第113回:与那国島に戦車が走る~打ち砕かれた自立ビジョン~(三上智恵)

 「与那国海底遺跡」をご存じだろうか。日本最西端の与那国島の海に、ムー大陸かアトランティスかと想像を掻き立てる神殿のようなものが沈んでいる。自然の造形物か。はたまた未知の文明の痕跡なのか? この海底構造物は衆目を集め、『神々の指紋』のグラハム・ハンコック氏をはじめ世界中の研究者も訪れ、2000年前後に大ブームになったのだが、その火付け役の一人が、沖縄から全国向けに海底遺跡番組を連発していた琉球朝日放送のディレクターだった…。そう、実は私なのである。

 水中リポートを得意としていた私は嬉々として与那国に通い、海底遺跡の初めてのDVDも沖縄の放送局制作でパイオニアLDCから発売。DVD版「沖縄海底遺跡」は当時もかなり売れて利益も上げた。まだ入手可能のようである。

 しかし、ニュースキャスターがいつまでも眉唾物の「超古代文明」を扱うのはいかがなものかと物言いもあり、4作品を世に出して身を引いた。依頼、あれほど通っていた与那国島にもすっかり足が遠のいていた。もともと、ジャン・ユンカーマン監督の与那国島が舞台のドキュメンタリー映画『老人と海』の大ファンで、一人で久部良の港に行き、半日カジキマグロを吊るすカギ針を眺めて幸せを感じているような私だった。つまり、与那国という島は、私の中ではとても思い入れのある特別大事な島だったということを今回はまず伝えたい。

 そんな与那国島の行く末に嫌な予感がしたのは2007年のことだった。「沖縄の人はゆすり・たかりの名人」という暴言で知られるジャパンハンドラーの一人で、元アメリカ国務省日本部長のケビン・メア氏が在沖縄総領事だった時、彼は与那国の祖納港にアメリカ海軍のどでかい掃海艇を2隻も入港させた。補給や交流を口実にしていたものの、最西端の小島の軍事拠点化を狙っているのは明らかだった。当時、沖縄平和運動センターにいた山城博治さんをはじめ本島からも抗議団が与那国に飛び、接岸を拒否すべく座り込むなど港は大騒ぎになったのだが、当時、船内パーティーやビーチバーベキューなどの米軍お手盛りの親善事業に取り込まれた島民も多かった。抗議していた人たちは「親善に来た人たちにあまりにも無礼なふるまい」などと住民に言われてしまいショックを受けたという話を、先日も博治さん本人が語っていた。しかし今となっては、島が軍事利用されるという彼の危惧が100パーセント正しいことが証明されてしまった。後の祭りとはこのことだ。

 ケビン・メア氏は、後日著書の中で「台湾・尖閣有事の際に与那国や石垣の港を作戦上使用する必要がある」と明言している。したがって与那国島に自衛隊基地を作ればすぐに米軍も使うことは容易に想像できた。自衛隊誘致に反対した人たちは、基地ができれば米軍の戦略の中で戦争の島にされてしまうとわかっていた。一方、誘致派はそれを否定した。自衛隊の受け入れを巡る住民投票をやる、やらないで揉めていた長く苦しい日々の中で、島のリーダーたちは一貫して「自衛隊は入れても米軍は入れない」と明言していた。騙されたのはどちらか。今月実施された日米共同演習「キーン・ソード23」で、ついに米軍がやってきた。アメリカ海兵隊員40人があっさりと与那国にはいって訓練をした。米軍は入れないと言っていた人たちは、何の抵抗もできなかった。

 それだけではない、南西諸島での有事を想定して開発された戦車が、今回の演習で初めて導入された。105ミリ戦車砲をむき出しにした「16式機動戦闘車(MCV)」は、キャタピラーではなくタイヤで走れるように改良されているので、島民が日常使っている公道を縦横無尽に走り回ることができる。2台来るはずが反発を意識したのか今回は直前に1台だけになり、翌日には輸送機で島を離れたが、戦車攻撃、つまり敵との上陸戦で活躍する殺傷力を持つ「戦車」が、島の子どもたちの通学路を走行するという信じられない光景が実際に展開されてしまった。私は、この目で見てきたのに、いまだ受け止められない。誰よりも早く与那国の要塞化を危惧し、止めたいと動いてきたはずなのに、いやだからこそ認めたくない。本当にここまで来てしまったのか、ということを。これを書きながらもまだどこか正視できずにいる。

 与那国のことを知らない人は、日本の最西端の小さな島なのだから、離島苦にあえぎ、過疎に苦しみ、自衛隊がもたらす税収や振興策、人口増加に飛びついてしまったのだろうという見方をするかもしれない。しかしそれは全くの間違いだ。2005年にピークを迎えていた平成の大合併の波をくぐりぬけ、与那国島は合併を拒否した。なぜか?

 与那国島は、保革を超えて町民全体が一丸となって「与那国自立ビジョン」構想を立ち上げていた。かつて島の先人たちが交易の島として与那国をおおいに発展させていた歴史に倣い、台湾との交流特区を目指して名乗りを上げたのだ。私は当時、那覇で報道する側に居て、与那国島の持つ底力に惚れぼれした。まさに、琉球王国の大交易時代という輝かしい歴史を観光地では高らかに掲げながら、基地の島から脱却できない沖縄本島を西から鼓舞してくれるような、頼もしい与那国島のエネルギーを感じていた。だから、2007年のケビン・メアの目論見も与那国なら押し返せる、与那国を舐めるな、と私はまだ強気で眺めていた。沖縄の人間はゴーヤーも作れない怠け者だと、言いたい放題の無礼な外国人の鼻を明かしてやれ! 与那国よ! と。

 当時の日本政府は地方創生をうたい文句に、地方が自主的に財政基盤を強化するよう促し、自らの財政難を乗り切ろうとしていた。小泉政権自慢の「規制緩和」を乱発し、既得権益で硬直化した社会をぶっ壊して、地域の実情に合わせて政府も汗を流すと大見得を切り「特区構想」を何次にもわたって募集した。それに夢を掛けた与那国は、姉妹都市である台湾の花蓮市に事務所を置いて、二国間の行政事情をすり合わせ、国内外でクリアすべき課題を洗い出して人と物の流通をどうやって構築できるか試行錯誤していた。第7次特区申請、さらに形を変えて第10次特区申請にも応募。社会実験で実績を作り手続きを積み上げていた。

 2007年、台湾事務所を作って初代所長として精力的に動いていたのが、当時与那国町役場で自立ビジョンを担当していた田里千代基さんだった。台湾事務所駐在中の田里さんの日記を見ると、台湾経済圏の枠組みの中で自由往来できる道筋をつけるべく、花蓮市の積極的なバックアップを受けながら、日々台湾で奔走していたことが見て取れる。解決すべき課題は多かった。例えば、国内基準では国際港湾は本来5000トンの船が3隻横付けできるバースが必要であるとか、年間15万トンの輸出入量がなければならないなどの基準があるが、そこは離島の実情に合わせた規制緩和を国が認めてくれればクリアできる。税関システム、航路、一つひとつのルールを見直すことで「経済交流特別区」を創出することは可能という道筋も見えていた。当初は自民党の国会議員らの応援もあり、話は進むかに見えた。しかし、雲行きが変わったのは2007年だった。6月に、例のケビン・メア氏と掃海艇が島にやってきた。与那国島は多国籍の人流・物流拠点としての開かれた島であるよりも、国防の島、侵入を防ぐ要塞の島、米軍の不沈空母としての役割を果たしてもらわねばならぬ、というのが中央の考え方だった。自立に向って結集していた島民の夢は、日米政府から冷や水をぶっかけられた格好になった。

 翌年、当時外務副大臣だったひげの隊長こと佐藤正久氏が頻繁に与那国に来るようになった。しかし、来ても島の中を歩かない。与那国空港の一室で町長や町議、島の実力者と会い、自衛隊を引き受けると、こんな事業もあんな振興策もとれる、収入も人口も苦労せずに増やせる、といいことばかりを吹聴した。そしてほかの島同様、自衛隊誘致組織である「防衛協会」を島に作らせた。あとは協会に誘致署名を集めさせ、防衛省に要請させるのみ。一方で、重ねて提出される特区申請を国は認めない。与那国自立ビジョンは急速に色あせていった。

 田里さんは言う。
 「もしも特区申請が通っていたら、自衛隊誘致の声はあっても潰せたと思う。必要ないよ、と」
 あと一歩だった特区構想は、国の思惑で潰された。それがけん引役だった田里さんの実感だ。

 おいしいロールケーキが売りのレストランを経営する猪股哲さんも、与那国に移住して18年。自立ビジョンで団結していた島の熱い時期を知る人だ。

 「もし自立ビジョンがあのまま実現していたら、自衛隊の問題はなかったんじゃないか。台湾と活発に交流する中で、軍隊がないと隣の国が攻めてくる、っていう発想は笑い飛ばせたと思う」

 今回、私が与那国に言って取材したかったのは、改めてあの自立ビジョンは何だったのか? 誰に潰されたのか? という点。あともう一つは、現在進行形の軍事要塞化が、いかに島の人たちの気持ちを傷つけているかという問題だった。自衛隊誘致の動きに呼応し、島を軍事利用されたくないとすぐに立ち上がったグループが「与那国島の明るい未来を願うイソバの会」だった。与那国島の伝説の女酋長サンアイ・イソバの勇ましい名前を戴いた市民団体で、女性が中心だった。彼女たちの活動は全国誌にも何度も取り上げられた。しかし、住民投票に敗れ、石垣島や宮古島にも自衛隊基地が着工されていく急激な軍事化の中で、活動が見えなくなっていく。

 前出の猪股哲さんもITに強く、SNSを駆使して与那国の問題を丁寧に発信して全国から応援の声が上がるまでになっていたが、住民投票による地域の分断がプライベートまで押しつぶし、厳しい状況に追い込まれていると風のうわさで聞いた。国や軍隊という組織を相手にする市民運動を継続することは、どれだけ辛いか。長期化すればするほど、組織は痛まずとも個人は痛んでいく。その理不尽をずっと見てきた。それだけに、与那国駐屯地が開設した2016年前後から与那国町長が「島内に反対する人間はおりません」と豪語するのを胸がきしむ思いで見ていた。あんなに抵抗していた人たちが賛成に変わるわけはない。どんなに苦しいだろう。しかし、与那国島の激動期に大した取材もできず力にもなれなかった私には、今さら島に行ってインタビューする資格すらないのではないか。自分の中で、与那国に行くハードルがどんどん高くなっていた。

 それでも意を決して与那国に撮影に入ったのは、正視できないと逃げ回っている自分といいかげんに縁を切りたかったからだ。今回猪股さんは奇しくも私にこう言った。

 「不都合なことが起きたから出ていくというのは性に合わなかった。そこに住みながら考えたり決着をつけたりしなければいけないこともある。それやったら負けかなと。自分が社会に変えられてしまわないためにも」

 大事にしていた地域行事にも誘われなくなった。妙な噂も流された。彼の受けた精神的なダメージの大きさは、想像以上だった。今は畑仕事に救われて人間関係の再構築をしていると笑ってくれる猪股さんだが、辛い分断の日々は現在進行形なのだ。それなのに彼の言葉は澄み切っている。魂は全く蝕まれていなかった。彼はこうも言った。

 「南西諸島を戦場にするような状況を前にして、憲法を掲げている民主主義の担い手として、主権者の一人として、意見は表明しないといけないと思うんですね。不断の努力は、一人ひとりに課されているものだから。だから……どんなに辛くても、怖くても。いろいろ噂を立てられても、やるべきことは、やる」

 留まる強さ。正視できる勇気。ダメージを受けることは免れないと覚悟しつつ、いつかは乗り越えられると自分を信じる力があるから、彼は逃げずに島にいる。傷つくことができるのも強さなのだ。弱ければ、自分が傷つくと予想した時点で逃げてしまうだろう。ひるがえって私はどうだ。外から眺めて、応援して、心配して、ハラハラしてるだけなのに傷ついたといい、与那国島に対して両の手足を引っ込めていただけ。なんというチキンぶりだ。映画『沖縄スパイ戦史』での与那国の撮影も、共同監督の大矢英代さんが八重山担当だからと行ってくれたことに内心ほっとしていたことを今懺悔する。

 2005年にはみんなで夢見た経済特区による自立。その話を今、同じことを口にするだけで四面楚歌になりかねないという島社会の理不尽。誰が島の空気を捻じ曲げたのか。一番危ないロープにすがるように仕向けたのは、誰だったのか。

 「自立ビジョンは、あきらめていませんよ」

 そんな激流の中に立ってなお、田里さんは言い切った。イソバの会の女性たちも、怒りに震える声を精一杯戦車にぶつけ、まっすぐ公道に向ってくる戦車砲を正面から見つめるという仕事から逃げなかった。でも私は、狩野史江さんが「与那国になんで戦車なんか持ってくるの!」と叫ぶ姿を撮り続けることができず、思わずスイッチを切ってしまった。泣いている彼女の顔の間近にカメラを押し付ける自分を瞬間的に嫌悪したのだろう。それとて中途半端だ。そのあと撮影素材が何もないファイルを見て、自分は何をしに行ったのだ? とパソコンの前でイラつく。

 戦車が去り、スイッチを切って呆然としていると、車で追いかけて撮影するはずの猪股さんも、放心したように現場で佇んでいた。

 「お、追いかけようよ!」と気を取り直して言う私に、「もう、いいかなあ。そんな気持ちになれないというか……」とうつろな目で彼は言った。

 「でも、朝せっかく下見をしたんだし、撮ろうよ。記録しようよ」と言いながら、自分は鬼だと思った。私は1席しかあいていなかった帰りの便の時間が迫っていたので同行を断念、空港に残った。結局この動画の最後の映像は、仕方なく車で先回りした猪股さんが、一人で撮ってくれたカットである。

 彼がどんな気持ちでカメラを回しているか。この最後のカットを見た人には伝わるだろうか。私にはよく撮ってくれた、という感情と同時に、せつなくて苦しい、見るに堪えない映像に映る。私だって、チキンであり鬼であり、もう与那国への向き合い方が破綻しているくせに「いい映像」をあきらめられずに破れかぶれで撮影している。こんな風に過去の経緯に振り回されてヨレヨレになった私より、この問題に向き合い始めた人の方が、よっぽどちゃんと報道の基本を踏まえて撮影できるだろう。じゃあ私の仕事はいったい何なのか? 何のためにカメラを持って、ツライツライとかこちながら島をうろうろしているのだろう?

 答えは、わからない。ただ今回ほど、正真正銘自分がかっこ悪いと自覚したことはない。猪股さんを見送った後、与那国空港のベンチで、私はどうにも自分を肯定できず、カメラを持つ手をただぼうっと見つめていた。
 

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標的の村』『戦場ぬ止み』『標的の島 風かたか』『沖縄スパイ戦史』――沖縄戦から辺野古・高江・先島諸島の平和のための闘いと、沖縄を記録し続けている三上智恵監督が継続した取材を行うために「沖縄記録映画」製作協力金へのご支援をお願いします。
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三上 智恵
三上智恵(みかみ・ちえ): ジャーナリスト、映画監督/東京生まれ。1987年、毎日放送にアナウンサーとして入社。95年、琉球朝日放送(QAB)の開局と共に沖縄に移住。同局のローカルワイドニュース番組のメインキャスターを務めながら、「海にすわる〜沖縄・辺野古 反基地600日の闘い」「1945〜島は戦場だった オキナワ365日」「英霊か犬死か〜沖縄から問う靖国裁判」など多数の番組を制作。2010年、女性放送者懇談会 放送ウーマン賞を受賞。初監督映画『標的の村~国に訴えられた沖縄・高江の住民たち~』は、ギャラクシー賞テレビ部門優秀賞、キネマ旬報文化映画部門1位、山形国際ドキュメンタリー映画祭監督協会賞・市民賞ダブル受賞など17の賞を獲得。14年にフリー転身。15年に『戦場ぬ止み』、17年に『標的の島 風(かじ)かたか』、18年『沖縄スパイ戦史』(大矢英代共同監督)公開。著書に『戦場ぬ止み 辺野古・高江からの祈り』(大月書店)、『女子力で読み解く基地神話』(島洋子氏との共著/かもがわ出版)、『風かたか 『標的の島』撮影記』(大月書店)など。2020年に『証言 沖縄スパイ戦史』(集英社)で第63回JCJ賞受賞。 (プロフィール写真/吉崎貴幸)