第37回:ふくしまからの日記──南相馬・飯舘村「おとうさんのその一言で、頑張って生きてきたよ」(渡辺一枝)

 猛暑が続いた後でふうっと涼しくなった日に、日帰りで南相馬と飯舘村に行ってきました。大留隆雄さんと菅野榮子さんに会いに行ったのです。お二人とも少し前には体調がすぐれず、お訪ねするのを控えていました。このところ元気を取り戻されたようなので、お会いしたかったのです。
 

◎大留隆雄さん

●草取りをしていた!

 久しぶりに大留さんに会いにいってきた。大留さんが経営していたビジネスホテル六角が閉じてから、もう5年になるだろうか。その後も時々訪ねてはいたけれど、昨年の夏が過ぎたあたりからひどく体調が落ちてしまったらしく、訪ねようと思って電話をしても断られることが続いていた。そのうちに電話をしても「おかけになった電話は現在使われていないか、電源をお切りになっているためにつながりません」と、アナウンスが返ってくるばかりだった。そんなことが繰り返されて心配になり、消息を尋ねようと息子の信吾さんに電話をしても、これも繋がらなかった。
 何度も電話をして、ようやく繋がったのは桜の季節の頃だった。でも電話口の大留さんは「一枝さん、ごめん。僕、いますごく調子が悪くて来てくれても会えないよ。起きていられないんだ。暖かくなって元気になったら、電話するから」と、青息吐息、ようやく話ができているという感じだった。案じながら、ただ待つしかなかった。暖かくなっても、電話は来なかった。
 6月の末頃のことだ。私の携帯に着信音があったのだがすぐに出られず、誰からだったのか履歴を見ると大留さんからだった。すぐに折り返して、電話した。大留さんの声が、耳に届いた。「一枝さん、電話もらってたね。僕、元気になったからね。携帯を見たら何遍も一枝さんから電話きてたけど、悪かったね。調子悪くて、電話にも出られなかったんだよ。ご飯も食べられないし、起きられなかったんだよ。でも、もう大丈夫だ。元気になったからね。またこっちに来る事あったら、寄ってください」。以前と変わりない元気な声だった。
 7月は忙しくて行くことができず、8月になってすぐに訪ねたのだった。
 ビジネスホテル六角駐車場には、1台の車も無かった。信吾さんは仕事に出ているのだろう。大留さんは食堂だった建物の前で草取りをしていた。暑さが和らいで涼しい風が吹いている日だった。
 人の出入りがないと、草はすぐに生えてくる。六角形の建物の前にあっちにもこっちにも生え放題の草を大留さんは、シャベルと鎌で抜き払っていた。抜かれた草が、小さな山になっていた。私たちに気づいて手を休めた大留さんに久しぶりのご挨拶もそこここに、「草取りなんかして、大丈夫ですか」というと、「うん、大丈夫さ。さぁ、中に入って」と答えが返った。

●僕が議員やった方が、よっぽど良いんじゃないかと

 大留さんは、かつて何度も行ったフィリピンの旅のことから話し始めた。
 「ある時にさ、元日本兵の墓を訪ねたんだよ。山の奥にネ、いっぱいあるんだよ。そこから戻ってくる時ね、後ろ髪引かれるような思いだったよ。死んだ人たちね、日本によっぽど帰りたかっただろうなって思ってね。戦争って、そういう犠牲者が出るわけだ。だから今のウクライナだってね。子どもや奥さんが可哀想なもんだよ。家族バラバラになって、家も壊されて、人前であんな大きな声出して泣かなきゃなんなくて。
 そんなことばっかりニュースでやってるから、何か明るい話題はないかと思うけど、ダメだね。ついつい引き込まれちゃってね。気分が暗くなるから、ますます悪循環だよ。おまけにアベさん殺された原因(旧統一協会のこと)、一人だけじゃなくて20人も30人も(旧統一協会から)金もらって当選してる人いるんだから。僕が議員やってた方がよっぽどいいんじゃないかと思うよ。碌なもんじゃないな、あんな議員なんて。でも、それを正す人間も結局何かかにか悪いことやってるから、正せないんだよね」
 フィリピンの元日本兵墓地訪問のことからウクライナに話は飛び、旧統一協会問題へ。大留節は健在だった。元気な話し振りを聞くことができて嬉しく、私は相槌を打ちながら、語るに任せ聞いていた。
 「朝起きて、気持ちが晴れ晴れ目が覚めるってことないよね。朝からそんなニュースばっかやってっからね。でもね、いい一日でありますようにって、今更自分で政治変える力も発言力もないわけだから、せめて自分の周りだけでも暗いのを明るくして、良い一日を過ごせるように努力したいって、そう思うよ。
 病気さえしなければ、こうやってちょっとでも草むしりしたりすると、気持ち良いじゃない。そう思って、今日はやり出したんだ」
 大留さんのことばに、心から同意する私がいる。「いい一日でありますように」。そう思いながら、毎日味噌汁の出汁をとり朝食の支度をする。我が家には草むしりする庭は無いけれど、プランターの植木に水をやる。春に食べた時にその種を埋めたら芽が出て育っている柑橘類たち、二つのプランターと5つの植木鉢で、40本ほどが育っている。まるで小人の国のみかん畠のようなのだ。
 訪ねる人もなく訪ねることもなく数ヶ月が過ぎてきた大留さんは、久しぶりの訪問者相手に饒舌だ。

●ネズミ講のような宗教勧誘

 政治のまずさから国民の収入の伸び率は低迷して、その間に経済ではお隣の中国や韓国に抜かれてしまったと大留さんは言う。話は相撲にまで及び、横綱や大関も外国人力士が活躍していることが悔しいらしく、憤懣遣る方無い様子だ。
 「くだらんとこにばっか税金使ってるんだから。国葬なんて、冗談じゃないよ。本当に惜しい人を亡くしたと思う人だけが、すれば(喪に服せば)いいんだよ。僕は、絶対に惜しい人亡くしたなんて思わないから。創価学会が公明党を作って、政治と宗教を組ませちゃったのがまずかったよな。今の政府は自民党と公明党が組んでるから、(旧)統一協会に対してもキツく出られないんだよ。僕ら20代の頃だよ。(知り合いが)創価学会に入れってしきりに勧誘してきたんだから。ちゃんと勉強してきて納得できるように説明して勧誘するなら入るよって言って断ったの。だって碌な説明もできないで、誰か一人増やせば徳が増えるなんていうの。そんなんだから、ネズミ講みたいな話するんじゃないって言って断った」
 大留さんのことばに、本当に嫌な世の中になったねと相槌を打ちながら、宗教や政治運動などさまざまな勧誘が盛んだった頃を、私も思い出していた。私は、創価学会の勧誘を受けたことはなかった。民青(日本民主青年同盟)の勧誘は何度か受けたが、いつも断っていた。それは私が高校卒業してから結婚前までの年齢の頃だった。だがそれから後、もう子育ても終わっていた頃、今から20〜30年前に、新宿駅近辺で「手相を見てあげます」と近寄って来る女性たちに何度も会った。その度に私が「ありがとう。でも私は人相を見るの。あなたのも見てあげましょうか」と言うと、相手は黙って去っていった。新宿駅のそのあたりを通るたびにいつも別の顔ぶれではあったが、手相見の女性たちがいた。だから何度か私も声をかけられ同じように言って断り、そのうち手相見女性らの間で情報が交わされたのか、私を見かけると避けるようになっていき、またいつの間にか手相見は消えていった。その頃は気が付かなかったけれど、あれが旧統一協会だった。

●働きすぎが良くないんだよ

 「本当に変な世の中になっちゃったね。あのね、あんまり働き過ぎて、あんまり稼ぎ過ぎて、くだらんことで働き過ぎて、それで世の中見えなくなっちゃったのね。だから、もっと遊べばいいんだよ。僕なんか25年間、正月は家に居たことないんだから。52〜53(歳)から77〜78(歳)までね、お正月は1回も家に居たこと無い。自慢じゃないけど。考えたらよく行ったもんだと思うよ。
 この前福島の友達が世間話の途中でね、『大留さん、インドとインドネシアは同じ国か?』って言うんだよ。その人、僕と同じ歳なんだよ。そんなことも知らないで、今まで84年間も生きてきたのかって、ね。『インドネシアってのは、オーストラリアの近くにある島国なんだよ。インドってのは、中国やロシアに近いところの世界でも何番目かの大きい国なんだよ』って言ったら、『ああ、そうなのか』って。
 その人不動産屋やってんだよ。それでここの産廃処理場のとこに1億円貸したの。でもその産廃は僕らが反対運動やったからパァになったでしょ。だから1億円返してもらえなくなっちゃったの。それで僕のとこに情報聞きに来たのがきっかけで、それから友達になったの。だから、敵味方同士が友達になったんだよ」
 この地区に産業廃棄物処理場建設計画がもちあがったのは、2000年になったばかりの頃のことだ。現地住民は「産廃から命と環境を守る会」を立ち上げて反対運動に取り組んだ。会長が大留さん、事務局長が元南相馬市長の桜井勝延さん(当時は南相馬市議会議員)で、広報部長が「希望の牧場」代表の吉沢正巳さんだった。産廃処理場は行政から建築許可が下りたが、大留さんたちは裁判に訴えた。その裁判で係争中に施主が刑事事件を起こしていることが判明し、工事許可は却下された。大留さんが言った友人というのは、この時の業者にお金を貸していた人のことだ。でも、まるで立場を逆にする二人が、その後20年以上も友人関係でいるのだから面白い。相手の人もこだわりのない人だったかもしれないが、大留さんという人が裏表がなく思ったままを口に出す人で、また言ってみれば「人たらし」なのかもしれない。そんなことを思っている私にお構いなく、大留さんの言葉は続く。
 「仕事するのも良いけどさ、(中国や韓国に)給料まで負けて、それでもまだ日本は治安がいいなんて言ってるけどさ、活気がないだけの話なんだよ。何もできないでさ、活気がないんだ、町全体に。もう少しスポーツに対しても色々なことに対しても、視野を広げていくことをしなければ。バランスが崩れちゃってるわけだから。
 早く言えば、いろんな状況で抑えつけられて、動こうとしても動けない給料になっちゃったんだ。バブルの頃はアメリカの土地から映画会社からまで買い占めていたんだから。あんなのは、今は絶対に無いよ。いま東京のマンションが安いって、外国人が来て、どんどん買っていってるでしょう。2、3年前まで4000万だったのが、今は8000万になってるって。給料安いサラリーマンは、買えないよ」

●聞いてみたいけど聞けない言葉

 「コロナも増えてるでしょう。今日だって、南相馬市で新規感染者が55人だよ。そこにできた8階建てのホテル(三栄ホテル、開業したのは2021年)だって、コロナ(で療養している人向け)に貸切だよ。お客さんは取ってない。コロナ患者がいてもいなくても、そのための対応だと言って貸切になってる。いろんな目論見あってホテル開業したんだろうけどね。
 うちはちょうど良い時に畳んだと思うよ。(復興工事車両の)ダンプも走らなくなったからね。まあ、僕らは自分で食うくらいはやっていけるからね」
 そんな話から、私が2011年から毎月のようにビジネスホテル六角の宿泊客になっていた頃の話に花が咲いた。除染や復旧の作業員でホテルはいつも満室で、昼間は空っぽの駐車場も朝晩は停車の余地はなかった。初めの頃は宿泊客が希望すれば食事も出していたが、やがて朝夕とも食事は出さなくなった。でも私には家族と同じ食事を出してくださっていた。お連れ合いのサキさんの手料理は、どこか懐かしく、そしてとても美味しかった。料理を食堂に運んでくれたサキさんと私は、そこでしばらくおしゃべりをするのだった。サキさんも病院以外は外に行くこともなかったから、外から来た私とのおしゃべりが楽しくもあっただろう。でも脚腰が痛んで台所に立つのが辛くなってきたので食事は出せなくなったと言い、サキさんの顔を見ることも無くなっていった。それでも私は大留さんに会うたびに、サキさんは元気かと尋ねていた。「うん、あっちが痛い、こっちが痛いなんて言ってるけど、元気だ」と答えは返っていた。久しぶりのこの日も、同じように大留さんにサキさんの様子を尋ねた。
 「ご飯2回、さっき持ってきたばっかりなのにまた運んできたりで、だいぶボケてきたけど元気だよ。うちの家内で良かったのは、病気しないでずっと元気だったからね。僕は子どもたちに、あんまり言えないんだ。しょっちゅう留守してて自分で育ててないからね。家内が天真爛漫に子ども育ててたから、子どもには親の苦労なんか見えないんだ。僕は居ないんだから。
 家内は文句ばっかり言ってる人だよ。この間も一緒にラーメン屋に行った時、タクシーでもチケットで行ける範囲で降りてそこからは歩いたんだけど、文句タラタラ。歩くんだったら家でインスタントラーメン食ってた方が良かったとか、ラーメン食いながらもこんなのしょっぱすぎるとか、文句言ってた。今はもう、諦めた。ご飯2回持ってきても『お前2回持ってきた。ボケてんじゃないか』なんて絶対言わない。僕も大人になったから。
 僕は50歳にならんうちに、酒・タバコ、ピタッとやめたからね。中途半端にやめたんじゃダメだからね。けじめがしっかりしてたよ。人生、一人一人いろいろあるんで、僕も家内に『僕と一緒になってお前幸せだったか』って聞いてみたいけど、聞くのもやだから聞いてないけどね。僕のことよく知ってる人は、『お前の奥さん、本当によくやってるな』って言うよ」
 ノロケなのかグチなのか、そんなことを言い出した大留さんに、私も言った。
 「それは大留さん、大人になったんだ。だけど、幸せだったかどうかって、聞いてみれば良いのに。私だって聞いてみたいよ。だって前はサキさんが私に、『大留はどこか行く時も黙っていくから、どこで何してるか全然わからないの。それでいつ帰ってくるかもわからないでしょ』とか、読んだ本のこととか話をしていると大留さんは『うるさい。お前は引っ込んでいろ』なんて酷いこと言ってたよね。私、大留さんに会ったから、南相馬に通うようになったし、大留さんが大好きだし、会えて良かったって心の底から思ってるけど、でも大留さんみたいな人が家族だったら嫌だなぁ。だって信吾さんが私に聞くんだよ。『一枝さん、親父どこに行ったか知りませんか』って。何度も聞かれたよ。そんな迷惑な人が家族だったら嫌だよ」と言って、大いに笑い合った。
 そしてまた、「でも大留さん、良い人生だったと思うよ」と言うと大留さんは、「自分ではそう思わないけど」などと言うのだった。それを聞いていた今野さんは一言、「羨ましいなぁ」と呟いた。

●涼しくなったら

 「でもこの間うちは本当に調子が悪くて、僕も、危なく施設に入るとこだったよ。眩暈はする。耳鳴りはする。ふらふらして足元おぼつかなくて風呂にも入れないんだから。ずっとそんなのが続いていて、これで終わりかと思ったね。
 でもある時ね、自分で玉ねぎとかニンニクとかオクラを擦って、それをコチジャンと混ぜて辛子味噌みたいなのを作って、ご飯に載っけて食べたりうどんのタレに入れたりして食べてて、そんなことしていたら、いつの間にか『あれ? そう言えばいつの間にか痛くなくなった』って。今でも3日に1回作って、朝昼晩食べてるの。野菜ジュースとか果物ジュースとか黒酢とかね、体に良いものを必ず朝飲んでいる。そうしたら立ちくらみしなくなった。やっぱり、自分で努力しなくちゃダメなんだ。
 僕はうまいもの食って死にたいと思ってる。買い物はタクシーで行って1週間分くらい買ってくるんだ。値段なんか見ないで、食いたいもの買ってくるんだ。他に何の楽しみもないからね、うまいもん食うんだって。
 今はテレビでは高校野球見てるし、ゴルフも。僕はゴルフはやらないけど見ていてわかるんだ。将棋も絶対見ているよ。見てて何であんな手を打つのかなってわかんなくても最後の最後の詰めになって『あ、それでこうくるのか』ってわかるよ。女流の将棋も、結構強い人出てきたね。だけど男女は、格段の差があるね。女性が弱すぎる。男女の差はありすぎる。これは歴史的なことからの経験差なんだろうな。3、4年前まではテレビ見るとき歌ってたのに、最近は声が出なくなっちゃった。人と喋んないから、声出すことないから、出ないもんだよね。
 お盆が明けて少し涼しくなったら、もっと元気になるよ。東京にも行きたいね。姉に会いに行きたいんだ。もう施設に入ってるからね。寂しいって言ってる。北海道の生まれ故郷にも行ってみたい。同級生、同じ部落の人、みんなどうしてるかなって。いま行ったって、浦島太郎でわかんないだろうけどね。秋にね、涼しくなったら気仙沼あたりに行って、牡蠣を食べたいと思うよ。美味しいもの食べるのが生き甲斐だよ」
 そう言う大留さんに私は、「秋になったら一緒に美味しいもの食べに行こう、行きましょう」と言った。大留さんはこの日の会話中、仮設住宅にいた被災者のおばあちゃんたちや、かつて東京からボランティアでやってきた人たちの名を挙げて、私に彼らの消息を尋ね、私は知る限りのことを答えた。けれども何度も一緒に訪ねて共に笑いあってきた宮ちゃん(高橋宮子さん)が亡くなったことは、話せなかった。娘と孫娘を津波で亡くし、仮設住宅に独り住まいしながらカルタや双六を自作し、「笑ってなけりゃ、やっていかんねぇ」と沈みがちな被災仲間を誘って「高橋宮子一座」を組み、自作の脚本で面白い寸劇を演じてよそに公演に行ったりもする元気なおばあちゃんだった。
 なかなか会えずにいた大留さんの元気な姿に久しぶりに会えて、嬉しく大切な日だった。

◎菅野榮子さん──三つの言葉が残ってる

 榮子さんからは、この日もたくさんの話をお聞きした。ここではその中からほんの一話だけ、亡くなった夫の栄夫(ひでお)さんの遺した三つの言葉についての話を記す。榮子さんからはこれまでも尚多くを聞いてきていて、いずれ「榮子さん語り」をまとめていきたいと思っている。
 榮子さんは栄夫さんの事を話す時に「ウチの人」ということもあるが、大抵は「おとうさん」ということが多い。ここでは栄夫さんが残した言葉の中から、榮子さんの心に特に深く強く残っている言葉について、榮子さんが話してくれたことを記す。

●経済戦争が最高潮に達した時、何かが起こる

 久しぶりの挨拶の後で話題は戦後の経済が復興していった頃の話になり、榮子さんは語り出した。
 「東京の町が復興して、ビルがどんどん建って豊かになっていったべしさ。ほして(そうして)食いてえもん自分で選んで食えるようになったべしさ。そん時に、おとうさんなんて言ったと思う。
 『こういう風に経済が豊かになって、資本主義と共産主義の国と経済戦争だ。それが最高潮に達した時には、物凄い何かが起きる』って、いつも黙ってる人がほんなこと言わっちゃったって、こっちがそれこそ何言わっちゃってるか、わかんねえよな。今んなってみっと『あ。このこと言ってたんだな』って思う。心に残ってんのは、それだ。若死にしたけどな、うちのおとうさんはな」

●雹降ってきたんだべか?

 「もう一つはな、第二次大戦が終わって結婚して間も無く、牛を盛んにここから投資してやってる頃(栄夫さんの実家は農業を営み、米、タバコなど栽培していたが榮子さんと結婚してから酪農を始めた)、私は乳搾りの当番で、おとうさんは餌かけ(餌やり)の方の当番で。乳量に応じて、餌だって計算して食わせるわけだから、この牛は〇キロ出てるよ、こっちの牛は〇キロ出してるよって、乳量に応じておとうさんは餌かけしてた。粒状になってる濃厚飼料買って、食わせてたのな。ほしてこういう1キロなら1キロ、2キロなら2キロのだいたいの目安の付く測るやつ(道具)でな、ちりとりみたいな形した道具でな、こいつは一食に2杯とか3杯とか、自分なりに乳量と照らし合わせて餌やってる時代だったの。私が一生懸命乳搾ってたら、なんだべ? 牛舎さ雹降ってきたんだべか? って思うくらい、粒んなってる餌、ばら撒いてんだよ。うちのおとうさん。
 私らみてえに喋んなかったけど、ラジオはいつも聞いてんのな。ほいでラジオ聞いて怒ってたの。アメリカとソ連が競争したみたいに核実験やってただべしさ。ほしたら『このバカヤロウ! ほんなことやってっと、人類の破滅に繋がんだ!』って、怒ってバラバラって牛舎に餌蒔きしてんの。な。
 私が言った(栄夫さんの言葉)の、これで二つだべ」

●「おとうさんのその一言で、頑張って生きてきたよ」

 今は患者さんにだってちゃんと教えるけど、おとうさんが病気になった頃、医者は家族にはあと◯ヶ月しか生きらんねって言っても、患者さんにはそういうことは言わねかった。だけんじょ私が、誰が言わんだ(誰が言うんだ)って言ったら、お医者さんが『僕が言いますよ』って。
 だけどガンだからな、なんぼモルヒネ使ったって痛いからな。しかめっ面してここ(額)さ皺寄せてっから、『おとうさん、眉毛んとこ皺寄せることねえんだぞ』って言ったの。『ここは病院なんだから医者もいるし看護婦も居るんだから、痛い時は痛いってはっきり言ったほうが良いよ』って、私ほう言ったのな。
 ほしたら、ほいつさ何て言ったと思う? 『苦労かけるな』って、一言だけ言った。
 だから、一枝さん、私はそのおとうさんの一言『苦労かけるな』の一言で、そのあとは背中押されて頑張って生きてきたよ。
 この三つの言葉が残ってる」

●言えば良かった言葉

 榮子さんは、栄夫さんに対して「言えばよかった」と思っている言葉が一つだけあるという。
 「死ぬようになった時でねえんだ。健康でじゃんじゃん働いて、喧嘩してっときなんだ。夫婦喧嘩なんだからな、喧嘩した後だって、夫婦だからいつまでも考えてねえで喋ったりすっぺ。ほしたら『今度生まれ変わって誰かと結婚すっときは、おめえと結婚すっぺな』って、私に言ったのな。ほいつさ『ああ、考えとくべ』とでも言ったら良かったのによ、返事に困ったから、『オラ、やんだ』って、ほう言ったの。
 いろいろ喧嘩したけど、おとうさんの権利とか人格傷つけたりする喧嘩はしねかったよ。ほんだけど、『オラ、やんだ』は、いまちっといい返事すればいかったなって、考えておくべとか言えばいかったな」
 そう言った榮子さんに私が、「でも栄夫さんはわかっているよ。榮子はああいう性格だからな、って」と言うと榮子さんは、「うん、それを思って、考えてる」と答える榮子さんだった。

 日帰りで行って帰ってきた福島行でした。
 大留さんも榮子さんもお元気で、嬉しいことでした。榮子さんのお連れ合いだった栄夫さんに、会ってみたかったと思う私でした。でも榮子さんの語り口からは、何だかその場の光景が見えるようで、榮子さんは稀代の語り部だと、また改めて思ったこの日でした。
 自著の宣伝になってしまいますが、『ふくしま 人のものがたり』(新日本出版社)をお読みいただけたら嬉しいです。このお二人のことを書いています。

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渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。