第45回:「子ども脱被ばく裁判」傍聴記「声を上げなければ、なかったことにされるのではないかと思った」(渡辺一枝)

「子ども脱被ばく裁判控訴審」第5回口頭弁論

 11月14日に仙台高等裁判所で、「子ども脱被ばく裁判」控訴審の第5回口頭弁論期日が開廷されました。
 この裁判はこれまで、二つの裁判をあわせて審議が行われてきました。福島県内に住む小中学生が原告となり、福島市をはじめ自分たちが通っている学校を設置している自治体に、「安全な地域で教育を受ける権利」を確認し、今の環境下では教育をしないことを求める行政訴訟(子ども人権裁判)と、原発事故当時福島県内にいた子どもとその親が原告となり、国と福島県が緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)のデータ隠蔽や安定ヨウ素剤の不投与、年間被ばく量20ミリシーベルトという基準での学校再開、安全性の宣伝などによって子どもたちに無用の被ばくをさせたことに対する国家賠償請求訴訟(親子裁判)です。
 弁護団は第3回口頭弁論期日から第4回口頭弁論期日の間までに、この二つの裁判の分離を求めてきました。同時に、国家賠償請求訴訟については、原発事故当時福島県副知事だった内堀雅雄氏、荒竹宏之氏(当時福島県生活環境部次長)、鈴木元氏(当時ヨウ素剤検討会委員)、板東久美子氏(当時の文科省生涯学習局長)、遠藤俊博氏(当時福島県教育長)の5氏の証人申請をしていました。
 第4回口頭弁論で分離が認められて、行政訴訟は審議を終了して2023年2月1日3時に判決言い渡しと指定されました。一方国家賠償請求訴訟は審議継続で11月14日に期日が指定され、その時に証人の採否を決めると告知されたのです。もし裁判長が申請した証人を全員認めないなら、この日に証人申請は却下といえば良いのですから、5人全員でないにしても一部でも、申請は認められるだろうと予測されていました。
 その11月14日は、午前中に仙台市内の肴町公園でミニ集会を持った後、市内をアピール行進しました。その後、1時過ぎから30分ほど裁判の前段集会で、弁護団からこの日の争点についての説明がありました。
 原告団はこれまで、福島県放射線健康リスク管理アドバイザーだった山下俊一氏が、当時の講演会などで「(福島県では)100ミリシーベルトを超える放射線を浴びることはないから健康に影響がない。笑っている人には放射能は来ない」などと発言していたことについての責任を追及してきました。それに対して県から反論があったため、柳原敏夫弁護士が再反論をするとの説明でした。

 また田辺保雄弁護士からは、「国連人権理事会の特別報告者ダマリー氏の訪日調査報告での日本政府への勧告として、区域外避難者も区域内避難者と同様に、行政が生活と健康を保障すべきであると報告されたことを述べる」と説明されました。井戸謙一弁護士は、「(国家賠償請求訴訟の証人)5人全員が証人として採用されれば良いが、そうでなくても何人かは採用されるだろう」と言いました。
 そして迎えた第5回口頭弁論期日でした。傍聴希望者は60名弱でしたから、全員傍聴できました。
 14時30分、開廷され、石栗正子裁判長は原告、被告双方に準備書面の確認をしました。
 それから、まず原告本人の意見陳述がありました。閉廷後の報告会で配布された陳述書を、ここに転記します。

控訴人 H・Kさん意見陳述

 「私は生まれてから20年間、福島県郡山市にずっと住んでいました。結婚後も郡山市内に住み、2011年1月、20歳の誕生日に産まれてきたわが子も、私が育ったようにのびのびと郡山市内で暮らしていくはずでした。忘れもしない3月11日。今まで感じたことのない大きな地震に驚き、恐怖を覚えました。生後40日ほどの我が子を抱き、只々、揺れが収まるのを祈るだけでした。地震だけではなく、福島第一原子力発電所の事故。放射性物質が大量に放出され、私が住んでいた郡山市内にも降り注ぎました。屋内退避命令が出て、福島県内の野菜や家畜が出荷停止になったりと、この状況はただ事ではないと誰もが思ったはずです。しかし政府は『直ちに影響はない』と根拠のないことを全国民に伝えました。

 これからを生きていく我が子に健康に成長してほしい。それはどこの親も同じ想いでしょう。健康であるためには、住む場所、環境が大切だと思います。暖かくなればベビーカーを押して外気浴。1年も経てば自分の足で歩き、土や石、草花を触り、手にしたものを口にすることだってある。大地に一番近い背丈から少しずつ成長していく。人はそうやって生きてきました。

 様々な情報が錯綜する中、今いる場所から離れるべきかとても悩みました。初めての子育てだけでさえ不安でいっぱいなのに、頻繁に続く余震と降り注ぎ続ける、一切目には見えない放射性物質との隣り合わせの生活。いつまでこの状況が続くのか、永遠に続くのではないかと思うほど、恐怖心が消えることはありませんでした。しかし、我が子はどんどん成長していく。いつまでも屋内に閉じ込めておくにはいきません。2011年の夏頃に、とある講演会で『保養』という言葉を初めて聞きました。一時的にでも線量の高い場所から離れて過ごすことで、体内に入った放射性物質が排出されるというのです。やはり今住んでいる場所から離れた方が良いと私は判断しました。身近なところで山形や新潟へ行っては、解放されたような気分になりました。福島県全体が高い塀で囲われているかのような、孤立させられているような。だから、ただ県を越えただけでそんな気分になっていたのかもしれません。

 同年10月、叔母が住んでいるオーストラリアへ行ったときには、空がとても高く感じました。腹の底から深呼吸でき、子どもも伝い歩きをし出した頃で、ファーストシューズを履き初めて大地に足をつけました。これが当たり前の姿なのだと、今でもその姿を鮮明に覚えています。地面に手をついても安心して見守れる、そんな当たり前のことができない福島では暮らしていけないと、外に出て改めて感じたのでした。夫は原発事故や放射能に対して、初めからそんなに心配しているような感じではありませんでした。私自身も、事故が起きるまで原発のことなど考えたことはなかったので、放射能に対する考えや保養に関することを強く説得するようなことはできませんでした。ただ、オーストラリアで過ごす間に、離婚してでも福島から避難しようと心に決め、帰国後に話し合いをしました。すると夫は、私たち親子と暮らしたいという思いが強く、特に福島から離れることを拒んではいないようでした。そこから話はスムーズに進み、2012年1月に福岡県へ避難移住することが決まりました。もう一生、福島へは帰らない。固い気持ちで福島を発ちました。

 知り合いもいない状態の生活が始まり、不安ではありましたが、福島での怯えた生活よりとても快適に過ごすことができました。数ヶ月が過ぎ、福岡での生活が落ち着き始めた頃、夫は軽いうつ病になり「福島に置いてきたものが多すぎる。福島へ帰りたい」と言いました。夫は福岡で仕事も見つかり順調だと思っていましたが、実際は言葉の違いだったり慣れない環境でストレスを抱えていたようです。私は1歳過ぎの育児に追われ、夫と話し合うことも少なくなっていたので気づきませんでした。このまま引き留める理由もないと思い、離婚をしました。1歳児との生活は慌ただしいものの、着実に成長していくのを目の当たりにでき、健康で生きていっていることが何よりも幸せでした。実家の両親が、年末年始やゴールデンウィークに福岡へ来てくれ、寂しい想いをすることもない反面、郡山で暮らしていたら孫の成長を日頃から身近に感じさせてあげられたのに、と悔しい想いも溢れていました。それは11年経った今でも変わりありません。子どものために避難したとはいえ、生まれ故郷に帰りたいという想いも、今もなおあります。しかし、未だ福島で暮らすことは決して安心できない現状です。かつて警戒区域だった場所も、次々と解除され“住んでもいい”ことになっています。原発(事故)は収束していないのに。

 もし、2011年当時、福島県や東電、国が正しい情報を迅速に知らせていれば、混乱の中だとしても原発から離れた場所へ行き、多くの人が無用な被曝を受けることはなかったはずです。無用な被曝、この責任はいったい誰が取るのでしょうか。全て自己責任で済まそうとしていることは許せません。当初は怒りで満ち溢れていましたが、11年という年月が経ち、常日頃そのことばかり考えていられません。怒りがあきれに変わり、もう考えるのも疲れました。しかし、声を上げなければ、なかったことにされるのではないかと思い、この裁判の原告になりました。

 国や福島県は避難する必要はないと言いながらも、もし我が子に何かあったらと思うと怖くてなりません。生まれてきた命を守りたい。その一心で故郷を遠く離れ、今もなお生活を続けています。子どもの成長に合わせ故郷へ戻ったり、様々な理由で年々避難者数が減っていますが、今もなお、避難をする必要があると思っている人がたくさんいることを忘れないでほしいです。それは福島に限らず、東北や関東圏からもです。今この瞬間も、低線量の被曝を受け続けている現状を受け止め、将来を生きていく子どもたちが健康に生きていけるよう、大人が正しい判断をし、行動をしていってほしいと思っています」

 傍聴席には、意見陳述するお母さんの背中を見守る息子さんの姿がありました。

証人採用せず

 原告の意見陳述が終わると石栗正子裁判長は原告に向かって、「裁判所としてはお書きになっている立証趣旨は理解しますが、5人の方の証人尋問が必要だとは考えておりません」と言いました。傍聴席からは「え〜」というざわめきが起き、井戸弁護士がすかさず立ち上がって「前回分離してわざわざ今日の期日を設けたのは、何人かはわからないが証人を採用するお考えがあろうと期待していた。前回から今日までの間に、お考えが変わったのか」と言うと、石栗裁判長はそれを否定して、「前回の時点で審理を終えなければ、行政訴訟の判決を年度内に言い渡すことは難しい状況だったので分離した。分離の理由はそういうことであり、あの時点で証拠調べを必要と考えていたのではない」と言いました。
 柳原弁護士は、「証人たちが出したSPEEDIの情報隠蔽や安定ヨウ素剤不投与、(年間被ばく量)20ミリシーベルトでの学校再開などの結論について我々は問題視しているのだが、なぜそのような結論を出すに至ったのか、過程を知るために証人に話を聞きたいのだ」と言いました。古川弁護士も納得がいかず「不採用の理由を説明していただけないでしょうか」と言いましたが、それらに対しても裁判長は前と全く変わらず「立証趣旨は理解していますが、5人の方の認証が必要とは考えていません」との答えで判断が覆ることはありませんでした。
 古川弁護士が「すでに準備書面で提出してはありますが、3月11日以降の事実関係をもう一度整理して、改めてここが大事だから読んでほしいとの書類を出します」と言い、光前幸一弁護士もまた「国連特別報告者の正式な報告は来年6月にならないと結果が出ないが、記者会見で報告をしているので、それを見れば国や県の裁量権逸脱は明らかなので、それを見てほしい」と言いました。裁判長は「準備書面をまとめて提出してください。それらを読ませていただいて審理します」と言い、次回期日は来年の3月27日と指定されました。

閉廷後の記者会見・報告集会

 弁護団、原告のそれぞれの発言内容をまとめます。

*井戸弁護士
 「何を考慮したのか、しなかったのか、結論を出すに至った過程が大事だと考えている。我々は、裁量権の逸脱があったのではないかということを問題にしている。だから証人尋問すると思っていたが、全員不採用だった。石栗裁判長が裁量権逸脱について安易に考えていると思わざるを得ない。だが、強く悲観してはいない。
 石栗裁判長は定年まで2年くらいあるようだが、自分で判決を書きたいと思ったら審理を急ぎたいだろう。私も裁判長時代に原告からの証人申請を却下したことがある。志賀原発2号機の運転差止訴訟で自分が金沢地裁にいる間に判決を書きたかったが、証人採用していたら間に合わないと考えて却下した。すると原告から裁判官忌避の申し立てが出された。それが採用されたら私はその事件から離れなければならなかったが、幸いそれは却下されたので、私は志賀原発2号機の運転差止の判決を書くことができた。そういう例もあるので、全く悲観しきってはいない。石栗裁判長がどれくらい子どもの被ばくについて考えているかは、2月1日の行政裁判の判決で判る」

*光前弁護士
 「地裁では裁量権逸脱については全く取り上げなかったから、高裁ではこの点をしっかり主張して5人の証人を申請した。裁判長は『証言は聞かなくても判るから採用しない』と言ったが、これは準備書面で書かれていることを読めば判るから聞かなくてもいいという意味と、もう一つは裁判官は既に一定の心証を持っていて、だから聞かなくてもよいという意味。裁量権の逸脱がないということがわかるのか、あるいは逸脱があるということがわかるのか、どちらともとれる。それでは困るのだが、我々の力が足りなかったなと思う」

*柳原弁護士
 「行政庁の役人の判断プロセスについて具体的に聞いて肉付けしようと思っていたのに、肉付けはいらないと言われた。控訴人らの主張が認められるかどうかは、控訴人らに立証の責任があると被告は言ってきた。我々は最終準備書面に向けて、裁判所が良い判決を書けるような素材を提供していくようにしたい」

*古川弁護士
 「証人尋問が必要ないという裁判長に、なぜ必要ないのかと聞いたら必要ないから必要ないとの答えで、非常に残念だ。それで法廷では(2011年)3月当時の資料を改めて提出すると言ったのだが、あの当時の資料を見ると、本当にとても酷い。ヨウ素剤についても県はあるということをずっと言っているし、あちこちにヨウ素剤の手配をしている。SPEEDIにしても『これどうしようか、すごい数値だよね。一般に出せないよね』などと言っている資料とか、改めて見ているととても酷い。証人に直接質せないのが非常に残念だが、書面に書いてしっかりぶつけようと思う」

*田辺弁護士
 「20ミリシーベルト通知が発出された過程の確認をしたかった。国と県がそれぞれ発出したが、それに従って学校を始めた教育長に子どもたちを被ばくさせた責任があるが、裁判長はその証言を聞く必要がないと言った。非常に残念です」

*意見陳述した原告のH・Kさん
 「私自身、3・11当時のガイガーカウンターの数値など記録していたわけではないけれど、(証人採用しないのは)呆れ果てます。でも、諦めたくはないですね」

 国家賠償請求訴訟は、原告の証人申請は採用されずに終わりましたが、次回の3月27日までに弁護団がさらに準備書面を用意してくれます。裁判官がそれらの書面をしっかりと読み込んでくれるよう望みます。
 一方、分離された行政訴訟の「子ども人権裁判」は、来年2月1日に判決が下されます。一審の地裁では遠藤東路裁判長が、いずれも棄却・却下という許し難い判決を出しました。遠藤氏は、その判決を出した後で東京高裁判事に異動しました。もしかしたらこの異動は“ご褒美”だったのかしら? などと、私は勘繰っています。
 2023年2月1日、仙台高裁の石栗正子裁判長が、子ども人権裁判に正義ある判断を下すことを強く望みます。

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渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。