2月なかば、私にとって一番大切な命が失われた。
18年間ともに暮らしたぱぴちゃんだ。
自宅の近くで拾った生後1ヶ月ほどの子猫に「ぱぴ」と名付けて一緒に暮らし始めたのが2004年。私は29歳だった。
手のひらに乗るほど小さな子猫はよく食べ、よく眠りよく遊び、ぐんぐん成長していった。前日登れなかった段差に翌日には登れるようになり、前日食べられなかった量を翌日には食べられるようになり、そのうち唸り声を上げながら壁を走るほどやんちゃな子猫になっていった。
毎日毎日、全身で「生きる喜び」を体現する子猫の姿は、私にとっては衝撃だった。なぜなら、当時の私にとって「生きること」は苦行に近かったからだ。未来は暗く、他人も世界も私を傷つけるばかりだと思っていた。それがどうしたことだろう。私にとって恐怖の対象でしかない世界を、子猫は愛し、心から楽しんでいるようなのだ。
気がつけば、私はぱぴちゃんを通して世界を見るようになっていた。そうすると、怖かった世界は少しずつ変わっていった。子猫は日の光に目を細め、雨つぶが落ちる様子に真摯に見入り、そしてキラキラした宝石みたいなブルーの目で私を見つめた。
私の胸の上で無防備に寝息を立てる子猫の姿に、何か大いなるものに許された気がした。「この子の信頼に足る人間にならなくては」。そんなふうに何度も思った。そうして子猫が下痢をすれば大騒ぎし、ご飯を食べないとなれば病院に連れていった。
18年間、いろんなことがあった。
いくつもの出会いと別れがあり、そのたびに、ぱぴちゃんも出会いと別れを経験した。引っ越しだって何度もした。
命の危機も幾度かあった。ワクチンでアレルギーを起こし、顔がパンパンに腫れ上がって夜間の救急病院に駆け込んだこともあるし、拾ってすぐの頃、間違ってぱぴちゃんの顎を踏んでしまい、緊急手術となったこともある。
1歳でもう一匹の猫・つくし(天性のアイドル性の持ち主)を迎えてからは、「主役」の座を完全に奪われた形になり、つくしがリンパ腫で亡くなるまでの14年間、主役はついに取り戻せなかった。だけど誰にでも無差別に一目惚れしてゴロゴロと喉を鳴らすつくしより、ちょっと影のあるぱぴちゃんの方が好きと言ってくれる人も少なくなく、根強い固定ファンを獲得していた。
19年、つくしが亡くなってからは再び主役の座に返り咲き、誰もが驚くほどの変貌を遂げた。それまでつくしの影にいた日々を取り戻すようにセンターに躍り出て、驚くほどのサービス(自ら擦り寄り喉を鳴らすなど)をしてくれるようになったのだ。それはつくしの行動とまったく同じで、「つくしが乗り移ったのでは」と言う人もいたが、なんのことはない、つくしが来る前のぱぴちゃんの普段の姿だった。自分だって注目されて甘えたかったのに、つくしがいたからできなかったのだ。14年間も。
つくづく、私は「ぱぴちゃん独裁政権」の晩年4年間があってよかったと思う。この4年間、「一人娘」としてわがまま放題に生きたからだ。
しかし、黄金時代は長くは続かなかった。20年6月、ぱぴちゃんは低カリウム血症を発症。以来、亡くなるまでこの病気に悩まされることになる。
ただ、最初の方はコントロールできていた。突然首がガクッと下がって動けなくなるのだが、3日ほど連続で点滴に通えば症状は改善したのだ。そうして毎日カリウムの錠剤を飲んで発症を予防した。
しかし、発症の間隔はどんどん狭まり、病院に通う頻度はどんどん高くなっていった。そのうちに年のせいか腎臓も心臓も悪くなり、貧血にもなった。
カリウムの他に心臓の薬を飲み、増血剤の注射も必要になり、食欲がなくなってくると吐き気止めの注射を打つ。それでも昨年は嘔吐と下痢が1ヶ月ほど続き、みるみるうちに痩せていった。
昨年後半からは点滴のため毎日のように通院するようになり、獣医さんが自宅での点滴を勧めてくれた。点滴の仕方を習い、今年に入ってからは自宅で私が点滴するようになった。
心臓が悪くなってからは、「寿命が先か、病気が先か」という状態になっていた。いつ心臓が止まってもおかしくない領域に突入したのだ。18歳。人間で言えば90歳近く。子猫だったぱぴちゃんは、いつの間にか私の年を追い越し、そんな高齢になっていた。
この数ヶ月、毎日毎日、食べられそうな猫用スープを探し、スープだけでなく器もあたためてなんとか舐めさせた。1月には一瞬持ち直し、1日で猫缶3つを完食する日もあった。このまま持ち直して、少しずつ体重を増やしてくれれば。そう祈るように思ったものの、病は進行していった。食べられなくなり、トイレに行くこともできなくなり、寝たまま、あるいはあちこちでオシッコするようになった。認知症にもなっていたのかもしれない。いろんなものの上でオシッコするので家中トイレシートだらけになり、しかしそれでも全部は受け止めきれず、1日3回くらい洗濯機を回すようになった。
そうして亡くなる3日前、突然、激しい痙攣をした。もう、このまま死ぬんだと思うような痙攣だった。しかし、失禁しつつもぱぴちゃんは戻ってきてくれた。病院に行くものの、やはりもう治療法はないような状態で、翌日も、翌々日も激しく痙攣した。
2月なかばの朝、早朝にふと目が覚め、ぱぴちゃんを見に行くと様子がおかしかった。前の晩から1ミリも動いていなかったのだ。息はしていたものの、意識はない様子。明らかにこれまでとは違った。
もう最終段階ということはわかったので、抱きかかえてベッドに連れていった。眠るぱぴちゃんを撫でていると、呼吸はどんどん荒くなっていった。幾度か思い切りのけぞりながら、苦しそうな唸り声を上げた。喘ぐように開いた口の中は普段と違って白っぽく、すぐそこまで死が迫っていることがわかった。そうして何度か息が止まり、吹き返し、を繰り返して、ぱぴちゃんは動かなくなった。私の腕の中で、ぱぴちゃんは息を引き取った。
つくしの時は、朝起きたら、冷たく固くなっていた。それを思うと、最期の瞬間まで一緒にいられたことはよかったと思う。
泣き腫らした目で花を買いに行き、ぱぴちゃんの亡骸を綺麗な花で埋め尽くした。
ぱぴちゃんを失って、初めて気づいたことがある。
それはこの数ヶ月間、ロクに寝ていなかったということだ。
昨年から、ぱぴちゃんは激しい夜鳴きをするようになっていた。苦しいのか不安なのか、凄まじい声を上げるのだ。そのたびに様子を見に行くのだが、夜鳴きがなければないで「死んでいるのでは」と不安になって、やはり様子を見に行った。
少し調子がいい時はさらに寝られなかった。ぱぴちゃんは、私が寝ているとベッドに登ってきてくれたのだが、なぜかそのたびに私の顔にお尻を向けてオシッコをかけるのが習慣になってしまったのだ。
「こんなに介護してるのに、何か恨みでも?」と思ったけれど、この数ヶ月は寝る時はトイレシートを握りしめ、いつお尻を向けられてもいいようにしていた。シートでオシッコを受け止めようという魂胆だ。しかし、それはだいたい失敗し、そのたびにパジャマやシーツや枕はびしょ濡れになり、取り替えが必要になった。そんなことをしていると一日の洗濯物はまた増え、睡眠時間は短くなった。おむつをすることも考えたけれど、膀胱炎になると獣医さんに聞いたのでつけなかった。とにかく、ちょっとした気配や物音で起きないとぱぴちゃんの命に関わるという思いから、ずっと緊張状態が続いていた。
それでも、ちっとも辛くなんてなかった。家中オシッコ臭くなっていたし、私もだいぶオシッコ臭かったと思うけど、ぱぴちゃんが生きていてくれるなら、そんなことは苦でもなんでもなかったと、今、やけに片付いてしまった部屋を見渡してそう思う。
ぱぴちゃんと暮らした18年間、本当にいろんなことがあった。
「家でぱぴが待っている」ということだけが生きる理由になるほどに、ボロボロに傷つけられた日もあった。「私が死んだら誰がぱぴにご飯をあげるのか」ということだけが、自殺しない唯一の理由だった時期もあった。世界中で味方はぱぴだけ、というほどに、周り全員が敵に思えた瞬間もあった。
ぱぴちゃんを抱きしめて泣いた夜も数えきれないくらいある。
私にとってかけがえのない娘であり、親友であり、同志であり、そして時に「母猫」のような存在だった。風邪で寝込んだりしていると額を舐めてくれて、ぬいぐるみを咥えて持ってきて枕元に並べてくれた。子猫から成猫になる頃には、私によく「狩りの仕方」を教えてくれようとしていた。
そんな幸せな記憶だけ残して、ぱぴちゃんは逝ってしまった。18歳と7ヶ月。
悲しいけれど、できうることはすべてやったという達成感も同時にある。一人暮らしで、仕事に穴を開けずに猫の介護をして看取れた自分を少しだけ褒めたい気持ちだ。つくしはリンパ腫とわかってからわずか1ヶ月で逝ってしまったけれど、ぱぴちゃんは私に「心の準備」をする期間を与えてくれた。
だけど、やっぱり悲しくてたまらない。
ぱぴちゃん、早く生まれ変わって、私のもとに戻ってきてほしい。そしてまた、「幸せな心配」をたくさんさせてほしいのだ。
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16歳頃のぱぴちゃん。いつもこうして枕に頭を乗せて布団をかけてベッドの真ん中で寝ているので、私は片隅で小さくなって寝ていました