大変遅くなりましたが、昨年10月29日のトークの会の報告です。いつものように、神楽坂のセッションハウス・ギャラリーで開催しました。ゲストスピーカーは福島県南相馬市から避難して、滋賀県大津市で暮らす青田惠子さんです。青田さんの布絵作品展も同時開催し、布絵展は9月30日〜11月3日までとしました。ご参加の皆さんには、もちろん展示された布絵をご覧いただきました。
◎自作詩「それならば」
最初に、私が惠子さんのプロフィールを紹介した。
(青田惠子さんプロフィール)
1950年、福島県小高町(現南相馬市)生まれ。2011年、東京電力福島第一発電所事故により滋賀県大津市に避難。故郷喪失・反原発をテーマに、古着や裁ちクズを使い布絵制作を始める。自作の詩を添えた布絵集『小さな窓辺から』『森の匂いは消えていった』を発表。滋賀、京都、兵庫、静岡、長野などで布絵展開催。高浜原発3、4号機運転差し止め訴訟、並びに「生業を返せ、地域を返せ!」訴訟原告。
その後、惠子さんはまず、自作の詩を朗読した。
「それならば」
原発いらないと言えば
それならば
明治のくらしでよいのかと…
再稼働やめてと言えば
それならば
対案はあるのかと…
警戒区域が解除されても帰らない人を
それならば
税金のムダ使いだと…
なぜこうも原発避難民は
追い詰められるのでしょう
明治のくらしに戻りましょうか
体育館の床でザコ寝をしましょうか
この人たちに使う税金は
そんなにムダですか
それならば
まやかしの線引きで
避難区域を解除しないでください
帰らないのではなく
帰れないのです
明るく治めると書く明治の世
明治はそんなに生きにくいものですか
啄木だって 賢治だって
生きてきた
樹下の二人 光太郎も智恵子も
生きてきた
明治はそんなに生きにくかったですか
それならば
きっぱりと申しましょう
「明治のくらしで結構です」……と
そこから、惠子さんは被災後の日々を語った。
青田さんの布絵展に展示された作品
平和だったかもしれないこれからが、根こそぎ壊されてしまった
「私はずっと南相馬市で暮らしてそこで人生を終えたかもしれなかったが、2011年のあの大震災と原発事故で、それまでの生活を根こそぎ壊されてしまった。自宅があった原発から23キロの地域は、避難区域ではあったが必ずしも全員避難指示ではなく、避難する人もいればしない人もいる避難準備区域だった。しかし私たちはそれ以前にスリーマイル島もチェルノブイリも経験していたから、経験上、また私の知識からも避難は20キロ圏内で済むとは考えられなかった。
1週間後に宮城県に避難したが、なぜすぐに避難せず1週間留まったかというと、自宅は南相馬市原町区で20キロ圏外に位置しており、そこは避難準備区域でありながら20キロ圏内から避難してくる避難者を受け入れる地域でもあった。避難者を世話する人が必要だったのだ。
娘は南相馬で保育士をしており、保育所の子どもたちは(大震災翌日の)12日から通わなくなったが、保育士たちは避難者の世話係に駆り出された。1日1000個のおにぎりを作る目標を立て、ただひたすらに避難者たちに食事提供する仕事についていた。そんなわけで避難者にもさせてもらえない状況だった。
自分たちの食料も、家にあるもので食べ繋いでいった。お米はなくなり、他の食料もなくなっていったときに、買い置きしてあった凍み餅が役立った。凍み餅は福島の伝統食だが、何度も何度も飢饉を経験してきた福島の民だからこそ先祖から伝わってきたのだと思う。常温で何年でも保つ。今お見せした凍み餅も、あれから11年経ったが、今でも食べられる。そういう先人の知恵に、改めて気付かされもした。
避難者たちを放置して自分たちだけで逃げるのはどうなのか? と、しばらくためらったが、しかし原発が爆発する中で、このままでは自分たちがどうなるかわからないと思い、宮城県に避難した。そこで1ヶ月ほど過ごした後で、知人の紹介で滋賀県の大津市に避難した。それからもう11年が経ってしまった。まさか、こんなに長く避難しようとは思わなかったが、年間20ミリシーベルトという(避難指示)基準になってしまっては、私たちも戻る見込みは無くなってしまった」
大津市へ避難したときのこと
「宮城県の借り上げアパートでは、先の生活が見通せないまま過ごす毎日だった。まだ南相馬の自宅にいた時から、被ばくを案じて大津市の友人から連絡をもらっていた。彼女は二十数年前に仙台市で開かれた全国母親大会の終了後、帰路の常磐線に共に乗り合わせていた人だ。それまでは見ず知らずの人だったが、同じ会に参加していたことから言葉を交わして住所も交換し合い、以来たびたび手紙を交換したり互いの家を訪問しあったりしてきた。
原発事故後、彼女は宮城県に避難していた私を叱るように、原発から60キロか70キロしか離れていないような放射線量の高い場所に、娘のような若い女性を置いて良いわけはない、すぐに滋賀県に避難していらっしゃいと、私たち夫婦や娘を案じて何度も電話をくれた。しかし私たちはためらっていた。東北人特有の感覚かもしれないが、迷惑をかけるかもしれないとの思いが強く、何度も電話をもらいながらその度に断っていた。そのうちにまた連絡があり、私たちが住む家をもう見つけてあり、いつでも入れるからすぐにいらっしゃいと言われた。それを断るようなことはできなかった。思い切って、滋賀県行きを決意したのだった。
滋賀県までは700キロ以上離れていた。初めて辿る道だったが途中の富山で一泊し、美浜、高浜、大飯と原発銀座のすぐそばを走る高速道路を通って滋賀県に入った。琵琶湖が見えてきた時にはなんとも言えない気持ちになった。それは『なんて遠いところに来てしまったのか』という気持ちと、『これでやっと逃げおおせた』という気持ちと、また同時に『1年くらいしたら帰れるだろうか』と故郷を捨てきれない思いがないまぜになっていた。いま考えると無知だったと思う。
その後も、原発事故は収束するどころか汚染水や除染の問題などで、さっぱり対応が進まない。これではもう帰れないと気付かされた。そう思うようになるまでは、いつかはきっと帰れると、淡い希望を抱いていた。しかし聞こえてくるのは、ただただ避難生活の苦しさや、自死、疾病などの悲劇だった。戻っても良いものか、避難先に留まるべきか、ずいぶん揺れ動いたが、やはり『20ミリシーベルト』の壁が、帰ることを断念させた。
今も迷いはあるが、しかし私には帰る理由はない。従って、もう帰ることは諦めた」
琵琶湖のほとりをオロオロ歩く
惠子さんは、また一編の自作の詩を朗読した。
「雨にもマケル」
雨にもマケル
風にもマケル
雪にも夏の暑さにもマケル
放射能入りの「からだ」
ムカつき イラだち
いつも静かに怒っている
わらび ぜんまい
きのこに木の実
あらゆる物を汚しちまうぞ
そこのけ そこのけ
放射能が通る
よく見ききし わかり そして
見えない放射能
フクシマの十六万の避難民
小さなそまつな仮設の小屋にいて
東に認知症の老人あれば
行って年齢(とし)のせいだ仕方がないと言い
南に高血圧 不眠の人あれば
行って自分もそうだと言い
西に家族と別居の母子あれば
子供と一緒に早く逃げろと言い
北に分断 けんかがあれば
誰のせいでこんなにしたと言い
賠償なければ
涙を流し
琵琶湖のほとりを
オロオロ歩き
皆にデクノボーと呼ばれ
ほめられもせず
帰ることもできず
そういう「わたし」
「そんなことで11年が経ってしまったが、大津市に住むようになってからのこと、ちょうど宮沢賢治がオロオロと歩いたように私も琵琶湖のほとりをオロオロ歩き、自分の服や娘のブラウスを切り刻み、それをハガキに貼り付けて友人や知人たちに現状の報告をした。それがこの布絵の始まりと言えるかもしれない。
声を大にして原発は要らないと言いたいのだが、地元福島ではいろいろ難しい面があり、なかなかそれを言えない歯痒さがある。しかし故郷を失った者の望郷の念、あるいは故郷を失ってからの生活がどうであるかを絵にして、小さいお子さんにも、また原発事故がどういうことかを知らなかった人にも、何かそこに知るためのとっかかりを見つけてもらえれば良いと思っている。
今日は、話を聞いてくださり、ありがとうございました」
語り足りなかったことを(1)
客席の皆さんに惠子さんの布絵を見ていただきながら、話をお聞きした。私と惠子さん、それぞれの発言内容を以下にまとめる。
●一枝
惠子さんの布絵に添えられた言葉は、例えば「福島でつらいこと 子供達の命は国から捨てられ死の灰を浴びて生きなさいとガラスバッヂをもらいました」などと辛辣だが、この布絵に描かれているのは夏の夕暮れの浜辺の子ども達の姿で、それはもう原発事故後には失われた懐かしい風景だ。絵と言葉のこのギャップが、多くを語っている。惠子さんは懐かしい風景を思い出しながら布を選び、切り貼りするのだろうが、しかしきっと、胸の中には言葉が渦巻いているのではないだろうか。そんなふうに、引き裂かれた気持ちを抱えての避難生活だったのではないだろうかと思う。
惠子さんは今回の原発事故で原告として裁判で闘っているが、これよりもっと前の1970年代、夫の勝彦さんたち、当時高校の先生だった人たちが中心になって、福島第二原発建設反対の裁判闘争をしていた。惠子さんも、その裁判で原告の一人だった。
青田さんの布絵展に展示された作品
●惠子さん
1971年、福島第二原発ができることが突然発表された。第一原発は既に稼働していた。第一原発の立地は、戦時中には元飛行場だったが敗戦直前に空襲を受け廃墟と化していた場所。そのあたり一体の広大な土地を、戦後すぐに事業家の堤康次郎が格安に払い下げを受けた。堤は製塩事業を始めたが製塩法の発達や専売公社の強化などで製塩業から手を引いた。農業には向かない土地だった。第一原発はそういう場所に作られたのだが、住民が気づいたときにはもう建築許可も降りていて着工にかかるような時期だった。
第二原発建設計画を知った地元住民は、高校の教師たちが先頭に立って勉強会を重ね、440名の原告団を組織して「第二原発設置許可取り消し処分訴訟」を起こした。夫も原告だった。私も原告になったが、その時はいろいろがよく分からず、名前だけの原告だった。浪江町のうどん屋が会議の場所でよくそこに集まったが、そのうどん屋も津波と原発事故で、解体されて今は無い。
その裁判闘争中にスリーマイル島の事故が起き、こんな事故が起きたのだから、原発は事故を起こす危険があるということで裁判には勝てるかもしれないと希望を持った。しかし見事に一審は敗訴した。
控訴して仙台高裁に行ったが、そのときにまた、チェルノブイリ事故が起きた。この世界的事故を見たら、裁判官も知らん顔はできまいと期待を持った。その仙台高裁での裁判を傍聴したが、裁判官は実に人を小馬鹿にしたような判決を下した。「これは国策であり、国策に逆らうことはできない。安全に使っていくしかない」という内容で、あっさりと負けてしまった。
18年間の裁判闘争で最高裁まで持っていったが、最高裁も敗訴。負け続けてきた。
私たちの原発に対する思いなどどこにも採り入れられずに、そして、あの3・11の大事故が起こった。
長い年月をかけて反対闘争をしてきたが、まさか私たちが生きている間に私たちが危険性を訴えた内容とそっくりな形で、事故が起きるとは思ってもみなかった。私たちは東電に防潮堤、防波堤の補強を再三要求してきた。にもかかわらず東電は、何ら聞く耳を持たなかった。東電は体質として、自分たちがやりたいことは猛烈に力を注ぐが、住民の意見は全然聞かない。
しかし私たち自身も、安全神話を信じてはいなかったが、自分たちの代には事故は起きないだろうというような気持ちもあった。それがあの事故で冷水を浴びた。思い切り頬を叩かれたような衝撃を受けた。自分は一体何をしてたんだと思った。あんなに近くにあんな危険なものがあって、今まで何十年もそこに暮らしてきて、何をやってたんだろうという、自分を責める思いに苛まされ、私たちは避難している。遠くに逃げれば放射能の影響は少なくなる、でもだからと言って逃げているだけで良いのかという考えに徐々になっていった。
ただ危険なものを避けているだけの避難では、痩せ細った人生になってしまうと思う。そんな痩せ細った自分でいるために避難しているとは思いたくなかった。そこで、「福井原発訴訟を支える会」(福井県の原発7基の運転差し止め訴訟を支援する会)に入り、また大津地裁に提訴した高浜原発3、4号機運転差し止め訴訟の原告になった。裁判の一原告として脱原発をやっていかないことには、避難の価値がないのではないかと考えるようになったからだ。
そして高浜原発3、4号機運転差し止め訴訟では、毎回原告席に座った。2016年3月9日、大津地裁の山本善彦裁判長は運転差し止めを命じる仮処分の判決を出した。再稼働中の原発を止めろと命じる画期的な判決だった。私たちは判決を聞いて抱き合って喜び合った。
が、同時にとても不安だった。このような判決を書いた裁判長の今後が案じられたからだ。左遷されるのではないか、待遇的に大きな不利益を被るのではないかと案じたからだ。それでハガキ作戦と称して、みんなで裁判所宛にそのようなことのないようにとハガキを出した。
大津地裁の判決に先立って2014年5月21日、福井地裁では樋口英明裁判長が停止中の大飯原発の再稼働差し止めの判決を書いていた。これも非常に嬉しかったが、しかし関電は控訴し、2018年7月4日に、名古屋高裁金沢支部の内藤正之裁判長が一審の福井地裁判決を取り消し原告側の請求を棄却する判決を下した。
高浜原発の判決も大阪高裁でひっくり返されてしまい、福井原発訴訟を支える会に入ってもう12年になるが、いまだに1基も差し止めることができていない。裁判に勝って原発が止まったら、それで良いじゃないかと最初は思った。けれどもその後、私はどうなっていく? 避難民が何の支援もされずに放置されたら、私たちはどうなっていく? 私自身の問題を振り返ることになった。そこで、福島で行われている、国と東京電力に福島第一原発事故による損害賠償と原状回復を求める「生業を返せ・地域を返せ!」裁判の原告団に入った。これもまだ判決は出ていない。
これからのことを見守っていこうと思うが、そんなことを悠長に考えている間に、福島では子どもたちの甲状腺がんが非常に増えていて、現在診断を受けた子どもは300名を超えているのに国は原発事故との関係を認めていない。こんなに酷い話があるだろうか。あの子どもたちは一生、がんと向き合っていかなければならない。こんなことも許してはいけない。
みんな経済的にも大変な思いを抱えながら、法廷に通い裁判を闘っている。黒い雨裁判は70年以上かかったが、たとえこの原発裁判が70年後にどう出るか分からなくても、私たちの後の代の人たちがどう受け止めるか分からなくても、やらないで「終わった」としたくはなかった。
だから私は、やっぱり裁判に訴えていこうと思った。
●一枝
私は時々、友人たちを誘って被災地ツアーをしているが、つい先日も福島第一原発に近い津島・浪江・飯舘村と被災地を回ってから、秋元発電所、猪苗代発電所と福島の水力発電所を見てきた。そんなふうに、福島は東京に電気を送るためにエネルギーを作り続けてきた。原発以前から福島からの送電で東京は栄えてきたことを、頭の中に知識として知るのではなく、足元から体感して知っておきたくて、被災地ツアーをしている。そして思うのは、こういう暮らしで良いのか? ということだ。そう言うと、惠子さんが最初に読んだ詩にあったように、明治の暮らしに戻れというような言葉が返ってくる。明治の暮らしに戻るというのではなく、今のようなエネルギー消費の暮らしで良いのかということを、考えていきたい。
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