第47回:トークの会 「福島の声を聞こう!」vol.42報告(後編)「『いのち』を大事にしないような国になって欲しくない」(渡辺一枝)

 前回に続き、昨年10月29日に開催したトークの会 「福島の声を聞こう!」vol.42の報告です。

語り足りなかったことを(2)

●一枝
 惠子さんは裁判を闘っている一方で、南相馬の自宅をどうするかという問題もあるのではないだろうか。それについてはどんなふうに考えているのか?

●惠子さん
 3・11の後の7年間ほど、一度も故郷に戻らなかった。戻るのが怖かった。7年目に初めて戻ったとき「あ、家は残ってた、屋敷の木も残ってた。ああ、何だ。帰ってくれば住めるんだ」と、一瞬思った。それくらい、そのまま残っていた。けれどもその後、震度6強の地震が3、4回あって、一番最近の帰宅は先月だが、その時はもう観念した。風呂場のタイルが砕かれたようにグシャグシャ。ガラスの戸棚が、ことごとく倒れていた。
 それを見た時、これをどうしたら良いのだろう? と絶望に陥った。
 3・11の時は、夢中で逃げた。あの時は確かに屋根瓦も落ちたし、天井からの電気が揺れに耐えられずに床に落下し、タンス類もことごとく倒れたが、それでも何かその頃は希望はあった。これを戻せば住めるんだ、くらいに呑気に考えていた。しかし今回、帰った時の町並みを見た時に、こんなにも荒んでしまったのかと、その状況にさらに絶望を覚えた。
 しかし、そういう町で莫大な予算をかけた新たな事業が始まろうとしている。国が進めている復興事業だ。巨大な防潮堤、道路、国道を跨ぐ陸橋…できあがったのは、こんな町だったかと思うような、まるで見慣れない風景だったが、東京オリンピックがそうだったように、福島を利用しているという感じがとても強い。復興オリンピック、アンダーコントロールだなどと嘘をつきながらオリンピックを招致したが、震災・原発事故を利用して一部の人や企業が儲かる仕組みだった。今始まろうとしている新たな事業も、恐ろしいことを画策しているように感じる。
 先月帰った時は再開されたJR常磐線を使ったが、常磐線も、またそれより早く開通した国道6号線も、安全になったから再開したのではない。電車や車が、事故を起こした福島第一原発の立地する大熊町に入った途端に線量計の数値が跳ね上がる。それでも常磐線を全線開通したのは、そういうお墨付きを与えることで、それが復興の証という錯覚を覚えさせたかったからだろう。決して安全なわけではないのに。
 先ほどお見せしたガラスバッヂは、先日南相馬市にある母の家を片付けに行った時に見つけたのだが、避難せずに残っていた母のところに南相馬市から支給されたものだ。ガラスバッヂは積算線量計で、私は初めて目にした。友人の話だと、実際よりも低く数値が表示されるらしい。それを指摘すると「そんなことは公表しないでください」と市の職員に言われたと友人は言っていた。
 原発事故で故郷を奪われ、生業を失い、家族や友人や地域の繋がりは分断され、それらはもうどれも元には戻らない。被災者は身ぐるみを一つひとつ剥がされて丸裸になってしまうのだ。原発によって、原子力ムラにいる人たちはお金が儲かったかもしれないが、一般市民にとっては何一つ良いことはなかった。確かに東京近郊は繁栄したが、その繁栄もわずか40年のことだ。その一方で事故後の廃棄物が凄い。あの廃棄物の処理に今後何万年、あるいは何十万年かかるのか、それをどこに置くのか。今もまだ家の軒先に、フレコンバッグが積まれているところがある。中間貯蔵施設に30年保管というが、フレコンバッグに穴が空いて草木が成長しているような状態だ。あと20年、どうやって持ちこたえて放射性物質の拡散を防げるのか、疑問だらけだ。
 どこかに運ぶということで、「核のゴミ」の最終処分場建設候補地に手を挙げた町がある。北海道の寿都町だが、しかし、そんなことをして良いものなのか。住民や環境に、どう責任をとるのか。人にも環境にも有害な影響を与えるというものを、あえて、なぜ引き受けるのか。莫大なお金が入るからではないのか。そういう事情をあの事故で知った私は、こうしてはいられないと、残された自分の人生の時間の中で、やるべきことは何かを考えた。

●一枝
 惠子さんは「20ミリシーベルトの壁」が帰ることを断念させたと言った。一般人の被ばく許容量について、例えばこの東京や他府県では年間1ミリシーベルトという基準が、福島県に限っては20ミリシーベルトにされている。
 国際放射線防護委員会(ICRP)は、原発事故発生等の緊急時には放射線量が20〜100ミリシーベルトの範囲で住民の避難指示を決定するように勧告し、事故の復旧時には、1〜20ミリシーベルトにまで低減努力するよう勧告している。そして最終的には自然放射線量の1ミリシーベルト以下になるようにとも勧告している。
 日本政府は今回の原発事故で20ミリシーベルトを避難指示の目安にした。しかし、避難指示を解除するにあたっても「20ミリシーベルト以下」が基準とされた。福島県民に限っては、被ばく許容量が年間20ミリシーベルトとされたのだ。しかも、19.999のように限りなく20に近くても「20未満」となるし、また計測地点が20ミリシーベルト以下であっても地域内にはなお高線量の場所もある。学校もこの数値で再開されたので、大人よりも感受性の高い子どもらが、被ばくに晒されている。これは明らかに福島県民に対する差別だと思う。
惠子さんも裁判原告になっているが、他にも多くの裁判が闘われている。それはこうした理不尽さに対しての訴えだ。高浜原発3、4号機裁判の今の状況は?

●惠子さん
 大阪高裁で運転再開を容認する判決が出てしまった後、私たち原告団は最高裁への抗告は断念した。もし最高裁で敗訴となれば、福井県内での他の原発裁判に影響が及ぶと考えたからだ。
 私が参加している福井原発訴訟を支える会では今、県内にある関西電力の原発7基の差し止めを求める裁判を進めていて、これを「本訴」と呼んでいる。この本訴では途中で裁判官が交代しているので、後任裁判官が審理を受け継いでいるのか、それとも新たな出直しなのか判らないが、一向に進んでいない。原告からは出せる証拠は全て出してあり、反論も全て終えている。しかし、関電はそれらに対してさっぱり応えてこない。これは、前例がある。
 2014年、福井地裁の樋口英明裁判長は仮処分で大飯原発再稼働を認めないという判決を出した。私たちは感動に胸を振るわせ抱き合って喜んだ。だがその後、関電は控訴した。そして名古屋高裁金沢支部は、地裁判決を簡単にひっくり返してしまった。
 そういう前例があるから、関電は全くやる気も見せないし反論もしてこない。もし地裁で負けても高裁で勝てると、たかを括っているのだろう。裁判長は自分の任期中に判決を出したくないのか、裁判はなかなか進まない。
 東京電力福島第二原発建設裁判の時は、原告といっても名ばかりだったが、この裁判では権力と闘うことを肝に銘じている。権力が、こんなに国民をいじめている、避難民を苦しめている、そんな権力の側には絶対につかないぞ、権力の側には立たないぞと、強く思っている。この裁判を次に繋いでくれる人、私たちの代から次の代へ繋いでいきたい。それは何を意味するかというと「いのち」ということだ。「いのち」を大事にしないような国になって欲しくない。
 だから先ほどの20ミリシーベルトの件も、福島県は命の差別を受けている。本来なら1ミリシーベルトを、20ミリシーベルトだなんて、20年分の放射能を1年で浴びて良いなんて、それも福島県民だけが。そんなふうに命の差別をするような国になって欲しくない。

他の裁判の原告たちの声

 会場には、福島県から各地に避難した人たちが、国や東電に賠償を求めて起こした裁判の、千葉訴訟と神奈川訴訟のそれぞれの原告が来られていた。お二人にも発言していただいた。

●千葉訴訟:小丸美和子さん

 実家は浪江町小丸(帰還困難区域)で、父が千葉訴訟の原告団長。3・11の地震後、どこからも何も連絡がなかったので自宅に留まっていた。15日にパトカーが来て「なんでまだ居るのか? 早く逃げろ」と言われたので、同じ浪江町内の津島に行った。しかしそこにいた人たちは二本松市に避難することになったため、父は私たちと一緒に千葉に避難した。そして、千葉に避難した他の人たちと相談して提訴した。千葉地裁は国の責任を認めず敗訴となったので、東京高裁に控訴した。高裁では現地検証をするよう訴えたところ、裁判官は原告らの自宅がある飯舘村、浪江、小丸を現地検証し、私の実家にも来た。現地検証の日はあいにくの雨だったが、家はハクビシン、猪などに荒らされて臭いも酷く、そんな荒れ果てた我が家の現実も見てもらった。
 そして東京高裁は国の責任を認め、東京電力は無過失だが責任ありと判決した。それを受けて東電は控訴し、裁判は最高裁にいった。最高裁は千葉訴訟の他に生業訴訟、愛媛訴訟、群馬訴訟の4訴訟を一緒に審理した。この4訴訟の内、群馬訴訟は地裁が日本で初めて国の責任を認めた判決を出したのだが、高裁で地裁判決は覆されていた。しかし他の3訴訟は、いずれも高裁で国の責任を認めていた。
 4つの裁判を一緒に審理した最高裁は、6月17日に、国の責任を認めずという判決を出した。
 最高裁の裁判官は4名で、うち一人は国の責任を認める意見を出したのだが、3対1の多数決で原告敗訴の結果になった。ある裁判官が書いた反対意見こそ、現実を見据えた納得のいく意見だった。
 国策で進めてきた原発が事故を起こしたのだが、それに対して国はどういう責任を取るのか。責任無しの判決を覆すために他の裁判では、良い結果が出るように応援していきたい。

●神奈川訴訟:村田宏(ひろむ)さん

 神奈川訴訟では、横浜地裁は国の責任を認めたが、賠償額などが十分なものではなかったため原告側から控訴し、現在は東京高裁で審理中だ。
 今回の千葉、生業、愛媛、群馬の4つの裁判を一緒に審理した最高裁判決は、本当に酷いものだった。原告が主張するように防潮堤を造っていたとしても、実際の津波高はそれを超えるものだったから、事故は防げなかったという非常に乱暴な話で、結論ありきの判決だった。あれだけの被害を出していながら、何の責任も取らないなどあり得ない話だ。
 司法は、国側べったりの裁判官が多い。そして今は再稼働とか新増設とかの話も出てきて、原発に関して非常に野放し状態だ。運転開始から40年過ぎた原発を再稼働したら、事故を起こす可能性が極めて高い。もし次に原発事故が起きたら、日本は滅亡するという危機感を持っている。そうした中で大飯原発差止、志賀原発差止など、原発推進の流れを食い止めるような幾つかの判決が地裁で出たのに、高裁がそれを覆している。そして福島原発事故が起きて被害が出ているのに、被害者の救済に対して国は無責任で良いという大変恐ろしい判決が出たといえる。

●一枝
 裁判はなかなかニュースにならないが、どうか関心を持って目を凝らして情報をチェックしてほしい。
 最後に今日、最初に読んでいただいた詩「それならば」を、相馬弁で読んでいただきましょう。

「んだごんたら」〜相馬弁で語る「それならば」〜

原発いんにぇとゆえば
んだごんたら
明治のくらしでいいんだがぁ…
再稼働やんねでってゆえば
んだごんたら
かわりはあんのがぁ…
警戒区域が解かっちも帰んね人を
んだごんたら
税金のムダ使いだと…
何回どなくゆわっちる「んだごんたら」
なあしてこんけ原発難民は
追っつめられんだべかぁ
明治のくらしさ戻っぺかぁ
この人らさ使う税金は
ほんなにムダだべかぁ
んだごんたら
ごまかしの線引きで
避難区域を解かねでくいろ
帰んねでねえく
帰らんにぇんだ
明かりく治めると書く明治の世
明治はほんなに生きずれぇもんだベかぁ
啄木だり 賢治だり
生きてきた
樹下の二人 光太郎も智恵子も
明治はほんなに生きずれえかったベかぁ

生きてきた
んだごんたら
きっぱりとゆうがんな
「明治のくらしでかまわねど」……って

質疑応答

 最初の質問者は展示された布絵の「らいぞうシリーズ」のコーナーについて質問した。

Q:布絵の犬の「らいぞう」は、保護犬だったのか?

A:はい、保護犬だった。保護した時から我が家の一員として受け入れてきた。私は市川雷蔵さんのファンだったので、らいぞうと名付けて密かに「らいさま」などと呼んだりしていた(笑)。ペットに限らず家畜を飼っていた人たちも、原発事故の後、家畜を置いて自分たちだけで逃げるという時には、皆同じ思いだったと思う。そうせざるを得なかったとしても、大きな葛藤があった。私も、らいぞうを置いてきて、それが今も心の中で大きく占めている。何でこんなことに…(涙)。

Q:布絵の人物たちは生き生きとした動きがあって、顔に目鼻がなくても表情が豊かに感じられる。どうしてこのような作品が生まれたのか?

A:被災前には布絵は作っていなかった。
避難先では多くの人が「何でここにいるのだろう?」と思い、心をやられてしまう。誰にぶつけて良いかわからない思いを抱いている状態に陥って、3000人以上が避難中に亡くなっている。それを「関連死」というが、一つの事件で3000人以上が関連死するなど大事件だ。しかし、日本のメディアは大きなこととして取り上げない。
関連死の認定には非常に厳しい国の基準があり、仮設住宅で孤独死したからといっても関連死とは認めない。その日に何をしていたか、どんな薬を飲んでいたか、お金があったかそれとも困っていたかなどと日常に関わる基準いっさいをクリアしないと、国は関連死とは認めない。3000人というのはほんの一部で、実際にはその何倍かの人が関連死といえる亡くなり方をしているのではないかと思う。
私も心が折れそうになった時、さっき読んだ詩のように琵琶湖のほとりをただオロオロと歩きながら、何かしないではいられないという思いだった。自分では気づかなかったが、夫には「あの頃、君は過食だったよ」と言われた。その頃の私は闇雲に自分の古着や娘の服など捨てるものを、気がついたらハサミでジャキジャキと切り刻んでいた。それをレターパックなどその辺にある少し厚手の紙の裏に貼って絵にしていた。何を作るでもない、何にどう気持ちをぶつけて良いかわからずに、布を貼って絵にしていた。それを見た人が家にある裁ちクズを送ってくれるようになり、色彩の豊かな布絵になっていった。最初は絵だけだったが、それを見た人が、「どうせ描くなら、あなたの避難の気持ちを書いたらどうなの」とアドバイスをくれた。そのアドバイスに押されて、自分の気持ちをここに込めようと思い、今のような形になった。
事故前までは、詩を書いた事も全くなかった。何か言葉を書こうと思い頭の中で言葉を考えて。それが詩の言葉になっていったのだと思う。

Q:今後の活動を、どう繋げていきたいと考えているのか?

A:展示して見ていただきたいという思いで布絵を作ってきたのではないが、お声がけいただいて、布絵展をしてきている。布絵をご覧いただいた事を通して、原発を自分事として考えるようになって欲しいと思っている。避難している人はみんな、こんなことが2度とあってはならないという思いだろう。私の布絵を使ってくださって良いので、反原発・脱原発の声を広げ大きくしていただけたら嬉しいです。

※10月末に開催したトークの会の報告がこんなに遅くなりましたが、お読みくださってありがとうございました。

次回の「トークの会」を下記のように開催します。

「トークの会 福島の声を聞こう!vol.43」
日時:2023年2月5日(日)午後2時~
場所:神楽坂セッションハウス・ギャラリー
参加費:1500円

詳細は下記チラシをごらんください。
ゲストスピーカーは南相馬市の高橋美加子さんです。
皆様のご参加をお待ちしています。

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渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。