拙作『精神0』(2020年、観察映画第9弾)が来年1月4日からフランス全土で劇場公開されることになった。それに先立ってパリでレトロスペクティブ上映が行われることになったので、妻でプロデューサーの柏木規与子とともに渡仏した。同時にクロアチアでもレトロスペクティブ上映が行われたため、首都ザグレブにも寄ってきた。
コロナ禍が始まってから、仕事で海外渡航したのは初めてである。
だから色々と不安もあったのだが、フランスでもクロアチアでも、入国時にワクチン証明書や陰性証明書を求められることは一切なかった(日本はワクチンを3回接種していないと陰性証明が必要。ワクチンを接種しても感染を防げないことが明らかになった今、非科学的かつ不公平な政策である)。それどころか、関西国際空港では全員がマスクをしていたのに、エールフランスの機内に搭乗した突端、客室乗務員含め、ほとんどの人がマスクを外した。僕らもマスクを外した。
パリやザグレブの街では、ホテルでも、映画館でも、お店でも、レストランでも、シェフやウエイターや店員含め、マスク姿の人はほとんど見かけなかった。僕自身、最初は念のためマスクを持ち歩いていたが、まもなくそういう習慣や意識も自分のなかから消えていった。
パリでは『精神0』の先行上映で、収容人数300人の会場がほぼ満席になった。入り口で入場者の手にアルコール消毒液をかけたり、住所や電話番号を書いてもらったりということもなかった。リヨンでの先行上映では、チケットが早々に売り切れてしまったので、2スクリーンで上映された。映画館主に聞いたところ、観客動員数はすでにコロナ禍以前の水準に戻っているという。
フランスはコロナ禍が始まった当初、市民の外出を1日1時間に限定するという厳しいロックダウン政策を実行した。ワクチン接種が始まってからは、長い間、接種証明書がないと飲食店や映画館にも出入りできなかった。そういう厳格な措置を採った国とは思えないくらい、すべてがコロナ禍以前の状態に戻っているように見えた。フランスでは、コロナ禍はすでに終わったと言ってよいだろう。
しかしそれは、感染者がいなくなったということを意味するわけではない。結局のところ、コロナ禍の終わりは感染者がいなくなった時点ではなく、感染者がいても特別扱いしなくなった時点なのである。そして日本と中国以外の世界各国の政府や人々は、1年近く前に「コロナを特別視しない」という決断をしたのだ。
こう書くと決まって「コロナを軽視するな」「高齢者や基礎疾患のある人を切り捨てるのか」などと批判されるが、決してそんなつもりはない。
僕の母は去年の夏、デルタに感染して重症化した。僕は医者から「今日か明日には亡くなるかもしれない」と告げられ、母を失うことを本気で覚悟した。母は奇跡的に生還したものの、少なくともデルタまでは高齢者等にとって恐ろしい病気だと実感した。
しかしオミクロン以降、コロナは弱毒化し、かつてほど怖い病気ではなくなったのも事実だ。逆に感染力は強まったので、いわゆる「感染対策」で感染を避けられる病気でもなくなった。空気感染することが明らかになり、マスクの効果も限定的であることがわかってきた。そして感染対策の副作用ばかりが目立つようになった。
たとえば、母が楽しみに通っていた体操教室やコーラスの会は閉じてしまい、長い間、友達にも会いづらくなった。高齢者介護施設に入所している人や、病院に入院している人は、今でも家族と自由に面会できない。
認知症やフレイルが気になる年頃の人たちにとって、コロナよりも感染対策の方が重大なリスクではないのか。また、老後、子供や孫や友人たちと会えずに何年も過ごすことは、人生にとって致命的な損失ではないのか。
率直に申し上げて、オミクロン以降、高齢者にとっても、コロナよりも感染対策の弊害の方が深刻になったと僕は思う。少なくとも、僕は自分の母や父には、コロナ感染を過度に恐れず、やりたいことをなんでもやって、充実した日々を過ごしてほしいと願っている。
いずれにせよ、僕らは今回、フランスとクロアチアで「コロナ後」の世界を体験した。それは人々と集まり親交を深めることが、人間にとってどれだけ大切な営みだったのか、思い出させてくれる貴重な旅であった。
パリでの『精神0』先行上映にて、いつもの自撮り