姪の生涯
2年ぶりに、ふるさと秋田へ帰った。コロナ感染以来、あまり帰郷していなかった。今回も、まったく予定していなかったけれど、9月15日に姪が亡くなったので、その葬式へ出ることにしたのだ。それが17日だった。
実は17日には、本来は欠かせない打ち合わせがあったのだが、相手の方には無理を言って、なんとか予定を変更してもらった。ネットで新幹線のチケットを取ろうとしたが、あいにくの3連休初日。どのネットも予約はいっぱいだった。仕方なく地元のJTBに飛び込むと、なんと運よくチケットの手配ができた。やはり、人間の直接のやり取りがいちばんであると、しみじみ思ったことだった。
姪は、少しだけれど「知的障害」を持って生まれた。それでも懸命に生きた。頑張って、運転免許も取得した。だから、知的障害とはいえ、ほとんど日常生活には不自由しなかった。縁あって結婚もした。新しい生活は、東京の葛飾区の団地で始まった。夫はかなり年上だったがいい人で、仲良く暮らし、時折、私の家にも二人で遊びに来た。そして、旅行好きの夫は、そんな姪を何度も海外旅行へも連れて行ってくれた。
静かで、それなりに満ち足りた生活だったと思う。
けれど、その夫が脳梗塞で倒れた。その介護に疲れ、姪は神経に変調をきたして神経科の病院へ入院した。区の福祉課の方の手配だったらしい。入院中に、夫は亡くなった。姪の病状は悪化した。
私は、ほぼ1年間、毎週一度その病院へ通った。様子を見、必要なものを届けた。姪の様子を見ていて、なんとか彼女を退院させたいと思った。このままでは回復は望めないと、素人の私にも思えたからだ。
院長に相談すると、きちんと面倒を見てくれる人がそばにいれば退院も可能、とのことだった。私は、ふるさとの姉(つまり、この子の母親)のところへ連れて帰るのが最善だろうと判断した。何度も区の福祉課へ通い、さまざまな煩雑な手続きを代行し、団地の解約や新聞購読中止の手続き、郵便物の住所変更、そして引っ越し荷物の手配までやった。東京をほぼ縦断して、ぼくは多摩地区の自宅から病院へ通い続けたのだった。
彼女は、東京を離れるのをとても嫌がった。夫との思い出の街を去りたくはなかったのだ。しかし、この病院にいることもまた嫌がった。最終的には、秋田へ帰ることを承諾した。ぼくは自分の車で秋田まで、彼女を連れ帰った。
そして穏やかなふるさとでの暮らしが始まった…はずだった。でも、そうはならなかった。やがて、彼女は病に冒された。乳がんだった。しばらくして「余命半年」と言われたという。しかし懸命に生き抜いて、宣告よりは大分永く命をつないだ。コロナ禍の入院、母親との面会もままならなかった。ぼくも見舞いに行こうと思ったけれど、面会できないということで諦めた。
時折、ぼくのところへも、姪から電話があった。声はとても元気で、重病人とは思えなかったけれど、病気は静かに進行していたらしい。
「おじちゃん、あたし、もう永くはないんだって」という言葉を、電話の度に口にした。ある時期から、死を覚悟していたらしい。「ああ、金町に帰りたいなあ」とも言った。金町は、姪夫婦が暮らした団地のある街だった。多分、彼女の最後の夢は、金町の団地での夫との暮らしだったのだろう…。
家族葬…
17日、お葬式は、家族だけの小さなものだった。
姪は3人姉妹。いちばん若い彼女が、いちばん早く旅立った。ふたりの姉とその家族、母親、そしてぼく、あわせて12人。同じ街に住んでいる次女の夫がとてもいい人で、お葬式の何から何までを差配してくれたようだ。ぼくの姉はもう80歳、耳も遠く、ひとりでは何もできなかっただろう。優しい人はどこにでもいる。
我が家の菩提寺の住職さんがやって来てくれて、自宅での簡素なお葬式。少しはにかんだ彼女の遺影が、悲しかった。
「清月瑞林信女」。それが彼女の新しい名前だった…。
葬儀を終え、初七日法要も済ませ、みんなで箱弁当を食べた。3人姉妹のうちの長女と次女の子どもたちが5人、みんな若い。きゃあきゃあと盛り上がっている。それはそれで、さびしい葬儀には似合いの送り方だったかもしれない。
ぼくはその日の夜、日帰りで東京へ戻ってきた。翌日に延ばしてもらったこちらでの仕事の約束を片付けなければならなかったからだ。
それを終えて、この原稿を書いている……。
葬儀とは、こういうものを言うのだと思う。
去ってしまった人を悼む、という気持ち。それを形に表す行為。そこに心が通わなければ、ほんとうに悼むという気持ちが込められていなければ、それは単なる、というより空虚な儀式というしかない。
そんな儀式を政治的に利用するなどという心根が見え隠れしているのであれば、なおさら汚れた儀式に堕してしまう。「国葬」に固執して、国民から大非難を浴びている岸田氏は、政治家失格だろう。
ぼくは、姪のお葬式に行ってきて、ほんとうにそう思ったのだ。
「女王国葬」と日本メディア
もうひとつ、葬儀についての感想がある。
かの国の「女王陛下の国葬」だ。日本のマスメディアはまるで洪水のように、この「イベント」の報道に狂奔していた。他国の「皇室」の葬儀に、なぜこんなにも時間を割くのか、ぼくにはさっぱり意味が分からない。
報道内容も、いかに国民に愛された女王か、世界中から惜しまれたお方か、という切り口ばかり。涙を流す女性や棺を見送るために10時間も並んだという人などばかりが登場する。女王陛下賛美の声しかテレビや新聞紙面からは見えてこない。日本マスメディアが、いつの間にかイギリスのタブロイド紙に乗っ取られた感じだ。
ぼくは首をかしげる。
イギリスでだって、とくに若い層は「皇室存続に反対」あるいは「拒否感」を持っている人が半数を占める、との報道もあったのだ。しかし英皇室批判の情報は、日本のマスメディアからは、一粒の雨ほども漏れてこない。
制度批判はタブー?
「カラパイア」というニュースサイトがある。そこに以下のような記事が掲載されていた。
少し古いが2021年5月29日付の記事だ。
【若者の間で君主制廃止を望む声】
5月21日(注・2021年)、調査会社『YouGov』が4870人のイギリス国内に住む成人を対象に調査を実施したところ、若者の間では君主制廃止を望む声が増えていることが判明した。
2019年は、18歳~24歳の若者の46%が君主制を支持しており、反対派の26%を上回っていたが、今回君主制支持派は31%に減少、41%の若者が、「選挙で国家元首を決めるべき」と回答した。
25歳~49歳の年齢層では、君主制の支持者は53%。それでもその割合は、2019年から5%低下している。一方で、この年齢層でも選挙による元首選出の支持者が増加していたという。
50歳~64歳の年齢層になると、10人のうち7人は、君主制を支持。65歳以上になると支持者は根強く81%にのぼり、前回とほぼ同じ結果になった。(以下略)
こうなると、女王賛美一辺倒の報道にも疑問がわく。しかも、他国である日本のマスメディアが同じ論調で報じるとなると、どこかおかしい。英王室に批判的なことを報じれば、それはそのまま日本の皇室という制度にも通じることになる。日本マスメディアはそれをおそれ、忖度したということか。
英連邦王国離脱の動き
「英連邦王国」という国々がある。
あまり知られてはいないが、かつてイギリスの植民地だった国々が、各々独立を果たしたのちも英国王を元首として戴いていて、現在は15カ国。英国本国やオーストラリア、ニュージーランドも含まれ、英国以外のそれぞれの国には「総督」という英国王の代理人が存在している。日本人には分かりづらい制度だが、それらの国々で、エリザベス女王の死によって、改めて君主制から共和制への移行の動きが活発化しているという。
総督は英国王と同じで「君臨すれども統治せず」(元首として国家を代表するが政治的な権力は有しない)というから、ただの形式的存在に過ぎない。もうそれは必要ないのではないかと、とくに中米カリブ海の国々(ジャマイカやバハマなど8カ国)では英連邦離脱の動きが目立っている。
このうち、アンティグア・バーブーダ(この国は初めて知りました)では3年以内に君主制廃止・共和制移行を問う国民投票を実施する方針だという。この動きは、他のカリブ海諸国にも波及しそうで、女王の死は大きな転換点になるだろうと言われている。
こういう事情にも、日本のマスメディアはあまり触れようとはしない。ひたすら「女王陛下の英国」を報じるだけだ。
ここにもぼくは、日本のマスメディアの衰退を見る。常日頃は、すぐに中立公正だとか両論併記などというくせに、まるで巨大な波に飲み込まれるように「メディアスクラム」に便乗して、他の意見など見向きもしない。
君主制の問題点などを指摘したマスメディアが、ひとつでもあったか?
27日の「安倍国葬」の際には、マスメディアはどう報じるのだろうか?
ぼくは、この「女王陛下賛美報道」の洪水に、けっこう危うさを感じている。
折も折、各報道機関の世論調査結果が凄いことになっている。“あのフジ産経”の調査でさえ岸田内閣の不支持率が支持を上回った(他社は推して知るべし)。
「国葬」が岸田の足を強烈に引っ張った。