第51回:『ユーテ』と喜田さんのこと「民衆の歴史は、民衆自身で掘り起こし、語り伝えてゆきたい」(渡辺一枝)

3月は

 3月を迎える前から、少し心がざわついていた。今年は2月21日がチベット正月で、毎年その少し前に仏壇への供物がラサから届くのだが、「今年は送れない」とラサの友人からの連絡があった。荷物を送ろうと郵便局へ持って行ったら、日本へは物品を送ることはできないと言われたという。
 不安が心をよぎった。ラサは、チベットは、今どんな状況になっているだろう。1959年に民衆が一斉に蜂起した3月10日、燎原の火のように抗議行動が広がった15年前の3月。この3月を、バサンやダツェはどこでどうやって過ごすのだろう? テンジンはどうしているだろう? 友人たちを思い、ラサを思い、チベットを思い、心落ち着かずに過ごしていた。
 陽気のせいなのか、それとも心に掛かる出来事が続く月だからなのか、3月はいつも気持ちが不安定になる。
 10日はチベット民衆蜂起の日であるだけではない。東京大空襲の日でもあり、あの無差別大量殺戮は、戦争犯罪ではないのかと糾したくなる。だがそれを言えば同時に、日本軍の重慶爆撃が、米軍作戦の“手本”になったのでは? とも思う。原爆投下の後に戦争は終わったが、核被災者の苦しみは消えずに続く。そしてあろうことか、核の平和利用などという言葉で原発を易々と受け入れてしまい、その挙げ句に、12年前の3月を迎えてしまった……。
 そんなふうに心がザワザワと定まらなかった時、明日から3月という日に香川県の高松からサークル誌『ユーテ』が届いたのだった。届いたばかりの冊子を開いて文字を追い、繋がる縁に想いを寄せ、『ユーテ』発行人の喜田清さんの著書『名ぐはし島の詩(うた) 長島愛生園に在日朝鮮人・韓国人を訪ねて』を再読していくうちに、私は自分の心を取り戻したように思う。

サークル誌『ユーテ』

 私のところに定期的に送られてくる機関誌・会報がいくつかあるが、その内の一つが『ユーテ』だ。「なんでも言ってみよう」の精神のもと、年齢も立場も超えたさまざまな人たちが集う「ユーテ・サークル」の会報。手作りのB5版、最新号は2023年2月号で、通巻450号になる。大抵いつもは20ページなのだが、今号は16ページだった。集まった原稿が少なかったのだろう。
 B4の紙に印刷して半分に折り、真ん中をホチキスで止めたこの会報を、私が初めて手にしたのは二十数年前だ。その頃の記事は全て手書きで、それをコピーして綴じたものだった。その後はパソコンで打ち込んだ記事のプリント誌になった。だが私が初めて手にした時より以前の、初期の頃はガリ版刷りだったという。裏ページには「ユーテ 創刊1978年4月2日」と記され、発行人の喜田清さんの名前と住所が併記されている。
 2月の終わりの日に届いた最新号、2ページ目は9歳の少女が描いた「今年はうさぎだ!」の文字とうさぎの絵を真ん中にして、その周囲に干支の動物たちを描いたカラーページ。3ページ目は喜田さんのエッセイ「戦時中の事」。4ページが佐藤忠男(俳号:稚鬼)さんの俳句5句。続くページには忠男さんのお連れ合いの公恵さんの「畑の便り」で、連載299回目の今号のタイトルは「風の通り道」。さりげない日々を綴った文章から、丁寧な暮らしぶりが目に浮かぶ。佐藤夫妻の記事は毎号連載だが、他にも常連さんが何人か居る。今号に「原発事故から12年目の現地」を寄稿された藤田英美さんも、夫君の敏則さん共に常連だ。他にもユーテ会員の短歌や、近況報告記事が並ぶ。
 巻頭の喜田さんの「戦時中の事」には、「大的場」「記念道路」「タイショウ ホウタイビ」「男と女」「英霊室」「満蒙開拓少年団」「竹槍」のエピソードが書かれているが、その内の二つを転載したい。

「英霊室」

私は高松市四番丁小学校であったけれども、敗戦の直前、その小学校に『急造』の部屋が出来た。相撲場の横である。
中味は「英霊室」。
四番丁小学校を卒業して、不運に戦死した人の「写真」をずらりと並べた部屋である。小学校卒業して、いくつか上の学校へ行ったにしても若死にである。
こんな人たちの写真ばかり並べた部屋で、私達は『万葉集』の中の歌を、練習した。
「海ゆかば みずくかばね
山行かば 草むすかばね」
私は、万葉集とは、こんな歌ばかりと思っていた。もちろん、この部屋も、7月4日の空襲で、跡形も無くなった。

「竹槍」

戦争、誰の目にも日本敗北が判るようになれば、日本は最新の兵器を考案した。竹槍である。どこを突いても、なお相手は「狂暴」になる。だから、突くのは心臓。

 昭和7(1932)年生まれの喜田さんが、少年時代に体験したことが書かれていた。

ユーテ花畑の日

 「ユーテ・サークル」がどんな会なのかは、今号の山下輝美さんの文章「ユーテ花畑の日」を読んでいただけばわかるだろう。花畑の日というのは偶数月の第3土曜日に会員が集まって「ユーテ」の発送作業をし、終了後に茶菓をいただきながら近況報告など語り合う日なのだ。山下さんは「私も仕事と家事に翻弄される毎日ですが、ユーテに来るとホッとします。皆さんの二ヶ月の近況報告のお話が興味深く、しかも話す人、聞く人の温かい雰囲気とゆったりとした時間に心が癒されます」と書いている。
 ユーテ・サークルは、喜田さんを中心に、「なんでも、ゆうてんまい(なんでも言ってみよう)」と立ち上げられたサークルで、『ユーテ』発行を手段にして、年齢も立場もさまざまな人たちが心置きなく集うグループなのだ。だから会報発行は、手段でもあるが目的でもあると言えるだろうか。私も20年ほど前に「花畑の日」に2回参加したことがあるが、山下さんが書いている通り居心地の良い時を過ごした覚えがある。

ユーテ・サークルの誕生

 喜田さんは生来の吃音と難聴で、学校では先生の声が聞こえずボーッとしていて叩かれたこともあったという。昭和20年、小学校卒業後の12歳の時に高松空襲に遭い家族は無事だったが自宅は全焼し、それまで自宅があった町中から農村へ移った。転校先の中学に通学しながら、農家でアルバイトをして働き、中学卒業後は農家に住み込みで働くようになった。2年ほどそこで働いた後で高松に戻り、いくつかの仕事を転々としたが、難聴のためにどこに行っても「とろい」とバカにされたという。
 21歳から23歳まで結核療養所で過ごすが略治(※治療は必要ないが経過観察が必要となること)、退院して、26歳から鉄工所の工員として働きはじめた。
 昭和46年6月13日、高松の三越デパートで開かれた「救癩(らい)写真展(ハンセン病患者を被写体とした写真展)」を観て、何かできることがあればと思った。鉄工所勤務の難聴者で強い吃音でもあるし、と一度は諦めを感じたが、その翌年から「高松空襲を記録する会」の一員として活動を始めた。
 そのきっかけは、図書館で見た戦争の記録の中にあった高松空襲の説明が、「高松にも空襲がありましたが、戦後、復興しました」のたった1行だったことだ。12歳の夏に目の前で死んでいった人たちのことを語り継がなければと思ったのだ。「民衆の歴史は、民衆自らが語り継がねばならない」と。
 そして「高松空襲を記録する会」の一員として空襲の資料集めに、高松港沖に浮かぶ大島にあるハンセン病患者の療養所、大島青松園を何度か訪ねた。その時に取材した在日朝鮮人・韓国人の話から、大島に比較的に近い長島にはやはりハンセン病療養所の長島愛生園と邑久光明園があり、2カ所を合わせて相当数の在日朝鮮人・韓国人がいることを知った。
 高松空襲の記録作りでは昭和48年に第1集を出版し、第2集出版のために4年間、ほぼ連日のように仲間たちとともに資料集めや体験者を探してのインタビューに取り組んだ。誰もが皆、自身の職場の仕事を終えてからの活動だった。そんな時に喜田さんは、職場の高速旋盤に巻き込まれて両腕骨折、右手人差し指切断という事故に遭ってしまった。それでも動く指を使って入院3日目から、ベッドの上で原稿の清書は続けた。それだけではなく、難聴と吃音のために辿々しい発音を克服したいと10年来続けていた朗読練習を、入院中にも続けた。大部屋での入院だから、同室の患者の許しをもらってのことだった。
 この大部屋での原稿清書と朗読は、同室の患者ばかりでなく他の部屋の患者も巻き込んで、互いに本を持ち寄り朗読したり言葉の意味を調べたりの学習会となり、これが喜田さんの退院後も続いて「なんでも、ゆうてんまい」の「ユーテ・サークル」となった。

韓国ナザレ園へ

 その入院中、喜田さんは自宅近所の韓国人女性の投身自殺を新聞記事で知った。女性と面識はなかったが、たった11行の新聞記事には「動機は病苦」とあった。だが近所の人の話では、民族的な差別に苦しんでもいたという。空襲記録で亡くなった朝鮮人・韓国人のことを追いながら、近所で生きていた韓国人に対して何もできなかったという思いが、退院してからも喜田さんの胸にはあった。
 そんな後悔を抱いていた時に一人の韓国人少女が、日本語学習のためにユーテに入会してきた。少女は、入院中に新聞記事で知った自殺した女性の忘れ形見だった。喜田さんはユーテの例会とは別に週1回、鉄工所の仕事が終わってから、この少女に日本語を教えることになった。その後少女の弟や妹も加わっての日本語学習となった。少女ときょうだいたちは熱心に日本語を学びながら打ち解けてくると、「私たち、韓国のナザレ園から来ました」と身の上を語り始めた。
 夫に先立たれた韓国人女性が子どもたちを連れて日本人と再婚し、夫の望みで韓国・慶州にある日本人保護施設の慶州ナザレ園(※)に入園し、そこから高松へ来たのだった。日本人の夫にとっては帰郷だったが、韓国人母子にとっては他郷であった。
 少女ときょうだいたちが語るには、慶州ナザレ園には、住む場所のない年老いた日本人が韓国人の誠意で不安なく生活しているという。それを聞いた喜田さんは、職場を1週間休み慶州ナザレ園へ飛んだ。そして在園者からいろいろ話を聞かせてもらった。韓国に住む老いた日本人が韓国の土になることを覚悟して生きていることを聞いたからには、逆の立場の人たち、日本に来て祖国へ帰ることの出来なくなった韓国・朝鮮の人たち、中でもハンセン病療養所に在園している人たちに会いに行こうという思いが溢れた。

※慶州ナザレ園…太平洋戦争中に日本の植民地だった朝鮮半島出身の男性と結婚して朝鮮へ渡り、戦後も残留した日本人女性を支援するため、1972年に開設された福祉施設

『名ぐはし島の詩(うた)』

 そして喜田さんは、改めて大島青松園、長島愛生園、邑久光明園に在園する韓国人・朝鮮人を訪問し、長島愛生園への訪問記を1冊の本にまとめた。それが『名ぐはし島の詩 長島愛生園に在日朝鮮人・韓国人を訪ねて』だ。高松の三越デパートで開催されていた「救癩写真展」を見た、38歳のあの日から17年が経っていた。
 この本は1987年に(株)海声社発行、関東出版発売で第1刷が刊行され、同じく1994年に第3刷が出て以来、版が絶えている。絶版が惜しく、私は出版社勤務の知人に再販ができないか相談したことがあったが、叶わなかった。今もそれを惜しく思っている。この本は雑念のない言葉で、在園者の心情が語られた名著だと、私は思う。
 それぞれタイトルのついた16章からなるが、そのうちの「一朗道(いちろうどう)」の章は、こう書き出されている。
 「長島愛生園は、道の美しい世界である。
 船越の港で渡し船を降りると、すぐさま、ゆるやかな坂道が園内へと通じている。道の両側には、たくさんの樹木が植えられている。
 その樹木の一つひとつの根元には、ゆかしい名前をていねいな楷書で書いた立て札が添えられている。
 くちなし、車輪梅、いろはもみじ、五毛樹、珊瑚樹、もみの木、夾竹桃、槿(むくげ)、檜葉……。そうした立て札の文字を読むのはたやすく、ゆっくりと歩を進めながらも、立て札があるなあと思うまでもない一瞥で通り過ぎてしまう。」
 この章は慶尚南道出身の久保田一朗さんが工事責任者となって在園者とともに開いた道のことから、まだプロミンその他のハンセン病特効薬ができる以前の韓国人・朝鮮人在園者の生活を書いている。
 最後の章が「名ぐはし島の詩(うた)」。柿本人麻呂が瀬戸内海の小島を作品にうたう時に、どこよりも美しい島という意味で「名ぐはし」島、と表現したことを挙げ、しかし喜田さんは、瀬戸内海の無数の島々の中でも、大島と長島こそ「名ぐはし島」と呼ぶべき島だという。
 「この二つの小島のハンセン病療養所が、長い年月に及んで、一般社会とは隔絶された世界であったというだけでなく、朝鮮人・韓国人の在園者たちが、ハンセン病と民族差別との、二つの重みにも負けないで、立派に生きているからである」と言い、今は養殖牡蠣の筏がところせましと浮かぶ静穏な風景の中にある長島だがと、こう書き繋ぐ。

 「けれども、今でこそ波静かな長島に住む朝鮮人・韓国人であっても、祖国が日本によって植民地として奪われていた時代の波浪の外に生きていた人は、誰ひとりとしていない。
 何よりも、彼らは、自分の国の言葉と文字を奪われていた。
 そしてその奪われ方には、三つある。
 母国語しか語れないのに、日本語社会で生きなければならなかったこと。
 貧困によって、母国でも、他郷日本でも、全く学校へ行けなかったこと。
 日本の法によって、母国の言葉と文字の使用を禁じられたこと。
 日本が武力によって、他国を奪っていた時代にあって、祖国を奪われ、祖国の言葉と文字を根こそぎ奪われようとも、なお、忍耐と努力で常に人間としての知性を失わず、道を求め続けて生き抜いた在日朝鮮人・韓国人一世の人生は、私たちにとって、自分の国の言葉と文字で自分の想いが表現できることがどんなに尊いことか、それを教えてくれる貴重な歴史の財産である。
 民衆の歴史は、民衆自身で掘り起こし、語り伝えてゆきたい」

この人のように在りたい

 二十数年前に繋いでくれる人があって、私は喜田さんの著書『名ぐはし島の詩』と冊子『ユーテ』を知った。それから喜田さんと手紙のやり取りが始まり、ユーテ花畑の日に高松を訪ねた。また喜田さんが一度東京に来られた折には我が家に訪ねても下さり、交流を重ねてきた。そして私は、「この人のように在りたい」と思うのだった。
 90歳になった喜田さんは、今は車椅子での移動になったけれど、60代終わり頃から70代の初めまでの数年間、毎年韓国に通っていた。韓国の元ハンセン病患者の療養所で、現地の大学生らに混じって、石垣建設のボランティア活動に通っていたのだ。韓国人の若者たちと共に汗して数日間を過ごした帰国後に下さる手紙には、その様子が活き活きと綴られていた。シャベルで重たい石を掘り上げ運ぼうとすると、韓国人の若者が「ハラボジ(おじいさん)は、こっちを運んでください」と言って小さな石と交換してくれたことや、作業が終わった夕食時の語らいの時間のことが書かれ、そして習い覚えた韓国語を書いて、私にも教えてくれるのだった。そこで食べた韓国料理のおいしさなども、書いてあった。
 韓国でのボランティア活動は70代前半でやめたけれど、それより以前から続けている「高松空襲」の語り部活動は、90歳の今もやっている。各地の学校から授業の一環にと請われて話しに行ったり、いろいろな団体や機関、組合などから頼まれて話しに行くこともある。室内でのこともあるが、時には市内の現場を回りながら説明することもある。ある時は、「高松築港駅から琴平駅まで貸切電車に乗って、沿線風景とあわせて高松空襲被災者の体験を語ってください。琴平駅に着いたら、乗客は降りますが、帰路では琴平駅から乗車した人たちに空襲の話をしてください」と、頼まれたこともあった。講演の依頼は県内からばかりでなく県外からのこともある。
 高松空襲の話をする時には、保存してある防空頭巾や空(から)の焼夷弾など、戦時中に使用された品を持参しての喜田さんの話は、戦争を知らない小学生たちの胸にもしっかりと届く。話は全て、喜田さん自身が見聞したことばかり。母親が防火用水の貯水槽に子どもを浸けたところに別の大人が来て子どもの頭から防空頭巾を奪って行ったことなども話す。話を聞いた子どもたちからは、感想を書いた作文が送られてくる。それを読むことがまた、喜田さんの励みにもなっている。
 『ユーテ』には毎号のように、喜田さんが見た映画の話も掲載されている。映画鑑賞が喜田さんの趣味なのだが、見るのは邦画よりも断然洋画の方が多い。字幕があるから、より受け入れやすいのだ。「映画に出てくるパリ」とか「映画に出てくる朝鮮人」とか、その折々でテーマ別に関連する映画について書かれていて、喜田さんはまた、映画の見巧者でもあると私は思う。
 怪我をして入院していた時のことを話してくれた時、「同室で歩けない人に頼まれて、郵便局までハガキを出しによく行きました。手は怪我をしていても足は怪我がないから歩けるのですから。砂一粒でも、役に立てたらいいなと思ってました」とおっしゃっていた。

『1000日の巡礼行 高松空襲遺族を訪ね歩いて』

 2017年の年明けに、喜田さんから1冊の本が届いた。『1000日の巡礼行 高松空襲遺族を訪ね歩いて』のタイトルで、ソフトカバーの本に挟んで小さなメモ用紙で喜田さんからのメッセージが添えられていた。福島へ通う私への労いの言葉に続けて、こう書かれていた。
 「私、ときどき小・中・高校で話していますが、昔、私の話聞いてくれた子どもが大人になり、私の本、自費出版してくれました。1行でも、みてください。喜田」
 それは喜田さんが「高松空襲を記録する会」で活動していた頃に、被災遺族から聞き取り、新聞の折込チラシの裏の白紙にメモ書きしたものをもとに、新たに書き起こした原稿からなる本だった。私はこれまで喜田さんからの手紙で、「どんな場所でどんな人たちに空襲のこんな話をしました」というような内容で、喜田さんの語り部活動を通じて高松空襲を心に留めてきたが、この本によって、当時の高松市と市民の様子をさらにリアルに感じ取ることができた。前著『名ぐはし島の詩』と共に、この『1000日の巡礼行』は、まさに、「民衆の歴史は、民衆自身で掘り起こし、語り伝えてゆきたい」という喜田さんの思いが溢れた、優れた記録だと思う。
 本に挟まれたメモ書き「昔、私の話を聞いてくれた子どもが大人になり」自費出版してくれたということにまた、私は胸が熱くなった。この本の発行人である宮崎遥さんは、後書きでこう書いている。
 「私が喜田さんに出会ったのは平成10年、中学1年生の特別授業として行われた喜田さんの講演会でした。
 喜田さんは、にこやかな表情とおっとりした口調がいかにも優しい人柄を思わせる、ごく普通のお爺さんです。けれども、活動内容の奥深さや、相手が子供でも謙虚な姿勢に、中学生だった私はとても新鮮な印象を受けました。
 喜田さんのことがもっと知りたい。
 そう思った私は、喜田さんのボランティアのお手伝いに行ってみました。今でも驚きと共に思い出せるのは、私を迎え入れてくださった時の喜田さんの言葉です。
 『私とお友達になってくれて、ありがとうございます』
 祖父と孫くらい歳が離れている私に、喜田さんは律儀にも握手をしながらそうおっしゃいました。私は自分を『子供』としてではなく『一人の人間』として接してくれたはじめての大人の登場に、感激せずにはいられませんでした。」
 遥さんのまっすぐな言葉が、喜田さんの人柄をそのまま伝えてくれる。

 3月も半ばを過ぎた。
 例年よりも早く桜が開花した。妙に暖かな日が続いたと思ったら、今日は朝から冷たい雨。草木には滋養の雨だろう。昨日も今朝も休んでしまったけれど、明日は雨が止んでいたら、また早朝の歩きに出かけよう。私もまた、砂一粒でも役に立てる者でありたいと思いながら。

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渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。