第44回:「311子ども甲状腺がん裁判」傍聴記「甲状腺がんになったのが、 あなたのお子さんでなくて良かった。そう思います」(渡辺一枝)

2022年11月9日東京地裁

 11月9日、「311子ども甲状腺がん裁判」の第3回口頭弁論が、東京地裁で開廷されました。
 この裁判は、東京電力福島第一原子力発電所事故当時、福島県内に居住していた、当時6歳から16歳だった男女7名が、事故に伴う放射線被ばくにより甲状腺がんを発症したとして、東京電力に対して損害賠償を求める裁判です。2022年3月11日の提訴時には6名の原告で訴えましたが、第2回口頭弁論期日に原告がさらに1名加わり追加提訴し、原告は7名となりました。7名の原告は現在、首都圏と福島県に在住する男女です。

裁判前アピール集会

 裁判前アピール集会では、まず弁護団長の井戸謙一弁護士からの報告がありました。
 来年3月15日の第5回口頭弁論期日からは大法廷が使えるようになったこと、また次回の1月25日と次々回の3月15日の2回の期日には、原告本人陳述が認められたことが報告されました。これは裁判所が大法廷使用に消極的で、前回そして今回が小法廷であることと、裁判所の方針として原告意見陳述は3回までにしたいと伝えられていたことに対して、弁護団・原告・支援者たちが一丸となって大法廷での裁判と原告全員の意見陳述を望む声を裁判所に寄せたことから、裁判所が当初の方針を変えたのだと思えます。井戸弁護士は、「1月と3月の期日には、それぞれ原告2名ずつ意見陳述をするようにして、原告7名が誰も欠けずに全員、裁判官に直接訴えを届けられるようにする」と言いました。
 その後、支援者のスピーチが続きました。
 シカゴから来日中のノーマ・フィールドさんは「スリーマイル島の原発事故でも、健康被害が無視されてきたことが最近わかった。チェルノブイリ原発事故の時も当初は住民の健康被害は隠されてきたが、地元の医師たちの努力によって、10年後にようやく小児甲状腺がんは原発事故によるものであることが認められた。日本は専門家が健康被害を否定している、とても恥ずかしい国だ。しかし、そうした中で子どもたちが沈黙を破り立ち上がって声を上げたことに、とても感動している」と話しました。
 アイリーン・美緒子・スミスさんは水俣から戻ってきたばかりだと言い、その水俣でのことを話しました。「3歳、4歳と幼い時に水俣病になった人たちが、いまだに裁判で闘っている。また、生まれる前のまだ母体にいた時にすでに有機水銀を体内に取り込んでしまった胎児性水俣病の人もいる。その人たちから、この裁判の原告たちへの『甲状腺がんの闘い、頑張って』とメッセージを預かってきた。原告の子どもたちは、今までにやったことのないこと、裁判に挑戦した。だから私たち大人も、今までにやったことがない行動で応援しよう」と言いました。

支援集会

 開廷前の集会を終え、入廷行進をして代理人弁護団は裁判所に入りました。私たち支援者は傍聴整理券を求めて並びました。この日の806号法廷の傍聴席はわずかに25席。抽選には148名が並びました。ほぼ6倍の倍率です。抽選に外れた私は、弁護士会館で行われた支援集会に参加しました。支援集会では模擬法廷として、予め録画した3人の弁護士による意見陳述、また本番前の練習として読み上げた原告本人の意見陳述の録音音声が流されました。

*模擬法廷における原告代理人の主張
 被告・東電側の「被ばく線量100ミリシーベルト以下では甲状腺がんは発症しない。原告らの被ばく線量は100ミリシーベルトよりも少ない」という主張に対し、原告代理人弁護団は、がんの原因が放射線被ばくによるものだという確率(原因確率)は、他の多くの公害事件で因果関係が認められてきた水準よりもはるかに高い90パーセント以上であるという岡山大学の津田敏秀教授の意見書を提出しました。津田教授は「福島県内で原発事故という過酷事故に遭わなければ、甲状腺がんにならなかったであろう。原告7人の原因確率は最も低い人で95パーセント、最も高い人では99.5パーセントに達するとしている」と述べています。
 原告代理人の一人、西念京祐弁護士は、パワーポイントで図表を示しながらこう話しました。「これらの原因確率は過去の裁判で因果関係が認められてきたヒ素中毒(50パーセント)や環境アスベスト肺がん(50パーセント)、大気汚染(68パーセント)、じん肺肺がん(78パーセント)に比べてはるかに高い水準である。過去の公害事件の判例では、原因確率が7〜8割を超えたらその事実だけでも因果関係が認められてきた。このことからも、原告の甲状腺がんは、放射線被ばくに起因すると考えるべきである。また、裁判所が因果関係を判断する際には、過去の公害裁判や原爆被爆者認定訴訟と同じように疫学を基に判断することを求める」。

原告本人意見陳述 原告5さん

 報告集会で配布された原告意見陳述書を、ここに転記します。

 私は、文章でも、言葉でも、自分が思っていることを伝えるのがもともと得意ではありません。

 裁判を起こす前、私は、裁判は1回で終わるものだと思っていました。
 意見陳述も、誰か一人が代表して読むんだと思っていました。

 だから提訴後に、原告でいろいろな話し合いをして、原告全員が意見陳述をしようとなった時、正直終わったなーと思いました。

 でも2回、裁判所に来て、自分の辛い体験を話すほかの原告を見て、同じ病気になっても、みんな一人ひとり、全然違う。自分もやらないわけにはいかないと思いました。

 私は、昔のことはよく覚えているのに、最近のことはあまり覚えていないし、内容も、文章も、自信はありません。

 弁護士さんと毎週の様にラインで話し合いをして、少しずつ思い出しながら、陳述書を作りました。この陳述書は、私がこれまでに書いた中で、一番長い作文です。
 最後まで噛まずに、読みたいと思います。

1 被ばく

 震災があったのは中1の時です。
 その日は、先輩の卒業式があり、学校の終わりが早かったので、セブンでお昼ご飯を買い、友達ん家で食べつつ、遊んでいました。私も友達もおでんを買ったのを覚えています。

 丁度、おでんを食べていた時に携帯のサイレンがなり、地震が起きました。
 携帯のサイレンを聞くのも、あんなに大きな地震に遭うのも初めてでみんな大慌てで外に避難しました。外は吹雪いていて、この世の終わりだなと感じ、友達と話した記憶があります。

 それぞれの家庭に連絡をとり終えて、また、友達ん家に入り、ニュースをつけると「震度6」という数字が目に飛び込んできました。津波の映像が流れてきて、それを見た友達が泣いているのを見て、やっと、この状況がとても酷いことなのだと把握しました。

 原発事故は、伯母が、放射能をとても気にしてたので、よく覚えています。放射能は、気にする人と気にしていない人の差が激しくて、自分は、気にしていない方の側だったので、何も変わらず、ノー天気に暮らしていました。

 爆発映像は、流し見程度でしたが、風評被害とか、福島へのあたりの強さとか、どんどん状況がひどくなってる印象でした。

2 学校生活

 学校は、休みが少し長引きました。新学期が始まっても、ちょっと落ち着かない感じでした。
 避難をする生徒が何人かいて、その中に私の友だちもいました。そのショックもあったのか、どんどん学校に行く頻度が低くなりました。それが、だんだん本格的に不登校になりました。

 不登校になっても、部活の方には顔を出していました。学校に行くのは放課後です。部活が終わっても帰らず、校門付近や公園でだべっていて夜遅くまで学校にいて先生に注意された。
 放射能を気にする友達が私の周りに居なかったので、普通に遊んでいました。
 雨が降ってもそれに当たりながら帰った。
 外に出かける時、持って歩く様にと学校から渡された数値を測る機械も身につけず、家に放置してた。

 でも、伯母はとても気にしてて、いつか身体に影響が出るのだなーと感じながらもどこか自分は大丈夫と思っていた様な気がします。
 自分の家族もそこまで気にする感じではなかったので、遊びにも普通に行っていました。

 地元より安いからという理由で、週末に友達と、電車で須賀川に行きイオンタウンのプリクラを撮りに行くという謎の行為をしていた。
 プリクラより交通費の方が高かった。

 不登校中は、市役所近くの不登校になってしまった子どもがくるところに通っていてバスで行ってたり、車で送り迎えしてもらったり長い時間をかけて、歩いて帰ったりもしていました。

3 診断

 不登校だったので、学校では一度も、甲状腺のエコー検査は受けていません。自宅に通知が来ても2回くらい拒否していた。
 特に理由もなく、めんどくさい、する必要はないと思っていたのだと思う。
 3回目くらい目の通知で、「これが最後」みたいなことを親から聞かされ、「最後なら行くか」のノリで受けた気がします。
 エコーを取り終えた時、何故か、がんがあるんじゃないのかなと勘が働いてました。それを親に言ってます。案の定、再検査の通知が来ました。

 福島医大での再検査でした。細胞診の首に刺す針は最初、とても怖く感じました。痛みには強い方ですがこの時は恐怖でした。針の痛みより、押されてるのか、刺さってる圧なのか、見えなくてよくわかりませんでしたが、針の痛みではない痛みの方が強かったです。
 それを何故か2回受けた記憶があります。

 そのあと、癌と診断されました。最初のエコーの時点で癌だと思っていたので、なんとも感じませんでした。でも母は泣いていたのか、ショックを受けていた。

 福島医大の通院はとても憂鬱でした。
 まず医大に着くのに車で1時間ちょいはかかり、そこからさらに診察されるまでに2〜3時間ぐらい待っていて憂鬱で仕方なかったです。暗い廊下で、ずっとうつむいたまま。覚えている光景は、自分のイヤフォンの有線です。聞いていた曲は多分、ボカロとか、ラッドウィンプスとか、米津玄師とか。でも、よく覚えていない。

 待っている時に、カウンセラーの人なのか、話しかけてくれる先生がいましたが、きっとあの時はイライラずっとしていて、時に態度がよろしくなかった日もあったと思います。
 今思うと本当に申し訳ないと、その方に思います。

 診察時にもイライラしました。ちょっと気になることがあって母に聞くと、母が代わりに先生に聞いてくれました。その度に、先生の「大丈夫だから、心配なんだね?」みたいな表情とか言動が本当にイライラさせてくれました。
 そんなことはどうでも良いので、待ち時間を減らしてくれないかと余計にイライラしてました。

 どれぐらいの頻度で通院していたのかは記憶なし。採血は慣れた。
 最初はこんなにとるの? という驚きがあったけど、今は、「こんぐらいだよね」っていう慣れです。でも、いまでも、病院は好きになれない。病院の空間自体が。待っている人だけがいる場所だから。

4 手術

 手術は誕生日でした。
 自分の記憶している限り、誕生日は天気が悪い雨とかだったのに、その日は晴天でした。
 手術はするのは先生ですが、やっぱり手術ってなると、めんどくささや不安があり嫌だった。
 今もできるなら、もうしたくはない。

 でも、全身麻酔は経験できて良かった。自分の意思と関係なく、意識がなくなる…。
 死って、こんな感じなのかなと思う。

 手術の傷は随分大きかったけど、切り取った物が見れなくて残念だった。

 退院後はまた通院。傷口を塞ぐテープをちゃんと貼らなきゃいけないのがめんどくさく、貼らない、薬も飲み忘れる。
 傷口を早く治す薬はちゃんと飲んどけばよかったなと後悔しています。
 ただ日焼けは良くないということだけは聞いて、ピンポイントで対策してたと思う。バンダナとかチョーカーとかで。
 ホルモンの影響で太るから気をつけなさいと言われたがちゃんと太った。

5 再発

 先生が「とってしまえば大丈夫」というので、私は、がんをとっちゃえば、がん患者ではなくなると思ってました。
 けど、また手術することになった。最初なのか、元々取れなかったのが大きくなったのかわかりません。
 がんが見つかったのは、成人式の次の日。この時も、特に驚かなかったけど、「めんどくさっ」とは思いました。何がどうなって、今の病院に転院したのか覚えていない。すぐ手術となったような気がします。
 母の心配していた通りになった。

 転院した病院は小さくて、専門の病院ってこともあって人が多い。福島から東京の病院に通うようになり、朝が早くてキツくなったけど、もうこの時には、待たされるのも長い移動時間もどうでも良いと思っていました。
 いや、イラついてた時もあった。

 2回目の手術は、意識があるうちに尿管のくだと、鼻に通すくだを入れました。とても綺麗な看護師さんだったのを覚えています。でも、鼻のくだが入らず、涙とか鼻水とか、顔から出るものは全部でた。
 手術後より大変だった。

 手術前の病室で、祖母が私に向かって手を合わせた。
 恥ずかしい。マジやめて。と思って、写真を撮りました。

 麻酔から覚めると、今度は、点滴の針が入らず、また看護師さんにすごい迷惑をかけた。2、3人の看護師さんが交代し、初めてあんなに針を刺されました。申し訳ないと思った記憶。
 看護師さんからずっと謝ってたよと言われました。

 手術はリンパを大きく切り取ったので、耳の下まで傷口がありました。
 でも、その時は、どんな手術か理解していなかった。傷口がなかなか塞がらず、退院後に、首から体液が流れてきたときは焦りました。急遽、福島から東京の病院に行った。

 手と足が硬直するようにもなった。気づいたのはトイレ。勝手に踵が上がり、変に力が入ってなのか立てなくなりました。これは2回目の手術が原因だと思う。

 病院のご飯は美味しかった気がする。手術後、病室が一緒だった方と少しお話ししてご厚意でアイスやスイーツを頂く連続で。しかも高いハーゲンダッツ。

 アイソトープ治療のことは全く覚えていません。何を思い出したら良いのか分からないぐらい。ただ家に幼いいとこが居たので、それをちょっと心配して、すぐ家に帰るのを躊躇して、知り合いの紹介でお寺のお部屋をお借りしたのを覚えています。

6 今

 病気が見つかってからずっと、「健康調査」があるのは、県民の健康を気にしているのだなと感じていた。ありがたいことだなとかまで思っていた。
 国なのか、県なのかは分かっていないけど、へーすげーなーと思ってた。

 甲状腺癌が見つかる人が増えているのをニュースで見る。
 その1人になる。
 でも、それは「過剰診断」により見つかっただけであると流れる。
 では、何のために検査は行われたのか?
 少しでもありがたいなと思っていた気持ちはどうなる?
 ガッカリというか、残念でならない。
 自分は、検査2回ぐらい拒否ってたくせに。
 複雑な気持ちです。

 最近また再発して、3回目の手術の話が出た。
 嫌な気持ちもあるけど、どちらかというと母親に迷惑かけてばかりなのが申し訳ない。

 ただでさえ薬を飲み忘れが多いのに、これからもずっと飲まないといけない。
 前までは飲まないのが日常だったけど、もう、飲むのが当たり前だから、それに慣れるまでまだ、もう少しかかると思う。

 漠然とした不安。
 これから先のことも考えられない。
 今とか、未来とか、実際、やばい。

 でも、私は病気になったのが、身内や友達ではなく、自分で良かったなと思ってます。友だちや家族が罹った方がつらいんじゃないかと思う。

 今でも友だちが心配です。何も考えずに一緒に遊んでいた子。
 これから、結婚とか、出産とかになっていくのに、まだ、甲状腺がんになる可能性はあるから、不安はのぞけてないんだよな〜と思います。

 裁判官の皆さんに対しても、甲状腺がんになったのが、
 あなたのお子さんでなくて良かった。そう思います。

 裁判官の皆さんには、今もこれからも不安に思う人が300人以上いてその家族も不安に思っていることを伝えたいです。そして、今の状況が少しでも変わればと思っています。

報告集会

 閉廷後の報告集会には、この日に意見陳述した原告5さんのお母さんも参加されていて、「こうして多くの方が裁判を支えてくださって、ありがとうございます。毎回この席に出席するのが楽しみになっています。どうぞ、これからも原告を支えてくださるよう、よろしくお願いします」と挨拶されました。
 アイリーンさんは「社会は子どもを守らなければいけない。その子どもが先頭に立って闘っている。このことを全国の人に知らせたい」と言いました。
 ノーマ・フィールドさんの「疫学の理論が、生きた人間の陳述につながっている。福島の復興は、この裁判の勝利にある」の言葉に、大きな拍手が湧きました。
 原告5さんの陳述書作成を助けた古川(こがわ)健三弁護士は、「今日陳述したのは、とても寡黙な女の子で、言葉を引き出すのにも苦労しました。彼女はこれまでの2回の裁判での原告の言葉を聞くことで、自分の陳述書を書き進めてきました。その言葉が、例えば『ハーゲンダッツ』などのように、光っています。がんになったのが『自分でよかった』と、本当に素直な気持ちで言ってます。本人はとても大変な状況にあって、大きな手術を2回も受け、3回目もあるかもしれないのに、家族や友達でなくて自分でよかった、と」と目を潤ませながら言い、その声を詰まらせていました。
 中野宏典弁護士は「被告はしきりに線量が低いと言うが、我々は、因果関係について判断の仕方を話した。裁判所は、原爆症と本件との違いを意識して欲しい」と言い、西念京祐弁護士は各原告の原因確率の高さが95パーセント以上であることを再度説明しました。
 井戸謙一弁護団長は、「被告からは準備書面2が提出され、そこでは被ばく総量が100ミリシーベルト以下では小児甲状腺がんにはならないと主張しているが、その主張は通らない。2016年、2017年に公認された論文では、いずれも100ミリシーベルト以下でも甲状腺がんになる可能性はあり、閾値は存在しないとされている。被告は『福島のがんは潜在がん(無症状のまま健康に影響しないがん)だ』と言うが、では原告のがんは潜在がんなのかと質すと、答えられない。向こうは言うだけだが、こちらは証拠を提出する」と報告されました。
 河合弘之副団長は、「政府も県も子どもたちの甲状腺がんは、福島原発事故とは関係がないと言うが、それはまともな議論を避けたいからだ。僕らの反論にあちらは押されている。子どもたちが立ち向かい始めたこの裁判に勝つまで、応援していきましょう」と結んで、報告集会を終えました。

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渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。