第36回:「原発事故避難者住まいの権利裁判」傍聴記「私が、南相馬へ帰らないことが悪いのでしょうか」(渡辺一枝)

 7月25日に東京地裁で開廷された「原発事故避難者住まいの権利裁判」第1回口頭弁論を傍聴しました。これは、福島第一原発事故の後、政府が設定した避難区域以外から避難した「区域外避難者」たちが、応急仮設住宅として入居していた関東の国家公務員宿舎から追い出されようとしていることに対して、「住まいの権利」を求めて提訴した裁判です。
 原告の意見陳述はぜひお読みいただきたく、転記しました。2011年3月以降の原告の日々に、思いを馳せていただけたらと願います。
 

◎「原発事故避難者住まいの権利裁判」とは

提訴に至るまでの経過

 東京電力福島第一原発事故によって、多くの人が故郷、住み慣れた地を離れ避難した。
 避難指示区域からばかりでなく区域外からもまた、多くの人が避難した。そもそも避難指示区域そのものが放射線量の実態に合っていず、指示区域外にも高線量地域は広がっていた。
 国は避難者に対して応急仮設住宅を供与した。原発事故後、避難指示区域外からの避難者への応急仮設住宅提供は、当初2年間とされ、その後1年間ずつ更新されてきた。しかし2015年6月15日に内堀福島県知事は国と協議の上、2017年3月31日をもって区域外避難者への応急仮設住宅供与を打ち切り、延長しないことを決定した。これを受けて区域外避難者に応急仮設住宅を提供してきた東京都と埼玉県も、2017年3月31日で提供を終了し、更新しないことを決めた。
 避難者らは、これによって①元の福島県居住地に帰還する、②避難先で公営住宅に入居する、③避難先で自力で住宅を確保する、の3つの選択肢のいずれかを選ぶしかなかったが、いずれも選択できず、国家公務員住宅から退去できずにいる避難者もいた。それに対し、福島県は2年間の経過措置として「国家公務員宿舎セーフティネット使用貸付(有償で2年間の居住を認める契約)」を提案した。原告らは、これを締結して急場を凌ぐしかなかった。
 しかし2年間のセーフティネット契約が終了した2019年4月1日以降、福島県は避難者らを不法占拠者と見做し、住宅からの退去を求めてきた。退去しない場合は家賃の2倍相当の損害金を払えと催促を続け、生活再建の目処が立たない避難者を追い詰めている。
 その追い詰め方が非常に陰湿なやり方で、避難者の家族や親族宅にまで訪問して退去するよう説得せよと迫ったりして、避難者と家族・親族間の関係を分断している。避難者に対して個別に圧力を加えて、精神的に追い詰めていくのだ。
 この間、当事者はもとより「ひだんれん(原発事故被害者団体連絡会)」や支援者は、県との交渉を二十数回にわたって重ねてきたが、誠意ある回答はなかった。都営住宅募集の紹介はあったが、これは収入要件(月給21万4千円以下)、世帯要件(①子どもは20歳未満のひとり親、②60歳以上の高齢者、③心身障がい者、④多子世帯〔18歳未満の子ども3人以上、または未就学児2人以上〕)の2つの要件を共に満たさないと応募できないものだった。他にも低額賃貸の紹介もあったが、それも最寄り駅まで徒歩30分、風呂なし3畳1間など、生活の実態に合わないものでしかなかった。
 こうした状況を受け、原発事故から11年目の節目にあたる2022年3月11日、東京と埼玉の国家公務員宿舎に居住する11名の避難者が、精神的苦痛への賠償と居住権の確認を求めて東京地裁に訴えた。
 しかし、福島県は7月の県議会で、これら避難者に対して住宅明け渡しを求める裁判提訴を議決しようと図った。そこで提訴者の避難者らはそれに先立ち、住宅明け渡しの義務はないこと、使用料ないしは損害金の支払いの義務はないことの確認を求めて、追加提訴を6月に行ったのだ。
 実はこの裁判以前に県は、東京・東雲の国家公務員宿舎に居住する避難者2名を福島地裁に提訴している(こちらの裁判は7月26日、つまり私が東京地裁で傍聴した「原発避難者住まいの権利裁判」の翌日に、福島地裁で第8回口頭弁論が行われ結審となった)。これは福島県が、原発事故被害者である避難者を訴えるという、原告と被告が全くあべこべの裁判だ。
 同じ轍を踏まないために、7月の県議会で提訴決議がされる前に東京地裁に追訴したのが、この「原発避難者住まいの権利裁判」なのだ。

この裁判の争点

 原告代理人によれば、この裁判の争点はいくつかあるが、ここではその中から2点について記しておきたい。

①内堀福島県知事の2015年6月15日決定(2017年3月末で住宅供与打ち切り)は、国内避難民の人権を保障している国際人権法違反である。万が一、明け渡し請求が例外的措置に該当するとしても、原告らが家賃の高い都心で転居先を確保するのは到底不可能であり、その結果以前の居住地福島へ戻らざるを得ないとすれば、それは被曝を受ける恐れがある地域への帰還を強要する強制退去である。まさに国際人権法が禁止する「退去の移動先が国内避難民らの声明、安全、自由もしくは健康が危険にさらされる恐れのある場合」に該当する。このような明け渡しの請求は許されない。

②内堀知事の決定は、裁量権の逸脱・濫用と言わざるを得ない。
 区域外避難者の置かれた状況及び避難元の福島県の汚染状況などを正確に把握するために必要な調査を尽くして調査結果から適正な判断をすべきなのに、その調査を怠り、また原告らは国際人権法上「国内避難民」に該当し、「国内避難民の居住権」を有するが、そうした法律問題についての必要な調査も怠っている。
 具体的な裁量基準である「避難者の声明、健康、暮らしという、他にこれに勝る価値は見出し難い人格的価値の保障」及び「福島原発事故がもたらす放射能汚染及び健康被害の影響が時間的類例を見ないほど長期にわたり深刻なものであるかどうか」に適正な考慮を払わず、また「国内避難民の居住権」を全く考慮しなかった。
 これらの結果から、この決定は与えられた裁量権を逸脱し、救助の期間の決定権を適切に考慮すべき職務上の義務に違反したものである。

◎7月25日13:30~14:00 東京地裁103号法廷

 驚いたことに、この日の法廷の被告席は無人だった! 代理人さえも座っていなかった。
 福島県は、端からこの裁判を舐めきっていると思った。反訴してそこで争うつもりなのかもしれないが、それにしても代理人弁護士さえも出廷しないとは。どんな魂胆かわからないが、裁判官はこれをどう判断するのだろう。
 前の扉が開いて3名の裁判官が入廷して一礼し、傍聴人も起立して一礼して着席。裁判は始まった。大嶋洋志裁判長は、提出されていた各書面の号数を読み上げ、「これらについて今日は意見陳述されますね」と確認した。その問い方は丁寧で、陳述をしっかり聴こうという姿勢が感じられた。そしてまた、「被告からは陳述書が出ていますので、それを持って陳述したとみなします」と言った。本裁判は合議制で裁判長、右陪審、左陪審と3人の裁判官によって審議される。

原告代理人意見陳述

(しっかりメモが取れなかったので中途半端な文章です)

*柳原敏夫弁護士
 新自由主義下で「自己責任」の言葉がはびこる中で、また原発安全神話がはびこる中で、原発事故に関しての法令が全く見当たらない。これは全面的に法の欠缺(けんけつ)といえる。法がないことを認識する必要があり、また法解釈の原理・原則に立ちかえる必要がある。民法学者の我妻栄の、「法律の対象となる社会現象の探究」を大事に考えるべきである。

*井戸謙一弁護士
 福島現地は、決して安全な状況ではないことを説明した。不溶性微粒子の危険性を話し、内部被曝の特性を見直す必要を説いた。また、原発事故は収束しておらず、廃炉作業などの中で新たな事故発生の危険性も考えられる現状だ。こうした状況下では、帰還しない選択も、大事に考慮されるべきだ。

*柳原敏夫弁護士(2回目)
 国内法よりも国際法は上位法であり、国権人権法では国内避難民について次のように規定している。「国内避難民を強制移動させることは強制退去と言える」。県のしていることはまさにこの強制退去にあたる。

原告Cさん意見陳述

 代理人弁護士の陳述の後で、原告のCさんが意見陳述をした。閉廷後の報告会で配布された陳述書を、ここに転記する。

 「本日は、意見陳述の機会を与えていただき、本当に、有難うございます。
 これから、この裁判を起こさざるを得なかった理由を簡単に述べさせていただきます。
 私は、今年61歳になります。福島原発事故が起きた時は50歳でした。
 横浜で生まれ育ち、南相馬市出身で横浜で働く夫と結婚し、2人の子どもに恵まれました。
 子どもが幼稚園に上がるとき、夫だけが横浜に残り、私と子どもは、夫の両親が住む南相馬で生活するようになりました。夫は横浜に残って、仕事を続けました。
 原発事故が起きた当時、夫はフランチャイズの小さな食品関係の店を自営し、借りている店舗兼事務所倉庫で寝泊まりしていました。別に住居用のアパートを借りる余力はありませんでした。私は、夫の両親と住んでいました。子どもたちは地元の高校を卒業し、横浜で会社員として働いていました。義父母は年金暮らしで、私は地元のホームセンターでパートとして働き、夫からの仕送りを受けて生活を維持していました。なお、私は出産時の輸血が原因と思われるC型肝炎に罹患し、その治療も受けていました。

 義父母の家はJR原ノ町駅の南東2キロほどの所にあり、福島第一原発から21キロ程の位置にあります。震災当日、私は勤務中でした。家に戻ると目と鼻の先まで津波が押し寄せ、周辺の家は崩壊し、たくさんの犠牲者が出ました。家は津波の被害は免れましたが、地震で何ヶ所もヒビが入りました。幸いにして、義父母も私もケガはありませんでした。
 地震直後から断水、停電となり、余震が続く中、家にとどまっていましたが、3月14日に福島第一原発3号機の爆発があり、その爆発音を耳にして、遠くへ離れなければという思いで、横浜への避難を決意しました。既に70歳を超えていた義父母は、できるだけここにいたいということだったので、何かあったときは山形の知り合いの旅館に避難できるように手配しました。

 幸い車のガソリンは満タンだったので、避難する人の車が連なる飯舘の山を越え、国道4号線で横浜に向かいました。南相馬市では、自力で避難できる人は自分で、マイカーやガソリンが無い人は市の手配したバスに分乗して、いろいろな避難所に避難したとのことです。義父母のように、避難しなかった人は少なかったと思います。
 3月15日の早朝、横浜に着きましたが、夫の事務所では一緒に寝泊まりできないので、南相馬市に電話して適当な避難所はないかと聞いたのですが、『わからない』ということでした。そこで、都内に用意されていた避難所に行けば情報が得られるかと思い、避難所の一つであった「味の素スタジアム」に避難しましたが、暫くしてスタジアムは閉鎖となり、次に「赤坂プリンスホテル」に移動しました。しかしこのホテルも6月で閉鎖され、東京都の職員から、今住んでいる公務員宿舎を紹介されました。この宿舎には富岡、浪江、南相馬からの避難者が多くいるとのことだったので、知り合いがいるかもしれないと思い、この宿舎に避難することを決め、ようやく落ち着くことができました。

 避難のため中断していたC型肝炎の治療も、平成24年(2012年)春から江戸川区にある臨海病院で再開できるようになりました。その後、新薬での治療の恩恵も受け、その年の秋にC型肝炎は完治しましたが、治療薬の副作用が続き、体調のすぐれない日々が続きました。
 そのために失業保険や東電からの雇用補償金、慰謝料が生活資金となりました。足りない分は夫からの仕送りを受けていました。しかし、今後の避難生活のことを考え、肝炎治療の副作用が治まった平成25年(2013年)6月から臨時のパートを始め、7月には宿舎から近いところにある施設で、お年寄りや子どもの世話をする仕事を斡旋していただきました。週4日、一日5時間勤務で、月給は10万円ほどになります。1年ごとの契約更新ですが、自分としてはこれ以上の職場は望めないと考え、一所懸命働くことにしました。丁度この頃、今の宿舎は平成29年(2017年)3月で退去しなければならなくなるということを知らされました。

 この近くで、代わりの住居はないか探しました。しかし、家賃が高く、とても手が出ませんでした。私は、避難者向け都営住宅の応募要件を満たしていないため、民間のアパートを探すしかありませんでした。夫と一緒に横浜近くで民間のアパートを借りるのは私が仕事を失うこと、夫の経済力からして無理でした。
 勤務先での仕事はやりがいがあり、雇い主から評価していただき、平成26年(2014年)3月に最初の契約更新をしてもらいましたが、適当な住居は見つけられないまま平成29年3月が来てしまいました。ただこのとき福島県は、セーフティネット契約を用意してくれました。その内容は、『あと2年間は、通常の公務員宿舎の賃料で入居できる。2年後には出て行く。出て行かないときは、2倍の家賃を支払う』というものでした。
 平成26年3月に甲状腺の機能障害を発症し、それ以来近くの病院で治療を受けておりましたので、2年間という期間で民間のアパートを借り生活を維持することに不安はありました。しかしこのときは、2年という限定でも、この宿舎で生活を維持するしかないと考え、セーフティネット契約に印鑑を押しました。契約書の記載要件とされていた緊急連絡先は、東京都で暮らす実姉としました。

 その後も甲状腺の治療を受けながら仕事を続け、契約も更新してもらいました。住居探しはネット等を使って続けました。福島県がやっている相談会にも行きました。しかし、そこでの相談は、自分でやっているのと同じような、ネットで物件を見つけて紹介するだけのものでした。私の条件に合うものはなく、担当者からは「生活レベルを下げるしかない。職場から離れたところで物件を探すしかない」と言われるだけで、これでは相談の意味がない、時間の無駄だと思えました。
 私の年齢を考えると、今の職場を失うことは恐怖です。体調からして、遠くから今の職場には通えません。職場の勤務時間は、朝8時30分〜夜9時30分のシフト制です。

 毎日の生活をやり繰りしているうち、あっという間にセーフティネットの契約期限が来てしまいました。福島県は、契約は終わったとして賃料の受け取りを拒み、『出てください。出て行くまでは家賃の2倍分を払ってください。生活を変えれば、代替住居は見つかるでしょう』と言って、2倍の家賃分の請求書を頻繁に送りつけてくるようになりました。この請求書を見るだけで心臓の動悸が激しくなり、その後は落ち込みました。令和2年(2020年)になると、新型コロナの影響で仕事のシフト時間が減り、月給はダウンしてしまい、生活への不安が募りました。福島県からの督促状が送られてくることを思うだけで、夜中に目が覚め、眠れなくなる日々が続きました。福島の家に戻っても、仕事が保障されているわけでもなく、80歳を超えた義父母の年金に縋るわけにもいきません。家の周辺は、放射能や原発事故再発の不安から、帰還者は高齢の方ばかりです。

 現状では、今の仕事を何とか頑張り、この宿舎に住んで通常の家賃を支払い、家族も含めて周りの迷惑をかけない生活をすること、それだけが希望です。原発事故からこの10年あまり、振り回され続けてきましたが、せめて、この希望を叶えて欲しいと思います。

 ところが福島県は、私に2倍の家賃を督促するばかりでなく、一昨年の暮れ、セーフティネット契約の緊急連絡先としていた私の姉にまで、私が退去するよう説得して欲しい、今後法的手段を取る場合があると、まるで脅しのようなことまで書かれた手紙を送りつけました。私はそれを聞いてびっくりし、怒りもこみ上げました。姉はセーフティネット契約時に記載した住居からは既に転居していました。単なる緊急連絡先とした姉にこのような手紙を出すこと自体理不尽なのに、福島県は姉の新住所を調べ上げ、手紙を出しているのです。しかもマスコミには、私ら避難者が、賃料も支払わずに居座っていると公表しています。しかし、賃料は、福島県が受領を拒否しているのです。地位のある方々は事あるごとに、『被災者に最後まで寄り添っていきます』と言っておられますが、私には、とてもそのようには思えません。

 このようなことまでされても、私は、2倍の支払督促に耐え忍ばなければいけないのかと悲しくなりました。私が、南相馬へ帰らないことが悪いのでしょうか。この宿舎で、人に迷惑をかけずに、安心した生活を再開することが許されないのでしょうか。南相馬に強い愛着があります。年老いた両親のことも心配です。しかし、荒れ果てた南相馬の現状、家庭の経済状況を考えると、今は、私がこの宿舎に居住して仕事をするというのが、家族で考え抜いた選択なのです。

 私は、原発事故の被害に関する裁判に原告として参加してはいませんが、被災者の心情は同じです。どんな補償を受けても、生活が事故前と同じに戻らなければ納得できないのです。
 だから私は、新たな生活の場所を確保して、頑張ろうとしているのです。この気持ちは、被災者とならなければわからないものなのかもしれませんが、せめて裁判官の皆様には理解していただきたいと思います。そんな思いで、この裁判に参加しました。
 最後までお聴きいただき、ありがとうございました」

◎閉廷後の報告集会

 閉廷後の報告集会では、このような発言があった。

光前幸一弁護士

 原発関係の裁判は揺れ動いている。判断は裁判官個人に依る。原発被害に関する法律がないところで、既存の法律をどう解釈するかが問題になっているからだ。
 事故後に、国が避難者に住居を無償で提供したのは、国内避難民であると認めたからにほかならないのだが、それを2017年3月で打ち切ってしまった。その理由はあるのか? 無償で住居を提供した時と、状況は何ら変わっていないのに。
 避難指示区域外でも、土壌汚染を見れば、放射線量は放射線管理区域(の基準)を超えていることがわかる。そこには不溶性微粒子が存在している。放射性核種は、今も大気に海に出続けている。各地原発は老朽化と最近の地震で非常に危険な状況にある。被曝は、どんなに微量でもリスクはある。避けることができる被曝は避けるべきである。

原告Cさん

 今日は意見陳述をさせていただいた。生活をしていく上で住まいが一番大事なことなのに、それを奪われてしまったらどうしようもないことを訴えた。

※この日の法廷は大法廷の103号室で、傍聴席は98席あった。コロナ第7波の中ではあるが、以前よりも規制が緩和されてきていて、密集を避けるために傍聴席に空席を設けることはしていない。開廷前に傍聴を希望して抽選券取得に並んだ人は全部で80名。だから希望者は全員傍聴できた。次回期日は10月31日14:00〜、同じく東京地裁103号法廷だ。傍聴席を埋められるよう、ぜひご協力をお願いします!

◎もう一つの住宅追い出し裁判

福島地裁で係争中の裁判

 東京地裁での裁判とは他に、上述したようにもう一件、福島地裁で続いている住宅追い出し裁判がある。福島県が、原発事故被害者である避難者を訴えるという「あべこべ裁判」だ。東京地裁に提訴した11名の避難者は「セーフティネット契約」を締結していたが、こちらの裁判で被告とされてしまった2名の避難者は、その契約をしないまま継続して居住していた。被告となった一人は体調を壊していて仕事に就けず、もう一人は子育てをしながらダブルワークでどうにか暮らしており、契約後に家賃を払い続けられるかも不安で契約できなかった。そうした事情も顧みず、あろうことか県は福島地裁に訴え出たのだ。少ない収入で日々の暮らしさえやっとなのに、裁判のための東京と福島往復の運賃の出費も厳しく、被告らは東京地裁への移送を申し立てたが、これを地裁も高裁も最高裁も却下して、福島地裁での裁判となっていた。
 上述した東京地裁での裁判が行われた翌日の7月26日に、福島地裁で第8回口頭弁論が開かれた。こちらは合議制でなく小川理佳裁判官による単独審議で続けられていた。私はこの第8回裁判の傍聴には行けなかったが、第1回から7回まではずっと傍聴してきた。
 第1回口頭弁論の時から、小川理佳裁判官からはしっかり審議をしていこうという姿勢よりも、早く結論を出して裁判を終わらせようという姿勢がありありと感じられた。原告・県の代理人は30〜40代の男性弁護士だった。彼の出した準備書面について、被告側代理人の大口昭彦弁護士や柳原敏夫弁護士が何か説明を求めると、小川裁判官は原告代理人に向かって「それは〇〇ということで解釈していいですか」というような問いかけで発言を促し、すると原告代理人が「はい、そうです」と答えるような場面が何度かあった。
 7回までの審議期間中に、被告にされてしまった2人の避難者はそれぞれ意見陳述をし、被告代理人弁護士も提出した準備書面に沿って丁寧に意見陳述を重ねてきた。それらに対して原告代理人からは、意見も質問も一度もなかった。被告側の意見に対して認否も反論もないまま審議が進んでいったのだ。被告代理人からは追い出しを決定した内堀知事と当時の県担当者の証人尋問を求めてきた。
 第7回までは小川裁判官の単独審議だったが、この第8回では、突然小川裁判官を含め3人の裁判官による合議制になって、証人尋問は却下と審議終結が言い渡された。被告代理人弁護士が「裁判官忌避」を申し立てたが、「審議は終結したので忌避は無効」と言って、3人の裁判官は、傍聴席からの怒号の中を逃げるように法廷を去ったという。判決の日の言い渡しさえせずに。
 しかもこの日、あの樋口英明裁判官が下した「大飯原発運転差止判決」の要旨が背にプリントされたTシャツを着ていた友人は入廷を拒否され、傍聴できなかったという。裁判所は、何を恐れているのか!
 この裁判は始まった時から、つまり県が避難者を提訴した時点から、裁判所は既に原告勝訴・被告敗訴の結論を出していたのだ。友人のTシャツには、下記の文が印字されていた。

豊かな国土とそこに国民が根を下ろして
生活していることが国富であり
これを取り戻すことができなくなることが
国富の喪失である

 この判決要旨と真逆の判決を出した司法は、腐っていると私は思う。たぶん控訴審になると思うが、最後まで私は避難者の側に共に立とうと思う。

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渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。