第40回:トークの会「 福島の声を聞こう!」vol.41報告(前編)「忘れないでほしい、あの事故を。あの時の混乱、あの時思ったこと、考えたことを」(渡辺一枝)

 7月2日(土)午後2時から、神楽坂のセッションハウスギャラリーで、トークの会「福島の声を聞こう!」vol.41を持ちました。ゲストスピーカーは浪江町から静岡県富士市に避難している堀川文夫さんでした。堀川さんはお連れ合いの貴子さんと共においでくださり、貴子さんも第一部のスピーカーとして登壇くださいました。文夫さんの話が一段落した時にスッと貴子さんが話を継がれ、それはあらかじめ打ち合わせなどしていないことだったのでしょうにとても自然で息が合っていて、ご苦労を共にしてこられたからなのだなぁと思いました(ただしこの「一枝通信」では貴子さんの発言も文夫さんの言葉に併せて書きました)。まずはその第一部の内容をお伝えします。

文夫さん自己紹介

 1954年4月生まれで、現在68歳。浪江町で生まれて小中高と地元の学校に通い、東京の大学に入学。卒業後10年間東京で過ごして、故郷の浪江に戻った。
 父・母・祖父・おじ・おばも全員、学校の教師という家庭環境で、自身も大学では教職課程を学んでいた。その中で文部省(当時)検定前後の高校日本史教科書の読み比べ授業があった。検定前教科書のページのほぼ全てに赤でアンダーラインが引かれたページがあり、そこには「ここは削除せよ」とか「ここはこのように書き直せ」と書いてあった。文部省の意向に沿うように改めよという会社側の指示だった。そのようにしないと検定に通らず、その教科書は販売できなくなるからだ。そうやって出来上がった教科書は、検定前のものとは全く違った内容になっていた。それを見て、強いショックを受けた。自分が学んできた歴史の教科書は、こんなふうに作られていたということを初めて知り、両親には申し訳ないが、「俺は学校の教師にはなれない」と思った。そして、東京で塾の教師になった。
 西早稲田にある「育友会教育研究所」に就職して、そこで10年間勤めた。そこは、いわゆる進学塾とは全く異なり、本当の教育とは何かを研究・実践する場だった。東京でも本当に珍しいところだった。当然ながら利益優先ではないので給料はかなり安く、苦しい生活を10年間過ごして、浪江に帰った。
 浪江に帰ってからはおじの経営する幼稚園の施設管理や送迎バスの運転手などの手伝いをしながら、自分の塾を開く準備をした。育友会では、塾の宣伝は一切してはいけないということを学んできたので、自分も宣伝はせず小6の甥と姪を教えるところから始めて、それから3年間で十数人生徒が集まり、そこでやっと塾として開くことができた。そして、それから23年間、浪江でずっと塾を続けてきた。

2011年3月11日

 当時私は、原発について科学的な専門知識は全くない、ごくごく普通の浪江町住民の一人だった。あの日1時半過ぎに昼食を食べて、2時半頃にそろそろ出かけようかと思っていた時に、あの揺れが始まった。最初の揺れはガタガタガタと小さなものだったが、どんどん揺れは大きくなり、それまでの経験をはるかに超えた。それまでにも震度5強から6という地震を体験していたが、それをはるかに超えてものすごく大きな揺れになった。
 父が昭和42(1967)年に建てた家の屋根瓦が、ガラガラと崩れ落ちてきた。家の本棚、茶箪笥からガッチャンガッチャンと物が落ちてきた。押入れの天袋に入れてあった重たい荷物が、天袋を破って飛び出してきた。家の土壁が崩れて、土煙がモウモウと上がり視界を遮った。これ以上揺れが大きくなったら、家が潰れる。潰れる寸前に家を飛び出そうと思い、縁側の戸を開けて待機した。
 やっと揺れが収まり止まった時に、妻が「痛くて動けない」と声を上げた。飼い犬のゴールデンレトリバーが大きな揺れに腰を抜かしてしまったのを庇って、尻餅をついて腰を痛めたようだ。後でわかったが、圧迫骨折をしていた。震度6を超えるような余震が何度も襲ってきたが、その隙を見て妻を車に乗せ、腰を抜かしたゴールデンを抱えて車に乗せた。また、震災前の11月から飼い始めていた猫が、地震の揺れに驚いて駆けずり回っていたのをやっと捕まえて、これも車に乗せ、車の中に居てしばらく様子を見ていた。家は倒壊せずに済んだが、家の中はしっちゃかめっちゃかな状態だった。土壁は全て崩れ、その内側の竹組みが露出し、押し入れのものは全部飛び出していた。
 私は浪江町の行政区である佐屋前地区の副区長だったので少し落ち着いてから地区内の様子を確認に出た。独居老人の家が3軒あり、3人の無事を確認した。アパートの大きなガスボンベ6、7本が全部倒れていたので、その元栓を閉めた。Mさんの家では、お婆さんが地震のショックで亡くなっていた。お婆さんは、おそらく浪江町での最初の震災関連死だっただろう。地区内を見回って少し落ち着いたが妻の腰の痛みは酷く、浪江駅前の西病院に連れて行った。病院に着いたら、ストレッチャーに載せられた泥んこの人が居た。妻は駐車場の車の中で待っていたが、隣に軽トラックが止まり、その荷台にはドロドロの毛布に包まれた丸太のようなものが載っていたと言う。運転席と助手席の2人が、その丸太のようなものを抱えて病院に入っていった。「丸太にしか見えないがなんだろう」と、妻は思ったそうだ。

避難行

 私たちはその時まで津波が起きたことも知らずにいたのだが、ストレッチャーに載せられた泥んこの人たちは津波で流されて怪我をしたり、亡くなったりした人たちだった。そうした人たちが診察室に2名ほど入っていて、他にも3、4名ほどストレッチャーに載せられた人がいた。そうしたことから、緊急性からいっても腰が痛いのを診てもらえるような状況ではないと判断して、諦めた。
 パトカーが、大津波の2波、3波が国道6号線を越えて街の中に来るかもしれないから大至急高台へ避難するようにと告げて回っていた。それを聞いて、すぐに高台の田尻地区まで避難した。そこでしばらく様子を見ていたが、余震で車がボッコンボッコンと弾み、それは地球が壊れると思えるような大きな揺れだった。しばらくそこにいて様子を見ていたが、ふと我に返った時に、6号線を越えてくるような大津波だと東電福一(東京電力福島第一原発)も、きっとダメになると思った。ということは、放射性物質が飛び出してくるに違いないと思い、妻に「これから遠くに逃げるぞ」と言って、一旦家に戻って貴重品(貯金通帳、位牌、寝袋、猫のトイレ、イヌ用毛布)を車に積んで逃げることにした。
 2台ある車のうち大きい方の車のフリードで逃げるつもりだったが、ガソリンが少ししか入っておらず、もう1台のジムニーにはほぼ満タンに入れてあったのでジムニーに体重50kgもあるゴールデンと猫、妻と私で乗り込んだ。猫用の大きなトイレも載せて、狭いジムニーはいっぱいだった。父と母が建て思い出のある家に手を合わせて「おやじ、おふくろ、俺逃げるぞ。もしかしたら2度と戻れないかもしれない。その時はごめん」と、家を後にしたのは3月11日夕方6時頃だった。
 その時には他の車には1台も出会わず、スイスイと進めた。川俣の道の駅で夜を迎えたが、ものすごく寒い夜だった。ガソリンを節約したくてエンジンを切ると、車内は我々2人と2匹の吐く息でガラスが曇り水滴ができ、それが凍る。寒くて我慢できなくなりエンジンをかけ暖房を入れて暖かくなったら、またエンジンを切る、を繰り返した。その深夜、次々と自衛隊の車、救急車が通り過ぎて行った。中通りから浜通りへと救急車は何回も行き来して何か運んでいたし、トイレ休憩で降りてきた自衛隊員は白いタイベック(防護服)姿でガスマスクをつけていた。それを見て「ああ、やっぱり放射能が漏れている」と思った。最初は冬なので風上に当たる北の方角、秋田、青森、北海道を目指そうと思った。だが妻の腰の痛みがひどく、避難先で入院ということになったら大変だから、急遽進路を変更して4号線を南下し、妻の実家がある埼玉の大宮を目指した。
 途中で栃木県に入った時は13日になっていたが、もうその時は東電の爆発事故のニュースは流れていた。しかし、栃木に入った途端4号線のパチンコ屋の駐車場は、パチンコをする人たちの車で満車状態だった。原発からわずか80kmほどしか離れていないのに、なんだこれは! と驚いた。
 13日の晩に大宮の実家に着いたが11日から下着もシャツも着たままだったので、翌日買いに出た。そこでさらに驚いたのは、大宮の幼稚園バスがごく普通に園児の送迎をしていて「お預かりします」「行ってらっしゃい」とやっていることだった。それを見て非常に驚いた。「何をやってるんだ。ここまでわずか150〜200kmしか離れていないんだぞ。風向きによってはここも危ないではないか。何をやってるんだ、この人たちは」と、本当にショックだった。

「万が一の時には逃げるんだよ」

 大宮ではごくごく当たり前に、普通の生活が営まれていた。ガソリンスタンドだけが長蛇の列というくらいだった。原発が危ないと私が思ったのは、東京の塾での修業時代にチェルノブイリの原発事故が起き、その放射能が流れてきて、北海道、東北の路地もの野菜が全て廃棄処分になったことを知っていたからだ。私の田舎も生産物が廃棄処分になった地域の一つだったので、チェルノブイリ原発事故に関する本を何冊か買って読んでいた。その程度の知識しかなかったが、その知識が避難を早くさせたのだった。東京の塾の教師だった時は子どもたちに、「僕の田舎にも原発があるんだよ。万が一事故が起きたら、我が家も大変なことになっちゃうんだ」と、東京の子どもたちに話していた。
 浪江に帰って塾を開いた時には生徒たちに毎年何回か、「万が一、巨大地震、巨大津波が起こって原発が壊れてしまったら、放射能が飛んでくるよ。まず最初にヨウ素が飛んで来る。飛んで来るヨウ素から身を守らなきゃいけない。飛んで来るヨウ素をなるべく体の中に入れないように濡れタオルを口に当てて、できるだけ早く遠くへ避難することが大事だよ」という話をしてきた。ただし浪江には原発に勤めている、原発関連の仕事に就いている方々がたくさんいる。生徒の中の5分の1は、保護者がそういう仕事だったから、「あなた方のお父さんやお母さんが一生懸命やっているから、今のところは大丈夫だけどね」というような言葉を付け加えながら、でもやっぱり万が一の時にはこうして逃げるんだよという話を、毎年毎年繰り返していた。
 そうだったからこそ私たちは、11日の6時に避難するに至った。そうやって話をしてきた割に、生徒たちは私の話を聞いていなかったが、2名はしっかり心に留めていた。1名は中2の男の子で、その子は泣きながら「逃げなきゃダメなんだ」と父、母、祖父母を説得して、その日のうちに宮城県に逃げた。もう一人は卒業生で、彼の妻は一切そうした知識がなく、避難するという夫に「お父さん、何言ってんの」という感じだったが、それでも「逃げなきゃダメだよ」と言って、彼らは埼玉方面に逃げた。
 まぁ、たった2人しか救えなかった。2人しか、その日のうちに避難させることができなかった。この体験から、「もっとちゃんと教えなきゃ」と、今も思っている。
 埼玉に13日の夜に着いて、妻の治療に約2ヶ月、実家に世話になった。さいたまスーパーアリーナには浪江・大熊・双葉・富岡など福島からの避難者が何千人といた。スーパーアリーナは妻の実家から自転車で30分ほどだが私は毎日通い、知り合いはいないか、塾の生徒はいないかと探した。1組見つけることができた生徒とその家族は、相模原の知人と連絡がついたのでそちらへ避難すると言った。スーパーアリーナ近くの公民館に避難していた知り合いのおばあちゃんは、この避難所が閉じたら福島の避難所へ行くと言っていた。
 (この間のことを、貴子さんはこう言った。「浪江町は原発立地地区ではなかったので、みんなバラバラに避難した。だから私たちも2、3週間後に役場に電話したら、『あ、堀川さん。生きていたんですね。避難所にも居ないしどこへ逃げたかわからないので、行方不明者になっていましたよ』と言われた。そういう人たちばっかりで、浪江町は町民が全国に散らばった町になってしまった。
 私の友人は夫が原発で働いている人で、1、2ヶ月後に居場所がわかって電話で彼女と話をした。彼女は3月11日に夫から『逃げろ』とメールが入ったが、原発で事故があるなどとは全く思っていなかったので、家から1kmくらいしか離れていないだけの友達の家に行った。その友人の家には家族が原発関連の人たちが大勢集まっていて、『なんでみんなここに集まってるんだろうね』などと言い合っていた。だから私たちが11日に逃げたと言うと、ものすごくびっくりしていた」)

富士市へ避難

 妻の治療で約2ヶ月実家にいる間、次はどうするかを考えていた。いつまでも実家に世話になっているわけにはいかない。その間に友人から、犬や猫と一緒に逃げたために避難所に入れなかったという人たちのために、家・部屋・別荘などを無償で貸すという人たちとのマッチングサイト「震災ホームステイ」が立ち上がっていることを知らされた。そこに連絡をして候補に上がっている場所の情報を送ってもらった。お寺の離れとか山奥の別荘などといろいろあったが、長く借りられる場所を探すと静岡県富士市の一軒家住宅が一番長く、翌年の3月までとあった。そこに決めて、相手方に電話をした。快諾を得たが「すみませんが入居まで10日ほど待ってください」と言われた。後でわかったが、その人はその間に、空き家のままになっていた家を掃除し、食器、寝具、電化製品など生活に必要なあらゆる物を全て揃えてくれていた。10日の間にその準備をしてくれていたのだった。
 私たちは何も持たずにそこに入居できた。冷蔵庫、洗濯機、電気釜、食器棚、食器、猫用トイレまであった。そこまで用意してくださっていた。入居したのは5月8日だった。
 それからそこでの避難生活が始まった。まだまだ、これからどうしたら良いのか全く分からず、気持ちの中は途方に暮れたまま、新たな生活が始まった。朝晩、犬の散歩に出るだけ、あとはずっと家の中にいた。

妻がうつに

 6月に、ちょっとした事件が起きた。隣の男性が戸を開け放ったまま夜中に、エッチなビデオを大音量で見ていたのだ。斜向かいの家の小さな子供がいる家庭の人が、音源が私たちだと思い込んで、大家さんに苦情の電話をしたのだった。「あの人たちが来るまでこんなことはなかったから、あの人たちに違いない」と。大家さんから「誠に申し訳ないがこのような苦情があったが」と連絡を受け驚いた。私は教育者として生きてきて、浪江でもそれなりに評価をいただいてきた。震災時は約70名の生徒がいて、彼らは一切宣伝をしない塾に口コミで集まってくれた生徒たちだった。そういう私が、何処の馬の骨とも分からない人物に成り下がったのだなと、とてもショックだった。それが原因で、妻はうつになってしまった。
 うつ状態はどんどん進んで、食事の用意も掃除もしなくなり、だが不思議なことに洗濯だけはして、私が今着ているものまで脱がせて洗濯しようとするようになった。『ツレがうつになりまして』という本を読んだら、掃除も料理もしないが洗濯だけはすると、我が家と同じことが書かれていた。
 私が家にいると妻はイライラするので、彼女を一人にするために私はフラフラと外に出て過ごした。近所に公民館があり、そこには大きな広間があった。館長にそこを借りたいと話すと、私たちが避難者だと知っていて館長は「空いているときはどうぞお使いください」と言ってくれた。役所がそういう対応をするのは非常に珍しいことだと思った。
 私たち夫婦は社交ダンスをやっていたので、私はその広間でシャドウといって相手なしで一人で踊る練習をしていた。約2時間か3時間家を空けないと、妻の状態がいっぱいいっぱいになるので、公民館の広間で1、2時間、その後近所の小さな喫茶店で小一時間過ごして家に戻った。そういう生活が6月から10月まで続いた。
 妻の状態は、病院に通ってもどんどん進んでいくような状態で、なんとかしなければと思っても、どうすることもできずにいた。そんな時期に地区の生涯学習協議会から地域の防災のために「防災講演会」で、震災時のことを話してもらいたいという依頼を受けた。10月30日に、約200名の地域の人たちが集まる中で、市の防災課の人が話し、私も皆さんの前で避難の様子を話す機会を得た。その後いろいろな人から声をかけていただき、励ましの声をいただいた。それがきっかけで私たちは、引きこもりから解き放たれることができた。

塾を再開

 浪江の塾の卒業生の一人から「卒業式をやろう」というメールがきた。毎年卒業式をやっていたが、この年はできなかったまま過ぎていた。3月22日が卒業式の予定だったが、11日が震災だったから、卒業式をしないまま皆バラバラに避難したのだ。届いたメールに「そうだね、やろう」と応えて、北海道から名古屋まで15名の卒業生中14名が集まってくれた。そして、避難後どうしていたかという話になった。その時のS君の言葉に、ハッとさせられた。S君は言った。「震災は僕にとって悪いことばかりじゃなかったです。震災がなければ出会わなかった人に出会えた。震災がなければ経験できなかったことを経験できた。悪いことばかりじゃなかった」
 当時中3だった彼らは受験した高校に受かっていたのに震災で避難して、知らない土地で思いもよらない形で新しい高校生活を始めていた。それなのに我々夫婦はずっと引きこもっているばかりだった。決まっていた学校に行けず全く別の学校に行かなきゃならなかった彼らは、俺らよりもはるかに大変だったんだという思いが、「俺は何やってたんだ。しっかりしなけりゃダメだ」と思わせた。さらに、うつ状態の妻のことも考えて、「よし借家ではなく自分の家を持とう。将来ずっとここに住み続けるかどうかわからないが、5年でも良いからこの地に居よう。自分の家を持とう」と思った。借りている家なのに猫が柱や壁をガリガリやって、申し訳ない。返す時にはきちんと元のように直して、自分の家を持とうと決めた。
 そして、翌年の3月18日に現在の家に引っ越し、4月から塾を再開しようと決めて、その家の6畳間で塾を開くことにした。
 塾を開くに際しては「宣伝をしない」を守り続けた。近くのガソリンスタンドにガソリンを入れに行くと、そこのおばちゃんが車のいわきナンバーを見て事情を察したらしく、いろいろと話を聞いてくれた。そして「家の息子をお願いします」と言ってくれ、その子がここでの第1号の生徒になってくれた。それから床屋さん。床屋さんに行くといろいろ話をするが、どこからきたかと聞かれて事情を話したら、その床屋さんも娘さんを私の塾に通わせてくれた。その娘さんは卒業後、私の大学の後輩になった。

避難路の確認と防災講演会

 現在の家に住んでからまずやったことは、避難路の確認だった。富士市の近くには浜岡原発があり、また中央構造体に近く巨大地震が予想されている地域だ。もしここで巨大地震が起きたら、どうやって逃げるかを考えた。自宅は富士川の西側だが、浜岡だと富士川を渡って逃げなければならない。橋が壊れていたら渡れないから、どこの橋が頑丈か調べた。避難路は富士山の表を回るか、裏の山梨県側を回って逃げるか、それらの避難路を実際に走って確認していった。だから、以前からここに住んでいる近所の人たちよりも、富士市内の道路事情に詳しくなった。精進湖を山梨側に抜けるのは崖崩れで無理だろう、河口湖の方からはなんとか通れそうだ、それよりも富士山の表側の方が良いかなどと、色々シミュレーションしてみた。走ってみて一番怖かったのは、千本松を抜けて沼津に至る道だった。千本松は高さ10mくらいの長く続く防潮堤の内側にある。15mの津波が来たら無理だなと思い、その時もそこを通った時には「速く。速く。どうか今地震がきませんように」と思いながら通った。
 防災講演会で話をしても、「30年も前からずっと、巨大地震は来るって言われてるけど、来ないんだよね。来たら来たで、その時さ。富士山だって爆発するかもしれないしね」と、被災経験を伝え防災に役立つようにと思う気持ちが萎えるような反応をする人もいたが、大半の人はしっかり聞いてくれた。

記録を残したい

 2020年2月に、浪江町の自宅が解体されることになった。本来なら、ずっと残しておきたい。そこに住めなくても自然に朽ち果てるまで、家は残しておきたかった。しかし地震で傷み危険家屋と判定され、解体するように言われた。解体申請期限内なら国が無償で解体するが、それ以降だと自費での解体となる。避難指示区域内の家屋解体は放射性廃棄物処理ということになり、800万円かかると言われた。それで解体申請をした。申請をしたが、やはり解体は忍び難く、調査に来た県職員に一番最後に回してほしいと頼むと、「みなさん、そうおっしゃいます」と言われた。誰もが皆、同じ気持ちなのだ。故郷の家、自分が生まれ育った家を壊したくない思いは、皆同じなのだ。だが、結局は期限がきて書類にサインをしたのだった。
 ちょうど私が自宅に帰っていた時に、近所の家が解体の最中だった。それを見ながら私は、「自宅解体の現場には立ち会えない」と思った。その家の夫婦も「堀川さん、解体なんか見ねえ方がいいよ。とても、とても見てらんねえから」と言った。それで私は解体を見ないことにしたが、友人で写真家の中筋純さんが「俺が看取ってやる」と言って、我が家の解体の様子を記録に撮って下さった。
 2017年に、私たちの震災を経ての経験を記録に残そうということになった。妻が文章を書いたが、書いているうちに感情が溢れて、言葉が激しくなってしまう。それでは読む人の中には拒絶反応を抱く人もいるかもしれないということで、絵本の形にすることにした。一緒に逃げた飼い犬ゴールデンの「ももちゃん」の目線で文章を書き改めた妻に、「後はお願いね」と言われた。ということは、私に絵を描けということなのだが、私には絵心がない。表紙の絵を描くのに三日三晩悩み苦しんだ。本文の何枚もの絵を描くとなると、何年かかるかわからない。そこではたと気付いたのは、塾の卒業生たちに呼びかけることだった。卒業生には絵心のある子どもたちがいた。SNSで卒業生たちに呼びかけた。「描きたい」という子どもたちがいて、全体の物語とページ割りしたそのページの文章をそれぞれに渡して、後は自由に描いてとお願いをした。
 送り返されてきた絵と、それに添えられていた手紙が、私たちには宝物になった。そして総勢19名で、絵本『手紙 お母さんへ』を作り上げた。私自身も描いた。だからページの絵はみんなタッチが違う。この絵本の中には描ききれなかったことを、「ごあいさつ」として、どの一冊にも挟んだ。

ごあいさつ

 「お父さん、夏休みに子どもたちをどこに連れていったらいいんだろうか」。息子からの電話。海があって山があって、自然の中で思い切りあそべて自然の恵みをたらふくいただけた浪江という地。この先、息子や孫たちが浪江の我が家に来ることは二度と無い。何故なら、除染された我が家の放射能の数値は、私にとっては驚くほど高く、野生動物の棲み家になってしまったから。
 家の片付け作業の日、放射能で汚れてしまった子どもの頃からの思い出の品々やここで暮らした様々な証しが、あの黒いフレコンバッグに捨てられた時、小さな叫び声とともに涙を流した夫を見て、いずれ解体されてしまうこの家を建てた夫の両親の姿が浮かんだ。先祖からの歴史がここで終わる…。
 この気持ちを書き留めておこう。二度とこんなことが起きないように。
 忘れないでほしい、あの事故を。あの時の混乱、あの時思ったこと、考えたことを。

堀川貴子

 この本は、東日本大震災と原発事故の二重の災害を経験し、故郷を奪われ、生業を失い、友情を引き裂かれ、生きる証さえ失いかけた多くの人々の思いと、ともに生きていた生き物たちの思いが、時間の経過とともに人々の記憶から消えつつあることに空虚(むなし)さを感じ、何らかの形で記録に残しておきたいと思ったことから作り始めました。
 チェルノブイリ原発事故の現実と公的機関の発表との大きな差は、福島ではそれ以上に大きく、「理不尽な生命の軽視=帰還政策」に腹の底から怒りがこみ上げてきますが、その思いを抑えながら作りました。

堀川文夫

(次回へ続く)

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渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。