第34回:被災地ツアー報告(2)「10年経っても、廃炉の道は見通せない」(渡辺一枝)

 6月に福島各地を訪ねた被災地ツアー、2日目の報告です。まず富岡町に行き、午後に浪江駅前の会場で上映されるアニメーション映画を見るために浪江町に一旦戻りました。その後再び富岡町を経て楢葉町の伝言館を訪ねてから、宿泊予定のいわき市の古滝屋旅館に向かいました。

◎6月25日

富岡町

 この日は、先ずは富岡町の夜ノ森地区に、板倉正雄さんを訪ねた。
 今年7月末の誕生日には94歳になる板倉さんに初めて会ったのは、去年の3月だった。富岡町は2017年4月1日に、帰還困難区域を除いて避難指示が解除された。解除後にいち早く戻った高齢者がいると聞いていた。それが板倉さんだ。板倉さんに会いたいと思いながらなかなか叶わず、被災から10年目の去年、ようやく訪ねることができたのだった。
 昨年は3月以降も2回お訪ねして、話を聞かせていただいた。3・11後の避難生活と戻ってからのこと、被災前の生活や子ども時代のこと、戦争中のことなど、90年以上にわたる人生をお聞かせいただいた。だがその後、お連れ合いが利用されている施設からの要請で訪問を控えてきた。その間何度か電話で会話を交わしてきていたが、この日は久しぶりの訪問になる。
 とは言えやはりコロナ禍にあるので玄関先でのご挨拶だけで、訪問の目的は写真を撮らせて頂くことだった。[信州発]産直泥つきマガジン『たぁくらたぁ』に私は記事を書いているが、その55号、56号に「ふくしま 人のものがたり」として板倉さんのことを書いてきて、間もなく発行の57号でその記事は終わる。そこに近影を載せたかったのだ。
 玄関の引き戸を開けて出てこられた板倉さんはお変わりなく元気そうで、突然の訪問に驚いた風もなく「ヤァ、いらっしゃい。こんにちは。しばらくでした」と笑顔で言った。事情を話して写真を撮らせていただいた。これまでもいつも感じていたが、板倉さんは佇まいが静かな人だ。裕福ではなかった子ども時代、戦争中の満州での体験や敗戦後の避難行、引き揚げてから家庭を持つまでの暮らし、娘たちが嫁ぎ夫婦2人になって老後の生活設計を考えていた時に起きた原発事故、そして避難所生活と自宅に戻ってからの日々、90年の人生を語るそのいつも、感情を激することなく静かに語ってくれた。「私は敗戦後と原発事故後と2度にわたって、避難所生活を味わいました」という板倉さんからは、こうした事態を引き起こしたものに抗おうとする強い意志を感じたが、その言葉も話しぶりも穏やかで静かだった。この日もまたいつものように静かな口調で、別れ際に板倉さんは言った。
「ここに帰ってきて、いつも思いますよ。私は大切なことばを得たと思っています。日本語で一番素晴らしい言葉は『ありがとう』だと思っています。いつも『ありがとう』と言うたびに、自分の気持ちがすうっと浄化されていくように感じます」
 避難指示が解除されても帰還した人は1割にも満たないこの町で、板倉さんの自宅周辺も、そこここが解体されて更地になった。板倉さんが戻ってきた時には自宅の前にあった中学校も解体されていた。かつては我が子が通った中学校が跡形もなくなって、呆然と立ち尽くす日が続いたある朝、更地の向こうから眩いばかりの光が差し陽が昇ってきた。思わず口をついて出た言葉が「ありがとう」だったという。これは初めて会った時に聞いた話だ。私の心に深く残っている。
 夜ノ森の桜並木は緑陰のトンネルだった。夜ノ森駅の新しい駅舎は改札の内側にホーム階へ降りるエレベーターがあり、改札の外には東西を結ぶ通路が併設されていた。この改札を出入りする人は1日にどれほどいるのだろう。5本の指より多くいるのだろうか。

『ふくしま原発はじまり物語「峠」』

 この日浪江の施設で、アニメーション映画『ふくしま原発はじまり物語「峠」』が上映されると聞いたのは、ツアーに出発する2日前だった。広島在住の製作者によるトークもあると聞いた。今野さんと相談して、ツアーコースにその映画鑑賞も組み入れることにした。それで当初予定したコースを変更したので、2日目の朝に一旦南下して富岡町に行ったがまた北上して浪江に戻ったのだった。会場の「浜通り地域デザインセンターなみえ」は、浪江町のまちづくり活動を支援する施設として東京大学と日産自動車によって5月28日に開設されたばかりの施設だった。
 上映されたアニメ映画『ふくしま原発はじまり物語「峠」』は、広島への原爆投下から福島第一原発事故までの出来事を福島の被災者の人生を通して描き、見応えのある映画だった。
 主人公は1949年に大熊町で生まれ、原発事故で故郷を追われて避難生活を送っている男性だ。主人公のこんな語りで映画は始まる。
「オレは戦後生まれの福島人。それも2011年の東日本大震災の時、原発事故を起こした大熊町に生まれ育ったんだ。この物語は原発が福島に造られるまでの話、いえば歴史物語なんだべ。学者さんが作る歴史もんでなくただただ、オレが生きてきた中で原子力をめぐる大きな出来事を並べたもんだ。庶民目線で見えるもんを取り上げたから学問としては役に立たねえが、一般庶民はこんな中で原発を受け入れたことが伝わればいいと思ってる」
 主人公が生まれる4年前、広島へ原爆が投下された。3日後には長崎にも。戦争終結後、主人公が生まれた1949年にはソ連が核実験に成功。1953年にアメリカのアイゼンハワー大統領(当時)が国連で「原子力の平和利用」演説をし、日本では広島を含め各地で「原子力平和利用博覧会」が開催された。1954年にアメリカは南太平洋のビキニ環礁で、原爆よりも何倍も威力のある水爆実験を行い、これにより日本のマグロ漁船・第五福竜丸が被爆した。このビキニ事件を契機に日本では原水爆禁止運動が起きたが、その動きが世界に広がるのを恐れたアメリカは、日米協力で被爆地広島に原子力発電所の建設計画を決議した。さすがにその計画は経ち消えたが、1960年には福島県への原発誘致が発表された。
 こうした事実が男性の半生と重ねて描かれ、また、どうして福島に原発が造られたか、広島とのつながりを交えて歴史的背景を重ねあわせて描いている。主人公は大学生時代に夏休みに帰省した折、原発の巨大な建物が建設されたのを見て驚いたが、それから数十年後の2011年、原発事故によって避難生活を送っている。彼が呟く。「核の平和利用のもと、広島の原爆被害者さえも取り込んで、世界の大きなうねりの中で原発は広まっていったんだべ。おれ達一介の庶民には、どうしようもなかったんだなぁ」。タイトルの「峠」が、非常に象徴的に映画制作の意図を語っていると思った。核を受け入れるべきか否か、何度となく議論すべき機会はあったが、結局は経済優先の道を選んで峠を登り続け、そして今が在る。
 映画上映後に製作者の福本英伸さんの挨拶があった。紙芝居作家の福本さんは広島出身で、ペンネーム「いくまさ鉄平」として「一般社団法人まち物語製作委員会」で活動している。主な活動の一つに、東日本大震災被災者の心の支援がある。東北に届けた紙芝居は170作品もあり、それらのアニメ化にも挑んでいる。浪江町の消防団の物語『無念』を観た方も多いのではないだろうか。
 最新作の『ふくしま原発はじまり物語「峠」』のアニメ化にあたっては、躊躇があったという。原爆投下から原発事故までの間の、核をめぐる出来事を福島の被災者の人生に置いてみたが、間違いがないかとの不安は拭えなかったという。それでも作ろうと思ったのは、原発建設の歴史を調べる中で、広島が頻繁に出てくるからだった。
「原子力平和利用博覧会が広島の原爆資料館で開催された」「大熊の原発建設担当者は、原爆被爆者だった」「浪江・小高原発誘致に反対した地主は、原爆被害を目にしていた」「日本初の原発建設候補地は、広島だった」などなどで、福島に通い続けた11年は、この作品を作るためにあったと思えた。その時から「支援」が「責任」に変わったと言う。
 人類は広島で核の破壊力を目にし、チェルノブイリで汚染地帯は100年間立ち入り禁止になることを知った。電源喪失で原発は爆発の危機に至ることを福島で学んだ。そして2022年ウクライナでの戦争。原発は戦時において攻撃対象となり、最も簡単に「人質」となることに気付いた。わずか77年間、つまり一人の人生の時間軸の中でこんなにも重大なことが起きたという事実を、伝えねばならないと思ったと、福本さんは語った。
 アニメ映画上映、そして福本さんのトークの後で、「浪江まち物語つたえ隊」のメンバーによる紙芝居上演があった。福本さんが被災者の話を聞き紙芝居に起こしたもので、話者の被災者自身による上演だった。
「浪江まち物語つたえ隊」は2012年に結成されたが、それは当時仮設住宅で暮らしていた2人の浪江町民と福本さんとの出会いによる。2人は「紙芝居作家・いくまさ鉄平」が制作する紙芝居で、帰れぬ故郷への想いや被災前の今日の暮らしや歴史を語り継ごうとしたのだ。現在はメンバーは5名となり、故郷の記憶や震災の記憶を風化させまいと、活動を続けている。

 今回のツアーでは予定コースを変更したために今野さんには浪江—富岡間を2往復して頂くことになったが、この映画鑑賞はとても有意義な時間だったと思う。多くの人に、特に若い人たちに見てほしい映画だ。教育現場では子どもたちの校外学習コースに双葉町の東日本大震災・原子力災害伝承館見学を入れることが多いようだが、それをするならこの映画鑑賞をこそ組み入れるべきだと思う。

廃炉資料館

 もう一度富岡町へ戻り、廃炉資料館へ。ここは東京電力の施設で、あらかじめ見学申し込みをする。入館後は見学順路に沿って施設職員の説明を受けながら館内を回り、ほぼ1時間で見学時間は終了となる。入館してもすぐに館内を回れるわけではなく、前の順番の人が済んでから案内されることになる。
 私たちに順番が回ってきた。案内係は若い女性だった。以前に私が見学した時の係は初老の男性で物腰が柔らかで口調も丁寧な紳士然とした人だったけれど、1時間の説明の初めから終わりまでの言葉を吟味すれば、その内容からは「慇懃無礼」という印象を受けた。この日の案内係の女性は、やはり以前と同じように2011年3月の原発事故を受けての「反省と教訓の上に」という言葉で説明を始めた。どうやらそれは、マニュアルらしい。見学の最初のゾーンは2階の「記憶と記録・反省と教訓」だった。3・11時の地震や津波の被害状況を模型と写真で伝え、地震発生から原発事故発生とその対応の映像を見せる。原発による発電原理を説明し、地震発生から電源復旧までの11日間、1号機から4号機ではどんなことが起きていたのかを検証し、中央制御室の様子を振り返る展示がなされていた。そして「防ぐことのできなかった事故の事実に正面から向き合い、昨日より今日、今日より明日の安全レベルを高めてまいります」とは言うが、自分たちが津波対策を怠ったとの言葉はない。
 2階を回り終えて、1階の「廃炉現場の姿」のゾーンに移動した。そこでは福島第一原発構内の状況と、さまざまな職種の人たちによって廃炉作業が進められている説明があった。汚染水対策や建屋内での作業が映像で紹介され、燃料取り出しも燃料デブリ取り出しも思うに任せない状況であることは見てとれた。廃炉現場の遠隔ロボットの紹介もあったが、残念ながらこれもまた、「廃炉作業で活躍する遠隔ロボット」の言葉通りには受け止められなかった。技術的なことや専門的なことなど案内の女性が説明に窮したら、元原子力技術者だった今野さんが説明してくれたが、廃炉資料館見学を通して私が知ったことは、10年経っても廃炉の道筋が見通せないということだった。

原発悔恨・伝言の碑、伝言館

 廃炉資料館を出て、楢葉町の宝鏡寺へ向かった。その境内にある伝言館を見学するためだ。
 ご住職の早川篤雄氏が私費を投じて建設した伝言館は、3・11から10年目の2021年3月11日に開所した。木造2層建の伝言館の脇には「原発悔恨・伝言の碑」が建つ。その隣には、上野東照宮境内で灯されてきた「非核の火」が移設されて火を灯し続けている。
 伝言館の外壁には時系列を追って、日本の戦中から戦後の事件や事象を表す写真が展示されている。日本支配下の朝鮮でだろうか、日本兵が朝鮮の少女を逃がさないように見張っている写真から始まって、真珠湾攻撃、原爆投下のキノコ雲、大陸からの引き揚げ船乗船の様子、ビキニ環礁水爆実験、被曝した第五福竜丸、アイゼンハワー「平和のための原子力」国連演説、原子力発電所、原発事故などなどが展示されて、これらを見てから館内に入るように無言のうちに誘導されている。壁面の写真には日付を打ったものもあり、真珠湾攻撃、アイゼンハワー演説に共通する12月8日という文字に目が止まる。釈迦が世界を見る基本認識として「縁起の法則」「縁滅の法則」を解いたのが12月8日だ。早川住職の想いに触れるような気がする。
 館内1階で真っ先に目につくのは、こちらを見据えた女性の大判ポスターだ。腕を回して乳房を隠した裸の女性の写真には、「エネルギー アレルギー」の文字がある。原発建設反対運動が盛り上がっていた頃に、それを揶揄するような意図で旧科学技術庁が作ったものだ。こんなポスターが、町や村の自治会掲示板に貼られたのだという。そのほか1階には原発誘致に関わるニュースを報じた新聞、また原発事故後の避難生活、除染作業、関連死などに関する説明やパネルが壁に貼られ、またテーブルや棚に積み置かれて、それらは手に取り開いて読むことができる。
 1970年代、早川住職は高校で教鞭をとりながら、東京電力福島第二原子力発電所建設計画反対運動に身を投じてきた。その頃から「この新聞は将来きっと、貴重な資料になる」と、原発関連ニュースが載った当時の新聞やチラシなどを全て保管してきた。膨大なそれらの資料も、ここには展示されている。ここに来る前に浪江で観たアニメーション映画『ふくしま原発はじまり物語「峠」』を思い起こしながら、この日の伝言館の展示を見た。
 またこの地は恐竜時代からの化石が発掘されるような地史学上も重要な地域だそうで、そうした資料も展示されていた。
 地階は、広島・長崎の原爆被害に関する資料、米国の水爆実験で死の灰を被った第五福竜丸についての資料が壁面に展示されていた。
 また、室内中央部の柱には「兵戈無用(ひょうがむよう。仏教経典の無量寿経に出てくる言葉)」と染め抜かれた布が飾られていた。召集令状の赤紙や、戦時協力で梵鐘を供出した代わりに贈られた壺なども展示してあった。軍国主義の中で国家権力に押される形だったにせよ、宗教界の多くは、戦勝祈願や国策に合致した海外での布教、海外での宣撫工作など、戦争協力の道を歩んだ。そうした過去の過ちへの反省が言明されるようになったのは、戦後数十年経ってからのことだ。

いわき市湯本「古滝屋」里見喜生さん

 伝言館の見学を終え、一路この日の宿のいわき市・古滝屋へ向かった。ずっとよく晴れていたのだが、途中からポツリと雨粒がフロントガラスに落ちてきて、古滝屋についた時にはバケツをひっくり返したような土砂降りになった。夜空を見上げながらの露天風呂を楽しみにしていたのに、残念ながらそれは叶わなかった。が、ともかく一風呂浴びてから古滝屋御当主の里見喜生さんと一緒に、夕食の膳を囲んだ。
 里見さんは、老舗旅館の16代目だ。3・11後一旦は家族や従業員と県外に避難したが、いわきは放射線量なども大丈夫だと判断して戻ってからは、ボランティアを無料や低額で受け入れる宿泊所として開き、2012年7月に営業を再開してからは原発事故の被災地ツアーに力を入れてきた。そして2021年3月には9階の宴会場の一室を使って、「原子力災害考証館furusato」を開設した。ここには原子力災害に関する公的な資料には載らない個人的な経験や、国や東電との裁判の記録など里見さんが集めてきた資料が展示されている。考証館の部屋の真ん中には、事故を起こした原発から3キロの大熊町の自宅で津波に遭い行方不明になった、木村紀夫さんの次女汐凪(ゆうな)ちゃんの捜索現場が再現されている。壁面には写真家の中筋純さんが、2013年と2019年の同じ場所を撮影したパノラマ写真が展示されている。そしてそこに実家が在った歌人の三原由紀子さんの詠んだ歌が色紙に飾られている。「二年経て浪江の街を散歩するGoogleストリートビューを駆使して」。
 里見さんが、これからやろうとしている構想を図示したものを見せて、説明してくれた。首都圏で生活が苦しく心を病んでいる人たちに向けた施設を作りたいという。宿泊棟や温泉棟、映画上映などさまざまなイベントや講座が開けるアクティビティ棟があり、また神社や寺、教会、モスクと各宗教施設、野菜や薬草を栽培する畑、池、鶏や山羊など動物を放し飼いにしている場所などを備えた広大な施設だ。里見さんが培ってきた経験や人脈で、決して不可能ではないと思える計画だ。応援したいと思った。そしてそれは、私にとっても叶えたい希望にもなった。
 里見さんと今野さんを囲んでツアー参加の仲間達との歓談は尽きなかったが、食堂がラストオーダーの時間となり、宴会はお開きとなった。雨はまだ止まない。露天風呂は諦めて大浴場で、ゆっくりと湯浴みをした。

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渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。