第116回:高潮警報発令。牛窓に迫る台風14号体験記(想田和弘)

 この原稿は、9月19日(月)の午前中に書いている。

 観測史上最強の部類に入るという台風14号が九州を通り抜け、いままさに僕と妻の住む瀬戸内海の港町・牛窓(岡山県瀬戸内市)に接近しつつある。すでに昨日から雨が降り始め、暴風が吹き荒んでいる。

 僕らが借りている築160年の家は、海から10メートルと離れていない。普段は瀬戸内海の絶景を眺め、潮風を受けながら、仕事や食事や昼寝ができる。最高である。海という自然に、文字通り近い生活を送れる。

 しかし自然に近いということが、台風のときには大きなリスクになる。

 一番の心配は、高潮だ。

 2004年に来襲した台風16号で牛窓が海に浸かったことは、今でも地元の人たちの語り草になっている。悪いことに大潮と重なり、床上浸水が381戸、床下浸水が352戸も発生。この家も床上まで浸水し、家電製品や畳などがダメになったという。

 今回の台風14号は、16号と進路や強さがそっくりである。だから沿岸部に住む地元の人たちは、昨日から高潮への準備で大忙しだ。僕も柏木も、台風対策に慣れたご近所さんたちのやることを、見よう見まねで真似している。

 まず当然だが、雨戸があるなら閉める。大きなガラス戸のある商店などは、外側から大きな板を釘で打ち付けて、ガラス戸を覆っていた。そこまでやるのかと緊張が高まる。

 また、沿岸部に停めている車は、皆少し高いところへ移動させる。海水に浸かってしまうと、塩で故障する恐れがあるからだ。

 といっても、移動先の大半は、海岸から30メートルくらいしか離れていない近場である。高さも沿岸部とあまり変わらないように見える。だが、16号のときの経験から、そのあたりで大丈夫だろうとみなが言う。ほんの少しの条件の差で、水に浸かったり、浸からなかったりするものらしい。

 そこで僕らも家のすぐ近くの「ゾウさん広場」に車を移動させた。そこには、すでに3、4台が停めてあったので、定番の避難場所なのだろう。

 大家さんには、浸水に備えて一階にある大事な家財道具を2階に移動させた方がよいとも、教えていただいた。そこで棚の下の方にある本やDVD、書類、家電製品などを、2階へ移動させた。

 僕は自宅の隣の隣に、仕事場としてもう一軒、小さな一軒家を借りている。あいにく仕事場も海に面しているので、1階の書物や機材を2階に移動させる。

 「猫神社」の異名を持つ五香宮周辺では、30匹くらいの猫様が、外で暮らしている。こんなときに猫様たちはどうするのだろう。心配していたのだが、毎日餌をやっているおじさんいわく、台風のときにはお寺の縁の下や空き家などに隠れるそうである。

 しかし僕と妻が世話をしている地域猫の茶太郎とチビシマ兄弟は、僕らが過保護なせいで、普段から人間に頼りすぎた生活をしている。だからいざというときのための隠れ家があるようにも思えない。

 そこで暴風雨が始まった昨晩は、2匹を餌で釣って仕事場に閉じ込めた。これで彼らの安全は確保できるが、こういうことをするから、ますます2匹は自立して生活できなくなるのだろう。ジレンマである。

 妻が今朝早く仕事場へ2匹の様子を見に行ったら、一晩中自由を奪われて不満が溜まっていたのか、茶太郎とチビシマはものすごい勢いで外へ出てしまったそうだ。これからが暴風雨の本番なのだが、やつらをどうしたものか。

 などと書いていたら、外で突然、サイレンが鳴り響いた。緊急の町内放送である。

 「緊急放送! 緊急放送! こちらは瀬戸内市です。高潮警報の発表により、沿岸地域に対し、【警戒レベル4】避難指示を発令しました。危険な地域にお住いの方は、避難場所や安全な親戚や知人宅などに早めに避難してください。あわせて台風14号の接近により、市内全域に対し、【警戒レベル3】高齢者等避難を発令しました。高齢者や障害をお持ちの方など避難に時間のかかる方やその支援者の方は、避難場所や安全な親戚や知人宅などに避難してください。なお、避難所は、牛窓町公民館、中央公民館、裳掛コミュニティセンター、玉津コミュニティセンター、ゆめトピア長船を開設しています」

 避難指示だって?! なんとなく覚悟はしていたが、実際にそういう放送を聞くと、緊張が高まる。ご近所さんの大半は高齢者である。いったいどうされるのだろう?

 そう思って外へ出てみたら、強風の中、ご近所さん4、5人が井戸端会議をしていた。みんな笑顔。深刻な顔をしている人は誰もいない。どこかワクワクしているようにさえ見える。妻もちゃっかり参加している。

 聞けば、避難指示は大きな台風のたびに出されるが、誰も避難したことがないのだそうだ。

 「だって家の方が心配でしょう。そんなことより、汲み取り便所のマンホールの上に、土嚢か何かを置いといた方がいいよ。浸水してマンホールが浮かび始めたら大変だよ?(牛窓弁に変換してお読みください ***吉田戦車「ぷりぷり県」風)」

 「ええ?! マンホールが浮かぶんですか」

 「浮かぶよ。前回のときは大変だった。浮かび始めたマンホールを足で抑えながら、何か重い物を持ってきてくれ!とカミさんに叫んだら、カボチャを持ってきた。カボチャなんぞ水に浮くから使い物にならんでしょ!(牛窓弁に変換してお読みください)」

 確かに。

 それにしても、「避難しろ」という行政と、「避難などしたことがない」という地元の人たちの認識の違いは、いったいどこから来るのだろう。

 地元の人いわく、高潮が来ても家が海水に浸かるだけで、流されることはないという。確かにウチが築160年であることを考えれば、少なくとも160年間は家が流されてはいないということだ。というより、海岸沿いにはそのくらい古い木造の家が、何軒も建っている。もし家が流されないのであれば、わざわざ公民館等へ避難することに意味は見出しにくい。特に2階建てであれば。

 それにしても、海の様子が気になる。なぜか雨も風もやんでいるし、ちょっと外へ出てくるか…。

○    ○    ○

 夕方、この原稿の続きを書いている。

 気象庁の発表によれば、牛窓はすでに暴風域に入っている。ところが実に奇妙なことに、午後を通じて風も雨もほとんどない。静かである。

 しかし潮位だけが、不気味に上がってきている。堤防の海側のスペースは、平生は漁師さんたちが網を置いたり、妻が太極拳の練習に使ったりしているが、すでに海の一部と化している。のみならず、堤防からはみ出た海水が、我が家に接した湾岸道路を満たし始めている。

 茶太郎は堤防の上でクンクン匂いを嗅ぎ回り、変わり果てた縄張りの様子を点検している。チビシマは空き家のエアコンの室外機の上で、呑気に昼寝をしている。

 今日の満潮は20時頃である。まだ17時なのにここまで水がきているということは、満潮時には床上まで浸水するかもしれない。ゾウさん広場に移動させた車のことが気になり、もっと高台へ慌てて移動させた。

 そうこうするうちに、2度目のサイレンと緊急町内放送が鳴り響いた。

 「午後8時頃、台風の接近と満潮時刻が重なる見込みです。高潮による浸水のおそれがありますので、早めに安全な場所へ避難してください。なお、土嚢は、邑久町漁協、市立美術館駐車場に追加で設置していますので、必要な方はご利用ください」

 行政は相変わらず、避難を指示している。

 だけど地元の人は、誰も動かない。

 僕は行政よりも、地元の人たちの長年の生活に根ざした経験値の方を圧倒的に信じている。だから彼らが本気で逃げ出すまでは、逃げるつもりはない。

 2004年のときと違って、今回は小潮である。だから少しだけ条件はよい。

 どうなるのかは、神のみぞ知る、である。

19日午後5時半頃の様子

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 結論を言うと、夜になって湾岸道路から少しずつ海水が引いていった。台風は通過し、家は無事だった。

 一夜明けた今、なぜだかわからないが、「一大イベントが終わった」という充実感のようなものが、僕の心と身体のどこかにある。

 おかしなものである。

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想田和弘
想田和弘(そうだ かずひろ):映画作家。1970年、栃木県足利市生まれ。東京大学文学部卒業。スクール・オブ・ビジュアル・アーツ卒業。BGM等を排した、自ら「観察映画」と呼ぶドキュメンタリーの方法を提唱・実践。最新作『五香宮の猫』(2024年)まで11本の長編ドキュメンタリー作品を発表、国内外の映画賞を多数受賞してきた。2021年、27年間住んだ米国ニューヨークから岡山県瀬戸内市牛窓へ移住。『観察する男』(ミシマ社)、『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』(講談社現代新書)など著書も多数。