第27回:必勝しゃもじでひっぱたいて公助を起こしたい、そんな春(小林美穂子)

 コロナ禍も3年が過ぎ、今年も桜が満開になった。
 我が家の猫たちは、いつの間にかアンカ入り猫ハウスに入らなくなり、人間も湯たんぽを押し入れに仕舞った。玉ねぎのように重ねていた洋服も薄くなっていく。
 季節は日々移ろい、一日として同じ日はない…のだが、我々のこの忙しさは一体いつになったら緩和されるのだろうか。新型コロナウイルスが2類から5類になろうと、街中に人が溢れ活気づこうと、支援現場の野戦病院ぶりは日に日に激しさを増している。
 政治はコロナを過ぎたこととして扱い、「はい、元通り!」みたいなポーズを決めているが、生活困窮者支援の現場がこれほど忙しいということは、ポーズだけ決めても元には戻らねえんだよ! ということで、私達は燃え尽きることすら許されていないような毎日を、必死に己を保ちながら生きている。桜が咲いた途端に雨が降ろうが風が吹こうが、正直知ったこっちゃないのだ。過度な疲労は情緒を殺す。
 だけど、春の魔法が町をピンク色に染めるこの季節を心待ちにしていた人達がたくさんいるはずだ。夢のような景色に憂いが束の間軽くなる人もいただろう。
 毎年、開花とともに雨や風でハラハラするものの、ここまで満開と同時に連日、それも週末狙い撃ちで雨という年も珍しい。それもこれも、岸田首相がしゃもじなんか土産に持ってウクライナを訪問したりしてるからだよと八つ当たりの一つもしたくなるが、八つ当たりではないのだ。生活困窮者支援の現場が忙殺されているのは、政治の無策に起因しているのだから。
 そんなわけで(どんなわけだ?)、やさぐれ続けて三年目の春。本日はつくろい東京ファンドのスタッフの中でも比較的ヒマな私の一週間をお届けしたい。

3月6日(月) つくろいはしっちゃかめっちゃか

 11時~13時半、つくろい東京ファンドの定例ミーティング後、昼ご飯(コンビニ弁当ですがなにか?)を掻きこんで、14時に練馬区保健所で「カフェ潮の路」の営業許可証更新手続き。事務所に戻るやいなや、自転車を駆って利用者の自宅訪問、その足で病院へ。不当な暴力を受けて左足を粉砕骨折し入院中の利用者Oさんに携帯電話の充電器を届ける。その後、弁護士さんとやり取り。
 毎週訪ねるAさんのアパートに行き、シンクの茶碗や鍋を洗いながら体調を伺い、冷蔵庫の中で古くなったものを確認し合いながら捨てる。食べたらお腹壊しちゃうからね。服薬を見届け、携帯電話、水光熱費の支払いをチェックし、大量のゴミを回収。
 高齢になって体が不自由になって、物忘れが増えても、一人暮らしを維持したい人はいる。その人達の希望をどこまで尊重し、支えることができるだろうと悩みながらも、長い年月を共に歩いてきたAさんとのやり取りは私にとっても癒しになっている。Aさんの一人暮らしは、つくろい東京ファンドだけでなく、訪問看護、デイサービス、かかりつけのクリニックに調剤薬局の薬剤師でそれぞれの曜日を担当し、ほぼ毎日服薬管理や体調管理ができるような体制を組んでいる。
 事務所に戻り、17時、編集者と打ち合わせ。18時、仮放免中の方と面談。その間も電話やメールは舞い込んでくる。事務所では、利用者さんや難民の方が入り乱れ、スタッフも出たり入ったりで、まるで三倍速の映像を見ているかのよう。

3月7日(火) 扶養照会されるなら制度は絶対に使えない

 朝、講演資料を作成し、11時、初めて行く市の市役所へ向かう。高齢女性の生活保護申請同行。この自治体の福祉事務所はかねてから評判が悪く、新聞沙汰にもなったところだ。「きっと狭山市並みだよ」と周囲からも聞かされていていたので、私も準備には余念がない。
 相談者の女性は、長い人生をずっとずっと自分の足で生きて来た尊厳のある人だ。しかし、年齢で仕事は減り、コロナが追い打ちをかけた。
 誰よりも頑張ってきた人だから、制度に頼ることに強い抵抗感がある。
 「働くのは好きなのよ。体動かしている方がいいから。でも、年齢のせいなんでしょうね、私に声が掛からなくなっちゃった」
 怠け者代表の私など、60歳になったら仕事などせず、野菜を育てながら韓流ドラマに浸って過ごしたいと思っているのに、彼女は60歳を遥かに超えるそのお年でもアルバイト先を探し、背筋を伸ばしてサッサと歩く。そのキリッとした美しさに惚れ惚れしてしまう。
 彼女はなによりも扶養照会を恐れていた。扶養照会をされる可能性が1%でもあるのなら、生活保護は受けられないという。同僚の大澤さんや村田さんが足掛け2年ほど、ずっと相談に乗り、私は扶養照会止め係として全力を尽くすことを約束し、ようやくこの日を迎えることができた。
 福祉事務所には「録音禁止」の張り紙がそこら中に貼ってあり、雰囲気も決して良いとは言えず、受付で「生活保護の申請に来ました」とはっきり言ったのに「予約はされてますか?」とビックリ発言(デフォルトなんでしょね)が飛び出して、「ええ? 予約ってなんですかぁぁ? この福祉事務所では申請に予約が必要なんですかぁああ?」と私がわざとらしい声を上げたりしたのだが、幸い、担当してくれた相談係も担当ケースワーカーも丁寧だった。
 4時間半かかった申請が済み、駅行きのバスを待ちながら、留守電を聞きつつ電話対応。
 女性の生活保護申請はのちに決定され、扶養照会に関しても最大の配慮が為された。ありがたい。福祉事務所を訪れるすべての人たちに同じ対応をしてくれたらいいと心から願う。

3月8日(水) 仕入れと仕込みの日

 毎週木曜日開催のカフェ潮の路の仕入れ&仕込み。いつもは私が料理を作っているのだが、明日はイベント的にスリランカ人シェフによる本場スリランカカレーの日である。
 中野ブロードウェイの地下商店「プチパリ」で手羽元8キロと野菜を持ち切れないほど買い込んで、自転車(「赤い彗星」号)の前後に積んで、中野の町を疾走する。
 カレーの刺激や辛い物が苦手な人もいるに違いないので、イワシを20匹購入して梅煮、蓮根のきんぴら、京がんもの出汁煮、菜の花塩昆布、蒸し鶏、豆腐ステーキ、豆のサラダなどを、仕込みボラのSさんと二人で作る。私が作る惣菜は、いつもちょっと年寄りくさい。お客様に旬の素材を味わってもらいたいのと、一人暮らしだと不足しがちな野菜を補ってもらいたいため、買い物は大量になってしまい「駐車券はご利用?」とレジの人に聞かれるが、自転車(「赤い彗星」号←しつこい)だ。上海雑技団のようなバランス感覚で自転車を操る54歳。

3月9日(木) スパイスの魔法にかかる

 待ちに待ったスリランカデー。
 シェフのスリランカ人は二名とも難民の方。申請しても、申請しても認定は下りず、そうこうしているうちに入管施設に収容され、コロナ後、施設の密を避けるために「仮放免」となって施設から解放された。しかし、仮放免者は働くことを禁じられ、県境をまたぐにも許可がいる。健康保険に加入できないため、病気になっても治療が受けられず、もちろん社会保障へのアクセスなど、ない。
 そんな辛い思いを強いられても帰れない事情がある彼らが「死ぬか、帰るか」を迫られ続ける。彼らのような人達が同じ社会に生きていることを多くの人に知って欲しい。
 「カフェ営業日の前日にカレーを作って欲しい」と、私が二人のシェフに頼むと、彼らは鼻で笑って首をゆらゆらと揺らした。そして言ったのである。
 「前日に作るなんて、そんなもんスリランカ料理じゃない」
 なん…やて? マジか。じゃ、じゃあ、当日何時?
 朝に弱い私がビクビクしながら聞くと「7時かな。僕たち始発で来るから。もうちょっと早くても大丈夫」
 いやいやいや…私が大丈夫じゃないんだけど。早起き、大変なんだけど。思わずそう言ってしまったら、「始発で来る僕たちの方が大変」と言われて勝負は決まった。そりゃそうだ。
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 早朝の新鮮な空気を吸うのは実に久しぶりだった。
 体の大きな男性二人が衛生帽を被り、カフェ潮の路の小さなキッチンに立つ。そして、カルダモンやカレーリーフ、コブミカンの葉やパンダンリーフらしき葉を手際よく刻んだり、炊飯器に入れて米に香りづけしたりしている。兄弟のような後ろ姿を見ながら、私はカフェに貼る広告を書く。
 油で熱せられた途端に建物に充満するスパイスの香り、そのあまりの良い香りに、思わず窓という窓を開け放った。香りに勝る宣伝はない。なるほど、香りには鮮度がある。一晩置いたら台無しになってしまうのだろう。
 当日の宣伝しかしなかったにもかかわらず、ダルとチキンの2種のカレーランチは3時間の間に47食すべてが売り切れ、便乗するようにイワシの梅煮弁当も10食が完売した。
 カレーの美味しさはお客様をトリコにし、「またやってくれ」の声が止まない。中には「小林さんには悪いけど、ずっとスリランカカレーデーにして欲しいくらい」とおっしゃったご婦人もいたくらいの人気だった。私もそうしたい。もはや、スパイスのトリコ。
 多様なスパイスがそれぞれ強烈な個性を発揮しながらも、混ざることでその魅力を爆発させ、複雑で深く、そして鼻腔から抜ける香りまで保存したくなるようなカレーが出来上がるのである。これは、人間が生きる「社会」にも通じることではないだろうか。

3月10日(金) 利用者さんの災難

 暴力によって左足の骨を3本ほど骨折(粉砕箇所も)していたOさんの手術日。怪我をしてから2週間もの間、ベッドにボルトで固定されていたOさんの足にプレートが埋め込まれる。どうかうまくいきますように。彼を知る誰もが、それぞれの場所で祈る。
 夜、医師から電話があり、手術が無事終了したことを知る。
 Oさん本人曰く、「思った以上に悪かったために、倍の手術時間がかかったって執刀医が言っていた」そうで、本当にどうしてこんな目に遭わなくてはいけないのかと腹が立って、腹が立って。

3月11日(土) のぞみで行くからね♪

 愛知県で医療者に向けてのリアル講演。
 先々週は扶養照会の相談を寄せてくださった方を訪ねるために久しぶりに新幹線に乗った。その時は、扶養照会を断固強行したい福祉事務所職員にも会うためだったが、今日は講演で名古屋。
 この春は新幹線づいている。
 かつては頻繁に通った街に久しぶりに降り立ち、講演後はあれ食べたい、これ食べたいと頭の中でウフウフと楽しみにしていたものの、結局時間もなくて新幹線ホームできしめんを食べるのがやっと。つかの間の遠出の帰り道は、スマホの小さな画面で、全国あちこちから届く扶養照会の相談に返事を送る。本当にいい加減にして欲しい。ウンザリして吐きそうである、扶養照会。
 最近のつくろい東京ファンドには、以前にも増して扶養照会の相談が届くようになった。
 扶養照会しても援助の見込みはないし、家族との縁が切れてしまうから止めて欲しいと必死に説明しているにもかかわらず、ケースワーカーに「扶養照会をする」と言われたケースに介入する。その結果、「照会されないことが決まりました!」と安堵の連絡が入るまで、少なくとも6往復くらいは電話やメールでやり取りをしながら相談者を励ます。
 申請者を無駄に追い詰めない判断をしたケースワーカーと相談者の間には信頼関係が築けるはずだ。

3月12日(日) 止まらないランニングマシーンの上で

 気絶するみたいに眠り、昼近くまで惰眠をむさぼる。疲労というものは、夜ではなく翌朝実感するもの。50歳を過ぎた体は思うようにならず、一晩寝たくらいでは疲れは取れぬどころか、むしろ増してないか? と思うほどで、肩や背中は雑草も生えない荒野のように固く、足は起き上がりこぼしのように重い、そしてずっと眠い。だけど、休んでるわけにもいかなくて、ブランチ食べたらツレと手分けして家の掃除をして、スーパーに行き、一週間分の買い出しをし(物価高がイタイ!(>_<))、夕飯までの時間、原稿書いたり、メール返信したり、扶養照会相談の電話対応。 夜になって二人で夕食を作って食べたら、その後は束の間、猫と韓流ドラマに溺れる。累積した疲れを体に残したまま、明日からまた一週間が始まる。出口は未だ見えぬまま。

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小林美穂子
1968年生まれ。一般社団法人「つくろい東京ファンド」メンバー。支援を受けた人たちの居場所兼就労の場として設立された「カフェ潮の路」のコーディネーター(女将)。幼少期をアフリカ、インドネシアで過ごし、長じてニュージーランド、マレーシアで就労。ホテル業(NZ、マレーシア)→事務機器営業(マレーシア)→工業系通訳(栃木)→学生(上海)を経て、生活困窮者支援という、ちょっと変わった経歴の持ち主。空気は読まない。共著に『コロナ禍の東京を駆ける 緊急事態宣言下の困窮者支援日記』(岩波書店)。