のゲートで、係に入域許可証を見せてゲートの鍵を開けてもらう。係の男性2人は警備会社ALSOKの社員だ。今野さんは彼らに「30分くらいで戻ってきます。暑いから長居できないよ」と言い、彼らは「はい、わかりました。お気を付けていってらっしゃい」と言う。このゲートには彼ら2人の他に、少し離れて女性が一人で立っていたが、彼女の仕事はまた別な業務で、域内の廃棄物を搬出する車をチェックする廃棄物運搬業者の社員だ。私は初めてここを訪ねた時に、放射線量の高いこの場所で女性が働いていることにとても驚いたが、四度目のこの日、なんの不思議も思わないでいる自分を訝り、そしてそんな馴れを戒めたいと思った。
 草木の緑に覆われた中に一筋舗装道路が続き、緑の木の間に時折チラと家屋が見える。それはかろうじて、かつてこの辺りには暮らしがあったことを思わせるが、もはや息吹は感じられない廃れた光景だ。
 覆い被さるような緑を抜けて「小阿久登入り口」の石碑を見る。初めてこの地名を聞いたのは、ずっと以前に今野さんが遠縁の男性と話している時だった。津島の「コアクト」と聞いて私は、今野さんが「津島の小悪党」と呼ばれていたのだと思い込んだ。その後にここにきて「小阿久登」と言う地名だったと知って、可笑しかった。この日もそんなことを私が言うとみんなが笑ったが、文字面からは窺い知れない意味を問われて今野さんが、「アイヌ語からです。アイヌ語に適当に文字を当てはめたんでしょう」と答えた。すると「この辺にもアイヌが居たのですか」という声が上がった。
 私たちの国は、学校教育の中で自国の歴史を教えない国だと思う。国政に携わる閣僚が平気で「日本人は単一民族」などと言う。それでも先住民族としての北海道のアイヌは知られているが、関東以北の蝦夷(えみし)、九州の熊襲(くまそ)・隼人や、彼らと大和の歴史など、あまり知られていない。地名には先住民族の音声言語に適宜に字をあてがったり、またはその意を汲む漢字を当てたりしてつけられた地名も少なくない。特に北海道の地名には多く見受けられる。札幌(サッポロ)は、市内を流れる豊平川は乾季には水量が激減し、「サッ(乾いた)ポロ(大きい)ペッ(川)」と呼ばれていたことに由来するという。小樽は「オタ(砂浜)オル(中の)ナイ(川)」からの地名だそうだ。福島にもアイヌ語から転用されたと思われる地名がある。福島市の野田は「ニタ(低湿地)」からと思われるし、南相馬市の小高の米々沢(または女々沢とも)は、アイヌ語で水が湧くところを意味する「メム」からだと思われる。また原町区の渋佐は、地元の人が言うのを聞くと耳には「シプサ」と聞こえる。これもアイヌ語に似た音の漢字を当てたのではないかと思う。
 「津島の小悪党」で笑い合っている間に、共同墓地に着いた。やや傾斜した敷地の一番上に建立されている大きな石塔に掘られた「今野家の墓」を指して今野さんが、「大本家の墓です」と言った。その一段下にも「今野家の墓」と刻まれた大きな石塔が左右にならぶ。「分家して、こっちが我が家の墓です。我が家の方が近い(系列として)ので、分家する時に塗の椀や什器など、本家と50客分ずつ分けました。いわば財産共同管理という訳です。本家の墓に刻まれた年号を見てもらうとわかりますが、1000年ほど前から続いている家系です」。その下方にもまだ「今野家の墓」は在ったが、これら今野家の墓の一群とは別に「三瓶家の墓」が在って、小阿久登は三瓶姓が一軒だけで後はみな今野姓だったという。だから屋号で呼んでいたそうだ。
 それらの説明を受けて、また車に戻って少し行くと今野さんのご実家の前に着いた。被災前には家の玄関前まで車で行けたのだろうが、草木が茂ってしまった今は、家の下の道路に車を停めて草を踏み分けて歩く。2月の地震で表の引き戸のガラスが割れ落ちていた。「気をつけてください」と今野さんは戸を開けながら声をかける。足を踏み入れた皆は、野生動物に荒らされて散らかり放題の惨状に声を呑み、「これが原発事故後12年目の現状です」の声に、我に返り歎息する。
 長押に飾られたご先祖たちの写真も地震で傾いでいたが、床の間の大きな仏壇が壁に倒れかかっていて、これもまた地震によってのことだった。今野さんが立て直そうとしたが、とても一人の力では直せる重さではなかった。中に在ったご位牌などは避難する際にお兄さんが運び出されたそうで、仏壇の中には何も無いからと今野さんはそれ以上立て直そうとはせずにおいた。
 参加者たちは、やはりご先祖の写真が持ち出されずにそこにあることが気になるらしく、今野さんに質問した。「避難する時、ご先祖たちに家を守ってくださいとお願いして避難したんです。どこの家もみんな、そう思って写真は持ち出さなかったと思います」と答えが返ったが、仮に持ち出したとしても、津島の自宅よりも狭い避難先では、飾ろうにも場所はなかっただろうと私は思う。
 車を停めた場所に戻り、来る時にスクリーニング場で身につけた靴カバー、マスク、防護服上下、キャップ、手袋などを外してビニール袋に入れて袋の口を閉じて乗車した。大和久のゲートでまた鍵を開けてもらってスクリーニング場に戻った。持ち帰ったビニール袋を職員に渡し、靴底の放射線量を測定して貰った。全員の靴底のチェックが済んで車のドアを閉めて発進させようとした時に、職員は「ご苦労様でした」と言って軽く頭を下げた。彼らは東電の委託社員だという。その声が耳に残った。単なる社交辞令だったのか、それとも入域に際しての諸手続きを労っての言葉だったのだろうか。原発事故さえなければ、全て必要のない手続きだった。
 スクリーニング場を出て114号線を請戸に向かって行き、椚平の辺りで関場健治さん・和代さんの家の前を通った。関場夫妻は茨城県の日立市に避難して、お墓も移した。子どもたちに「お墓が津島では、お墓参りにも行けない」と言われてのことだったという。
 関場さんの家に行く道の分岐には「熊の森山入り口」と書かれた立て看板がある。これもまた、アイヌ語からの地名ではないかと思う。アイヌ語で「山」を「ヌプリ」と言うからだ。「ヌプリ」が「の森」になったのだろう。

双葉町中間貯蔵施設

 今回ツアーの目的地の一つである「東日本大震災・原子力災害伝承館」の駐車場に車を止めたが、伝承館に入る前に先ずは隣の産業交流館へ入った。昼食の時刻になっていたのでフードコートでご当地B級グルメの「なみえ焼きそば」を食べてから、屋上へ上がった。
 屋上からは双葉町の中間貯蔵施設が眼下に見渡せる。木立に遮られて見えるのは敷地の一部では、白っぽい建物が2棟あり、それらの建物の外には、フレコンバッグが積み上げられている。仮置き場に積み上げられたフレコンバッグの中身は土壌、可燃物、仮設の焼却施設から運び込まれた焼却灰などで、白っぽい建物の片方は分別施設だ。土壌袋の中にも草木や木片など可燃物が含まれているので、ここで可燃物と土壌に分別する。ここで出た土壌はフレコンバッグに詰めて土壌貯蔵施設に運ばれる。
 もう一方の建物は「減容化施設」と称するが、焼却施設だ。焼けば容積は減るから減容化という。仮置き場にある可燃物の入ったフレコンバッグと先の建物で分別された可燃物は、この減容化施設で焼却される。そして出た焼却灰は、ここからは見えないが廃棄物貯蔵施設に運び込まれる。
 8000ベクレル以下の土壌の再生利用実証事業として、汚染されていない別の場所から運んだ土壌で覆土をして、飯舘村の長泥では作物栽培を、南相馬市では盛土として建築資材にという実証実験が行われている。農水省は水田の作付けができるのは土壌の放射線量が5000ベクレル/kg以下とし、食品に関しては安全基準を100ベクレル/kg以下としている。8000という数字はどうやって弾き出されたものなのだろう。
 中間貯蔵施設を上から眺めた後で海側の方へ目を向けると、すぐ目の下は芝生の原で、ロボット芝刈り機が動き回っていた。これは自動掃除機ルンバの屋外編だ。芝生や伝承館のその先が請戸で、震災遺構の請戸小学校も見える。視線を右にずらすと、海辺に建つ三角屋根のマリンハウスだ。私はこれまでも何度か、ここからあの三角屋根を見ていながら何の不思議にも思わなかったけれど、なぜあそこだけ津波で流されずに残ったのだろう? マリンハウスまでは行くことができるそうだから、次に来た時には行ってみようと思った。木立に隠れて見えないその先は、東京電力福島第一原子力発電所だ。

東日本大震災・原子力災害伝承館

 2020年9月20日に開館した伝承館は、「公益財団法人福島イノベーション・コースト構想推進機構」が運営管理している。開館当初は原発事故の実相を伝えようとせず、むしろ矮小化していて甚だ評判が悪かった。被災当事者や見学者からのアンケート、取材したメディアなどから意見が多く寄せられたようだ。この日で4度目の見学となる私自身も、以前にはそのような意見をアンケートに書いた。今年度から展示方法を少し変えたというニュースを見ていたが、実際、以前よりはほんの少し改善されたように思えた。しかし核物質の危険性についてはやはり矮小化されたままで、改まってはいなかった。館長の高村昇氏は、原発事故後も安全神話を振り撒いた御用学者の一人である。
 伝承館の展示室は2階で、1階から螺旋状のスロープを上がっていくようになっている。スロープの壁面には、エネルギー産業面での福島県の歴史を示すような写真が年代を追って展示されている。常磐炭鉱や只見川の水力発電、戦時中の双葉郡の飛行場跡地に建設された東電福島第一原発、3・11当時の現地などの写真とその説明文が順序立って並び、最後の1枚は伝承館の写真と2020年竣工、同年9月20日開館の説明文で終わっている。
 今野さんは「書いてあることを読むより私の言葉を聞いていただく方がよくわかります」と言って、最初の写真からずっと説明して歩いてくれた。そして、最後の1枚のところにくると、「これで終わりです。東日本大震災・原子力災害伝承館は、この伝承館ができたことを伝承している施設です」。高村館長には耳が痛いだろうが、その言葉は本質をついていると思う。廃炉の見通しも立たず、放射性物質は大気に海に漏れ続け、他県に比べ福島県人の癌罹患率は突出、気持ちの分断は埋まらず被災者の苦悩は深まっている。

請戸小学校震災遺構ほか

 伝承館から請戸小学校へ行く途中にも、見落とせない震災遺構がある。いや、遺構という言葉は当たらないかもしれないだろうが、あの地震で道路に大きく断層が生じているのが見える場所だ。道路がぶつりと途切れてずれが生じ、中央の黄色い線が2m近くずれてしまっている。こんな断層の上に私たちの日常があったということを、改めて知らされる。またこの辺りは地盤沈下もしているそうだ。
 請戸小学校震災遺構は、津波の威力の凄まじさをまざまざと伝えていた。請戸は津波による犠牲者が多かった地域だが、当時学校にいた子どもたちは全員避難して無事だった。数日前(前日だったか?)に避難訓練をしていたばかりで、それもまた幸いしたことだっただろうが、先生たちの判断がよかった。避難途中で保護者への引き渡しよりも何よりも、避難を最優先した。もし家に戻っていたら犠牲になったであろう例も少なからずあったようだ。
 校庭の外れに、大小6匹のカエルの石像が置かれている。「帰れない蛙」と呼ばれる石像だ。蛙たちの視線の先は、東京電力福島第一原子力発電所の方を向いている。誰が置いたのだか、個人なのかあるいは複数の人なのかも定かではないが、あたかも原発を睨むように並べて置かれている。
 以前は住居が密集し田んぼが連なっていたこの辺りは、災害危険区域として住居は建てられなくなり、広大な公園造成地となった。土色の大地とそこに盛土されて土色の小山ができている。その土は隣の南相馬市小高区の里山を削土して運び込まれている。環境を破壊してつくられる復興祈念公園、記憶と鎮魂の丘だ。造成中の今は土色一色だが、やがて芝生と樹木が植えられ、防潮堤の向こうには太平洋の波が煌めく公園になるだろう。そこを訪ねる人たちは、原発事故で故郷を奪われたまま避難先で暮らす人がいることなど思い浮かべたりするのだろうか。
 請戸の漁港も再開され、水産加工業の有限会社柴栄水産も営業再開している。その一方で政府は、漁業関係者たちがこぞって反対しているにもかかわらず汚染水を海に放出するという。漁業関係者たちに丁寧に説明し納得を得られるまで放出しないと言っていた言葉を反故にして、放出の計画は進められている。

「ハンフォードに倣え」

 アメリカ・ワシントン州のハンフォードは、先の戦争で長崎に投与されたプルトニウム爆弾など、プルトニウム兵器を製造していた場所だ。米国内で最も核汚染された地域と言われ、汚染廃棄物問題を抱え現在も除染作業が継続中の地域だが、そうした「過去の放射能汚染地域」は廃炉や除染技術開発研究と関連事業で発展してきて、現在では全米有数の繁栄都市とされている。研究者の宮本ゆきさんの言によれば、それは「負の遺産の清算なく進む核開発拠点の“復興”」だという。福島は今、そこに倣おうとしている。
 「福島イノベーション・コースト構想推進機構」は「日本版ハンフォードモデル構築による福島復興創生」と称して、クリーンナップ事業としてさまざまな技術革新を謳った事業を展開している。「浪江に在る世界一の場所」と言われている水素工場は、敷地内に設置したソーラーパネルで生じた電力で水を分解して水素燃料を作っている。今野さんは皮肉をこめて「更地の町にある世界一の場所です」と言った。水素運搬用のタンク車も、駐車場に数台待機中だった。また、木材を圧縮加工して極堅牢な柱材を作る工場(ここは企業秘密として見学不可だそうだ)やドローンなど無人航空機の滑走をテストするロボットテストフィールドなどが既に稼働している。南相馬市のロボットテストフィールドは滑走路が南北方向に向くが、浪江のそれは東西に向いている。さらにこれから建設に入る段階になっている大牧場がある。いや、牧場というより牛乳生産工場という方がふさわしいだろう。牧場というと広い草原に放牧されている様子を思い浮かべるが、ここは1500頭の乳牛を飼育する畜舎が建設される。中から空を仰ぐこともできない牛小屋が造られる。
 これらの施設があるのは、「東北電力浪江・小高原子力発電所」建設予定地だった地域だ。建設にかかる前に福島原発の事故が起き、東北電力は計画を撤回して用地を浪江町に無償譲渡した。政府は、核汚染という負の遺産を負ったハンフォードが全米有数の繁栄都市となったのに倣って、核災害被災地の大改造を図った。

町の顔が消されていく

 東日本大震災によって、常磐線の仙台―いわき間は甚大な被害を受けた。地震・津波で線路や駅舎が流され、原発事故によって高濃度に汚染された区間もある。復旧作業は進められていったが、線路際の除染をしてからの作業だった。2020 TOKYOオリンピック開幕までには何としても終わらせようと、工事は急ピッチで進められていった。おかげで双葉、大野、夜ノ森、冨岡など各駅は、それぞれエレベーター付きの真新しい駅舎が完成し、駅前は広々としたロータリーや、改札を通さず線路を跨いで東西を結ぶ通路などができた。
 双葉町でのオリンピックの聖火リレーはこの駅前ロータリーを走った。かくしてオリンピックを報じるテレビニュースは、晴れやかに「復旧」の姿を映し出した。駅舎から100mも離れれば高濃度汚染地であっても、そんなことはニュースでは語られなかった。
 浪江町での聖火リレーは浪江小学校の正門前から出発した。そしてその翌日から、浪江小学校の解体工事が始まった。小学校解体は、全くオリンピック関連のニュースに取り上げられることもなかった。
 浪江町で最も早い時期に建物が解体されて更地になったのは駅前の飲食店だったが、それから解体作業は町中に広がって、そこかしこが更地になっていった。浪江の駅舎は地震や津波の被害もなく、常磐線の全区間再開に伴って沿線の近隣各駅が新しい駅舎になっても、浪江駅は被災前の姿でそこに在った。駅の佇まいというのは、いわばその町の顔のようなものではないだろうか。更地の町になった浪江で、駅舎はかつての町の名残を止める唯一とも言える場所だった。
 だがつい最近、駅周辺の再開発青図が発表された。翼を広げたような大きな屋根が、駅舎と駅前ロータリーを覆うような設計図面だ。未来都市のよう。設計は隈研吾氏。私が知っている浪江町民の誰一人として、この青図を見て喜ぶ人はいない。住民不在を絵に描いたような設計図だと、私には思える。

*ツアー1日目を終えて、この晩の宿泊は小高駅前の双葉屋旅館さんでした。
 顔を合わせるなり女将の友子さんに、「一枝さん、どうすればロシアを止められるだろう!どうすればプーチンの動きを止められるだろう!」と問いかけられました。もとより私の答えを期待しての問いでないことは、明らかです。友子さんは、3・11後に市民グループ「チェルノブイリ救援・中部」を通じてウクライナと交流を重ねてきています。そして2013年以降ウクライナのジトーミルという町を3度にわたって訪ね、また現地の人を福島に招いてもきました。チェルノブイリで消火にあたった消防士を招いて交流事業をおこなったこともあります。現地を知り、人々との交流もある友子さんです。ロシアの侵攻以後の日々、どんなにか切ない思いで過ごしているだろうと察しながら、私には返す言葉もありませんでした。

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渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。