第38回:311子ども甲状腺がん裁判傍聴記「13歳でがんになり、17歳で二度目の手術を受けました」(渡辺一枝)

 9月7日(水)午後2時、東京地裁第803号法廷で、「311子ども甲状腺がん裁判」第2回口頭弁論が行われました。これは、東京電力福島第一原発事故当時、福島県内に居住していた男女6人が、事故に伴う放射線被ばくにより甲状腺がんを発症したとして、東京電力に損害賠償を求めた裁判です。原告は事故当時6歳から16歳で、6人のうち4人は再発などに伴う手術で甲状腺を全摘し、進学や就職などにも大きな影響を受けています。
 傍聴を求めて抽選に並んだ人は157名と多数でしたが、この日の法廷は傍聴席25席の小法廷でした。私は抽選に外れたのですが、知人が当選券を譲ってくださり、傍聴することができました。感謝しています。
 この日は東電側からの答弁書に対して、弁護団長の井戸謙一弁護士が反論の意見陳述をされ、また北村賢二郎弁護士、海渡雄一弁護士からはこの裁判の意義や次回以降の進行についての意見陳述がありました。そして最後に、原告本人が意見陳述をしました。

●原告代理人:井戸謙一弁護団長の意見陳述

 井戸弁護士は、初めに東電の答弁書を説明し、それに対しての反論を述べました。

*東電の主張

 東電はUNSCEAR(原子放射線の影響に関する国連科学委員会)が甲状腺がんと被ばくの因果関係を認めていないことや、原告らが受けた被ばく量の推計値が100ミリシーベルトに及ばないことを主張していたが、実際に見つかっている甲状腺がんが多数である事の理由や原告らの被ばく量推計値については詳しい主張がなかった。
 東電はUNSCEARの報告書に依拠して、原告らの甲状腺がんは被ばくによるものではないとしている。福島第一原発とチェルノブイリでは、住民の甲状腺等価線量が異なるから、チェルノブイリの知見によれば、原告らが甲状腺がんにかかるわけがないと主張している。
 さらに東電は、原告らが事故後にどれほどの放射線被ばくを受けたのかについて、合理的な根拠に基づいて被ばく量を明らかにすべきだと主張している。県民健康調査で発見されたがんは、放射線被ばくの影響ではなく超高感度の検査によるもので、以前は見つけられなかった甲状腺異常を見つけたためだと主張している。

*東電主張への反論

 東電は被ばく量が100ミリシーベルトを超えなければ甲状腺がんは発症しないとでもいうようだが、近年の研究によって、実際には100ミリシーベルト以下でも被ばくに応じて発症していることや、小児甲状腺がんのリスクは30〜40ミリシーベルトで高まることを示唆する研究論文も出ている。UNSCEARの2020/2021報告は、多数の科学者から、「誤ったグラフやデータが多数存在し、専門領域の基礎知識に欠ける深刻で基本的な誤りがある」との非難を受けている。
 福島の子どもたちについては十分な甲状腺被ばくの実測データがなく、UNSCEARもデータが不足していることを認めている。UNSCEAR報告書は福島の子どもたちの被ばく量が低いと報告しているが、それは平均値についてのことであり、実際には子どもたちの中には平均よりも高い被ばく量の子どももいる。
 また、福島第一とチェルノブイリでは状況が異なるから、「チェルノブイリに照らして福島の甲状腺がんを被ばくと関係がない」とは言えない。
 チェルノブイリでは事故直後の4年間に甲状腺がん発症率の上昇はなかったというが、これも間違いで、実際には事故直後から甲状腺がんの増加は観察されている。チェルノブイリで事故4年後に発症率の激増が観察されたのは、その頃から超音波診断による健診が始まったからだ。

 他にもたくさん話されましたが、私はメモを取りきれませんでした。

●原告代理人の2名の弁護士の意見陳述

 井戸弁護士の陳述の後で、北村賢二郎弁護士が、今回の口頭弁論が小法廷で行われていることに触れ、大法廷が空いている日時を明らかにして進行協議で日程を決めるように述べて、次回からは大法廷で裁判を行い、原告全員の意見陳述の時間をとるようにと陳述しました。海渡雄一弁護士も、今回も傍聴希望者が150名を超えたように、多くの市民が注視している裁判であることを強調し、次回以降は大法廷でと、強く訴えました。

◎原告本人意見陳述

 第1回口頭弁論の時と同様に、原告の姿は見えないようにパーテーションが設置されて行われました。大法廷はマイクがあるのですが、小法廷は証言台にマイクがないのです。パーテーションで遮られて居るため、片耳しか機能しない私は、一番前の席にいたのですが十分に聞き取れませんでした。閉廷後の報告会で、この日に原告が陳述した文章が配布されたので、ここに転記します。

●意見陳述要旨〜原告6〜

 3ヶ月前の5月26日。
 この裁判の1回目の口頭弁論がありました。
 この日、私は生まれて初めて裁判所に入りました。
 ついたての後ろの私の席からは、裁判官の横顔だけが見えました。
 高校生の自分が、まさか裁判の原告になるとは思っていませんでしたが、原告席に座って初めて、自分が当事者なんだと実感しました。

 私は、この裁判の1回目の期日が開かれる直前に、アイソトープ治療を受けるための入院をしました。
 アイソトープ治療は、甲状腺を全部摘出した後、再発や移転を防ぐために、大量の放射性ヨウ素を服用する治療です。

 私は高校3年生、17歳という年齢で、この治療を受けることになりました。
 中学生の時に甲状腺がんとなり、そして昨年、再発したからです。
 裁判官の皆さん。
 11年間の私の経験を聞いてください。

1. 事故当時のこと

 原発事故が起きたのは、私が幼稚園の年長組の時でした。
 家で昼寝をしていたとき、大きな地震がおそってきました。
 視界が大きく揺れて、色々なものが落ちてきました。
 外の様子を見るために、母親と一緒に外に出たことを覚えています。
 車であわてて避難することになった時、私は、ここにはもう戻って来れないかもしれないと思いました。

 避難先の「スクリーニング」場となっている病院で、「どこからお越しですか」ときかれたので、家の場所を答えたら、履いているクツを脱がされ、スリッパをはかされて、放射線量を計測されました。
 その時、対等な人として見られていないような、疎外されているような感じがしました。
 このときの経験がトラウマとなり、他の人に避難してきたことを隠すようになりました。

2. がんが見つかった時

 中学1年生の時に、学校で甲状腺エコー検査がありました。
 事故が起きてから3回目の甲状腺検査です。
 診察してもらった時、エコーを見ている医者と看護師が私のエコーを見て何か話をしていました。エコーの機器を、何度も何度も甲状腺の部分に押しあてて診ていたので、不安な気持ちでいっぱいでした。
 診察が終わって教室に戻る時、私より後の順番だった人はすでに終わっていて、私がどれほど長い時間診察されていたのかがわかりました。

3. 穿刺からがんとわかる時まで

 がんと言われた時のことはあまり覚えていません。
 でも穿刺細胞診の検査のことはよく覚えています。
 その日は検査のため、中学校からの帰り道に直接病院に行きました。針を刺される前に、紙に名前みたいなものを書いたおぼえがあります。
 その時に、一気に涙がぼろぼろでてきました。
 「あ。今から首に針を刺されるんだ」と直感し、想像できない痛みに対する不安が、一気にあふれてきたんだと思います。怖かったです。初めてだったし、経験したことのないことをやるのだから。

 検査では、診察台の上に寝かされて、細胞をとられました。目に入ってきたのは、細くて長い針でした。刺された時にはあまりにも激痛で動いてしまって、2回も刺されました。
 とても痛かったです。細胞に刺さったときは、なにか深いものにグサッと刺さった感覚がして、気持ち悪かったし、痛かったです。
 どうして自分がこんなに痛い思いをしなくてはならないのだろうと思いました。

 その後、私はがんなのだとわかりました。
 でも、その時、自分が具体的にどう思ったかはあまり覚えていませんが、ただ漠然とした不安だったと思います。私の体はどうなってしまうのか、入院するとなると、学校を休まなくてはならないのかなど、さまざまな不安がありました。
 「がんなんだ。そっか。入院するとなると勉強が遅れてしまうな」と考えていたと思います。
 穿刺をしてからは、色々とふっきれたのか、その頃から、なんだか自分が少し変わってしまったのかもしれません。

4. 1回目の手術のとき

 1回目の手術は、何もかもが初めてでどきどきしていました。
 なにより手術後が辛かった。最初は、全身麻酔が抜けていなくてすごく眠く、数時間後に目が覚めたけれど、今度は体が動かせなくて、起きているのに何もできない状態が長時間続きました。その日はほとんど眠れなくて、不眠状態でした。精神的にも肉体的にもキツかったです。

 絶対安静の次の日、1日ぶりに食事が出ましたが、ものを飲み込むとき、手術したところがあまりに痛くて、涙がぼろぼろ出ました。15分くらい頑張って食べてたのに、おかゆが2cmくらいしか減っていなくて悲しくなりました。
 これからどうなっていくのか、手術後は、手術前と同じ生活を送ることができるのか。これからの不安で、眠れない日もありました。

5. 2回目の手術のとき

 がんの再発が分かったのは去年のちょうど今頃です。1回目の手術で甲状腺を半分摘出した際、「もう大丈夫」だと思ったのに、結局、もう一回摘出しなくてはならなくなりました。
 2回目のがんの告知は、驚くこともなく、ただ残念に感じました。

 1回目の手術の時は、中学2年生だったので、家族がずっと入院中、病室で付き添ってくれていました。
 でも2回目のときは、コロナの影響もあり、家族との面会もあまりできなくて少し不安でした。何か体に異常があった時とか痛い時も、自分で看護師さんに言わなくてはなりませんでした。

 2回目の手術は甲状腺がんを全て摘出し、かつリンパ腺まで摘出したので、摘出した右側の肩が上がりにくくなり、抜糸をした後は、首の右半分の感覚がなくなりびっくりしました。
 手術から半年以上経ったので、いまはだいぶ感覚は戻ってきましたが、触るとなんともいえない鈍い気持ちの悪い感触です。たまに、つっぱるときがあってとても辛いです。後遺症に近いものがあると思います。

6. アイソトープ治療について

 アイソトープ治療も受けることになりました。入院期間は1週間でした。最初は意外と短いなと思っていましたが、入院してみると、とても長い1週間に感じました。
 薬を飲んだのは、今年5月。前回の裁判の少し前です。
 午前中にシャワーを済ませて、午後2時20分頃に薬が投与されました。
 薬を飲む時、医師とはドア越しに対面した状態で、線量も測られました。

 薬は、重い蓋のついた、ガラスの厳重な容器に入れられていて、厳重な注意を払って管理されていたので、「これを飲むのか」と、飲むのが怖かったです。
 薬を飲んだ後は、人との距離をとらなくてはなりません。そのことは頭で分かっていましたが、精神的に辛いものがありました。配膳の時も、テーブルを廊下側に置いて、私はベッドの上に座って待つというスタイルです。
 入院中、一度だけ、配膳の時に、ついテーブルの近くに寄って行ってしまったことがありました。すると、看護師に「近づかないで!」と言われたので、自分が人との距離をとらなくてはならない状態になってしまったことを感じて、暗い気持ちになりました。

 薬を服用した後は、ただただ時間が長く感じました。ずーっと壁を見つめる生活でした。
 病室には備え付けのiPadがありましたが、ゲームアプリは入っていなかったので、ろくに使いものにならず苦痛でした。

 薬を服用した翌日の夕方、のどの周りが腫れて、熱くなり、少し呼吸がしづらくなりました。こうした症状もナースコールで伝えることしかできず、のどの腫れは、どんどん悪化していったので不安でした。
 症状の変化を何回もナースコールで訴えているうちに、担当の先生が診にきてくれることになりました。本当はまだ距離を保たなくてはいけないのに、触診をしてくれた時は、申し訳なさを感じました。
 先生が回診に来る前、3時くらいに線量を計ったら、53マイクロシーベルトありました。30マイクロシーベルト以下になると退院できると教えてもらいました。
 翌日は、朝起きたら声が異様なほどかすれていました。朝9時頃に先生の回診があったので、不安だった首の腫れと声のかすれのことを相談し、線量を測定しました。31.2マイクロシーベルトでした。
 線量が低くなってきたので、予定通り翌日には、退院できることが決まりました。
 午後にもう一回線量を測定したところ、今度は24まで下がっていました。

 退院は決まりましたが、その直前まで、のどの腫れは意外とひどく、薬を飲んでアイスノンで冷やしていました。声も掠れていて、一時は声を出すのがつらいほどでしたが、徐々に出せるようになっていきました。これは薬の副作用なので仕方がないそうです。

 入院中は、これらの副作用と病室でじっとする生活が続き、眠れるかどうかも不安で、精神的にも肉体的にも大きな負担がかかりました。
 もう二度とこの治療は受けたくありません。

7. 最後に

 過酷なアイソトープ治療を受けた直後の5月26日、この裁判の1回目の口頭弁論があったので、体調面の不安もありましたが、裁判を傍聴するために、上京しました。

 私は小学校に入る前に原発事故に遭い、以来11年間、小さなアパートで避難生活を続けています。そして13歳でがんになり、17歳で二度目の手術を受けました。

 原発事故の時も、検査のことも、まだ小さかったので、何が起きているかよく分からず、覚えていることはほとんどありません。
 自分の考え方や性格、将来の夢も、まだはっきりしないうちに、全てが変わってしまいました。
 だから私は、将来自分が何をしたいのかよく分かりません。
 ただ、経済的に安定した生活を送れる公務員になりたいと考えています。
 恋愛も、結婚も、出産も、私とは縁のないものだと思っています。

 私にとって高校生活は、青春を楽しむというよりは、安定した将来のため、大学進学のために学校推薦をもらうための場です。友達との関わりも、深い付き合いは面倒なので、距離を置いています。
 それでも、時々、勉強に対するプレッシャーや、将来への不安で、眠れないことがあります。

 私は将来が不安です。
 特に金銭面での不安が一番大きいです。
 18歳になって医療保険にも加入できなかった場合、これからの医療費はどうなるのか。病気が悪化した時の生活はどうすればいいのか。本当に不安です。

 精神面でも不安はあります。
 半永久的に薬を飲まなくてはならないし、ずっと今後も定期的な受診をしなくてはならないと思うと、なんとも言えない不安があります。

 この裁判で、将来、私が安心して生活できる補償をみとめてほしいです。
 私が裁判官の皆さんに、一番伝えたいことは、今までお話ししたこと全部です。

◎この裁判について

 この日、意見陳述した原告は17歳の女子高校生でした。マイクもない証言台の前で、か細い声で将来の生活や医療保険のこと、病気に対する不安など切々と訴えた言葉が、どうか裁判官に届いてほしいです。法廷では原告の言葉を逐一聞き取ることはできなかった私ですが、切れ切れに聞こえてくる言葉に涙が溢れました。
 私は原告の意見陳述の時には、被告席に並ぶ6名の面々の様子を見ていました。東電側の弁護士たちです。年配の人はおらず、30〜40代、せいぜいが50代前半くらいでしょうか。中には原告と同年齢の子どもを持つ人もいたかもしれません。じっと聞き入っていたのは中程に座っていた一人だけでした。裁判官席に近いリーダー格(?)の弁護士は分厚い書類に目を落としたまま、その隣は頭を掻いたり腕組みしたりで終始、手が落ち着かず、他の人たちも書類に目を落としたままでした。
 閉廷後の報告集会には、意見陳述をした原告は現れませんでした。彼女は閉廷後の記者会見を終えてから、担当の女性弁護士と一緒に「ケーキバイキング」に行ったと聞き、ほっこりした思いと共に涙が溢れました。17歳の少女が背負ってしまった重荷が、せめてひとときでもケーキで癒されてほしいと思いました。

●お願い

 法廷では、井戸弁護士も北村弁護士も、また海渡弁護士も、それぞれの言葉で原告全員の意見陳述の時間をとることと大法廷での裁判を訴えましたが、裁判所の意向では現在のところ原告の意見陳述は3名まで、大法廷は使わず小法廷でということです。次回裁判期日は11月9日11時〜小法廷の806号室となっています。その後は日程だけが2023年1月25日11時半〜、3月15日14時〜と決まっています。
 いま「311甲状腺がん子ども支援ネットワーク」では「原告の意見陳述」と「大法廷」での裁判を求める署名を集めています。こちらから署名ができます。どうぞ、どうぞご協力をお願いいたします!

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渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。